あの時の私たちも青かった

「久しぶり。えーっと八年ぶり?」

 篤は指折り数える。

「ホントだね。もうそんなに経つんだ」

 高校の友人の結婚式。受付を済ませた後の待合室で優と再会した。少し早く来過ぎたか、知り合いはまだ優しかいなかった。

 席次には二人とも『新郎・新婦友人』とある。

「すごいね。あの二人ずっと続いてたんだ」

「あんまないよな、高校からでゴールインって」

 僕たちも卒業したくらいの時に別れたし、と口が滑りそうになったのを慌てて飲み込んだ。

「仕事は? 日本に戻って来てたの?」

「うん。日本で就職したから。でも来年からロサンゼルスに転勤!」

 おお、スケールがでかい。篤はせいぜい東京から仙台に一度転勤しただけだ。それでも引き継ぎや引っ越しは大変だった。

「やっぱネイティブばりに英語ができると海外勤務になるんかね?」

「私もすぐ海外行けると思ってたんだけどねぇ。何度も希望出して、やっと通ったの」

「へー、意外とそんなもんなんだな。希望が通って良かったな」

 ……。

 しまった。会話が途切れた。

 聞きたいことや話したいことがたくさんあるはずなのに。久しぶりだからか会話が上手く波に乗らない。元恋人という気まずさもある。

 無難に「アメリカ留学どうだった?」と話を繋げようとしたが、先に口を開いたのは優だった。

「あっくん、結婚したんだ?」

 優の視線の先は篤の薬指だ。

「うん。去年」

 できるだけさらりと答えたつもりだが、どうだろうか。

「くっそう」

 篤のささやかな配慮を知ってか知らずか、優は無遠慮に天井を仰いだ。

「あっくんに先越されると微妙にムカつく」

 何だよそれ、と思わず吹き出した。

「だって私、あっくんにフラれてるんだもん。あっくんより先に幸せになってないと、プライドが傷つく」

 皮肉めいた優の台詞だったが、あの夜のことが自然と話題に上がって、かえって篤は安堵した。

 クラスの卒業旅行。こっそり抜け出したあの夜のことは過去の思い出の一つで、今更腫れ物に触るような扱いはしなくていいんだよ、と優が言ってくれているように感じた。

「もう十年近く前だよ、高校時代って。今思うとあっという間だったね」

 優は懐かしそうに目を眇めた。

「でも、一瞬だったけど大事な時間だった」

 そして優が篤に向けたのはくしゃっとした笑顔だった。ああ、その顔。よく覚えている。

「あっくんといた一年間のおかげで今の私があるの」

 胸がざわついた。どういう意味だ?

「私が渡米を決心できたの、あっくんのおかげなんだよ」

 何言ってんだ、というのが率直な感想だった。

 優がアメリカ留学を告げてきたのは高三の夏休み明けだった。寝耳に水で、めっちゃ遠距離じゃんとか、留学してまで何勉強したいんだろう日本じゃだめなのかとか、年に何回会えるのかいやそれ以前に自然消滅フラグじゃないか、と頭の中がぐちゃぐちゃになった記憶しかない。

「あっくん、ちょっと混乱した風だったけど、その時なんて言ったか覚えてる?」

「いや、覚えてない」

「『彼氏としては正直行って欲しくない。でも、僕としては優が進みたい道を応援したい』って」

 ……覚えていない。というか我ながら意味不明だし、全身が痒くなるような青臭いセリフだ。昔の自分の口を塞ぎたい。

「正直言うとね、留学ちょっとだけ迷ってた。いや、ほとんど決めてたし、何言われたってやめなかったと思う。ただ最後の一押しが欲しかった」

 指先から体温がなくなっていくような気がした。だって、

「私にとって、あっくんの言葉が最後の一押しになったの。彼氏の言葉じゃなくて、あっくん……東城篤の言葉が。あっくんが応援してくれるなら大丈夫だって思えたんだよ」

 だって、そんなこと今まで一度も聞いたことない。応援したいという僕を信じてくれたのに、最後の最後、旅立つ直前で優を裏切った。もう一緒にはいられないと別れを告げた僕は――。



 高三の篤は、留学する優の枷にはなりたくないと思った。

 優はこれから学びたいことを存分に学ぶのだろう。たくさんの新しい出会いもあるだろう。新しい環境で苦労するだろうし辛いこともあるだろうが、一つ一つ乗り越えて、存分に楽しんできて欲しい。


 でも優の新しい世界に僕はいない。


 優がもし僕を必要とすることがあっても近くにいてあげられない。僕の存在が、広い世界に羽ばたこうとしている優の邪魔になるかもしれない。

 だったら、

 僕は優が好きだから、

 僕は君の彼氏でいてはいけない。

 だから篤は告げたのだ。別れよう、と。



「……だったら、僕の仕打ちはなおさら酷かった」

 優はどんな気持ちだっただろう。

 どんな気持ちで最後のキスをしたのだろう。

 はぐれたらどうするのという言葉の裏にどんな想いを隠しながら僕の袖口を掴んでいたのだろう――。

「仕方ないよ。あの時の私たちは青かったんだから」

 優はあっけらかんと笑った。

「言ったでしょ。私は彼氏の言葉じゃなくてあっくんの言葉が良かったの。だから十分」

「買いかぶり過ぎだ。今思い返すと、」

 篤は苦々しく顔を歪ませた。

「あの時本当に優のことを考えていたのか、自信ないんだ」

 篤が優の一押しになったというのは驚きだったが、それ以前からずっと篤の胸には優が引っかかっていた。高校生の自分がいかに独りよがりで浅はかだったか。

 異国の地へ旅立ったとしても全然日本に帰って来ないわけではない。年に数回は会えたはずだ。会えない期間だって電話やメールでやり取りできる。本当にその気になれば、バイトをしてお金を貯めて会いに行くことだってできた。

 何が「優の新しい世界に僕はいない」だ。カッコつけて自分に酔った理由をつけて、結局僕は遠距離になっても続けていける自信がなかっただけなのではないか。

「それはね、あっくん。さすがに昔の東城篤が不憫だよ。高校生のあっくんと、たくさん経験を積んだ今のあっくんじゃ、見えるものが変わって当たり前。今の物差しで昔の自分を測ったら、ツッコミどころ満載で穴だらけで恥ずかしくなるのは仕方ない」

 だからああいうのは「あの時は青かった」って笑い飛ばすくらいがちょうどいいんだよ。そう言って優は本当に声を上げて笑った。

 いいのか、それで。複雑な心境で顔を上げた先にあったのは、くしゃっとした笑顔だった。

 ふう、とため息が漏れた。

 確かに昔の自分は浅かったかもしれない。自分可愛さもあった。でも、優のことを毎晩毎晩考えて、どうしたら優にとって一番良いか悩んだ。それは偽りのない事実だ。

 やっと許されたような気がした。自分を許せるような気がした。


 篤の表情が目に見えて変わったのが優にも分かった。あれから随分時間が経って家庭を持った今でも、私とのことはきっと心のどこかに楔となって打ち込まれていたのだろう。

「私はあっくんと付き合って良かったと思ってる。あっくんは?」

 既婚者には意地悪な質問かな、とも思うが構わない。篤には、私を青かったころの綺麗な思い出へと昇華して欲しい。

「えーっと……」

 篤は必死に言葉を探しているようだった。

「……うん。僕も優と付き合って良かったと思っている。結局は別れてしまったけどそういうのも全部含めて、優と一緒にいた時間が今の僕を作る一つの要素になってる。優がいなかったら全然違う人間になっていただろう。優とのことがなかったら、誰か一人のことを真剣に思い悩むこともなかったと思う。そういう経験がなかったら、今の嫁に見向きもされないクソ野郎になってた可能性だってある。優のおかげで僕は僕でいられるんだ。……言ってる意味、分かる?」

 分かるとも。篤は優と同じことを考えていたのだ。

 きみのおかげで今の私がいる。

 きみのおかげで今の僕がいる。

「優には感謝してるよ」

「良かった良かった。じゃあお互いありがとうって思ってるわけでwin-winだね。でも過去の余計なこと奥さんには言わない方がいいからね。昔のオンナに未練あるのかー! って受け取られかねないよ」

「ん。肝に銘じとく」

と、篤はさらに続きを言いかけ、慌ててごにょごにょと濁した。

「ん、何?」

「何でもない」

「嘘。気になる」

 優は篤をじとっと睨む。篤は迷ったようだったが、観念したようにテーブルに突っ伏した。

「……過去に何があったとしても今は嫁が一番だから。愛しているから」

 優の喉からぶふっと変な音が漏れた。何という不意打ちか。ノロケかよ! 幸せだなこの野郎!

「ちゃんと奥さんに言ったげなね。本当に愛し合ってたら言わなくてもわかる、みたいなの、何十年も連れ添ってなきゃ無理よ。エスパーじゃあるまいし口に出さなきゃ伝わんないからね」

「それ、嫁からも聞いた」

「へぇ」

「だから週に十四回くらいは言ってるかな。愛してるって」

 優の知っている篤のキャラではない。奥さんの教育の賜物だろう。

 いいじゃんいいじゃん、幸せになれ、若人よ。

「まぁ私はあっくんのこと喋っちゃったんだけどね」

 優はペロっと舌を出した。顔を上げた篤の目は丸い。

「誰に?」

「婚約者」

 おぉ、と篤が仰け反った拍子に椅子ががたんと派手な音を立てた。私の婚約がそんなに意外かコラ。

「結婚するんだ?」

「やっと私もアメリカ行けるからね。婚約者はニューヨークに住んでるの」

「あれ? 優、ロサンゼルスに転勤って話じゃ?」

「そう。本当は私ニューヨーク希望してたの。でもニューヨークで華の新婚生活! にこだわってたら永遠に一緒になれそうにないからひとまずロスで手を打ったわけ。おかげで結婚してもしばらく別居生活よ」

 思わずため息が漏れた。

「彼には何話したんだ?」

 篤は怖い物を見るような目をしている。

「大体全部」

「は? 全部?」

 もはや篤は呆れ顔だ。面白い。

「そしたら、青春だねーって。君が好きだった男なんだからきっといいやつなんだろう、今度紹介してくれ。だって」

 優が言うと、篤はくくっと笑った。

「彼、いいやつだな」

 そう言ってもらえるのが嬉しい。ついでにもう一声期待しちゃう。

 ねぇ、また背中を押してよ。

「おめでとう。幸せになれよ」

 さすが元祖いいやつ。期待通りの台詞だ。

 昔も今も、彼は私の力になってくれる。

 大丈夫。私も幸せになれるよ。


 スタッフがチャペルへの移動を呼びかける。

 式挙げるときの参考にしなきゃ、と優は気合いを入れていた。

「まずは祝福するのに気合入れろよ」

「そういえば、あっくん式挙げた?」

 優は篤の忠告を華麗に無視した。

「いや、金もかかるしなーっつって挙げてない」

「えぇー!」

 もの凄い非難の叫びが優の口から飛び出した。

「奥さん、式したいって思ってるよ多分! 分かんないけど絶対!」

 多分なのか絶対なのか、という問いは野暮というものだろう。

「それ、優が式やりたいだけだろ。うちは嫁の方から『お金ないから式しなくていい』って……」

 篤の受け答えが優に火をつけた。

「これだから男は! 家計を気にして遠慮してんじゃん! いっぺんドレス試着だけでもしに行ってみ?」

 勢いに押されたまま頷いておく。これが功を奏した。

 後の話だが、優のアドバイスに従って、ドレスなんていいよと言う嫁を引きずってドレスを試着しに行った。結果として式を挙げようということになった。いざドレスを着ると嫁がその気になったのもあるが、美しい花嫁姿に惚れ直してしまった篤の都合の方が大きい。優にはまたもや感謝だ。

「優は? 式いつ?」

「まだちゃんと決まってない。そのうち招待状送るから」

「……呼んでくれるのか?」

「呼ばれたくない?」

「馳せ参じましょう」

「よろしい。ご祝儀三億円ね」

「あ、急用が入った」

 優に肩を殴られた。懐かしさと、そして少し物足りなさを感じたのは、彼女が手加減を覚えたからだろう。

 

 日の光がガラス張りのチャペルに差し込み、そして主祭壇の向こうにはキラキラと輝く青い海を望む。

 門出にふさわしい日だった。


Fin.

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あの時の私たちも青かった 深瀬はる @Cantata_Mortis

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