マティニで葬式

フカイ

(掌編小説・読み切り)


 同世代の友人の訃報は、あろうことか新聞で知った。


 昔だったら、こんなことはなかった。

 昼となく夜となく顔を会わせる仲間たち。芸能界の渦に巻き込まれても、あの頃の熱を忘れず、江戸っ子の粋と、東京っ子のセンスを持ち合わせた連中が、そんなニュースは必ず口伝えしてくれた。


 否。


 そもそも彼女が死に到る病の床にあったのなら、そばにいたのは或いは自分ではなかったか? 恋人や夫という形でなくても、半世紀に渡る親交の中、真の友人のひとりとしてその存在を認め合っていた仲のはずだった。


 井上は久しぶりに、自分の自動車のハンドルを握った。

 自宅近くの首都高3号線から湾岸、そして東関東自動車道へとルートをとった。

 真夜中の高速道路のオレンジ色のハロゲンライトが、点滅するかのようにいくつも通り過ぎる。過去と現在を行き来するように。


 木曜日の夜十一時。

 既に還暦を迎えた彼にとっては、深夜と同義の時間帯だ。普段ならもうベッドに入っている。しかしタレントとしてのプロ意識をちょっと発揮すれば、この時間になっても体内時計をアジャストし、平然と目を覚ましていられる。長い芸能生活が彼に与えた特殊能力だ。

 あの頃なら、十一時のことは「二三時」と呼んでいた。昼も夜もなく、都内の撮影スタジオや音楽スタジオを渡り歩いていた時期、昼と夜の11時を区分けして呼ぶために、業界関係者は誰もが二四時間表記を使っていた。午前零時をまわっても前日の業務が続く時は、二五時アップ、二六時撤収などと気軽に言い合っては、疲労で疲れた身体を癒すため、東京タワーの近くのあの店に繰り出したものだ。

 いわばパリのサロンだった。

 ブラウン管の中では常に笑みを絶やさず、おどけた剽軽ひょうきん者だった彼も、あの店の緋色のカーペットを踏むと、ひとりの表現者として、自分のコメディ表現をグラスワイン片手に語った。

 友達の一人は、強面こわもてだったけれど、限りなくナイーブで心根の優しい男だった。友達の一人はまだ一ドルが三六〇円だった頃にパリに渡り、気品とエスプリを土産にこの業界へ帰ってきた。

 そして友達の一人はアイドルの仮面を外し、女優の卵として演劇論をぶち上げた。

 芸能人だけではない。作家、ミュージシャン、芸術家。時代の最先端を走る才能と、それを打ち破ろうとする次の世代が、熱をもって渦を巻いていた、あの店。


 渋谷で生まれ、六本木で育った彼は呼吸するように自然に、その空気の中に入っていった。そして時代を代表するようなタレントに育った。

 激務だったアイドル時代。それがひと段落すると、そのチャーミングでバタ臭い芸風は彼に司会者の職をもたらし、彼の二度目の黄金時代がやってきた。やがてその生き馬の目を抜くような嵐の日々が通り過ぎ、いま彼はセミ・リタイアしながら自分のやりたい仕事だけを静かにこなしている。


 彼の自動車は、成田空港にほど近いホテルについた。

 車寄せファサードには、もう午前零時近くだというのに、制服姿のボーイが澄ました顔で立っている。そこに車を寄せると、うやうやしくボーイが近づき、彼からキィを預かり、車を駐車場に回してくれる。

 深い絨毯の踏み心地の良いラウンジを過ぎ、クロークに近づくと、なじみのホテルマンが親密な笑顔を見せてくれた。

 深夜のこの時間、彼にとってはとても長いドライブ。事故を起こさなくて良かった、と彼は思う。

 特に荷物も持たずに訪れた。ホテルマンは、いつも彼が利用するダブルの部屋を手配してくれた。彼は小さな声で感謝の意を伝え、そのままスラックスに片手を入れて、気軽に歩き出した。これで、ゆっくりと酔える。そう、思った。

 そのホテルの最上階のスカイ・ラウンジは空港の夜景が見えることで有名だ。午前零時には閉店してしまうけれど、閉店の一五分前にふらりと訪れた彼を、なじみのバァテンダーもまた、笑顔で迎えてくれた。

 そのバァテンダーと彼は、歳が同じぐらいだった。空港ができた年にこの地に生まれたこのホテルの、定年を迎えて嘱託扱いとなった生き字引だ。

 カウンターの端にゆっくり腰を下す。「よっこらしょ」などと、冗談めかしてつぶやくと、バァテンダーは声を出さずに笑ってくれた。彼も、バァテンダーも、いまだ現役。老いの影など見せることもなく、愉快に年を重ねている。そう、友が死んだとしても。


「吉永さん」、と彼は声に出してバァテンダーを呼んだ。

「なんでしょう?」

「友だちがね、亡くなりましてね」

 いつも、何事にも動じないバァテンダーは、白くなった眉を上げ、驚きの表情を作った。

「女性だったのだけど。ここ何年も、年賀状の交換だけの間柄でしたけどね」

 バァテンダーは、彼にロックスタイルのマティニを出した。オリーブ抜き。いつもの彼の飲み物だ。店のロゴがプリントされたコースターをそっと、カウンターで腕を組む彼の前に差し出し、その上にバカラのグラスを置き、ゆっくりと酒を注いだ。

「昔の仲間が、ひとり、またひとりっていなくなるのは、淋しいものだよね」

「左様でございますね」

「次はオレかな、なんて思ってるのに、別の友だちが逝っちゃうんだもの」

「お悔やみ申し上げます」


 彼はそっとグラスをつまみ、注がれた酒を飲んだ。きりりと冷やされたジンに、わずかに香るスピリッツ。冷えているからこそ味わえる、透明な炎。

 それきり彼は、おしゃべりを控えた。

 なくなった友だちを、とむらうために。コメディアンとしてでなく、私人として。彼女との思い出をひとつずつ、酒の肴にした。


 十三歳でこの世界に入ったのは、に行きたかったからだ。

 中学の仲間たちとは共有できない想いを受け止めて、真剣に語り合ってくれる人たちと、自分が真に自分らしくいられる世界に行きたかったからだ。

 芸能界に入ると、様々な人と知り合えた。

 短い時間で驚くほどのお金を稼ぎ、そして稼いだ時よりもっと短い時間でそれを使った。お金に身を持ち崩した人もいた。抱えきれない人気に魂を病んだ人もいた。そして彼は、持ち前のセンスで人気者になった。心の中は、からっぽになって。


 幸運にもこの年まで、ブラウン管とステージは、彼を必要としてくれた。

 おかげで世界のあちらこちらを回り、いろいろな体験をした。おそらく普通の勤め人が一生かかっても経験できない世界を、彼は見た。

 しかし、そのどこにも彼自身が待ち望んだ場所はなかった。


 ここではない何処かは、世界の何処にもなかった。


 長い放浪の中で彼が見つけたのは、世田谷の静かなマンションでもなく、別れていまは仲の良い友だちになったかつての妻との日々でもなく。この空港の夜景を見下ろすバー・カウンターだった。彼はしかも、空港の夜景になど、まるで興味がない。

 ただ、旅立とうとする人々の近くにいたかっただけなのかもしれない。単なる傍観者として。彼岸のこちら側にただ、突っ立って。ここではない何処かへ旅立ってしまったかつての友人を弔うのは、この世で「あちら」に一番近い場所しかないのだ、と彼は思っていた。

 きっと明日には葬儀の連絡が来るだろう。

 あの頃の仲間の生き残りと久しぶりに会い、酒になるだろう。葬儀場では喪服を着て、彼もさめざめ泣くかもしれない。

 しかしそんなものは皆、単なる儀式に過ぎない。

 いまこうしてここで、ロックスタイルのマティニを舐めながら、彼の個人的な葬儀が終了した。バァテンダーに残業の礼をいい、スツールを降りるべきときだった。


 しかし、身体がどうにも動かない。

 ここから、この彼岸のこちら側の縁に立ってそこに横たわる河を見ると、そのあまりの小ささに拍子抜けしてしまう。一歩踏み出せば、すぐにでもそちらに行けてしまうような。若い頃は遥か彼方だと思っていたその世界は、思いのほか近いのだということに、彼もうすうす気がついていた。

 まぁいい。

 それならそれで、ここでない何処かの在り場所が見つかった、というものだ。

 そんな風に思えたとき、フッと肩から力が抜けた。

 あのアンニュイな微笑を得意としたガールフレンドの、キラースマイルが見えたような気がした。


 彼も頬笑み、彼女にさよならを言った。

 彼女と彼を隔てる河は、あまりに狭く、浅く、小さいのだから。


「吉永さん」と、彼はバァテンダーを呼んだ。

 人差し指と中指をクロスさせ、彼はお勘定の意を伝えた。

「ごちそうさま」といって金を渡した彼に、バァテンダーは言った。

「お元気になられたようで。よございました」

 彼は笑って首を振った。


「お世話になりました」


 彼の、一世を風靡した歌の歌詞だった。

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マティニで葬式 フカイ @fukai

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