例えば私が君として

水原翔

第1話 「例えば私が君として」


 朝、目を覚ます。

 目覚めの悪い私は、なかなか起きることが出来ない。

 それでも起きてやらねばならぬ事があるわけだから、仕方なく体を起こす。

 なんだか、肩が重い気がする。それに何か、肩に当たっている。右手でそれを触ると、髪だった。私はいつの間にか、ロン毛になってしまっていたのだろうか。

 しかし、私の髪は1,000円カットで切ってもらった短髪だったはず。だとすれば誰かが私の頭にカツラかなにかを被せたか、あるいは髪に近い何かが肩にかかっただけなのか。それは分からないが。

 しばらく触って、引っ張ると、それが自分の髪であることがわかる。一晩で伸び切ってしまうような病気にでもかかったのだろうか。

 私はとりあえず、会社に遅刻しては行けないと思い、立ち上がった。

 なんだかふわりといい香りがする。私はこんな匂いのするものに見覚えがない。

 私は肌が弱いわけだから、弱酸性のシャンプーを使っているはずだ。

 あのシャンプーにこんな、種類の分からない花の匂いがついているわけでもない。わりと良い香りだ。

 まあ、一つ一つ考えていては問題は解決しない。まずはルーティーンだ。

 顔を洗おうと洗面台に向かうと、そこには長髪の顔立ちの整った女が、目の前に写っていた。

 はて、眼の前にいる君は誰だ?

「ん?」

 ふと声を出すと、いつもと違う声だということに気づく。わりと高めの声。女性の声だ。

 なるほど。変声期というやつか。

 いやいや違う。何が変声期か。私は35歳独身男性だ。

 あまりにも女っ気がなさすぎて、幻覚でも見えているのだろうか。

「なんだ、女か……」

 と言いながら、内心かなり慌てふためいている。

 私は自慢ではないが、感情があまり表情に出ないタイプだ。

 それが評価されたのか、今は管理職となっている。

「この子は……芹沢か?」

 しばらく顔を見ていると、気づいた。すっぴんというものを始めてみてしまった。

 声も自分の声になると、普段聞いているはずなのに分からなくなる。これは割と不思議だ。新たな発見かもしれない。

 長髪で胸が多少あって、顔は割と美人な部類だとは思う。そんな部下の芹沢明音せりざわあかねが、鏡の目の前にいた。

「芹沢、これは一体どういうことだ?」

 その質問を芹沢本人からしていると気づいた瞬間、ため息を付く。

 自分が自分に問いかけても意味はない。

 理解はしたくは無いが、私はどうやら他人。女になってしまったようだ。

 胸と男の大事な部分を触るとそれを納得せざるをえなかった。

 意外と、この女は大きい。それが肩の重さの原因だろうか。確かにこれは苦労する気がする。

 さて、それはさておきだ。

 無意識に触ってしまったが、後でセクハラで訴えられないだろうか。と冷静になる。

 何故、部下の芹沢に姿が変わっているのか。

 今頃私はどうしているのか。

 女になる。というシチュエーションは男であれば憧れるだろうか、私は多感な時期を過ぎてしまったわけだから、この状況を楽しむというより、何故この状況になってしまったのかという理由の方が気になる。

 と、いいながら両手が胸から離れないのは、何故だろうか。多感でなくとも男であることを自覚してしまう。

 夢だという可能性は先程ほっぺをつねり痛覚を感じたわけだからおそらく違うだろう。

 とりあえず顔を洗い、歯を磨いた。

 髪が、前に垂れてくる。

 私は洗面台に置いてあったカチューシャを付け、顔を洗った。

「まず、今日が何月何日か確認する必要があるな」

 この部屋にはテレビがなく、あるのは充電してあるスマートフォンだけだ。

 日付をみると、今日はどうやら8月11日の土曜日のようだ。

 土曜だろうが平日だろうか、私は朝6時に起きるのが習慣だ。芹沢になってしまった私でも、6時に目覚めることが出来たらしい。

 少し頭が痛い。これは二日酔いのそれと似ている。

 私は、昨日の出来事を思い出す。

 確か昨日は、芹沢と飲んでいた。

 

 *


「課長ぉお……私どうしたらいいんですかぁ」

 理由が理由であるから、いつも行っているところより若干高めな居酒屋を選択した。

 彼女から誘いがあり、状況が状況だから承諾することにした。最近はセクハラがどうとか言われているから、女性社員と2人きりで行くのにもかなり気を使う。

 本当は課のメンバーも来てほしかったが、断られてしまった。

「本当にすまないな、このタイミングで」

「ほんとですよ課長。田中さんとか高崎さんとか、デキる人は他の部署に行けるからいいですけどー」

 ぶーと膨れながらジョッキをあおる。彼女は酒が弱いから、課長の私としては程々にしてほしいぐらいだ。

 最近では、アルハラなんて言葉もあるくらいだから。

 まあ、彼女はその辺わきまえていて、私がそういうことをする人間ではないから、安心していると前言われたことがある。その点は信頼している。お酒は自己責任で、たしなむ程度に楽しむ事がよい。

「課がなくなっちゃうなんて、寂しいし、私なんか拾ってくる部署は」

「あるだろそれくらい。広報課とか」

「完全にマスコットじゃないですか~。それにあそこ残業多いって聞くし」

「まあそうだな」

 課がなくなる。

 会社の業績が傾き、組織再編を行うことになった。総務部の一つの課である我がシステムサポート課は、社内システムのトラブルや操作方法を案内する部署だったが、業務を外部委託と自動化によってコストダウン。課の解体を余儀なくされた。

 お金を自分で稼げないスタッフ部門は、企業にとっては一般管理費の費用にすぎないわけで、それを削減する目的もあるのだろう。

 いろいろな懸念もあったが、それらはほとんど解決され。人間でやるべき仕事は総務部の別の課に委託されることになった。

 世の中で言われている人工知能で仕事がなくなる事態に直面しているのはなんだか現実感が沸かない。

 ただ、私自身それはあまり怖くはなく、総務部とは違うが、他の課へ映ることも決まっていた。経理部だ。

 そんな中、転職して入社2年目の芹沢は、ようやく最近仕事に慣れ始め、ある程度は任せられる程度にまで成長したと思う。

 最初は、PC操作も遅くて、前の会社で何をやっていたのか不安になった。けど採用して、うちの課に入れる最終決定は自分が行ったわけだし、採用の責任はある。必死に教えて何とか身につけさせたのだが。

 そんな彼女からしたら、この課がなくなるのは、かなりショックのようだった。

「いいじゃないか。この機会に自分の将来を見つめ直しても」

「私まだ転属先決まってないんですよ。オファーもないし。転職しても資格とか」

「だから私を呼んだわけか」

「課長ならコネクションでつながるかと」

「まあ、出来なくもないけど。それでいいの?」

 つい、説教臭くなってしまった。

「いいんです。私みたいな何も出来ない人間は、使ってくれるところがあれば」

「いや、何も出来ないと言うのに決めつけるのはよくない気がするけど」

 彼女はもう少し自分に自信を持っても良い気がする。

 彼女よりひどい人間を幾度と無く見てきた。

 私の持論だが、最初入った時がどんな状態であっても、向上心のある社員ならば、後から何とかなる。

 そして、それに根気よく見続けていれば、後で何とかなる。そう思うようになって、部下の教育は楽になった。少し前はうまくいかなくて苦労したものだ。今もうまくいかない事が多いが。

「あ、課長次何します? 私日本酒!」

「大丈夫か? 言っておくが、私は強要していないからな」

 なんでもハラスメントになる時代だ。いろんな事に気を使わないといけないから、本当に疲れる。

 アルハラ、アルコールハラスメントを行っていないことを、あらかじめ宣言しておかないといけないから。

「大丈夫ですよ!! 私のやけ酒ですし。それに私から言い出したことですし♪」

「体に悪いぞ」

「心配してくれるんですね♪」

 にやりと笑う彼女の笑顔に、不覚にも女らしさを感じてしまった。普段はいろいろ振り回されてそんな感覚を微塵も感じないと言うのに。

 けど、私は彼女をある程度育ててきたつもりだが、会社はそれを認めてくれなかった。

 私は、ポッケにあるたばこに手をつけ、席を離れようとすると、

「ここでいいですよ」

 と彼女は言った。私は会釈し、たばこケースからたばこを取り出し、ターボライターで火をつける。

 煙が彼女へ向かないように、上に向かって息を吐く。

「なんかいちいちかっこいいですよね、課長って。たばこが似合うというか」

「おだてても何も出ないぞ」

「本気で言ってるんですよ」

「どういう意味で」

「そういう意味ですよ」

「意味が分からん」

「課長の移動先に入る事って出来ないんですか?私課長がいないと何も出来ないし」

「お前そのために呼んだのか?」

「冗談ですよ冗談。そんなことがまかり通るわけないって思ってますし」

 これはだいぶ酔っている。上司としてはそろそろ止めたいところだが。

 しかし、自分がいないと何も出来ないといわれると、自分の教育が悪かったのかと思う。

 他の部署でもやっていけるよう、育てたつもりなのに。

「課長。一つ悩み事言っても良いですか?」

「止めてもしゃべるんだろ?」

「分かってるじゃないですか」

「悩みってさっきの話か?」

「いえ、一番気にしなきゃいけないのはそれですけど、二番目に気にしていることがあって」

 彼女から私は、いくつか悩みを聞いていた。

 仕事の悩み。プライベートな悩みに始まり、正直どうでもいいような悩み。

 彼女の仕事の能率が上がるのであれば、上司である私は毎回内容が何であろうが聞くことにしている。まあ振り返ると、上司にしゃべるような内容でもない気もするが。

 彼女の表情はいつもより少し、曇り気味だ。


「私、最近よく意識が無くなるんです」

「……は?」

 それが事実であれば、ちゃんと病院に行った方がよいような内容を、彼女は口にした。

 意識が無くなる。

 普段しょうもない話ばかり聞いているから、わりと驚いた。

「お前からそんなこと聞くのは初めてだな」

「今まで言わなかっただけですし」

「本当に?」

「ほんとですよ。部屋のものの配置がいつの間にか変わってたりするし。一瞬寝たと思ったら全然違う場所で知らない人と一緒にご飯食べてたりするし。最初はぼうっとしてるだけかなって、思ったんですけど」

「事実なら恐ろしいな。病院にはいったのか?」

「はい。行ったんですけど、根本的な解決にはならず」

「そうか。仕事に支障は起きないのか?」

「課長の見たとおり。普段の私です。これはプライベートの時だけなんですけど」

「そうか」

「珍しいですね。私の悩みを真剣に聞いてくれるなんて」

「事象が事象だからな」

「嘘を言っているかもしれないのに?」

「普段のお前を見ていれば嘘じゃないと分かる」

 違いを嫌でも覚えてしまうから。

 普段のどうでもいい彼女の悩みは、ほとんど受け流している。

 酔っていながらも、その悩みをうちあける彼女の姿は、嘘をついていないように見える。

「それで、私が意識を無くなった後に、自分のスマホやノートを見たことがあって」

「ほう」

「”お前はもう私だ”って至る所に書いてあったんです」

「お前はもう私」

「私、そんなこと書いた覚えないのに」

 何かに取り憑かれているのだろうか。

 除霊とか私は全く知識がないわけで。

「けっこう怖いんですよ。今だっていつ私が私じゃなくなるかわかんないし」

「自分が自分じゃなくなる……か」

 あまり考えたことはなかったが、身近な人間にそんな事象を経験した人物がいるなんてな。と思った。

 

 *


「その事象の原因が、私だというのか?」

 芹沢との機能の記憶は、そこで何故か途切れていた。

 お前はもう私だとか、そんなこと書いた記憶はないというのに。

 ただ、こうして自分が他人だと自覚していることは、その可能性も捨てきれない。

 だが何故だ。私は彼女に対して特別な感情は抱いていないはずだ。それにお前はもう私だなどと、そんな気持ちの悪いこと、考えすらいない。 あえて恋愛感情で言うならば、営業課の同期女性社員だ。芹沢は対象ではない。

 まあそんなことはどうでも良いとして。

 再び頬をつねるが、夢ではないようだ。

 それに暑いという感覚はある。

 もう朝にして30度近い気温になっている訳であるから、私はエアコンのスイッチを入れ、これからどうしようかと考えた。

 が、少し考えて、少なくとも男性である私にこれからの事象を自分一人でなんとかしようというのは、いささか無理な気がしてきた。

 一番期になることを、まだ試していない。

 本当の私は、今どこで何をしているのか。

 それをまず確かめる必要があると思い、私は彼女のスマートフォンを手に取った。

 そして、キーワードで課長と探す。

 しかし、見つからない。

 私は名前を入れようとする時に気づいた。

 私は私であったはずなのに、私の本当の名前を思い出すことが出来ない。

 課長職である私。男性でメビウスを吸い、35歳の独身。そこまでは思い出せるのに、肝心の名前が思い出せない。

 そんなことがあるのだろうか。

 おかしい。

 私は私であったはずなのに。

 自分が一番知っているはずなのに、自分自身の名前を、私は思い出せない。

「はっ!? す、すまん芹沢」

 気づいたら両手がまた胸を触っていた。

 しかし、謝っても彼女は現れない。

「……はぁ」

 ため息を付きながら、私は一旦横になった。

 その瞬間。

 携帯が鳴り始めて、私は驚いた。

 非通知着信。どこからかかってきているのかは分からない。

 仕事柄、すぐ電話を取る癖があるせいか、何も考えずに出てしまった。

 職業病は恐ろしい。

「もしもし」

 声が震えているのがわかった。私は恐怖を感じているのだろうか。

 多分だが、この体そのものが恐怖を感じている。私の精神というより、芹沢自身が恐怖している。多分、そうだと思う。

 受話器から、声がする。

「――どうですか? 女の体の調子は」

 低いノイズ混じりの声。変声して声を分からなくしている。

 私は考えた。この電話の主を。

 この質問をするということは、私をこういう事態に陥れた人物か、あるいはその事情に詳しい人物だということなのだろうか。

 私は恐る恐る、電話の主に訪ねた。

「あなたは、誰ですか」

「やはり俺を覚えていない? 一つ確認したい。君は、か?」

「そうだ」

 怪しまれないように、回答する。

 しかし、それが仇となった。

「俺の知っている芹沢は、”そうだ”とは言わない」

「っ……」

 こいつ、はめやがった。

「なにせ俺が、あんたをにしたんだからな」

「なんだと!?」

「せいぜい楽しめよ、女の体を。そして待っておけよ。もうすぐ復讐しに来るから」

「待て!? どういうことだ!?」

 謎の男からの電話は途切れる。

 切れた瞬間、体が震えているのがわかった。

 自分は間違いなく、いや、たぶん芹沢明音が、恐怖している。

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