第3話
いつものように学校が終わると俺は走って家に帰った。
誰かに話しかけられても足は止めない。ごめん、急ぐ、そう言って走り去る。
『繕い屋 沢口』の看板がかかったガラス戸を、音を立てないようにそっと開いた。母親はすぐに俺に気が付いたが、接客中だったため、ぎろりと睨んだだけで何も言わない。
ラッキーと心で思って、作業場に行くと、いつもの場所に例の洋傘は立てかけられていなかった。鞄を床に放って中に入ると、作業台の上に寝転んでいる細い足が見えた。
「アイラ」
名前を呼ぶと、彼女は物憂げに傘を持った手を上げて緩く横に振る。俺は黙って靴を脱ぐと作業台に上がった。そうしてアイラの横に同じように寝転んだ。
「ここって手術台みたいに寝心地がいいのか?」
俺が尋ねると彼女は弾けるように笑った。そして答える代わりにゆらりと洋傘を上に掲げてそれを開く。
ぱっと目の前が明るくなった。
白い布地に色とりどりの花が咲いていた。青い鳥も飛んでいて、いかにも楽園といった光景が広がる。
「綺麗だね」
「うん」
「この傘をさして町を歩くと、みんな振り返るの。あたしはすごい美人に見えるらしいよ。気に入ったわ」
「俺が全身全霊で繕ったんだ。当たり前だろ」
本当は、刺繍はあまり得意じゃない。しかも傘に刺繍なんてすごく苦労したんだ。気に入って貰わないと困る。
「あたしさ、明日、この傘さして学校に行くよ」
「傘をさしてか? 変な奴って思われるぞ」
「いいよ。好きに生きると決めたから。もうさぼるの、やめる」
そう言ってアイラは笑った。
俺はそうか、とだけ言って、やっぱりアイラの笑い声はミシンの音に合うなと密かに思った。
おわり
ミシンと洋傘と手術台(短編小説) 夏村響 @nh3987y6
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