第2話 「私が私であることの証明を」

 私はスマホを右手から落とした。

 床にコトン。と音が鳴り響く。

 人に恐怖を感じることは、生まれて初めてだった。まだ体が震えている。

 私は少し横になることにした。

 幸い、このあとに予定も仕事もない。


「私は、誰だ……?」

 横になって、落ち着いたかと思ったが、落ち着くことができなかった。右手を天井にかかげ、細い自分の指を眺めながら、つぶやいた。

 急にわからなくなった。自分の感情の度合いを覚えているはずなのに、ズレている気がする。

 私はこれまで男性として過ごし、課長として過ごし……。

 そんな過ごした記憶は確かにあるはずなのに、肝心な自分の名前を思い出すことが出来ない。

 こんなことがあるか。こんなことがあってたまるか。

 寝て解決しようとしたが、気持ちが落ち着かない。

 家の中に閉じこもっていても、事態は解決しない。

 ならまずは、他人に助けを求めるべきだ。

 しかし、思い当たる他人が見当たらない。当の自分にかけることすら出来ないのだ。

 いくつが男性の名前が連絡帳にあるが、一人一人かけることもリスクが高すぎる。

 このリストの中に、先ほど電話してきた男がいるかもしれないという恐怖からか、男にかけるのが怖くなった。

 せめて自分にかけることが出来たらば、と。


 そんな瞬間だった。


 再び、スマートフォンが震え始めた。着信音が異なるわけだから、先程の男ではないことがわかる。

 芹沢は多分、相手によって着信音を帰るのだろう。

 確かに良いアイデアだなと私は思った。男に戻ったときに私のスマホにも設定してみよう。

 画面に表示されたのは、女の名前。


 ――佐々木麗華。


「れ、れいか!?」

 交友関係があったなんてな。と思った。

 普段芹沢と飲むことが多かったわけで、彼女から麗華の名前が出たことはあまりなかった。

 あるとすれば、社内でかっこいい女性社員がいるということをたまに口にして、私が名前を教えたぐらいか。

 しかし、なんて出よう。と考える前に、出てしまった。

「――もしもし?麗華か?」

 しまった。と思った。いつもの口調で話してしまった。

「先輩を呼び捨てとはいい度胸ね」

「あ、ああごめんなさい。寝ぼけてて」

「そ。それより今日暇? ちょっといいカフェ見つけたんだけど。付き合ってくれない?」

 この気にしない感じ。女子の前でもそうなのか。性別によって態度を変えていないから好感持てるな。

 私は少し考えたが、承諾することにした。

 麗華ならば、私のことを知っているはず。なら打ち明けても信じてくれるかもしれない。

 それに、ふさぎ込んでいても何も解決しない。

「大丈夫です」

 とりあえず丁寧な口調をしておけば、後輩っぽく見えるだろう。

 芹沢の口調と同じかどうかは不明だが。

「おっけ。じゃあ14時に新宿ね」

 私は、Suicaの残高を確認した。芹沢はスマホに入れていたようだ。

 新宿は、定期券内だったようで、問題なさそうだ。


 身支度を終え、電車に乗る。

 何だか視線が気になる。男のときには感じなかった、視線。

 芹沢、顔はいいからな。

 私はあまりタイプじゃなかったが。

 しかし、こう見られている感覚は、あまり心地が良くない。先程の電話の男のせいもあるからだろうか、新宿に着くまで気が気じゃなかった。


 新宿駅に着いて、西口で待ち合わせをする。相も変わらず、人の多い。15年東京にいても、未だになれない。

「おまたせ」

 ジーンズに、黒いジャケット、白いシャツ。ラフな格好でも様になる。麗華麗華は私を見て手を振る。

「あ、お疲れ様です」

 私は会釈をして、彼女に挨拶をする。

 お疲れ様です。か。思わず仕事の癖が出てしまった。

「今日プライベートだよ? どしたの?」

「あ、いえ。いつもの癖で…」

「明音も社畜の道を。休日くらい仕事から離れなさい」

「ご、ごめんなさい」

「なんか今日の貴女よそよそしいわね。どしたの?恋?」

「そういうわけでは。というかそれで恋だと短絡的に決めつけるのはいささか」

「あんたらしくもない屁理屈言い出すわね」

「え、あ、、ああ・・・」

 他人を演じることは難しい。

「なんかレアね。今日の貴女。ま、いいや。いきましょ、こっちよ」

 麗華に導かれ、西口から歩く。

 新宿駅から少し歩いた先に、目的のカフェはあるらしい。

 このあたりはダンジョンだ。元々の私は方向音痴であるから、ここがどこだかよくわからない。

「ね、どうここ、年季入ってて良くない?」

 麗華に案内された喫茶店は、彼女の言う通り年季が入っており、だからといってボロくもない。

 客足も多く、ドアを開けた店内からコーヒーのよい香りがしてくる。

「こんなとこ、よく見つけましたね……」

「うん。ネットにも記載されてない隠れた名店よ。独自の仕入れ経路持ってて、豆仕入れてるんだって」

 店員に案内され、席に着く。

「昔は嫌いだったのに」

「何が?」

「あ、いえ、私が昔コーヒーとかカフェイン系苦手だなって」

 さり気なくカバーする。

 麗華は、かなり昔からの知り合いだったが、コーヒーを好んで飲むような女じゃなかったと記憶している。

 それを言いかけてしまって、まずいと思って自分のことにした。

「そ。実はあたしもなの」

「そ、そうなんですか。最近は飲めるようになったんですけど、こう、お腹がいたくなるというか」

 もちろん、本当の私はコーヒーが大好きなわけで、この言い訳は苦手なやつからの受け売りだ。

「わかる~私も最初はそうだったけど、仕事上どうしても起きなきゃいけないときとかに飲んでたら、慣れちゃって」

「なれるもんなんですか?」

「そうみたい。元々飲める体質だったのかもね」

「そういうものですか」

「そういうものよ。最近はこうやっていいお店を探してることにハマってるかな」

「そうなんですか……。どうします?」

「なんかえらい他人行儀ね。まあいいわ。エチオピアコーヒーと、アップルパイのセットで。あなたは?」

「うーん」

 メニューには、豆の生産地別に別れており、かなり多様な種類を取り揃えている喫茶店のようだ。

 よくわからないので、麗華が頼んだすぐ下のメニューに有る、ケニアコーヒーセットにすることにした。

 店員を呼び出し、注文する。

 出てきた店員は、もとの自分より一回り上ぐらいの、髭の似合う長身の男性だった。

「ご注文は?」

 今女子になっているせいだろうか、不覚にもかっこいいと思ってしまった。

 さっき選んだ麗華の分も含めて、男性定員に注文した。


「……なに、意外とオジサマタイプだったの?明音。どうりで社内の男になびかないわけだ」

「ち、ちがいますよ」

「そ? けど、あの店員、多分いろんな女を誑かすタイプだったりして」

「見た目で判断するのは失礼じゃないですか」

「そうね。けど最近あなたがご執心の高宮課長とはどうなの?」

「高宮……?」

 すごく、聞き馴染みのある名前だ。

 それに課長と行った。結構飲みに行っているから社内では噂になっているのだろうか。

 私はあまりタイプではなかったから、否定しているつもりだったが。

「今日のあんたほんとにおかしいわ。高宮連太郎。あんたの元上司じゃん?」

「あ、ああ。ああああああ!! そうでしたね」

 高宮連太郎。

 ようやく思い出すことができた。自分の名前。

 しかし、今の今までなぜ思い出せなかったのだろうか。

「全く。けどあいつ、電話でないのよね。今日ここに呼ぼうと思ってたのに」

「ええ?」

 その当人が、目の前にいるというのに。

「ま、いいや、どうせ後でかかってくるでしょ」

「けど、電話に出ないのって気になりますね」

「そうね。あいつ電話にだけはちゃんと出るのにな……」

 仕事の電話かもしれないから常に出るよう心がけている。

 しかし、電話に出ないのは気になる。

 元々の自分の体であるから、どうなっているのかは不安だ。

 それに、いま自分の体は誰が入っているのか。そこが気になるところではある。けどま、いいかと麗華がスマホを起き、別の会話が始まった。コーヒーセットが置かれ、他愛のない会話を続けた。

 なんとか芹沢を演じようと、話を合わせたが、うまく立ち回れているだろうかと不安になる。

 やはり、打ち明けるべきだろうか。

 けど、麗華がそれを信じるだろうか。

「あ、あの」

「なに?」

「私、実は、“芹沢明音”じゃないんです。」

 麗華の表情はきょとんとしている。

「何? 新しい遊び?」

「いえ、私が、俺が、今電話にでない“高宮連太郎”です」

「は、いやいや意味わかんないし。好きすぎて頭おかしくなった?」

 だよなあとため息を付く。

「信じてもらえませんよね」

「明音が知らなくて、連太郎だけが知っている秘密でもあれば信じるかもしれないけど」

「ホストクラブに10万」

「は? なんであんたが知ってるわけ?」

「ご、ごめんなさい」

 彼女に誰にも言わないように釘を差されていた。

 なら自分にも言わなければよいのにと当時の自分は思っていた気がする。

「なんかむかつくな。いくつか質問していい? 仮に貴方が“高宮連太郎”だったとして、なんで名前を思い出せなかったの?」

「それは、わかりません。名前は思い出す事ができなかったですけど、自分がかつて“課長”だった記憶はあります」

 続けて、記憶に紐付いた質問を彼女にいくつか話した。

 自分の会社のこと、自分のこと、そして麗華と飲んだこと。

「ま、今の今までの話で、連太郎だけが知ってる記憶だってことはわかったけど。一つ気になることがあるの聞いていい?」

「ええ」

「あんた、どうやって“メイク”したの? 女装趣味とかあった? いつもの明音のメイクなんだけど」

「え……」

 どきりとした。あ

 女装趣味などない。

 メイクなんぞしたことがない。

 けれど、家に出る前になぜかしなくちゃいけないと思って、手が勝手に動いたんだ。

 もし、何も知らない男の知識だけの私ならば、ノーメイクで行ってたかもしれない。

「連太郎はあんまり女っ気がないから、仮にあんたが連太郎として、今喋ったことが連太郎からの受け売りだったとしたら、私は完全にあなたが連太郎だって認めることができない」

 確かに。

 麗華に指摘されたとおり、私の記憶は高宮連太郎そのものかもしれないが、芹沢のメイクや、格好や、振る舞いや、そんなことまですべて再現なんてできるわけがない。

 女っ気がないのは余計な気がするが。

「私は信じるけど。他の人は信じないだろうね」

「え、今ので信じるんですか?」

「連太郎口が堅いし、10万の話誰にも言わないって釘刺してたし」

「それは信用されていて助かるな」

 口調が思わず戻る。もう演技するのは疲れた。

「なんか変な感じね。あんたが連太郎だって。けどいい経験してるんじゃない? いろいろしたの?」

 急に麗華がニヤニヤし始める。なんだこいつは、やっぱり中身はおっさんか。

「いろいろした、とは?」

「はぁあ!? あんたそんな可愛い子に入って何もしてないの?」

「発言が危ないぞ麗華。お前が聞こうとしていることはわかった」

「あんたそれでも男? 胸くらいもんだんじゃないの?」

「声がでかいぞ」

 赤くなっているのがわかった。

「あ、ごめん。そっか、連太郎なんだね。あんた」

「私に女装趣味はないから、さっきの指摘は本当に焦ったぞ。鋭いなお前……」

「ほんと甘いよね連太郎」

「いつもお前のそういう鋭いところで私はいつも助かってるからな」

「明音の声と顔で言われるとなんかむかつくな」

「ご、ごめん」

「それにさっきの男性店員にときめいてたし、あんたそっちの趣味あったのね」

「ときめいてない!!」

「ま、いいわ。それでどうするつもり? 女の子の体を謳歌するの?」

「そういう訳にはいかないだろ。いろいろと気になることがあるから、これまでの話を聞いてくれないか」

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例えば私が君として 水原翔 @showmizuhara919

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