第2話 それは唐突に
私はごくごく平凡な家庭の長女として産まれ落ち、よくチラシで見かけるようなありきたりな間取りの3LDKの白いマンションで育った。
父はサラリーマン、母は週5でパン屋のパートをこなしている。
帰りの遅い日が多い父だったが、母は17時には家に帰ってくるため、高校にあがるまで晩ご飯は妹を混ぜた3人で食べていた。朝は4人揃って。
これが当たり前で、不満といえば欲しいゲームはおめでたい日じゃない限り買ってもらえない、ということくらい。あとは父が忙しすぎて休日も全然構ってくれないことぐらいだ。
同じマンションに同学年の友達がいて、小・中学校は当たり前のように近所の公園にみんなで集まり、遊んで、喋った。
なんとなく、みんな私と一緒なんだと思った。
中学生になりそれぞれ部活に所属すると、会うメンツは減ったが、誰かしら仕入れた話で仲間の近状を知るようになる。
2組のりえちゃんは3組のともきくんと付き合ってるらしいよ。それ聞いたよ。私2人が手を繋いでるとこ見ちゃった。でもともきくんって、5組のかおりちゃんが好きなんじゃなかったの?りえちゃんが告ったらしいよ。まありえちゃん可愛いもんね。でもともきくんの前はしゅうくんみたいな人タイプって言ってたけど。あーそれね、しゅうくんがりえちゃん嫌いなの、りえちゃんが聞いちゃったらしいよ。それでやめたんだって。へえー。
中学生は多感な時期だ。
部活がキツい話、担任がムカつく話、そして恋愛の話。
なんてことはない授業の話から、いつの間にか滑らかに恋愛の話に切り替わる。それが女の子の会話だった。
私は他の子の話を聞いていることが多かったけれど、時折同じ部活の可愛いけど性格の悪い女の子のゆみかの話をした。
部活中に他の女の子に当たり散らしていた話や、男子バスケ部の吉原先輩が気になっていることなど。私にとって彼女は実に話題に富んだ子だった。
私にも好きな男の子はいた。
でも、ここで言ったら完全に話題として広められてしまうだろう。私はそこだけは賢かった。
中学校から家までは歩いて20分。
白いマンションは、通学路から見ると他のマンションに埋もれるように建っている。
特に道路を挟んで隣に建つ焦げ茶色のマンションは立派で、木が植えられていた。ここはともきくんと付き合い出したりえちゃんが住んでいる。
白いマンションのエントランスを抜けて、いつも通り真っ直ぐにエレベーターを目指す。エレベーターの隣の小さな部屋には、いつも管理人さんがいる。小さなおじいさんだ。今日も開いているのか閉じているのか分からないほど細い目で新聞を眺めている。上の目蓋と下の目蓋に押し潰されているような目だ、と思う。
ほとんど話したことはないが、口調がゆっくりしているのが印象的で、そこには優しさがあった。
開いたエレベータに乗り込み、6のボタンを押し、次に閉めるボタンを押す。他の人と一緒に乗りたくなくて、いつも急いでボタンを2つ押す。ゆっくり昇降するエレベーターがどこにも停まらずに目的の階に着くとほっとした。
自分の家の扉に向かってずんずん進むと、隣を1つ飛ばした奥の扉が急に開いた。
そこは高橋家で、父の上司の一家が住んでいると小学校高学年の時に父から伝えられた。
『妹と同い年のこうせいくんと、あゆみの2つ上のひなたくんだ、仲良くするんだぞ。』その言葉は父がいつもの調子で放った言葉ではなく、念押しなのだと感じたのを覚えている。
ジャージ姿でスニーカーをトントンさせている男の子は兄のひなたくん。
サッカー部レギュラーで、かっこいいとモテモテのひなたくんだ。普段無口で部活熱心。そこがクールでストイックと言われているが、確かにそうだと思う。
高橋家が引っ越してきたのは、私が6年生になる年の3月で、向こうは中学生になるという年。このくらいの年齢で初めましてだと、ほとんど接点もなく、お互い顔を合わせても会話するだけの共通の話題がなかった。
だからこの瞬間も、私はただひなたくんをちょっと眺めた後、通学鞄から鍵を探して、キーホルダーごと引っ張り出し、鍵穴に鍵を挿した。
ドアノブに手をかけ、扉を開く前にまたちらりと盗み見る。
ひなたくんはトントンが終わると振り替えって室内に向かって行ってくると一言。
すると、微かな足音と、扉を少し押して顔を出し「ああ、気を付けていってらっしゃい。」と大人の太い声。
セットされた髪型の、父より高い身長を少し丸めてひなたくんを見送るその姿。
たまに見かける姿は、いつも清潔感があって、これが父の上司かと、見かける度に思うのだった。
「やあ、あゆみちゃん、こんばんは。」
「…こんばんは。」
「部活、頑張ってるんだね。何か困ったことがあったらおじさんでもひなたでもいいから、相談してね。」
「あっ、はい、ありがとうございます。」
私は居たたまれなくなって、その後、お辞儀をしてからすぐに中へ入った。
ただいまと声をかけたら、いつも通り母がおかえりなさいと返してくれ、安心を取り戻す。
私にとってひなたくんはかっこいいけど、その父親は怖い人という印象だった。
実の父がへこへこしているのを何度か見ている私にとって、『上司という存在』は、そこまで敬うべきものなのか、大人って大変だなと、何度か思ったものだ。
やがて春が来ると、ひなたくんは県内の進学校に進学した。
私の中学校生活は良くも悪くも平凡に幕を閉じた。部活は3年間頑張り、塾に通って勉強もなんとかついていった。
受験に力を入れる期間こそピリピリして親にあたるようなこともあったが、第一志望の県内の女子高に受かると、あとは残った時間を友達との思い出作りに費やし、私に好きな人がいることは隠したまま、卒業証書を受け取った。
4月のまだ寒い時期に高校の入学式は執り行われ、私は袖を通した真新しい制服の可愛さにときめく。これから毎日着られるのだ。
同じ階の、自宅から電車通学のひなたくんは高校生になってからあか抜けてますますかっこよくなり、2年生にもなると落ち着いたデザインの制服がよく似合うようになっていた。
高校でもサッカー部に入っているようで、帰りは遅いが、健全さがあって私の中では安定の好感度を保っている。
時たまに見かけては喜びを感じていた期間は、今思えば一番幸せだったのかもしれない。
絶望は急にやって来る。
風に涼しさを感じられるようになった頃。
特別勉強を頑張ったわけではなかったが、テストで良い結果を残すことができた。
そのことで父が、お祝いとして、普段行かないようなレストランでディナーをしようと誘ってくれた。
母と妹には内緒でとにこにこ言うので、私もなんだか嬉しくなり、素直に頷いた。
当時の父のスケジュール的に平日しか行けなかったため、もしもちょっと残業になったら帰りが遅くなっちゃうから制服じゃなく、着替えておいでと言われ、 それに従った。なんの疑問も持たずに。
高級そうなレストランをイメージして、ちょっとだけ大人っぽい格好にした。これでも当時は精一杯のおめかしだったと思う。
駅で待ち合わせて、父は仕事が時間通りに終わったよと笑顔でやってきた。
そこから5分ほど歩いた先のホテルにレストランは入っていた。一泊何万するのだろうかと考えていると料理が運ばれて、どれも美味しかったが、その場所に緊張しすぎてあまり味わえなかった気がする。
1時間半ほどレストランで食事をし、父はもう一ヶ所行くところがあるんだ、と言い、私も一緒にそこへ向かうことになった。
駅から遠ざかるように進み、やがて見たことのある姿を見つける。その間に父とはほとんど喋らなかった。
父はその人物の近くまで行くと、部長、と一声。
そのときの父の顔が思いもよらぬほど蒼白だったのを覚えている。
何かさっきの料理でアレルギーでも出たんだろうかと心配したが、急に腕を捕まれて、じゃあおじさんと行こうか、と声をかけられ、今度は私が冷や汗をかいた。
心臓が痛いほど鳴っている。
「お父さんは!」
「………………………ごめんな。」
「…心配要らないよ。終わったらちゃんとおうちに帰れるから。」
「………。」
「あゆみごめん。………ここでは話せないんだ……。」
「…どういうこと!?」
「ごめん………ごめんよ……ほんとにすまない…………ほんとに………。」
私は精一杯時間稼ぎをした。
しかし、父に泣いて謝られたのが、諦めに繋がった。
もう、この状況を変えることは出来ないんだ。
道を曲がるとそこはラブホ街。
私は唐突に陥れられた。
実の父の手によって。
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