第5話


どれだけの時間が経ったのでしょう。


廊下の向こうから看護師がジズのもとへやってきました。


「ジズ、お祖父さんが待っているわ。会ってあげて」


優しげな看護師の言葉にジズはソファーから立ち上がります。


「もう、大丈夫なのね? お祖父ちゃんは元気になったのよね?」


ジズは訊かずにはいられませんでした。


「……会ってあげて」


その答えを聞いてジズは理解しました。


今がお祖父さんに会える最後の時だと。


ジズは泣きそうな気持ちを堪えながら、母が託してくれた花をぎゅっと抱きしめました。


もしこれが最後なのだとしたら、お祖父さんに本当の花を届けなければなりません。

大好きなお祖父さんに、母の本当の気持ちが込められた本当の花を、届けなければならないのです。


その一心で、ジズは零れ落ちそうになる涙をぐっと押し戻したのです。



「……お祖父ちゃん、ジズよ。起きているかしら?」


ジズは努めて普段通りに声を掛けながら病室のドアを開けました。


「ああ……ジズかい。こっちへおいで」


お祖父さんは手招きをするように腕を少し持ち上げましたが、結局そのままぱたりとベッドの上に横たえました。


こちらを向いた顔から伸びた管が痛々しくて――そしてその微笑みがそのまま消えていってしまいそうなほど透明で、ジズは奥歯がみしりと呻くほど食いしばり、そうしてやっと微笑み返すことができました。


「お見舞いに来てくれたんだね、ありがとう」

「そんな、いつも来ているのに今日だけお礼を言うなんておかしいわ……」

 

ジズはなんとか笑い飛ばそうとしましたが、語尾が震えてしまうのを隠しきれませんでした。


「そうかい? けれど言っておきたくなったんだよ」

 

お祖父さんはまるで全てを受け入れる準備ができているとでもいうようにどこまでも穏やかな口調で、それがジズをどうしようもなく悲しくさせました。


「本当はお母さんも一緒に来るはずだったの。けれどお仕事が長引いてしまって。もう少し待っていれば来ると思うわ」


ジズはベッドの脇のスツールに腰掛けると、優しくお祖父さんの手を取りました。その手は力なくひんやりとしていて、ジズはそれを温めるように自分の手で包み込みました。


「……いや、いいのさ。無理に来てくれなくたって。あの子はわたしを愛してなどいないのだから」

「――違うわ! お母さんはお祖父さんを愛したいって思っているのよ。今までずっと、そう思っていたのよ!」


寂しげに言葉を吐き出すお祖父さんに、ジズは花の包みを差し出しました。


「お母さんは言っていたわ。昔、この花を贈ったらお祖父ちゃんは喜んでくれたって。その時みたいにまた喜んで欲しくて――仲直りしたくて、この花をお見舞いに選んだって。お祖父ちゃんだってその時のことを覚えているのでしょう? この前わたしに話してくれた好きな花の話しは、お母さんが贈ってくれた花のことなんでしょう? なのに、どうして嫌いだなんて言ったの?」


ジズはお祖父さんを責めるつもりなどありませんでしたが、言葉が口を突いて出てくるのを抑えることができませんでした。


お祖父さんが母のことを誤解したままどこかへ行ってしまいそうで、そう思ったら居ても立ってもいられない気持ちになったのです。


お祖父さんは驚いたように目を瞠りました。


「あの子が、そんなことを言ったのかい……?」


お祖父さんは信じられないといったふうに深く息を吐き出しました。


「そうよ」


答えながらジズは母の手紙の存在を思い出しました。


「お母さんからの手紙を預かっているの。これに書いてあるのが素直な気持ちだって、お母さんは言っていたわ。読んでくれる?」


お祖父さんは逡巡するように喉を二、三上下させると、微かに頷きました。


「……自分で読みたいのはやまやまなのだけれど、目が少し霞んでいるんだ。ジズ、読んで聞かせてくれないかい?」


ジズは静かに頷くと、どこかたどたどしく、けれど真心を込めて手紙を読み上げました。少しでも母の本当の気持ちが届くように、真摯に。


その間お祖父さんは目を閉じて耳を傾けていました。




ジズが母の手紙を読み終えた後も、しばらくお祖父さんは黙ったまま目を閉じていました。


起きているのか不安に思ったジズが呼びかけるとようやく、つ、とお祖父さんは目を開けました。


「……ジズ。わたしはね、あの子がわたしのことを恨んでいると、そう思っていたんだよ。ずっと、ずっとね」


お祖父さんはゆっくりと口を開きました。その顔は懺悔をするように苦しげでした。


「昔からあの子には嫌な思いをさせてきた。母親がいなくなってわたし一人で育ててきて、どれだけの不自由を強いてしまったのだろうと、ずっと後悔してきた。けれど、だからこそあの子には幸せになってほしかった……わたしには、それが叶えられなかったから」


だから、とお祖父さんは苦しそうに深呼吸をすると、言葉を継ぎます。


「だから、あの子が結婚すると言ってきた時、それが不安要素を多く孕んでいると知った時、わたしは賛成することができなかった――祝福してやれなかった。あの子が不幸になるんじゃないかと、気が気じゃなかったんだよ。今となってはそれが間違っていたと思っている。わたしはあの子の幸せを願う余りに、わたしが思う幸せをあの子に押し付けていたんだってね」


お祖父さんは疲れたように呼吸を繰り返しました。ジズはテーブルに置かれた水差しからコップに水を注いでお祖父さんの口許へ持っていきました。


「ありがとう、ジズ」


お祖父さんは唇を湿らせると、再び話し始めました。溜め込んだものを今ここで吐き出し切ってしまおうとでも言うように。


「だからあの子がわたしを恨むのは当然だ。あの子がこのまがいものの花を持ってきた時も、今となっては昔のあの気持ちもまがいものになってしまった、と言われているようで。それが苦しくてつい辛い言葉を言ってしまった」


ベッド脇のテーブルに置かれた花瓶とその横の花の包みをジズとお祖父さんは見つめました。それらはジズの目には変わらず美しく映ったのです。


「ねえ、お祖父ちゃん。わたし思ったのよ。もう本当の花はどこにもなくて、まがいものの花しかなくなったとしても。そこに込められる本当の気持ちは、ずぅっと変わらずにあるんだって。このまがいものの花たちだってそう。わたしには本当の花よりもずっと、本物のように綺麗に見えるわ」


ジズの言葉に、お祖父さんの目尻に光る雫が浮かびました。そしてジズはそれを優しく拭ってあげました。


「ジズの言う通りだよ…………ねぇ、ジズ。想いさえ込もっていれば、たとえ枯れてしまっていても、それは本当の花だと言えるのかな?」


「……? ええ、そう思うわ。けれどどうして?」


戸惑うジズにお祖父さんは照れたように笑いました。


「昔あの子からもらった花をね、わたしはすぐ枯らしてしまったんだ。花の世話なんてしたことがなかったからね。でもその時は慌ててしまって、せっかくもらった花をこのまま全部ダメにしてしまわないよう、押花を作ったんだよ。半ば枯れてしまっていたから見栄えが悪くて、ずっと隠してきたんだけれど。今も引き出しの中の本に挟んであるんだ。出してくれるかい?」


言われた通りジズはベッドの脇の引き出しから古びた本を引っ張り出しました。


そっと開くと、そこには確かにくすんだ色の押花の栞が挟まっていました。

しかし、たとえくすんでいても、不器用なお祖父さんが母の気持ちを大事に受け取っていたからこそ作られたものだと思うと、不思議と綺麗なもののように見える気がしました。


「ジズ、よかったらそれをあの子に渡してくれないか?」

「いいえ、わたしじゃなく、お祖父ちゃんが直接渡すべきよ。そうすればお母さんだってきっと――」

「ごめんね、ジズ。話し過ぎて疲れてしまった。少し眠らせておくれ。その押花の栞はジズに預けたからね……」


そう言いながらお祖父さんは既に目を閉じていました。


「わかったわ。この押花は預かる。でもお祖父ちゃんが眠っている間だけよ。今度起きたら自分で渡さなきゃダメよ……」


涙で滲んだ言葉を吐き出すと、ジズはくしゃくしゃの顔をお祖父さんのお腹の上に埋めました。


自分で言いながら、ジズはお祖父さんがきっともう目を覚まさないだろうとわかってしまったのです。


そしてお祖父さんの上に突っ伏したまま、ジズはしばらく泣き続けました。



ジズの母は、病室の扉の前で一度足を止めました。病院から電話があり、お祖父さんの容態が悪いことは既に聞いていました。


それでも、とジズの母は意を決して病室の扉を開き、足を踏み入れました。


部屋の窓は微かに開いていて、そこから夕暮れの風と陽射しが差し込んでいました。それらは人工太陽と送風機のものだとわかっていても、はっと息を呑むような光景だったのです。


そしてベットの上では静かに眠るお祖父さんと、泣き疲れたのか同じように眠ってしまっているジズの姿がありました。


ただ、寝息をたてて眠るジズと違って、お祖父さんはどこまでも静かに、静かに眠っていたのです。


ジズの母は二人の元へそっと近づいていきます。


ふと、ジズの手に見慣れないものを見つけ、ジズの母はそれを手に取りました。


「これは……押花?」


押花のようなそれは見るからに枯れていて、お世辞にもいい出来とは言えませんでした。けれど、


「この花は……」


ジズの母はベッド脇のテーブルの上の花と見比べます。形は紛れもなく同じ花でしたが、人工植物は枯れることを知りません。


「あの時の花、なのね」


ポツリ、とジズの母は呟きました。その言葉と一緒に涙の雫が、冷たい病室の床に零れ落ちました。


「こんな……枯れた花を大事にとっておくなんて……不器用にも程があるわ……」


声を震わせながら、ジズの母はお祖父さんの冷たくなった手を取りました。


「……今まで、言えなくてごめんなさい。でも、ようやくあの時の――本当の花を贈った時の気持ちを思い出したの」


だから、言うわね。


わたしは、あなたに愛されて幸せだった。


その声はほとんど涙に埋もれてしまって、聞こえないくらいでした。


けれど、言葉にならなくとも、その気持ちはきっと伝わっているはずでした。


ジズの母がぎゅっと握りしめていたのは――お祖父さんがずっと大事にしてきたものは、白いアザレアの、押花の栞だったのですから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

本当の花 悠木りん @rin-yuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ