時には繋がる、それもよし

 閉店後の夜のことだ。蒼衣の部屋の前に、白い蛇がいた。

 思わずヒェッ、と情けない声を上げる。白蛇はじっと蒼衣を見つめるばかりで動こうとしない。爬虫類の扱いなどわからない蒼衣は、さりとてどうすることもできずに固まるばかりだ。

 シュル、と動くことにすら驚き、身じろぎすると、手に持っていたケーキを落としてしまった。珍しく家で食べようと思った試作のケーキが無残な姿になり、ああ、と悲しげな声が漏れる。

 すると、白蛇がケーキに近寄り、チロリと舌を出して僅かだが舐めた。爬虫類ってクリーム食べても大丈夫なのか? もし誰かのペットだったら大問題なのでは。

「あっ、蛇さん、それはダメ……」

 あわててケーキから白蛇を離そうと手を伸ばそうとしたそのときだった。


 ――おなか、すいたー

 ――あおい、あまい、おいしい!

 ――ふしぎ、あまい、ふしぎ


「……えっ?」

 たしかに蒼衣には、魔法菓子を食べた相手の気持ちが伝わってくる能力がある。が、あくまで魔法菓子を食べるのは人間を想定しているため、人間以外の生きものの気持ちがわかるかどうかは未知数ではあった。だが、人間ですらうっすらした気持ちしか伝わってこないのなら、知能指数が明らかに違う生物はさらに難しいだろう。

 それならば、目の前の白蛇はいったいなんなのか。なぜ、自分の名前を知っているのか?


 ――みさと、あまいの、にがて

 ――でも、あおいのなら、ちょっとだけ


「みさと……? まさか、君の飼い主は美郷くんなのかい?」


 聞こえた名前は、遠くは広島県巴市に住む、美貌の公務員の名前だった。


***


「ほんとに申し訳ないです」

 自室で頭を下げる美郷に、蒼衣は「そんなに気にしないで」と声をかけた。

 驚いたことに、あの後、顔面蒼白の宮澤美郷本人が現れた。外で話すのも差し支える会話なのでと言う彼を部屋に通し、今に至る。

 慌てて座る場所を作り、落とさず無事だった分の試作品を冷蔵庫に入れ、散らかり放題のちゃぶ台の上をどうにか片付け、ようやっと紅茶を出した。ちなみに些細なことではあるが、部屋に足を踏み入れた美郷が、綺麗な顔を若干引き気味にさせていたのが少し心苦しい。

 どうして愛知にいるのかと訊けば「出張で」と返ってきた。彼は公務員陰陽師で、さまざまなオカルト・怪異の対処をする職についている。

「熱田のほうに用事がありまして」

 濁した答えが精いっぱいなのだろう。かの地にある施設を思い浮かべると、それ以上の追及は無粋と思い「そうですか」とだけ返した。一般人が軽々しく首を突っ込むべきことでないのは、あの夏の事件で身をもって知ったはずだ。

 そして予想通り、白蛇の飼い主は美郷であった。

 ちなみに、白蛇はすぐに美郷の下に行ったので、蒼衣は内心安堵する。すると、蛇はお菓子を食べてよかったのか、急に心配になった。

「あの、蛇さんにお菓子って大丈夫なのかな。さっき、魔法菓子のクリームをこの子が舐めちゃって」

 蒼衣が問うと、美郷はどこか疲れたような笑いを浮かべ「心配させちゃいましたね」と言った。

「普通の蛇なら問題かもしれませんが、こいつはその……まあ……使い魔、といいますか……普通の蛇と違うので、大丈夫です。安心してください」

 使い魔、と復唱すると、ええ、と居心地の悪そうな声で美郷が肯定する。そういえば、目の前の見目麗しい青年は呪いを駆使する陰陽師である。不思議な生物の一匹や二匹、供にしていても何らおかしくはない。

「それならいいのだけど」

 飼い主(と、表現してよいものか)の美郷が言うなら間違いはないのだろう。

「魔法菓子の魔力くらいなら、たぶんコイツにはほんとにおやつのようなものですよ。普段家で食べてるもののほうがよっぽど……」

 だんだんと目をそらし、言葉が止まった。そして、伝わってきたのは、欠乏と、羞恥……逃げ出したい、というような気持ち。はて、と蒼衣は心の中で首をひねる。

 美郷は、魔法菓子を口にしていないはずだ。

 先ほど白蛇から伝わってきたのは随分はっきりとした「意思」だった。それは以前巴市に訪れた事件で美郷の心中が伝わってきたときのような、強烈なものに近い。だがあれは自身の一部――髪の毛――を美郷が術に使ったために起きた一時的なものであり、今回のは、あくまで普通の人間相手に感じるものに近い。

 これは白蛇のものではない。ならば考えられる相手は、目の前でソワソワと居心地悪そうな青年だけ。美郷は蒼衣の能力を知っている数少ない人物ではあるが、八代ほどの気安さはさすがにない。巴市で助けてもらった恩もあるが、なによりも、三十路を過ぎた自分よりもはるかに落ち着いている彼になにか言えるほどの度胸を、蒼衣は持っていなかった。

 さてどうしようかと考えを巡らせているうちに、美郷が性急な様子で紅茶に口をつけた。

「じゃ、じゃあおれはこれで――」

 美郷が腰を浮かしたその瞬間だった。

 

 ――やだー!

 ――たべるー!

 ――あおいのおかし、ほしいー!


 幼げな物言いが伝わってきたかと思ったのもつかの間、べちょ、と顔面になにかがぶつかった。

「!?」

 混乱する最中、ひんやりとした感触は次第に顔から首元に移っていく。ほんの少しだけ首に絡みついた時点で、やっと本能的な恐怖が蒼衣を襲った。

「白太さん! やめろ!」

 美郷の怒声が響く。ほどなくして、顔と首に張り付いたなにかが剥がれた。ひらけた視界に入ったのは、凄まじい怒気をまとわせた美郷と、その手で暴れる白蛇。蒼衣の顔にぶつかり、首に巻き付いたのは白蛇だったらしい。

「蒼衣さん、大丈夫ですか?! ちょっ……ほんと、なんてことをするんだおまえは!」

 こちらを気にかける言葉は真摯だが、白太さんという名前らしい白蛇に本気で怒鳴る表情は般若のそれだ。

「あっ、あの、僕は大丈夫……」

 確かにに驚きはしたし、実のところ絞め殺されるのかもと不安も抱いたが、美郷がすぐに対処をしてくれたおかげで事なきことを得ている。これ以上責めることはない。

「本当に申し訳ないです、コイツによーく言い聞かせておきますんで!」

 感情を抑えているようで抑えられていない声のまま、美郷はキッ、と白太さんを睨み付けるが、当の白蛇は依然として暴れたままだ。

 美郷の反応は飼い主としてあるべき姿なのだろう。しかし、蒼衣は自分のお菓子が食べたいと必死になる白太さんが不憫に思えてきた。そして同時に、なにか大きなひっかかりを感じてもいる。

 慌てて美郷を引き留め、冷蔵庫から残りの試作品が入った箱を出し、差し出した。

「美郷くんさえよければ、これ、白太さんへのお土産にして?」

「え、あの、そんな。でも」

「試作品だったから気にしないで」

 しかし美郷は「それはちょっと……」と口ごもる。彼は真面目な青年だ。遠慮がちなのは知っているので、押しの一言を添えることにした。この試作品の、最大の特徴である。

「この魔法菓子、巴市に関係があるものなんだ」

「え、ウチに?」

 地元の名が出て驚く美郷の手の中から、チャンスだと言わんばかりの勢いで、白太さんが抜け出した。蒼衣の足元で頭をブンブンと振り、執着する様子は、まるで幼子のようだ。


 ――しろたさん、みさとといっしょ!

 ――みさと、おなかすいてる!

 ――あおいのおかし、たべてげんきになる!


「いっしょ……?」

非常に強い様子で伝わってきた白太さんの気持ちのなかに、ひっかかる単語がある。思わず美郷を見やれば、頭を抱えてうずくまっているではないか。ぶつぶつと「ああもうやっちゃったああぁぁ……」と悲惨な声が聞こえてくる。

 と同時に、先ほどと似たような「恥ずかしい・後悔」といった気持ちが再度伝わってくる。


 いっしょ、白太さんのものではなさそうな「気持ち」、使い魔、美郷の過剰なまでの拒否。


 なんとなく、そうなんじゃないかという予想はできるが、断言できるほど確証はない。

 この状況をどうすればいいのか――直接尋ねる言葉ももちろん浮かばず、とっさに口から出たのはなんとも間抜けな言葉だった。


「あのう、おなかが空いてるなら……夜ご飯、食べていかない?」


***


「雑な盛り付けで申し訳ないのだけど」

「いや、全然、気にしないです」

 どこか生気のない美郷の前に、蒼衣はほかほかと湯気の立つグラタン皿を置く。

 あれからおよそ三十分後のことである。結局、美郷は蒼衣の突然の誘いに乗ってくれた。というよりは、なし崩し的に、というのが正しい。どうも疲れがひどいらしく、蒼衣がご飯を作っている間、彼はおとなしく横になっていた。

 これは? と尋ねた美郷に、蒼衣は「白菜とマカロニのグラタン……風」と遠慮がちに伝えた。

「”風”、ですか?」

「なにせオーブンで表面を焼いてないし、なんならホワイトソースすらまともに作ってないずぼらな料理なので……」

 不思議がる美郷に、言い訳のように蒼衣は返す。実際、グラタン皿の中には、やや茶色に染まったホワイトソースの絡んだマカロニと白菜、薄いベーコンが雑に入っている。チーズさえ振りかけて表面を焼けば正真正銘のグラタンになるのだが。

「粉チーズも切らしてて……ごめんなさい」

「失礼かもしれませんが、意外です。あんなに綺麗なお菓子を作る人なのに。料理も完璧かと」

「……時短の家庭料理ってことで許してほしいかな。と、まあ、そんなことはいいから、早く食べたほうがいいんじゃないかな……その、白太さんが……」

 美郷の隣で文字通り管を巻く白太さんが「シャー!」と威嚇する。


 ――みさと、はやくたべて!


「言われなくてもいただきます。おまえもがっついて食べるんじゃないよ?」

 美郷が釘を刺す。白太さんの眼の前には、試作品のケーキがおかれている。主の言いつけを守ったのか、存外おとなしく食べ始めた。

「じゃあ改めて、いただきます」

 若干弱っていても、背をしゃんと伸ばし、丁寧に手を合わせる姿は、育ちの良さがにじみ出ている。自分も決まりににうるさいはずの家で育った自覚はあるのに、振る舞いが完全に貧乏くさい庶民の自分とは違うなあ、と、心の中だけで比べて苦笑する。

 自分も向かい合うようにして座り、遅めの夕飯を食べ始める。

 ゆで時間が数分で済むマカロニを茹で、具材を多めのバターで炒めてからマカロニも入れる。小麦粉を入れて軽く火を通し、牛乳を注いでとろみがついたら塩コショウで味を調えて出来上がり……という、フライパン一つで出来る料理だ。見た目は悪いが、味はグラタンの中身のそれである。

 食べ始めは、誰もしゃべろうとはしなかった。唯一、蒼衣だけは魔法菓子の効果で白太さんの感情が分かるが「おいしいおいしい食べる食べる」という単純なもので、うれしいとは思っても話題にする必要はない。

「おいしいです。実は、すごくおなかが空いてたんです」

 三口ほど食べた美郷がぽつりと感想を漏らす。

「ありがとう。普段自分が作ってるものだから、美郷くんの口に合うかどうかちょっと心配だったんだ」

「いや、おれなんかコンビニ飯か怜路のバイト先の店に行くかですし、自炊はなかなか」

 だよねえ、と、一人暮らしの長い蒼衣は同意をする。幾分か雰囲気が和んだのがよかったのか、美郷が「あの」と口を開いた。

「仕事で、消耗が激しかったんです。体力的にも、その、気力的にも」

「お疲れ様。大変だったんだね」

「いえ、仕事なのでおれは大丈夫です。……ですが、こいつはそうもいかなかった」

 美郷の視線が白太さんに向かう。夢中でお菓子を食べ続ける蛇の鱗をそっと指でなぞる。たおやかでゆっくりとした指先の動きは、さきほどまでコンビニ飯が、自炊が、などと俗世のことをしゃべっていた青年のそれと違う。しがない単身者用アパートの一室に似合わぬ妖艶さに、見てはいけないものを見てしまった羞恥心が広がる。

 そんな蒼衣の胸の内など気づかぬ美郷は言葉をつづけた。

「そろそろ蒼衣さんにはばれている気もしますので白状します。おれの『気持ち』、多少、そちらに伝わっていませんか?」

 不埒な気持ちを誤魔化すように食べようと動いていた蒼衣の手が止まる。

 やはりそうだったか。ひっかかっていたいろいろが繋がる。

「もしかして、と思ったけど……ほんの、少しだけ。白太さんは、とてもはっきり意思が聞こえます。その……夏の施餓鬼会、のときみたいに」

 神性のものに拐かされ、美郷や巴市市役所の特自災係に世話になった事件だった。

「使い魔、と表現はしましたが、白太さんは力の強い妖魔です。魔法菓子を食べていなくとも、感応して声が聞こえるひともいます。そして、おれと白太さんは繋がっているので、おれの気持ちも伝わっていたんだと思います」

「すごいなあ。まさに一心同体だね」

 なにげない感想だったのだが、美郷の表情が固くなる。

「一心同体……」

 なにがそこまで、彼の戸惑いになっているのか。探っていいのか否か、迷っていると、足元に冷える感触がした。白太さんだ。

 白太さんは赤い目でこちらをじっと見たあと「あおい~」と親し気に名を呼んだ。

 

 ――みさと、ずっとおっきなやつとたたかってた。

 ――白太さんもつかれて、みさともつかれた。

 ――おなかすいてた。あおいのあまいおやつ、たべてみたかった。

 ――りょうじ、ここにいない。

 ――たすけて、って言いたかった


「助けて……?」

 うっかり美郷をみやれば、観念したように天を仰いでいる。伝わってくるのは、羞恥と戸惑いに近い。

 ああ、と得心がいった。

 白太さんの言葉は、まさに一心同体の美郷が秘めたる気持ちなのかもしれない、と。

 そうなれば、彼がここまで委縮し、白太さんの行動を厳しく律し、早々と場を去りたかった気持ちが痛いほどわかる。よしんば自分で言うならいざ知らず、無垢な白蛇の口から己の願望をしゃべられるのは、居たたまれないだろう。

 おまけに、自分は魔力で気持ちの感応ができる人間だ。これは引き留めるべきではなかったか。だが、目の前でフラフラと疲労を見せる人間をほっとけはしなかった。そして、もう一つ、身勝手なわがままが蒼衣の中にはある。

 居住まいを直し、蒼衣は「美郷くん、白太さん」と名を呼んだ。

「今日、来てくれてありがとうね」

「……え?」

 戸惑う美郷に、蒼衣は「実はね」と苦笑する。

「今日、八代が保育園の行事で一日休みで。僕一人だけで店を回してたんだ。こんな事言うと情けないんだけど、ちょっと寂しかったというか、人恋しかったんだよ。試作品も、いつもなら八代が真っ先に食べるんだ。だから余計にね」

 一人きりの厨房で食べるのも寂しかったんだ。小声で付け加える。

「いつも一緒にいるのが当たり前になっちゃって、麻痺してたのかな。だから、白太さんがお菓子を欲しがってくれたこととか、美郷くんが一緒にご飯食べてくれたのが、ことのほか嬉しかったんだ。具合が悪いのに、なんていうこと言ってるんだろうね、僕は。ごめんね」

「そんな、おれのほうこそ、ごちそうになってますし……白太さん……白蛇がいきなり現れて、驚いたでしょうに」

「驚いたけど、僕のお菓子が欲しいって言ってくれる子を邪険にはできないよ」

 それが人間でも蛇でも、心が満たされるような喜びに違いはない。あんなに素直に欲しい、欲しいと言ってくれる姿はいじらしい。

「あなたってひとは……それをやって閉じ込められたのに」

 夏のことを引き合いに出され「その節はご迷惑をおかけしましたっ」と思わず謝る。ははは、と誤魔化し笑いをして、今度は白太さんに話しかけた。

「ねえ白太さん、僕のお菓子、どうかな?」

 ちろり、と舌をだして、白蛇は「うん、おいしい」とうなずいた。


 ――みて、みて、みさと!

 ――これ、きりのうみ!


「きりのうみ?」

 美郷の視線の先には、魔法効果の現れたケーキ。

 小さな丸の上に、青白いもやのようなものが小さく渦巻き、中心には、煌々輝く朝焼けのような丸いものが浮かぶ。

「これは……」

「『霧の海』をイメージした魔法菓子でね。霧は白ワインベースで作った魔法の霧、丸い夜明けの太陽は、ピオーネのシロップ煮。下の土台は、濃厚なマスカルポーネチーズと『サンダーレモン』のムースと、キャラメリゼしたアーモンドとビスキュイ。食べる時に発生する霧をすくって食べるんだけど、霧の量で、お酒の濃度を変えられるんだ。ちなみに、シロップや生地にバニラやミントの香料をそれぞれに使ってて、サンダーレモンの効果と組み合わせると、あの霧の色ができるんだ」

「……霧の海って、まさか」

「そう。これ、白ワインやピオーネ……巴市産のものを使った、所謂ご当地魔法菓子だよ。名前はまだ仮なんだけど『トモエ・ミスト』」

 三本の川が流れる巴市は、盆地という形状もあり、川が運ぶ冷気によって濃い霧が発生する。高い山から見下ろしたその景色はこの世のものとは言えぬ神秘さを讃えており、絶景・美景として評価が高い。

 ――と、観光雑誌と、八代に頼んで調べてもらったインターネットの資料の受け売りではあるが。

「な、なんでこんな、愛知の蒼衣さんが」

「たくさん食材を融通してもらってるし、僕も美郷くんや特自災の方々に助けてもらったし……感謝というか、そういうのを表すと、どうしてもお菓子になっちゃうんだよねえ」

 蒼衣にとって、菓子作りは生計を立てるための技であると同時に、自身の心や感情を表現する手段でもある。距離もあり滅多に顔を合わせられない知人への感謝と、おいしい食材を知ってもらうための方法だ。

 あっけにとられていた美郷は、はたと気づいたような顔になると「すいません、よかったらケーキ用のフォークを貸していただけますか」と言った。

「おれも一口もらいたいと思って。こら、白太さん、一口残しておいて!」

 やだー、と白太さんが拒否する。「もう一個あるから、喧嘩しないで」と苦笑する蒼衣は美郷の分のフォークと「トモエ・ミスト」を用意し、彼の目の前に置いた。入れ替わりに片づけた空っぽのグラタン皿を見て、内心安堵する。

『トモエ・ミスト』は、白い円筒状のケーキに、皮の赤さで染め上げられた大粒のピオーネシロップ煮が乗っているだけというシンプルな外見だ。特徴といえば、ピオーネの乗った所は窪んでいるというくらい。

 美郷がフォークを差し入れると、中から霧がゆっくりと吹き出し、あっという間にケーキの上に集まる。やがて夜明けのような青と橙色のグラデーションになり、さながらミニチュアサイズの『霧の海』の情景が広がる。

「本物の『霧の海』を知ってるひとに見せるのは、ちょっと勇気がいるけどね」

「はは……でも、おおかた再現されてると思いますよ」

 フォークで器用に霧を絡め取り、下のケーキと一緒に口に運ぶ。時折「ふうん」「へえ」と感心の声を上げる様子を見ながら、同時に伝わってくるのは、本当に純粋な「驚き」である。

「食べる場所によってほんのり味が違うのは、サンダーレモンと組み合わせてるスパイスですか? 以前送って下さった」

「そう。ウチのケーキはコンセプト的にノンアルコールでスパイスは弱めなものが多いんだけど、折角いろんな反応をするサンダーレモンだから、琥珀糖だけじゃ面白くないと思って。白ワインをメインにして明確に『大人向け』の商品を作るのもいいかなって。あと、食べるごとに印象が違うお菓子が作りたかったんだ。いろんなお酒をしみ込ませる、イタリアのデザート『ズッパイングレーゼ』っていうのがヒント。複数のお酒を使うんだよ」

 へえすごい、と感心しきりの美郷を目の前に、最後のアイディアのモデルは君です、とはさすがに言えなかった。巴市市役所に勤務する善良な青年の顔、呪いを駆使して仕事をする時の顔、そして、時折見せる「あちら側」の顔。今だって、蛇と親し気に話す様子は人間離れしていて、彼の力を知らなければ拒絶したかもしれない。それくらいに、宮澤美郷という人間は色々な顔を持っているのだ。

 だから、いろんな顔があっていいんだよ。優しくあることも、強くあることも。そして、ときどきは、誰かに救いを求めてもいいと。

 今、君の傍にいないひとの代わりになると、大それたことは決して言えないけれども。

 蒼衣はそんなことを思いながら、目を細め、完食間近の美郷を眺めていた。

「――ごちそうさま、でした」

 食べ始めと同じように丁寧な様子で美郷が手を合わせた。

「不思議で、見た目も味もおいしいと思いました。細かいことは素人なのでよくわかりませんが」

「それだけでも十分だよ、ありがとう」

「あの」

 なにか言いたげな美郷の様子に、蒼衣は首をかしげる。霧の成分が多すぎて酔ってしまったのか、美郷の顔がほんのり上気しているように見えた。

「――助かりました」

 たった一言の言葉。だが、それ以上の詮索も無粋だというのは「伝わって」くる。

「うん。そういうときもあるよね」

 白太さんが美郷の首元に絡みつく。一瞬、神々しい光が彼らの後ろに現れたような気がして――錯覚だったかと思う。

「二人とも、元気出たかな?」

「はい」

 

 ――げんき!


 美郷は穏やかな笑みで答えた。


***


「だ、大丈夫ですか、蒼衣さん」

 不安に満ちた美郷の声が、車内に響く。

「ごめん、今、話かけないで……!」

 必死の形相で訴える蒼衣の様子に、助手席に座った美郷はさらに不安が膨らんでいく。さっきまでの霧ワインの酔いなど吹っ飛びそうだ。

 ――二十二時も過ぎた夜。彩遊市から名古屋市に向かう軽自動車の中である。

 試作品たる魔法菓子『トモエ・ミスト』を堪能した後、美郷が名古屋市にある宿泊先に戻ろうとしたときだった。ピロート近くのバス停の最終時刻を確認すると、既に過ぎていたのだ。山の中の自宅近くならともかく、名古屋だからと油断していたのが仇になった。さすがに名古屋の中心部とお隣の市は違うらしい。

 乗り換えの少ない駅まで送ると言い出したのは蒼衣だった。最近中古で車を買ったらしい。騒ぎを起こした上に夕飯と新作の魔法菓子までごちそうになったのにと思ったが、明日の朝いちばんには巴市に戻らねばならない。観光で来たならいざ知らず、今回は公務である。喜んでその申し出を受け取ったのは良かったのだが「あんまり運転しないんだけども……」という弱気な言葉を聞き流してしまった故の過ちだ、と美郷は思った。

 ナビで道順を表示させていたはずなのに、うっかり本来の道を通りすぎ、名古屋特有の車線の多い道に出てしまった蒼衣は軽いパニックを起こしてしまったのだ。

「ごっごっごっごめんね大きな駅まで送っていこうと思ったら曲がる道間違えちゃって! 終電までには駅に着くから!」

「安全運転でお願いします蒼衣さん!」

 思わず強い声で言うと、運転手たる蒼衣が「ハイッ」と悲鳴を上げた。恐らくこれ以上なにか言わないほうがいい。そう思った美郷は見慣れぬ窓の外を眺める。

 ――甘いものは得意じゃないが、込められた気持ちは白太さんと一緒に食べた。

 はるばる名古屋まで来て、巴市にも関係するとある秘匿案件を処理するのは骨が折れた。しかも今回は単独。特自災の人員も、さらには協力を仰ごうと思った怜路も別件で手が離せない。モノがモノである。緊急を要したための、苦渋の判断だった。

「宮澤君、君の力を信じての仕事ですから」――上司に言われた言葉を信頼はしていた。していたからこそ、応えたいと思った。己の力も把握していた。だから成功した。

 しかし、目立った外傷はなかったものの、気力と白蛇の力に頼りすぎてしまった故に、白蛇――白太さんは救いと癒しを求めた。見知った気と、慣れ親しんだ土地……巴の力を持ったものに惹かれて。

 心の内がわかる、優しく繊細な人物だからこそ、あまり会いたくはなかった。会ったらきっと、情けなさよりも飢餓感が勝る。なにより、白蛇の妖魔を内に飼う、半分人間から逸脱しかけた存在だと明確にわかってしまったら。たとえあのお人好しでも、拒絶なりなんなりするだろうと。 

 しかし、彼は白蛇を受け入れ、衰弱した自分を労わり、住む街にちなんだ魔法菓子まで振る舞ってくれた。

 美郷は巴市で生まれ育った訳ではないが、新たな人生を歩むことを決めたあの土地は、自分を受け入れてくれた場所だ。そんな場所を思って作られた菓子に、癒やされぬ理由はない。今日だけは、素直に癒やされても罰は当たらないだろう。それに、あの「稀人」を無碍にしたら、また巴の神々になにをされるかわからない。

「美郷くん! 長いことごめんね、駅ついたよ!」

 思考に沈んでいると、ハザードランプの音と、蒼衣の切羽詰まった声がする。目的地に着いたのだ。

 ほんとごめんね不安だったよねとしきりに心配する蒼衣の姿に、弟の克樹にもおれがこう見えてたのかもしれない、とふと思う。

 ――ああそうか、今日はおれが「弟」か。

 どこか恥ずかしかったのは、けして心を感じ取られたからだけではなかったのだ。

 可笑しく思えて、笑いがフフッとこみ上げる。

「蒼衣さんて、意外にお兄さんですよね」

「へっ? え、と……一応三十路だから、美郷くんよりはまあ……? 美郷くんたちと同じくらいの妹はいるけど……でも落ち着き払ってるのは美郷くんのほうだし……」

 意外に、の言葉にツッコまない善良かつ天然ぶりは美貌とのアンバランスさが際立つ。だからこそ、八代店長「ご自慢」の友人でもあるのだろう。

 わずかに首をひねるばかりの蒼衣に小さく微笑んでから「じゃあ行きます」と助手席を出た。

「ほんとに遠くまで、お疲れ様。ゆっくり休んでね」

 運転席の蒼衣がにこりと微笑む。名の通りの花が咲くような笑みは、安心感を覚える。「今度はぜひ観光でね。怜路くんも一緒に」と付け加えられ「ええ」と答えた。

 ドアを閉め、駅に歩きだす。

 振り向けばまだ蒼衣の車がある。きっと自分が駅に入るまで見守るつもりなのだろう。

 ふと、一縷の蒼い光が見え――すぐに闇に溶けた。

 繋がり、絆という言葉は、けしていい意味ではない。

 だが。

「こんな繋がりは、悪くないかも」

 次会う時は、車の運転がもう少しマシになっていることを祈りながら、美郷は電車に乗り込んだ。


おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

巴市の日々×蒼衣さんのおいしい魔法菓子 クロスオーバー 服部匠 @mata2gozyodanwo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る