カフェオレはピアノの香り。
syatyo
カフェオレはピアノの香り。
休日の朝の寂れた喫茶店、息の詰まるような閉塞感さえ感じさせる店内に、場違いなほど清涼な音色が流れる。暗褐色のカウンターからは死角の位置に置かれた至極一般的なピアノ、そこから発せられているはずの旋律が、重く、深く私の心に語りかけてくる。
私はこのとき店員として注意するべきだったのかもしれない。あるいは少し怒ってもよかったのかもしれない。あくまで閉店後に私が弾くために置いていたピアノを弾くなど、そうでなくとも店の中でピアノを弾くなどモラルのかけらもない。しかし、私の思考は曲のほうへと吸い込まれてしまう。
この曲は何だっけ。——そうだ、ベートーベンの『運命』だ。曲の入りの有名なフレーズは、運命がドアを叩く音を表していると聞いたことがある。そしてベートーベン自身の運命に抗う意思が込められたという一曲——しかしそれ以上に、弾き手の感情が音色と共に私の中に流れ込んできた。
「あれ、何で私……」
気づけば、私は涙に溺れていた。感情が動いたことを感動というならば、これは感動による涙なのだろう。しかし、私はそうは思わなかった。感動、よりも私を取り巻いたのは同情。曲に乗せて私の元へやってきた悲哀への同情だった。
ふとピアノが音を奏でることを止めた——私が涙を流したことに気がついたかのように。
「すいません」
弱気を体現したかのような声だった。店内が静かでなければ聞こえないほど小さな声はどこか中性的で、消え入るような声は消極的だ。顔には生気が感じられず、加えて半袖から伸びる白い手があまりにも細くて、病的な弱々しさまで感じた。
「——ご注文ですか?」
私は涙を手の甲で拭って注文を伺った。口にする物を提供する喫茶店において、涙を手の甲で拭うなどマナー違反以前の問題だ。ただ、そうしなければ涙の流れを止められないほど、私の心は揺れ動いていた。
「カフェオレを一つ下さい。できればミルクを多めにしてもらえると嬉しいです」
「わかりました」
私は急ぎで手元に置いてあったハンドミルを手に取り、保存方法に気を配っているコーヒー豆をミルに入れる。ここからの手順は自分なりのこだわりがある。コリコリと、心地の良い音が奏でられる。先ほどのピアノと引けを取らないほどの心地よさ。そうして少年の要望に応えるため、いつもより牛乳を多く入れてカフェオレを作る。
コーヒー豆のほのかな香りが鼻腔をくすぐる至福のひととき。自分で飲むわけではないにも関わらず、まるでコーヒーに浸かったかのような満足感。数分をかけて作り終えた時には、私の肺はコーヒーの香ばしい匂いに満たされていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
極めて短い会話だった。いつもなら世間話を交わすというのに、目の前の少年には話しかけてはいけないような雰囲気があった。
「…………」
店内が静謐に満たされる。少年がカフェオレをすする音と時計の振り子の音以外聞こえない、午前八時。私は手持ち無沙汰を悟られないようにするために、ハンドミルを手に取って意味もなくコーヒー豆を挽く。これは後で私が飲もう、そんなことを思っていると、
「美味しかったです。今まで飲んできた中で一番」
少年は、私が喫茶店を開いてから求めていた言葉をさらりと言いのけて、席を立ち上がった。少年の足音と時計の振り子の音が重なる。このまま彼が私の前から姿を消す、あんなにも人を聞き惚れさせる力を持っている彼が。
「あの……!」
私は少年がいなくなることに耐えられなくなって——いや、少年の紡ぐ音が聞けなくなることに耐えられなくなって声をかけた。
「できれば! もう一度来てくれますか? いえ、あの……ピアノを聞いていて……」
「すいません。家では禁止されているものでつい弾いてしまいました」
少年にしてみれば私の剣幕は恐ろしかっただろう。店内のピアノはお客さんに弾いてもらうために置いているわけではない。もちろん演奏を禁止しているわけではないのだから、怒ることなどないのだけれど。しかし、それは私だけが知ることで少年は怒られると思ったに違いない。しかしそういうことではなくて——、
「もう一度聞きたいなと思って……」
なんて自己中心的なお願いだったろうか。店員の立場からお客さんに対して来訪をねだるなど。しかし、少年は至って冷静に答えた。
「僕も一ついいですか」
見た目に似合わない少しだけ強引な前置き。少年は言葉を続ける。
「実は明後日に手術するんです。それで『運命』がすごい好きで。家で弾こうと思ったんですけど、お母さんが許してくれなかったんです。なんで暗い曲を弾くんだ、って」
少年は力なく笑った。それが母が少年の演奏を禁止する理由に対してなのか、それともピアノが置いてある喫茶店を見つけてまで、『運命』という楽曲を弾きに来た自分に対してなのかはわからなかった。ただ、笑みは長くは続かず、「だから」と一息置いてから少年は、
「もう一度カフェオレを飲ませてください」
と言った。迂遠な言い方だと思った。もう一度カフェオレを飲む、ということは私のお願いを受け入れてくれたのに、少年は「また来ます」とは言わなかったからだ。——あるいは、あえて迂遠な言い方をしたのだろうか。あえて自分の意思を強調したのかもしれない。
手術の全容などわからない——それどころか部分的にすらわからない。でも、難しいのだろう。成功確率は低いのだろう。こんなことはあくまで私の推測でしかなくて、妄想かもしれないけれど。
「はい!」
私は今できる精一杯の明るい返事をして少年を見送った。そうして、しばらく仕舞っていた木枠で囲まれたお洒落なブラックボードを取り出した。開店当初は店先に飾っていたものだ。しかし、一日の来客が十人を下回った頃だったか、意味はないと仕舞い込んだ。久しぶりに陽の光を浴びたブラックボードと私は睨めっこをする。
——さて、どうやってカフェオレの宣伝をしようか。
カフェオレはピアノの香り。 syatyo @syatyo
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