第5話 星に願いを

Episode:05-01 夏のはじまり

 季節の変わり目でぐずぐずしていた日々が、唐突に開け、夏が訪れたかのような朝だった。


「遅刻だ!」


 慌てて身支度をする優記をよそに、未鳥はまだ布団にくるまっている。

 強い日差しに照らされて、眩しそうに寝返りを打つ。


「未鳥っ、僕学校に行くよ。お留守番で大丈夫?」


「んー……ん」


 曖昧に返事をしたっきり、何の反応もない。

 それは、しかし体調が悪くて臥せっているわけではなく、心地よい眠りを手放したくない調子だったから、優記は安堵した。


 未鳥は不調から復帰したようだ。

 ――優記の血のおかげで。


 あの夜、リーチェは部屋を飛び出たきり広瀬家へ戻ることはなかった。

 一週間、再び二人暮らしが続いて、二人なりの『いつも通り』の日々を過ごしている。


「じゃ、行ってきます」


「ん……いってらっしゃい」


 眠たいだろうに、未鳥は頑張って言葉を声にした。

 己を送り出す声を優記は励みに思う。一人じゃない、って実感する。


「うわ」


 玄関を出て、思いのほか暑い気候に驚いて声を上げる。


 もう、夏だ。

 移ろうと、過ぎた季節を懐かしく感じた。

 あらゆる苦悩は雨雲と一緒に立ち消えたのだと思いたい。

 何の心配もないような快晴の青空を見上げて、優記はそう思う。



 青空に何ら価値を感じないように、分厚い遮光カーテンが部屋中の窓を塞いでいた。

 いずれのカーテンも埃を溜め込んで、部屋の空気を一層陰鬱にしている。


 毛足の長い絨毯に華奢な膝をついて、少女はうなだれていた。


 一糸まとわぬ裸身をさらし、信心深い教徒のように手を組み合わせている。


「チカトリーチェ・ヴィオッタ」


「はい」


「儂が何と命じたか、忘れたか」


「いいえ、決して」


「は、は、は、は」


 乾いた笑い声が空気を震わせる。

 俯く少女の頬にちいさな手が触れた。

 まだ穢れを知らぬような、ふくふくとした幸せそうなこどもの手は、しかし骨が軋むほどに彼女の頬を圧迫する。

 苦痛のうめきを飲み込んで、リーチェは唇を開く。


「ボクは諦めていません。必ずお姉さまを――未鳥様を連れ帰ってみせます。今日は経過のご報告までに……」


「そんな無益なことで儂の時間を奪うのか」


「すみません。ですが、聞いて下さい」


 ふむ、と唸り声を聞いた。

 リーチェの頬は解放され、肌の上に痛々しい赤い跡が浮かび上がる。


 顔を上げたリーチェの視界には男の子の背中があった。

 背丈はリーチェよりもずっと小さい。

 上品そうなブレザーを着た様は外国の寄宿舎に通う少年を思わせる。

 膝小僧のすぐ下に靴下留めのベルトが巻かれて、白いふくらはぎが一層強調されている。


「未鳥様は血を摂取しました」


「ほう」


 少年はリーチェを振り返りもせず、つぶやく。


「それで?」


「未鳥様の吸血習慣を定着させるには、あの環境は最適かと思います……悔しいですけど。ボクが本当なら、お姉さまに……」


「要件のみ話せ」


「……申し訳ありません。広瀬優記を《離乳食》に、未鳥様の食事を吸血へ移行させられるかと思います。ですので、現状急いで連れ戻す必要は――」


 リーチェは自分でも意識しないうちに口を閉ざしていた。

 何も守るもののない素肌が粟立つ。

 そうしてはじめて、彼の怒りに気付いた。

 今も振り向くことはなく、表情さえ窺えない。

 言葉もなく、けれど彼は確実に、憤怒していた。


「娘は親のものだ。管理下に置きたいと思うのは不可解なことかな。チカトリーチェ、事態を判断するのは君じゃない。君はただ命じられた通りに動きなさい」


「――はい」


 それだけ答えるのが精いっぱいだった。

 取り繕う言葉も反論も、喉の奥で縮こまってしまう。

 素直に返事をしたリーチェへ、ようやく男の子は振り返ってみせた。

 そこには何の感情もない。

 冷淡なまなざしが感慨なくリーチェの裸身を眺めている。


「有益な情報に免じて、今日は《三本》で済ませてあげようね」


 転じて、声は無邪気さをもって響いた。


 合図をするまでもなく、部屋へトレイを持った侍女が入室する。

 黒いドレスに掛けているのは同じく黒のエプロンだ。

 木製のトレイの上に銀色に輝くナイフが三本並んでいる。


 リーチェの膝の前にそっとトレイが運ばれた。


 侍女が去った扉から、次は老人たちが入室する。服装も肌の色も髪の色もそれぞれに異なる、多国籍な取り合わせで七人。趣はそれぞれに、例外なくフォーマルな装いをしている。

 彼らは異国語で談笑を交わしながら少女を見やる。


「みなさんお待ちかねだ、さあ」


 リーチェは白い腕をトレイへ伸ばした。

 銀のナイフを手に取って、一筋、二の腕に傷を作る。

 一本のナイフにつき一か所。

 残りは腹と太腿に。なるべく、それぞれの傷口を離して作る。


 次第に、ま白い肢体を溢れる血が伝っていく。

 官能的な眺めを紳士たちはまず楽しんで、それから少女の肌に舌を伸ばした。


 これは主の命令に応じなかった《提供者》へ下されるお決まりの罰だ。

《提供者》は定められた《受領者》以外へ血を与えることを屈辱と感じる。

 リーチェも例に漏れない。


 決まり事がある。

 ひとつ、触れていいのは舌先だけ。

 ひとつ、舐めていいのは血液だけ。


 生温かな舌が這う感触を肌に感じて、リーチェは震えた。

 それは屈辱の身震いだった。

 この血は未鳥のためだけに調整されたものなのに――

《提供者》の矜持を傷つけられてリーチェは下唇を噛む。


 あいつのせいで。

 広瀬優記。

 あいつがお姉さまを誘惑したから。


「うぅっ……くっ……」


 リーチェは奥歯をきつく噛みしめる。


 吸血鬼の紳士たちはそれぞれに譲り合いながら少女の肢体に流れる新鮮な血を味わった。己が血を奪われながら、リーチェは決意を新たにする。


 ――ぜったいに。


 ――ぜったいにぜったいにぜったいに、お姉さまに飲んでもらうんだ。


 ――ボクの血はぜんぶ、そのためにあるのだから。



「タナバタ?」


「そう」


「たー……な、ばた? みちばた、的な?」


「ちがう。七夕。お祭りやるんだって。知らない? 織姫様と彦星様の」


「しらない」


 夕食のナポリタンソースをほっぺにつけて、未鳥は小さく首を横に振った。


「知らないのか。えーっと……」


 そうかもしれないな、という予感はあった。

 未鳥は学校へ通った経験がないという話だし、勉強してきた知識も偏っているのかもしれない。複雑な家庭で育ったらしいから――。


 優記も改めて説明するために頭の中を探ってみて、あんまりよく知らないことに気が付いた。なんだっけ。織姫と彦星、って、遠距離恋愛の話だよね。なんでそもそも遠距離になっちゃったんだっけ――。


 結局かいつまんで説明すると「離れ離れの恋人が一年に一度会えるから、それにちなんでお祝いをするんだよ」という、わかったようなわからないような内容になった。優記としてもこの認識が正しいのか不安が残る。


「へー、そっか。嬉しいだろうねえ」


 恋人二人の心境に同調して、未鳥がそっと目を閉じる。

 その隙に、優記は彼女のほっぺにティッシュを押し付けてソースをぬぐった。


「お祭りは、明日の昼からやってるんだけど、賑やかになるのは夜からだよ。……ちっちゃい頃、行かなかったんだっけ?」


「んー……そうかも。わたし、あんまり……人の多い場所に出かけなかったから」


「そっか。じゃあ、僕が案内するね。あ、返事を聞いてなかった。……お祭り、行く?」


 順番を先走ってしまって、優記は改めてたずねる。

 どうしよう、これで『行かない』って言われちゃったら……。

 ドキドキしながら回答を待つ。未鳥は首を痛めんばかりに頷いて、


「行く!!!」


 元気よく答えた。一瞬で優記の不安ははじけ飛ぶ。


「うん! 一緒に行こう」


 約束を取り付けて浮かれた気分だ。

 もう待ち遠しくて仕方がない。

 


 ――約束の休日の朝、優記を起こしたのはインターフォンのブザーだった。

 どうせまた荷物に違いない。

 いつになったら止むのか、父宛の荷物は彼の四十九日が近づいても届き続けている。


「ここに印鑑かサインを」


 寝間着姿でドアを開けた優記へ、配達員が伝票を差し出す。


「はい」


 繰り返し荷物を受け取って、優記はサインで荷物を受け取ることを覚えた。

 なんだか気恥ずかしいのだが、きっちりと苗字を記して返却する。


「ありがとうございましたーっ」


 だいぶ崩した発音でそう言って配達員は去っていく。

 受け取った荷物は拍子抜けするほどに軽く、中身が何かが気になった。

 書籍類ではないだろう。

 固定されているのか、振っても中身が動くこともない。


 優記が受け取った荷物のうち、勝手に開けたのは母親に届いた写真だけだ。

 父の荷物を見ることはなんとなく躊躇われたし、大抵が優記の興味を惹かないCDや書籍だろうと想像がついたからだ。

 大手通販サイトのロゴ入りの箱ばかりが今は部屋を圧迫している。


 新たに届いた一箱を部屋へ運び入れた頃、のたのたと小さな足音が聞こえた。


「ゆう君~?」


「あ、ごめん。起こしちゃった?」


「んーん、起きたぁ」


 寝ぼけているのか、枕を抱いたまま未鳥がやって来る。

 まだ眠たそうに目をこすって、結局眠気に負けた様子で優記の腰に寄りかかる。


「ふわあ」


 無防備な欠伸をひとつ。

 優記は笑みを漏らして未鳥の肩を支える。


「まだ寝てれば。お祭りは夜だから」


 こくんと未鳥は肯いた。

 優記もつられて眠くなってくる。

 寝室へ戻ろうと踵を返した、そのすぐ後にまたインターフォンが聞こえた。

 荷物かな。

 咄嗟に頭に浮かぶが、続いて聞こえた声が優記の推測を打ち消した。


「あーけーて。あそびに来たよ、アキラだよー」


 優記の行動は迅速だった。

 施錠し、チェーンロックを下ろす。

 それから何も聞かなかったことにして改めて部屋へ向かう。

 寝ぼけまなこの未鳥も一緒だ。


 二度寝の甘美な誘惑に存分に従がって、おひさまの差す居心地のいいお部屋で惰眠を貪る――なんて贅沢な休日だろう。

 まだ二人の温もりを残したままの布団をめくる。


 そこに玲がいた。


「やん。もっと、やさしくめくって?」


「なんで居ますか!?」


「最近暑いからって網戸だけじゃ無用心だゾ」


「それ知ってる! 不法侵入っていうんですそれ!」


 二階の窓だというのに、どこから入ったのか。

 優記は呆れを通り越していっそ感心してしまう。


 玲はタイトなジーンズとドレスシャツをまとって、布団のなかでグラビアアイドルみたいなポーズを作って優記を見上げた。

 未鳥は眠気に負けて、今の状況を意に介さず布団に潜っていく。

 それから玲の腰に抱きついて、背中に頬をすりつけた。

 抱き枕か何かだと思っている様子だ。

 安心しきってすぐさま寝息を立てる。


「あん。みぃちゃんってば甘えんぼさん♪」


「あの……用件を聞いてもいいでしょうか?」


「あー、そうそう、これこれ」


 よいしょっと。

 日曜日のお父さんのような重々しい動きで玲は布団を這い出て、ベッドの傍らに重ねられた箱を示した。抱えるほどの大きさだが、嵩はなく平べったい。


「なんです?」


「ふふーん、なんだと思うー? ドゥロロロロロロルルルルルルル~」


 焦らして、玲がベタにセルフドラムロールを奏でながらゆっくり箱を開く。


「ジャン!」


「わ」


 思わず声を上げてしまった。

 視界に飛び込むのは浅葱の色彩。

 蝶の優雅な軌跡を映し出した、それは浴衣だった。


「これ――」


「お祭りに行くんでしょ? だったらやっぱり、これっしょ」


「……いつどこで聞いたんですか、そんなこと」


「大体察しはつくよー。ジモティーだしねー」


「本当かなあ……」


 玲の盗み聞きには前例があったから、優記は素直に信じられない。

 でも、「どうよ」と広げられた浴衣の鮮やかに心を奪われ、どうでもよくなってしまった。


 きっと未鳥に似合う。ぜったい似合う。


「ねえ、未鳥、起きて。玲先生が浴衣持ってきてくれたよ」


「ふえー? なんでアキラさんが……いる、のよ……」


 ぱっちり。未鳥の目が、玲を捉えた途端にぱかっと見開いた。


「いる! なんでよ! 何の用なの!」


「んも~、さっきはお布団のなかで甘美な時間を過ごしたじゃん? 冷たくしちゃイヤ」


「知らないっ! なにそれ! 何したの!?」


「したっていうか、アタシはされた方なんだけどなあ~。情熱的なハグ……ドキドキした……」


 起きぬけから体力を使って未鳥は肩で息をする。

 なぜこいつをのさばらせておくのか、と咎めるような眼差しを優記に投げて、ようやく、それに気づいた。


「わ……きれい~」


「でしょー? 持ってきたの。みぃちゃんの浴衣だよ」


「わたしの……?」


「うん。おば様のコレクションから」


「そっか。みよさんの」


 未鳥はつぶやいて、それきり浴衣に見入っている。

 優記にはそれが少しだけ寂しそうな表情に思えた。


「あ、ちょっとホームシックになって来た? おうち帰る?」


「なっ、なってないよ! もう!」


 玲がからかうと途端にいつも通りの未鳥に立ち返る。


「未鳥、浴衣着るのってはじめて?」


「ううん、でも、着付けできない」


「そこをアキラさんにお任せだよぉ☆ さ、男子はしっしっ」


「えっ。アキラさん、着付けできたっけ?」


 ウィンクひとつで答えてみせて、玲は優記を部屋から追い出した。

 部屋を出る寸前、振り返った未鳥の表情が強張っていたのを優記は確かに見届けた。


 嗚呼――どうか無事で。

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ティアドロップ・ヴァンパイア 詠野万知子 @liculuco

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