あの時の私たちも青かった

深瀬はる

あの時の海はきっと青かった

 足元に踏みしめるさらさらとした砂。靴の中に砂が入り込んでいるのを感じる。

 ゆうが歩いているのは海へと続く道だった。防砂林の合間を縫って、二人――優とあつしは手を繋いだまま縦に並んで歩いている。先を歩く篤は携帯電話のライトで足元を照らし、時折気遣うようにこちらを振り返った。心配しなくても、将棋部だった篤よりテニス部で毎日汗を流していた私の方が体力は自信がある。私はちゃんと一人で歩ける。

「うおっと」

 言ってるそばから、篤は落ちている松の枝に引っかかって転びそうになった。

「ちゃんと前見て歩く!」

 優はびしっと前を指差した。

「あっくんがこけたら私もこけるでしょ。乙女に怪我させる気?」

 繋いだ手を持ち上げて見せると、篤は苦笑して手を握り直した。

 くそ、それずるい。


 三月中旬。そろそろ春も目前という時期だ。この辺りでは三月末には桜が咲く。満開の桜の中で入学式、というのはドラマや漫画の話で、実際にはその時期には散ってしまっているのが悲しい。

 上着がいらない日も多くなってきた。気の早いちびっこが半袖で駆け回っているのを見かけることもあって微笑ましい気分になる。

 高校の卒業式はとうに終わった。進路も決まった。ということで、クラスの仲の良い十人で卒業旅行に来ていた。ネズミの国とかユニバーサルなんたらではなく温泉旅行というのが渋いチョイスである。

 そして夜、優は篤に連れ出されたのだ。夜はまだ肌寒い。

 獣道を抜け、コンクリートの堤防に辿り着いた。

 二人は堤防の上に並んで座った。篤があぐらをかいている横で、優は膝を抱えて座る。

 海の匂いと波の音が鼻と耳を優しく撫でる。

 目の前は真っ暗闇だ。携帯のライトはどこにも届かない。だがこの先には砂浜があって、そして海が広がっているはずだ。眼前の漆黒は青く広い海なのだ。

 篤は折り畳みの携帯を閉じてポケットにしまった。閉じ際のカチッという小さな音すら耳に障る。そんな無機質な音はここには似つかわしくない。

 隣に座る篤の息遣いや心臓の音すら聞こえる気がして、というか聞いてみたくなって、優は膝に顔をうずめて息を潜めた。

 すると布ずれの音と共に、

「すっごい綺麗」

 篤の口から飛び出したのは、小学生みたいな安直な感想だった。暗闇に慣れてきた目で横を見ると、篤は堤防に寝転がって空を見上げていた。

 優も素直に真似をした。

「宝石箱をひっくり返したみたい」

 視界に広がったのは闇雲に「すっごい綺麗」な星空だった。圧倒されるほどにすごいものを見たときは、何がどうすごいとかここが素晴らしいとか、細かい理屈はどこかに飛んでいってしまう。

 それは優が篤のことを好きであるのと同じだ。彼のどこが好きなのか聞かれても困る。むしろ、ここが好き、と答えることができるようなら、まだその人を本当に好きだとは言えないというのが優の持論だ。

 左半身がほのかに暖かい。一度そう思ってしまうと、すぐ左にいる篤の体温を意識してしまってむずむずした。

「僕、星空って初めて見た」

 都会にいるとオリオン座とか北斗七星がかろうじて見えるくらいだが、今は星が多過ぎてどれが何の星座なのか、かえって分からないほどだ。

 これが星空だ。初めて見た本当の星空だ。

「あ、流れ星」

 ナントカ流星群到来の有無に関わらず、本当の星空ではたくさんの流れ星が見られるということを優は知った。一緒に知れたのが篤で良かった。

 だって、これが最後かもしれないから。

「なあ」

 しばらく流れ星探しをした後、篤がぽつりと言った。

 私は気づいていた。なぜ篤が私を連れ出したのか。

「話があるんだ」

「えー。聞かなきゃダメ? あ、また流れ星!」

 わざとおどけた。が、声が震えるのを自覚する。

「話があるんだ」

 篤は静かに繰り返した。

 左を向くと、頬がひんやりとしたコンクリートに触れた。

「別れよう」

 空を見つめる篤の横顔に一筋の雫が伝っていた。


 

 篤はどちらかというと物静かな方で、優が友達とくだらないことで笑う合間に篤を覗き見ても、机で本を読んでいたり、せいぜい一人二人と喋っていたりするくらいが多かった。

 授業で居眠りしているところは見たことがなかった。優とは正反対だ。

 将棋の県大会をあと一歩で突破できなかった篤。みんなの前では泣かなかった篤が私の前ではどうだったかは、私だけの秘密だ。

 運動会の応援合戦では、ターバンを巻いたアラビアンナイト風の衣装で短剣を持ってキレ良く舞っていた。

 文化祭でホストみたいなスーツを着て少し照れながら給仕していた。

 

 図書室で向かいあって勉強した。優は英語が得意で、篤は物理が得意だった。分からないところを教え合い、よく居眠りから起こしてもらった。

 テストで思うような点が出なくて悔しくて、でも優が「あっくんに教わったとこはできた」と報告すると、篤はぐしゃぐしゃと頭を撫でてくれた。泣きそうになった。

 テニス部を引退した優は週末に篤をよくテニスに誘った。篤はテニス経験がなかったのでまずは一緒にラケットを選んだ。最初はへっぽこだった篤とだんだんラリーが繋がるようになって、初めて二十回ラリーが続いた時はお祝いにサーティーワンを奢った。

 運動会のクラス打ち上げ。途中でこっそり二人抜け出して、初めてキスをした。

 文化祭でふりふりのエプロンを着ていたら、もう少しスカート短くてもいいんじゃない? と冗談をかましてきたので手加減なくぶん殴ってやった。


 朝は私の方が早かった。あとから教室に入ってくる篤を見ると、勝手に頬が緩んだ。

 クラスではあまり話さない。照れくさくて。

 代わりに帰りは一緒に駅まで歩いた。篤は自転車を押してゆっくり歩いてくれた。それでも駅まではあっという間だった。

「また明日」

 バイバイ、と手を振る日々がどれだけ貴重な時間だったのだろう。卒業式を終えた今となっては二度と戻ってこない、明日会えることが保証された日々――。



 私は篤が好きだ。今私の隣にいる、篤。

 涙が星空を滲ませた。

 たくさんの思い出が今の私を形作ってくれた。あなたが私の背中を押してくれた。これから私が進む道は、あなたが応援してくれたから進もうって思えた道なんだよ。


「別れよう」


 ……だと思った。

「もし良かったら、理由を教えてくれる?」

「僕は……君の枷になりたくない」

 後半は嗚咽交じりで、篤の声は裏返ってしまっていた。

 優は留学が決まっていた。四月からアメリカに渡り、語学学校に通う。九月からは晴れて大学生だ。

 気づいていた。私は一人で歩いて行ける。だから彼は私を綺麗に送り出そうとしている。大人ぶってカッコつけて、私が憂いなく渡米できるように別れたいなどと世迷い言を吐いている。

 枷だなんて勝手に決めないで。別れなくてもいいじゃん。遠距離でも大丈夫だよ。長期休みには帰ってくるよ。スカイプ使えばビデオ通話もできる。アメリカにも遊びにおいでよ、泊めてあげる。

 だが、優の語る言葉やすがる気持ちを封じ込めたのは彼の横顔だった。

 篤がどれだけの想いを込めて告白したのか。世迷い言ではない。伝わってきたのは覚悟と、そしてがむしゃらな想いだった。

「……一年と十日。あなたの彼女で幸せでした」

 篤の表情が崩れた。篤は堰を切った顔を両腕で覆い隠す。

 お願い、隠さないで。もっと顔見てたいよ。次々と脳裏に浮かびあがるのは篤の笑顔、声、そして思い出だ。

「今までありがとう。好き」

 篤の手に触れた。何度も繋いだ篤の手だ。

 篤はゆっくりと腕をほどいた。ありがとう、顔を見せてくれて。優はくしゃっとしたいつもの笑顔を作った。どうせだったら最後は泣き顔じゃなくて笑顔がいい。

 優の両手が大好きな人の頬を包む。

 そして二人は最後の口づけをした。


 来た時と同じように携帯電話のライトで足元を照らす篤。後ろを優が続く。二人縦に並んで歩いている。

 二人はもう手を繋いでいない。恋人ではなくなったからだ。

 ただ、

「いいでしょこれくらい。それに夜道はぐれたらどうするの」

 優は、篤の服の袖口をつまんでいた。

 一人で歩ける。だが、あと少しの間だけでも二人で歩いていたかった。

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