Episode:04-04 捕食者の夜

 また、悲しい夢を見ている。


 優記は夢の中で鈍く自覚する。


 一人ぼっちになる夢だ。


 現実でも、同じことが起きたのに、まだ追体験を繰り返す。

 今度は優記を置いていくのは両親ではない。


 ちいさな、でも気の強そうな女の子。


 だけど、今はとても心細い様子で歩いて行ってしまう。

 ふわふわの髪を揺らして、優記に背を向けて、さよならも言わずに。


「……ん……」


 まだ、意識が夢の中でもがいている。

 起きなくちゃと思うのに体が布団に溶けてしまったみたいに自由がきかない。


 苦しい――、何か、胸の上に乗っている。重たい。


 ウゥウウウ――と、喉の奥でなにか転がるような、獰猛な唸り声が聞こえる。


 優記の頬を毛束の感触がくすぐった。

 犬か、なにか――動物が、家のなかまで入ってきたのだろうか。


「ウウゥウ……」


 唸り声はよく聞くと甲高く、まだ幼いような響きがあった。

 そいつは優記の体を強い力で押さえつけ、胸板に鼻頭をこすりつけて何かを探っていた。


「ウゥ――……ふっ、うぅ……ゆう、君――」


「え――?」


 その声にようやく理解する。

 未鳥だ。今、自分の胸に伸し掛かっているのは未鳥の体だ。


 泣きじゃくっているのかと思う。

 けど、違った。

 声が、喉の奥から震えて上ずっている。

 それは、力を抑えるための震えだったのだろうか。

 未鳥がわずらわしげに頭を振って、顔の前から髪を散らす。


 彼女の瞳は満月のように黄金に輝いて、優記を見た。


 捕食者の瞳。

 獰猛な猛禽類の目。


 優記は射竦められて、あの言葉を思い出す。


『ね、ゆー君。寝るときは刃物を隠しておきな。寝込みを襲われても知らないよ』


 ぞっと血の気が引いて、胸底が冷えて、だけど――


「ゆうゥゥゥ――くん……ぅぅ、ふぅっ……どこぉ……ねえ、どこ……」


 未鳥の求める声のあまりの頼り無さに、彼女への怯えを捨てて、できる限り穏やかな響きになるように努めて、未鳥を呼んだ。


「未鳥? 僕は、ここだよ」


 盲いた獣のように鼻先を胸板に押し付ける。

 顎先に、ちろり、と馴染み深い感触があった。

 未鳥の舌が首筋を撫ぜる、その感触に優記は縮こまってしまう。

 ごくりと喉が鳴った。


「どこに――隠して、るの、……ゆう君の、欲しいよぉ……」


 肌に触れる吐息はひどく熱を持っている。


「ねえ、ちょうだい。ゆう君、ちょうだい、ほしいよぉ、もう――」


 掠れた声が喉を引っかくように漏れ出て、痛ましい響きに優記まで苦しくなった。

 未鳥は涙を欲しがっている。

 今すぐ泣けばいいんだ。

 悲しいことを沢山思い出して、枯れ果てるまで泣けばいい。

 なのに、どうして。こんな状況になってまで泣けないのだろう。


「ゆう君――ゥゥゥ……ウゥ――」


 しゃくりあげるように引きつった声がぎゅっと優記の胸を鷲掴みにした。

 早く未鳥にゴハンをあげないと。

 未鳥を苦しめる餓えから解放してあげるんだ。


 涙が出ないなら、血を流せばいい。


 優記は自身の唇に歯を立てた。

 唇を挟んで前歯同士の感触が分かるくらい力をこめる。

 コリリと肉が滑った。顎が震えてうまく動かない。

 うまく表面だけに傷がつけばいいと思ったのだけど、口内にもじんわりと血の味が広がった。


「っ……」


 未鳥の様子がにわかに変わった。

 小さな鼻をひくんひくんとうごめかして、まるで血の匂いを嗅ぎ取ったみたいに、優記の唇を注視する。


 おずおずと伸びてきた舌先が極めて慎重に唇に触れた。温かい――。


 いつもとやってる事は変わらないはずなのに、優記は不思議と高揚して、まともに何も考えられなかった。

 

 未鳥が僕に触れている。

 舌なんてデリケートなものを使って、親しみをこめて、僕に触れてくれる。

 温かい吐息が、重なる心臓の音が、二人が生きているんだと強く訴えている。


「はっ、――ちゅっ」


 ぺろぺろ、と――未鳥は夢中で血を舐めた。


 舌の勢いはどんどん増して、優記の口内にまでそれは侵入する。


 肌を触れられているときには分からなかったけど、未鳥の唇は溶けてしまいそうに柔らかく、熱く、湿っている。


 優記の口内へも流れた血を余すことなく自分のものにするように、未鳥は舌を伸ばし、歯も歯茎も舐め探った。ぴちゅぴちゅと淫靡な水音をさせて、優記の口内はどこもかしこも未鳥の舌に触られてしまう。


 優記はまだファーストキスを経験したことがない。

 経験する前に、こんなに熱烈な口付けを交わしてしまって、不誠実だろうか。

 でもこれはキスじゃない。優記は思う。

 未鳥にゴハンを与えてやっただけなのだ。

 今はただ、未鳥に必要とされ、頼られることが嬉しい。


「はぁ、はぁっ……」


 小さな熱っぽい吐息を漏らし、未鳥が顔を上げる。

 理性を取り戻した瞳が僕の目を覗き込んだ。

 眉を寄せて、汗の浮かぶ肌に髪を張り付けて、戸惑う眼差しが揺れている。


「あ……ゆう君? わたし、あ――」


 優記から慌てて体を引き剥がし、状況を理解した目で未鳥は彼を見た。

 そこには後悔の念と拒絶への怯えが見て取れる。

 だから、優記は慎重に手を伸ばして、ぽん、と軽く未鳥の頭を撫でた。


 いいよ、と受け入れるように。

 怒ってないよ、と伝えるつもりで。


「未鳥。お腹は、いっぱいになった?」


「ゆう君、わたしっ……ごめんなさいっ……ごめんなさい――」


 未鳥への恐怖心も怯えも不信感も、全部溶けてしまった。

 だって今こうして顔を覆って、涙を必死にこらえる姿は、とても無力で繊細な、見た目相応の幼い少女にしか思えなかったから。


 だから優記は穏やかな気持ちで、唇につくった傷のことも忘れて、未鳥をただ撫でていた。震える小さな肩を抱き寄せて、豊かな髪に指を差し入れて、彼女が落ち着くまでそうしているつもりだった。


 ふいにドアが軋む。


 なにか、鋭く滑る金属の冷たい音が響く。


 ちょきん。しゃき――じゃきんっ。


 鳴るのは、リーチェの手元に収まる鋏だった。


 いつからそこに居たのだろう。

 それともずっと、見ていたのだろうか。

 

 リーチェは今朝と同じベビードール姿で、日本人離れした長くて白い足を惜しげもなく月明かりに照らしている。


 その足が一歩こちらへ近づいてきた。


 ひた、と素足がフローリングに密着して、一歩分二人との距離を縮める。

 片手に下げた鋏は妙に古めかしいアンティーク調の飾りがあって、少し錆びているらしい、手遊びに刃を開閉するたびにざらついた音が立つ。


「あ――」


 何故だろう、どうでもいいことなのに、優記は初めてリーチェの素手を見たと思い当たった。


「お姉さま、だめですよ。ゴハンならほら、ここにちゃぁんと用意しますからね」


 リーチェは右手を差し伸べて、手のひらの上に鋏の刃先を運んだ。

 ちょきん、と小気味良い音が聞こえる。

 ざっくりと、何か湿った布を裁つような音も一緒に。


「あ……リーチェ……!?」

 

 思わず呼んだ。

 リーチェの手のひらに傷がひらき、指をつたって血が床へと滴り落ちている。


「リーチェ? きみ、血がっ……」


「ええ、そうですよ。これはお姉さま専用のゴハンです。さ、お姉さま。そんな得体の知れないもの、拾い食いなんていけませんよ。体を壊しちゃいます。意地汚い真似はやめて、ボクを求めてください」


 未鳥はちいさな体を警戒心でいっぱいにして体を起こした。

 優記を守るように背に隠し、リーチェへ対峙する。


「……そんなの、いらないわ」


「せっかくの血が勿体ないですよ。ぜひ召し上がってください」


「いらない!」


「そうですか、残念ですねぇ……」


 リーチェはあふれ出る血を自らの口内へ注いで嚥下した。

 のけぞった白い首が艶めかしく震える。


「でも、これで理解できたでしょう、優記さん? お姉さまは吸血鬼なんです」


 自分こそが吸血鬼であるかのように口元を赤く汚し、それでも悠然と微笑んだ。

 その光景にこそ優記はぞっと怖気を感じる。


「一緒に居たら、たくさん痛い思いをしますよ」


 そんなのは構わない、と優記は思う。

 なのに、喉がからからで言葉を返せない。

 リーチェは微笑みを重ね、一歩、二人との距離を詰めた。


「もう優記さんの血の味を覚えてしまいましたね。お姉さま、涙だけで今後もずっと我慢できますか? これはあなたのための忠告なんですよ。ねえ、一緒に帰りましょう? お城へ戻れば、お姉さまはお腹いーっぱいゴハンを食べられるんですよ。ボクがいやってほど血をあげます」


 ちょきん。また、鈍い金属音が響く。


「そんなの、欲しくない」


「それで、代わりに優記さんの血で補うんでしょう?」


「ちがう! もうへいきだもの。がまんできるわ」


「でも、無理を続けてもなにもよくなりませんよ。さあ、わがままはもうお終いにしましょ?」


 血にまみれた手を伸ばし、リーチェは未鳥の頬に指先で触れた。

 そっと、赤い血の跡が白い肌を汚す。

 未鳥はそれを手の甲で拭い、衣類に強くなすりつけた。

 はっきりと拒絶を示し、強いまなざしでリーチェを見上げる。


「言ったでしょ。チカトリーチェ。あなたが嫌いよ!」


 ぴくり、と、リーチェの腕が震える。

 それを引いて、リーチェはぎゅっとベビードールの裾をつかんだ。そうして、


「うっ」


 聞こえたのは、確かに嗚咽だった。


「うっ……ううっ……ひどいです、お姉さまぁっ……」


 端正な顔をぐしゃっと歪めてリーチェはいじけた子供の顔で泣いている。

 ぎょっとして、優記は何をしてもいないのに罪悪感を抱いてしまう。

 ぐしぐしと腕でへたくそに涙をぬぐうと、リーチェは逃げるように部屋を出て行った。


「ボクだって……! ボクだって、いじわる言うお姉さまなんか、きらいですっ!」

 捨て台詞だけを残して、ぱたぱたと足音が遠ざかる。


 部屋には呆気にとられた未鳥が立ちつくし、同じく呆気にとられた優記と視線を交わした。どちらともなく、不可解そうに首をかしげる。


「えっと……」


 悪いことをした気分をお互いに共有していた。


「とりあえず、片づけようか」


 電気をつけると、床や寝具に血の跡がついているさまが明らかになった。

 床にはリーチェの、寝具には優記のものが付着している。


「ん……そうだね」


 未鳥が頷く。

 もうすっかり普段通りの調子で、でもリーチェをちょっとだけ案ずるように眉を寄せている。だが、こちらとしても必死だったのだ、と優記は弁護する気持ちで思う。

 リーチェに気おされ、必死で抗おうとしていた。

 それがまさか、あのような一言が決定打になるとは思いもよらなかったのだ。


 二人で手分けをして、濡れたタオルを用意して部屋から汚れを拭い去る。

 寝具からは完全には落ちなかったが、この時間にシーツを取り換える気力もなく、二人は重なるようにして眠りに落ちた。

 時刻はもう朝方の五時で、明日の遅刻が心配だ。


 そういえば――と、優記は気づく。


 唇の傷が治っている。

 不可解なことなのに、いまは追及する余力はなかった。

 眠気のままに目を閉じて、未鳥の暖かな体温を感じた。


 一足先に寝息を立てる未鳥の呼気を耳で追ううちに、自らもまた深い眠りに就いている。

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