月下の君は暗影と踊る。

syatyo

月下の君は暗影と踊る。

 潮の臭いが色濃く残る崖淵で、僕に向かって君は力なく笑った。


「ごめんね。こんなところまで連れて来ちゃって」


 僕は構わないよと、首を横に振る。そんな僕に目を細めて、君は崖の縁に腰を下ろした。「あ、ちょっと濡れちゃった」なんて可愛らしい声を上げて、君は天を仰ぐ。


 君の視線の先には半分だけ欠けた月が孤独に浮かんでいた。僕は君の数歩後ろで同じ月を眺める。君は今どんな気持ちでいるんだろう。そんなことを漠然と考えながら。


 だけれど僕に君の気持ちがわかるはずもなくて、少しでも君の気持ちに寄り添いたかったから、僕は数歩の距離を何十歩もかけて詰め寄る。君は僕の気配に気づいて振り返り、優しく笑うと、「あ」と声を漏らした。


「……なんだか影が踊ってるみたい」


 君はぽつりと呟く。君の視線を辿れば、水面に映る君の影がゆらゆらと揺れていた。月の光は弱々しくて、影は今にも海の底に吸い込まれてしまいそうなほど頼りない。だけれど、君はそんな影を楽しそうに眺めていた。


「ほら、本当に踊ってる」


 それは僕に向けられた言葉なのかはわからなかった。でも、君が楽しそうに両手を上げたり下げたりしている姿が愛おしくて、僕はそうだねと首を縦に振る。


 君はそれから何度も踊りを繰り返して——やがて月が雲に隠された。君と踊っていた影は気配を潜め、君は物悲しそうに目を伏せた。


 それから暫く、僕と君だけの時間が流れた。影も月もいない二人だけの時間が。だけれどそれも長くは続かなくて、君は不意に顔を上げて僕の頭に手を乗せた。何度も僕の頬を撫でた手はどこか冷たいような気がした。


「行こっか」


 君は溜息を言葉尻に混ぜて、その場に立ち上がった。見上げた君の表情に悲哀の色はもうなかった。


「ごめんね」


 再び君は僕に謝って、また力のない笑みを浮かべて、僕を抱きかかえた。君の両腕の中は心地良いはずなのに、今ばかりはそう思うことはできなかった。


 君は僕を胸に抱えたまま、水平線と向き合う。そこには何もないはずなのに、君は確かに世界の向こう側に何かを見ているようだった。


「本当にごめんね。こんな私が飼い主で」


 君は三度、僕に謝った。だけれど僕が君を許さないなんてことは、たとえ君が僕のことを殺そうとも有り得ない。まして君が飼い主であったことを僕が不満に思う日は、何百年経っても来ないだろう。


 僕は気にしないでと、首を横に振る。


 そんな僕を見て、君は海に近づくように一歩だけ前に進む。君の腕越しに見えた景色は暗く澱んでいた。でも、君と一緒なら怖いことなど何もなかった。


「——こんな私でも、好きでいてくれる?」


 君は僕を見ないままで、そう言った。その言葉は君と出会った日を思い出させてくれた。土砂降りの雨の中、行く当てのなかったずぶ濡れの僕を、汚れることも厭わずに抱きかかえて家まで連れ帰ってくれた。その時にも同じようなことを言っていた。「こんな私でも、君の飼い主でいいのかな?」と。


 僕は君から顔を背けて——君と同じ方向を向いて、あの日と同じ答えを返すことにした。あの日から今日までずっと、君がどこに行こうとも僕は傍を離れたりはしない。君がそうしてくれたように。だから、そんな君だからこそ、僕は君のことが大好きだった。


 君が僕の頬を撫でて、それがくすぐったくて。僕は遥か遠くにある水平線に向かって、「にゃー」と答えた。

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