第3話 罠
父は項垂れたままもうこちらを見ることはなかった。
父の上司は、優しく、それでいて離してくれないんだろうなと思わせる強さで私の腕を引いていった。
通行人から引いた腕を隠すようにして。
私は何とかして逃れる方法がないか、目だけをキョロキョロさせて辺りをうかがった。
もう少し父から離れたところで、大声を出そう。そして、その腕から逃れたら別の道から大通りに出て、人の多いところを通って逃げよう。追ってきたら交番に駆け込もう。駅前に、あと、ここから5分ほど離れたところにもあったはず。
私はひたすら頭を回転させた。こうなったらどうしよう、この場合はどうすればと。その間にも心臓が異常なほどドクドク鳴っている。
ラブホ街を実際に通るのは初めてだったし、この異常事態で全身が恐怖に侵されていた。
「お父さんはね、会社にいられなくなるようなことをしたんだよ。私の一声で辞めることになるだろう。」
急だった。
一言も喋らずに私の腕を引くこの人が、声を出したのは。
「家族もバラバラになっちゃうかもしれないね。君のお母さんはお父さんのこと信用しているだろうから。」
知られてはいけないことを知られた時のような感覚がした。焦りと同時に血の気が引くあの感覚。
「詳しくは中で話そうね。あゆみちゃんは被害者だ。」
私は被害者。
しかし、真に逃げられないのは私ではなく、父なのだろう。
私は逃げても、私自身には直接問題は起こらない。
父は、何をしたというのか。
今度は細い路地に入ってすぐ。
大きくて綺麗なホテルが建っていた。
まるでビジネスホテルのよう。
入り口を抜け、中でパネルを操作して出てきたカードキーを受けとると、また私の腕を引いて、エレベーターの前まで進んだ。
開くのボタンが押されるとエレベーターの扉は迎え入れるように開き、一歩踏み出すと、さっきまでいたパネルの辺りでカップルらしい声が聞こえて驚いた。 なぜか進んでエレベーターへ乗り込んだ。身を隠すように。
やがて私とこの人を吐き出すようにエレベーターの扉は開き、従うように降りた。
目的の部屋にたどり着くと、カードキーをスライドさせ、ロックが外れる音がしてから、ドアは開かれた。
広めで綺麗な部屋。
修学旅行でもこんな綺麗な部屋には泊まらないだろう。
大きなベッドが存在感を放っているところを見ると、やっぱりラブホなんだと実感した。
「何か飲むかい?………水とお茶ならすぐに飲めるみたいだ。」
「…………じゃあお茶を。」
「はい、どうぞ。どこか腰かけて。」
「………。」
私はドア側の一人掛けソファに座り、丸テーブルに置かれたペットボトルのお茶をただ見つめていた。
あの人は背広を脱いでハンガーにかけ、ベッドに腰かけた。
「…お父さんは不倫してたんだよ。同じ会社の子と。」
「…!」
「その子は私の姪っ子でね、妊娠しちゃって。お父さんとの間に。お父さんはおろしてほしいと言ったみたいなんだけど、裏切られたと思ったその子が、なら妊娠させたことを奥さんに家族に認めさせてと条件を出したんだ。でもそれも渋られて、お父さんの上司で叔父である私に相談があったんだ。
お父さんを辞めさせてって。」
「で、でも不倫だって向こうも理解して…。」
「その子はゴムをつけてほしいと言ったのに、お父さんはつけなかったそうだ。それまではずっと避妊を欠かさなかったのに。記憶が曖昧になるほどに酔ってたんだって。妊娠はお父さんの過失なんだよ。」
「……。」
「相談があってから、お父さんにも直接聞いたよ。お父さんは家族をとった。でも、不倫したことや、妊娠させたことを奥さんに言ったら離婚になるし、産ませても認知や養育費を払うことは、いずれバレてしまうことだって。不倫の噂を流されたらもういられないし、突然職を失って家族を路頭に迷わせることも出来ない。まさに八方塞がりだね。
私はお父さんの仕事ぶりを評価しているから辞めてほしくない。お父さんが辞めることは私にも損害がある。
だから提案したんだ。その子へ。
受けた苦しみと同じだけ苦しませられたら、忘れてくれるか、と。」
「……なんで私………。」
「おろしたという事実は消えない。裏切る苦しみと、そのことで憎まれる苦しみをずっと覚えさせられるなら、と返ってきたんだ。
だから裏切る相手はお父さんに近い人で
考えた。まず奥さん。……でも奥さんは割りきれるタイプの人だと思ったんだ。そうだな…裏切られて離婚して落ち込んでも、いつかはそれを封じて前向きに生きていきそうなタイプって感じかな。いつまでもくよくよしない。妹のあすかちゃんはちょっと幼すぎる。最後にあゆみちゃん。」
「………。」
「あゆみちゃんは賢い。そして、その子と年が近い。だから、同じ手を使えると思ったんだよ。」
ぞわりと鳥肌が立った。
この人は悪魔か、それと似た何かかと思った。
私はきっと、この人の思惑通りに動くだろう。
この人の希望とは関係なく。
「この計画をお父さんに話したら真っ青な顔でそれは止めて欲しいって言われたよ。大事な娘です、って。でもそれはその子の両親にとっても同じことだ。次の仕事が決まったら辞めますとも言ったが、お父さんには昇進の話が出ていてね、昇進すれば今よりずっと給料が増えるし、人を育てる立場だから、簡単に辞められると困ると伝えたんだ。答えまで数日待ったよ。」
父は嵌められたのかもしれない。
でも、これから起こるであろうことは、きっと一生許せない。
「避妊はちゃんとするからね。」
私にとってその一言は、なんの救いにもならなかった。
結局、私の気持ちはすべて無視され、この人の手の上で踊らされるのだ。
「あゆみちゃんは賢いから。」
まるで呪いのように私を縛る。
私以上の適任がいないこと、父は家族をとったように見えて、家族という形と、母をとったということ、この人が父の上司であること、全部今更。
むしろこの人は若い女の子とそういうことをしたかっただけなんじゃないかという邪推すら、すでに意味がなかった。
この悲劇への父のエスコートが完璧だったことは、忘れないだろう。
そして私はお風呂に促された。
ふかふかのベッドに押し倒された時、初めて涙が出た。
夢と現実の狭間で なむなむ @nam81
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