夢と現実の狭間で

なむなむ

第1話 逃げる

私は逃げていた。

にたにたと顔の筋肉が伸びきったような笑顔を見せる、その顔から。その人から。

私は最初こそ顔に出さないように平常を装っていたが、それはやがて修復することが不可能なほどに崩れていった。


私は恐怖で体が固まってしまう前に走り出した。もう足は止まらなかった。

私が走ると、その顔は追いかけてきた。もちろん体と一緒に。


逃げて逃げて、やがてどこを走っているかも分からない場所にたどり着く。

それでも足を止めるわけにはいかなかった。

少し離れた背後で私の腕を、足を、はたまた髪の毛か服か、とにかく一部でも捕まえようと追いかけて来ているのだから。


誰か助けて。


吐息だけが走るリズムに合わせて漏れる。



誰か、誰か。

しかし、誰とも擦れ違わない。


辺りは星も月も見えないほど真っ暗だった。

転んだら最後。

捕まえられて、ずるずる引きずられて、ボロボロにされるのだ。

身包み剥がされて、余すところなくその手に汚され、鳥肌さえも喜こんで撫でられる。

汚れは落ちず、どんなに擦っても纏わりついて離れない。呪いのように私を縛ってそして下品に笑っているのだ。




ここはどこ。



誰か助けて。




あの人から逃げられるなら、何でもするから。




走るスピードが落ちてきた。

息が段々と苦しくなって、前が霞んで見える。

足が重い。

風を切るように振っている腕も重い。

全身が私にブレーキを掛けている。



このままでは駄目だ。

逃げた意味がない。嫌だ嫌だ。




頭は混乱し、走る以外の別の行動に移すことができなかった。

あの不快な手が近い。怖い。










「あーゆーみー」









男の声がした瞬間、恐怖が最高潮に達した。



冷や汗が全身から吹き出て、吐き気と、絶望が急速に迫ってくる。


振り返ったら、それこそもうおしまいな気がした。この目に姿の一部でも映ってしまったら、私は絶望を認めて諦めてしまうだろう。

それでも捕まれそうなほど近くまで距離を詰められてしまった。




なんでもいい。

これから逃げられるなら、構わない。










すると視界の先に光が生まれた。





薄く弱い光は瞬く間に強くなり、私を覆うように広がっていく。




光だ!


あと少し。



重い足は止まらなかった。

光はどんどん強くなる。





やがて私は光に包まれた。











目を見開くと、飛び込んできたのは白い景色。





慌てて体を起こす。

すると、くしゃっと雑に丸まった見慣れない掛け布団と、真っ白なシーツが映った。



ここはどこ。



「あ、起きた?……無理させちゃったね。」

「…。」

「水あるよ。飲む?」






布団とシーツから視線をあげると、一人用のソファに深く腰掛けながらこちらを見る男と目が合う。


私は自分の血の気が引くのを感じた。



再び視線を下げると膝が見え、太ももが見え、やがて何も身に纏っていないことに気付く。


男は水の入ったペットボトルを持ちながら寄ってきた。反射的にビクッとしてしまうが、男はふっと息を吐くように微笑んで、でも、歩みは止まらない。


とうとう私がいるベッドまできて、同じベッドに浅く腰掛け、水を私の前に置いた。







「大丈夫?」





この男は紳士そうな人に見える。

清潔感があり、白いバスローブに違和感がない。


でも、私はこの男の名前を知らない。



やっと、私がしたことを思い出した。

それと同時に、ただただ悲しくなった。


男がそっと近づく。

ペットボトルのすぐ傍に手をついて、私に体を寄せ言った。


「泣きそうな顔されると、ちょっとくるね」と。





その時に至近距離で見た男の表情は、逃げていた、にたにたと顔の筋肉が伸びきったような笑顔をしていた。



私はペットボトルの水を一滴も飲めないまま押し倒される。




私は何から逃げていたのだろう。

夢?

現実?



でももう、どうでもいい。

私が選んだのだ。なんでもいいと。

夢を見る前も、夢の中でも。





もう、逃げられない。

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