妖狐冥界譚 ─淡く、深く、穹の蒼い─

足羽くるる

episode: SKYBLUE

「――とここまでの西部戦線の動きをさらうと、1914年9月に」

 それは三時間目の授業中のことだった。

 先ほどまで少しずつ身体の中を蝕んでいた痛覚がピークを迎え、ついに我慢の限界に達したのだ。容赦なく胃と腸の壁を抉って、今にも内側から穴が開くような痛みに身体はこれ以上我慢を許さなかった。

 心当たりはあった。紛れもなくこれは朝食の、消費期限が二週間以上過ぎたパンのせいだ。カビは付いていないし、まだまだいけると思ってつい食べてしまったがこの有様だ。


「あ、あの先生」


「なんだ柏木」

「トイレ行ってきてもいいですか」

「駄目だ」

 まじかこの先生、そんな人だとは思わなかったのに……仕方ないか、でもほんと無理なんだけど。

「なーに真に受けてるんだ、嘘に決まっている。さっさと行って戻ってきなさい」

 わははははっ!!

 クラスは笑いの渦中だが、こっちの気分はそんな雰囲気で変わるもんじゃない。腹を蝕むような痛みは現在進行形で悪化しているからだ。

 背後から笑いと好奇の目線が突き刺さる教室から抜け出し、階段の前にある男子トイレへ廊下を早足で向かう。

「ええっと……個室個室」

 授業中なので休み時間とは違い、当たり前のように人はいない。

 授業をサボってトイレに篭ったりする連中もどうやらこの時間はいないようだ。

 入ったのは、中でも一番お気に入りの入口から三番目の個室。

 なぜここを気に入っているのかというと、ほかと比べるとほんの少し小綺麗で、不思議と落ち着ける感じがあるからだ。

 便座に座った途端、少し意識が遠のいてきた。歩いていた時はそこまで辛くなかったのだが座ると一気に痛みがぶり返す。

「さっさとこの腹痛を止めなきゃな……」

 未だ続く鈍痛に終止符を打つべく、目を瞑り、痛む腹部に圧力をかける。


 出すものは出た。


 軽く嘆息をし、目を薄く開け目の前のドアを無気力に眺める。なぜか黒い煙が立ち込めているように見える。気のせいかと思って、目をしばたきもう一度目の前を見るが、ますます周りはその煙のようなもので黒く染まっていく。頰を叩いても痛いし、夢か気絶でもしてるわけでもないとわかった。……そういえば、この黒い煙のようなものは何故だか見覚えがある。


 そのうちふと少年は自身の過去を思い起こす。小学生の頃の思い出……ではないか。それぐらいのこと、なんでか胃腸炎だっけかな、いつも学校では決まったトイレの個室に閉じ篭もる癖ができた。

 いや、もっと嫌な思い出だったはずだ。だけどクラスの奴らはそんな特に悪いやつじゃないし、むしろ仲良かっただろ……あれ?


 何かがおかしい。


 そうなんだけど、僕はいっときなんでかハブられた気はする。ただ、小学生の頃なんて覚えてないのが普通だし、単なる忘れだろう。

 ただ、その中でもこの思い出だけは強烈に蘇った。とってもくだらないけど、決まったトイレの個室に閉じこもることに安心感を覚え出して、当たり前に高校に上がってさえその習慣がついてしまったような。小学校時代のその一幕が特に印象的だった。そう、なにか黒いものが現れて、僕の全身にまとわりついたのだ。そして……僕の胸に吸い込まれるようにして消えた。

 その存在も記憶もそこでぷっつり消えたし、なぜだかその先も何があったかなど、まるで覚えていない。まあ、小学生の頃の記憶なんて覚えていることすら普通にあまり無いのだがこの部分だけ部分的に強烈に記憶がある。

 しかし、あまりにも不自然だ。この記憶はここでばっさりと切れている。

 自分はこの記憶に明らかな何か、違いを感じていた。

 この記憶にある小学校の校舎は随分と新しい。在籍していた時は確かそれなりに古かったはずなのに、だ。

 なぜか記憶に違いがある。

 まるで「別人」のように……。

 ほんとうに?

 これは見ず知らずの別の人の思い出なのか? いや違う、この僕がこの人なはずだ。

 辺りに黒っぽい霧のようなものが立ち込めてきて、僕の視界は黒い闇に飲まれる。


 はっ、と意識が戻ると世界は一変していた。

 意識の移ろいの中を彷徨う世界。

 その朧げな世界の中で一人佇む自分がいる。

 ふと、鳥瞰図のような画面が視覚に重ねて入ってきた。なんと、先ほどまで自分だったはずの少年がそこにいるのだ。……不覚にも動揺した。これは自分自身のはずなのだ。なぜそこにいるのか。その存在もまた、別の意識で動いている。つまり、この人物と自分は別者だったということになる。その実態をはっきりと自覚した途端、強い拒絶の心が現れ始めた。その瞬間それとは顔つきも違う、幼い少年が映し出された。

 ――小学生の頃のもうひとりの自分だ。

 小五のあの時、比較的仲良くて相談にも乗ってくれた子がいて……。

 そうだった、僕の家がパン屋だった縁で、その子の誕生日プレゼントに自分でパンを焼いて渡したっけ。

 でも、その子は嬉しそうにはしてなかった……。


「誕生日だからって今日の私みたいなひとりだけが得なんてしたくない」


 正義感が強いのか、ひとりだけ得とかいうのが嫌で誕生日ですら嫌うその子にはバッサリ言い切られたけど「ありがとう、家族みんなで食べるから貰っておく」なんて言って結局は受け取ってくれた。


 でもその子はいじめられ始めたんだ。

 僕がどうこうとかよりも酷いいじめだった。

 その子を庇った僕に標的は変わり、やがて申し訳なさかわからないがいつの日か家のポストに手紙が届いて……


『もう学校には行かないから、これまでありがとう』


 それから僕は教室に居たくなくてトイレに篭もりはじめ、その後から保健室通いになったっけ。

 そのうち嫌になって学校行きたくなくなって、でも背徳感や行かなくなったら負けな気がして、それでも行き続けた。

 それから僕は……いじめに耐えて、耐えて、耐えきれなくなって……でも、彼女のような子を他に増やしたくはなくて。

 僕だけが辛い思いをすれば、いいんだって。せめてもの救いでトイレに篭もったり、そこからは兎に角僕は嘔吐や腹痛、いつしか遅刻早退は当たり前の毎日に。みるみる欠席も増えてしまい「前まではそんな子じゃなかった」と親にも叱られ、失望させ、期待もされなくなり、

「死にたい」

いつしかそんな言葉だらけになって、僕は……いつ、どうやって死んだのかは自分でもよくわからないけど、死にたいという思いは叶ってしまった。

 記憶はそこまで。しかしこの混濁した記憶の謎は分からない。


 どうにか飲み込めた事象は「この少年に取り憑いてしまっていた」つまり「この少年は僕ではない」。

 僕がいつの間に取り憑いたのかは「何故だか思い出した小学校時代のトイレの記憶」から察するにそのことだろう。しかし自身は大人にもなっていないでそのまま記憶があやふやになりながらも今さっき、高校生活をエンジョイしていたところまで繋がっている。

 一瞬の出来事だったがこの時すでに自分はここから離脱し、記憶の傀儡をそれまで自分の意思で動いていた肉体から抜き去り、この朧げな、不確かな世界に飛んでしまった。

 自分はなぜ死んだのか。なぜ、自分でこの生きる道を閉ざしたのか。

 こんなにも生きるということが楽しかったのならば普通に生きたかった。昔の僕は何故そんな貧弱なんだ! とは思うまであったのだが今更悔やむより仕方がない。が僕の人生はこんな道を辿りたくはなかったし、こんな結末を迎えたくはなかった、こんな筈じゃなかったのに。



『ようこそ、死者の彷徨う世界へ。二十年前に死んだ――よ』


 不意にどこからともなく声を掛けられ少年ははっとする。にわかに信じがたい狂気染みた文言とは裏腹に小さい子供の声音なのだが、どこか神秘的な雰囲気が漂う。

 死んだ、とか平気で物騒なこと呟くからには死後の世界のなんか偉い立場の……わんちゃん神説あるね。

 そんなことはどうでもよく、今聞き逃したことは聞いておかねばならない。これは○検の二次試験で僕が愛用した必殺技「パードゥン?」の出番だ。もちろん日本語バージョンで。

「あのー、今の言葉もう一度お願いしますか?」

『……ふむ、どうやらそちは恐ろしく耳が悪いのじゃな、霊体離脱した際に耳も置いてってしまったのかの』

 あー、人が聞き返したときに煽ってくるタイプだこの人。って……。

「ふぇ? 霊体離脱?」

『ちゃんと聞こえとるではないか、とぼけたつもりなのか、他人に無駄な気苦労させおって』

「端的に言えば僕の名前ですよ、あの柏木信治君じゃないんですよね??」

『そうじゃが?』

「えっとだから名前を……」

『名無しで良いのじゃ』

「は??」

『そちはもうこれ以上前の自身の過去を知るべきではない。今でこそ頭がいっぱいいっぱいであろう? 前の人生との記憶の断片とは決別すべきじゃ』


死んだ時に過去の自分を見たじゃろう、どうやってもそちはあの過去を色々と追おうとするじゃろ……これから頼むことに支障が出ては困るし。

そこまですればこの子は完全に破綻してしまう。わしはそこまで話すわけにはいかぬのだ。


『……そうじゃな、そちは十一歳まで生きた。二十年前十一で死に、六年間漂い続け、同じくしてその時十一歳の彼に憑依したところから彼の十一歳からの記憶のみならず出生以後脳が発達した頃からの記憶を抱えている。しかし周りの環境は君を柏木信治としか思っていない。憑依した当時こそ記憶がごちゃ混ぜになったが、やがて彼の記憶に寄って行き君はもう一つの過去を殆ど完全に捨てた』

「で、思い出すと僕にとって良くないと。……あの本当に、そんなあっさり?」

そんな言われると余計に知りたい気がしないでもないのだが。

『本当じゃ! もうわしはそう決めたからの』

「今からでも遅くはないですよ、方針転換」

『これと決めたことをころころ覆すのは神としての尊厳に欠けるからの』

 語尾に『~のじゃ』なんて使うのは余程の変人やキャラクター以外にいないから……神様なら、まあ有り得るような。

「というか……早く姿を現してくださいよ神様か知らないけど声だけの方……神様は目に見えない存在って噂あるけど、天国でもそれだったら引くレベル! 声だけとかただ単に不気味なだけなんですが……ひょっとしてここはそういう地獄のアトラクションだったり?」

『んなっ……! そんなわけなかろう。天国でも地獄でもないぞ、ここはれっきとした使者を迎える入り口、『冥界の門』と呼ばれる場所じゃ。……まあそちが現世にいた頃になにかとんでもないことでもやらかしていたら地獄には落ちるかもしれんがの。それと、確かにわしの姿かたちが見えず声だけとなれば不気味に思われて仕方のないことじゃがな、わしは余計な混乱を与えることを恐れ姿はそのあとに現わすことにしたと、それだけじゃ、もう意味はない……ところで、そちはもうけじめはついたのじゃな?』

「……」

ここまで一気に捲し上げた神様は肩を上下させ疲れてしまったようだ。

色々今知ることはあったけど、けじめは確かに付けないとな。

 ――僕はこのなにも高校生「柏木信治」である、そう思っていたけど実際は違った……とにかく常ではない情報を抱えた頭がパンクしそうだ。そして驚くべきことに二十年前に僕はとっくに命を落としていた。

 僕は何者なんだ――。真の名前とかあるなら聞きたいっちゃ聞きたいけど、そんなこと正直どうでもいいくらい僕自身の何をどうすればいいか、さっきまで普通に生きていた僕の目指していた「目標」は? 抱いた「夢」は?

 それは本来の「柏木信治」なる人物がきっと果たしてくれるはずだ。きっとその方がずっと良い。

 ふと目の前を見ると……声を掛けてきた正体と思われる、一人の幼い出で立ちの女の子が立っている。何故だかその見かけによらず圧倒される何かを感じる。

 これが神ってヤツか……。


「――もう良いじゃろ、だいたいは理解したかの?」

「まあ、はい……それよりあなたはいったいどういう……?」

「確かにわしの身の上もきっちり伝えなければならんの」

 ひとつため息をつき話し始めた。

「わしの名は木槿(ムクゲ)。見たらわかるそのままの神じゃ。神の中でも生と死を操る冥界神というものじゃ」

 見たらわかる……まあどう見ても確かに神様、ではなくて、神社の巫女さんみたいな格好。あとしゃべり方もなにか上品というか奥ゆかしさを感じる。見た目のちっこさと相まってインパクトが強い喋り方だ。

 というかまず言葉は喋っているものの、人間じゃない。

 その頭にちょこんと見える耳にふわっふわな尻尾。どれも綺麗な金色の毛で覆われている。

こうして見るとあっ、神様だな!と分かるのだけど……実際のところ、冥界神だという説明がある前にこのようにして出会ったわけであって、トイレが関係しているからてっきりトイレの神様かなにかかと本当に思ってしまったということは言わないでおこう。

「――先程から一つ申し上げ忘れていたのじゃが、そちの心の声はだだ漏れじゃぞ」

 そうだったよ、神様だ。人類が勝てるはずのない能力も持っているだろう。いわゆる神通力、で何でもお見通しってやつだな、気をつけねば。

「なぜこのような狐なぞが、などと心の内で申していたじゃろうから説明してやろう……もっとも、日本の場合はこうして九尾の狐が冥界に通ずる門番をし、内なる冥界へ死者の霊を招き入れるのが主なのじゃ。日本古来の呼び名で言えば冥界は『天津のクニ』となるがの」

「それじゃあここにいるのも日本人のみ、と……」

「そうなるの。もちろんのこと、よその国にも同じような役目を持つ神はおる。わしの古くからの知り合いにはめそぽたみあと言っていたじゃろうか、その地域で冥界の門番をしておる神の姉妹がおるが」

「あー何だっけメソポタミア神話の……何とかと何とかだよな……」

 それにしても、このでっかい鳥居にしろ何たらの入り口とか。どうなっているんだろう?

「で、ここの先はどうなっているんでしょうか、というかここで何してればいいんですか」

「そうじゃの、中央には神殿があるがその奥に閻魔大王がおる。皆ここで前世の行いを基に裁判にかけられ天国か地獄か行く先を決められることになるのじゃ」

想像通りだ。閻魔様はいるんだな。

「それよりここにいるということがどういうことを表すかは分かるよの」

 不意に質問が投げかけられた。

「僕は死んだ、ということですよね……流れ的に察せましたよ」

「そんなこと当たり前じゃと申すか、そちはとうの二十年前から死んでおるのじゃからな。そうでなく、死んだ者のうちここにいる者のことじゃ」

 神殿のある方向と逆の、長く続いた石段を下まで見渡すと、靄で霞んだ世界のなかにいくつかの家が立ち並び、少なからず人が暮らしているのは見て取れる。

「そこに住んでいる者はの、あの世に行きそびれた者達の集いなのじゃ。……ただ、そちの場合ちょっとばかし事情が複雑なのじゃがな。まあよい、ではこの山の麓まで行くとしよう」

 そう言うと狐の神様――ムクゲは石段へと歩き始めた。

 眼下に広がる白い霧のなかの世界の眺望と輝く黄金色のコントラストの美しさに思わず嘆息した。ムクゲの後ろ姿は白によく映えたのだ。


「あっとそういえば何ですけど」

「なんじゃ? 質問なら何でも申すが良いぞ」

「あの……なぜだかここに来る途中で信治君の様子が映ったんですけど……彼は、記憶はどうなるのか知りたくて」

「あやつのことか、心配はいらぬ。あやつの身の人生においての記憶は残されておる。ただ、そちの昔に関わる記憶のみ消去させてもろうた」

 安心してほっと胸を撫で下ろした。

「そちは優しいの。己より人のことを先に想うとはな」

 数段か下のほうで下りる足を進めるムクゲは僕をそう評する。……これは褒め言葉なのか?

「……しかし、じゃ」

 ムクゲの石段を下りる足が止まる。ムクゲに合わせて僕もその場で立ち止まった。

「その優しさゆえそち自身をも殺めた」

 その声は先ほどの気さくな調子とは打って変わり、厳しくも憂えたような。

「そちはなんとも、不幸で可哀想なやつじゃ」

「……」

 僕は口をつぐんだ。

 同情なんてされたところで今更どうしようもない。

「その無念が形となり、そのまま怨霊として現世に残ってしまった」

「おん……りょう、か……」

「そうじゃ、認めたくはないじゃろうが……これが事実であることには変わりはない」

「でもどうして、僕はこんなに長いこと僕自身の存在を忘れていたって言うんだよ! だって僕は……ッ!」

 ついかっとなってしまった……が、それがもうどうしようもないことだということに気が付き、言葉に詰まった。

『そう憤るのも無理はない。じゃがまだ話は終わっておらん。それでそち自身は強い思い入れのあったあの学び舎の、便所の個室に残ったというわけじゃ』

 今ムクゲの言ったことは僕の記憶とそう違わない。けれどまさか霊体になっても居座り続けたと、あんな場所に。まるでどっかの妖怪じゃないか僕、まるでトイレの花子さん的な? なるほどトイレの名無しさん……誰だよ0ちゃんのユーザー名か。

『――そして、そのままの姿で二十年の時が経ったある時、そちは己によく似た一人の少年を見つけた』

 つまりはそれが……。

『そうじゃ、彼の名がかの「柏木信治」』

 はっとさっきの自分だと思っていたあの少年の姿を思い浮かべた。

『彼もまた、自分の行く末に絶望を抱いておった』

 小さな神様は僕に背を向け語り始めた。

『その絶望をあの少年から感じ取ったそちは、このままではまるで自分と同じ道をたどってしまうと危惧し、少年を救うべくとっさの判断で彼の魂に憑依した』

『……そう、あの時憑依していなければ彼は屋上から飛び降りることになっていた』

 ただ、と神様は正すような口調になる。

『憑依の仕方も何もようわかっておらんそちは記憶を少年と統合してしまい、混濁してしまった記憶の中、少年の進むはずだった悲しい未来からはっきりとしないまま思いからがら救ってみせたわけなのだが』

 意図せずの行動、というわけではなく、自分の意識が働いていたことを知ると不思議と良かった、という気持ちが湧いて出てきた。しかし続きには、それによって起きた重大な事故について言及された。

『そちはあやつを救ったはいいもの、憑依の解除もわからず少年として生きることになってしもうた。そのため己の記憶はいつしか少年の意識の欠片となり、その存在を思い出すことはこれまで無かった』

『そちはこうしてそち自身の存在を封じてしまったのじゃが。ここまで来たらさすがにわかるよの』

 そして事の顛末を一気に聞かされた。朧げに思い出した記憶と合致した点も多く、十分に信憑性は高い。

『その記憶の封印はあれから二十年、あの少年に憑依してから六年の時を経た今、解かれたというわけじゃ』

 六年……長いんだか短いんだか。

 自分の死んでいた間のストーリーを話し終えた神様はその少女のような姿で振り向くと、可愛らしく微笑み冗談かましくこう言った。

「なにせ、そちは何もわからず憑依したのだから、あの少年の記憶の乖離もてこずらせたものじゃぞ」

 まったくじゃ、と呟く神様……何となくその苦労を思うと労いたくなってしまうような。

「ま、まあ、このわしの手にかかればあんなもんはなんてことないのじゃからな、ほれわし、神じゃから」

 ちょっと強情な、目の前の神様を見ていると不思議と笑いがこみ上げてくる。こんなに腹の底から笑えたこと、これまでにあったかな、と自分でも思うくらい笑った。

 自分にあった疑問、忘れていたこと。それらすべてが瓦解、氷解し、何かが吹っ切れたように感じた。

「……幼いころはよう笑う子じゃったのになぁ」

 目の前で笑う少年には聞こえぬ呟きののち、

「何かほかに聞きたいことは無かろうか? 今のでそれなりには生前の記憶だったりも少しはよみがえったことじゃろうし」

 質問……。

「あの、じゃあもう一つ質問いいですか」

 急に思いついたように神様に声を掛けた。

「質問は一回のみなどとは言っておらんぞ」

「じゃお言葉に甘えて。僕がこの世界に連れられてきたのは何故なんでしょうか」

「そち、何もわかっておらんようじゃの……まあ良い、質問に答えぬなど神として不遜なことはあるべきことではない」

 黄金色の毛皮の神様はこほん、と小さく咳をする。

「この社に来る者はすべて、現世に未練を残しておる」

「でも、それなら僕の未練はもう無くなったはずじゃないんですか」

 それならばここに来る必要はなかったに等しいだろう。

「その解決に至るまですべて自力だったとでも? 多からず少なからずわしの手が必要であったじゃろ」

「今さっきもう十分に借りたじゃないですか。だとしたらもう、僕はこの世界にいる必要は」

「そう急くでない。まだそちにはやってもらうことがあるのじゃからな』

「やってもらうこと……?」


「そう、この社には今までのそちのような人が何人も来ることになるのじゃが、わしはそのような可哀想な魂が未練を果たしてあの世に行くための手助けをしている。せめてわしがその仕事を請け負うから、そちには生ある世界で彷徨ってしまっている……いわば幽霊状態の死者の魂を説得し、無事にこちらの世界へ来れるようにするという任務を請け負ってほしい」

「僕にそんなこと出来るわけが」

「現にあの少年を救ったのはそちじゃろうが。他人の手助けをすることが寧ろそちに出来ないわけが無い」

 そう否定し切った神様は濃い霧の向こうを指差し、ある言葉を囁いた。


『汝、何者にも代えざらんことを』



 この言葉を耳にした時、ふと気づいた。何物でもない、僕は僕自身で、僕は一人しかいないという当たり前のことに。

 僕がいた世界には残してきたことがたくさんあった。……それなのに、それらを僕は置き去りにして来てしまった。

 自分がまだ生きていたら、本当にやり遂げられたのだろうか。

 ――それは自分自身と向き合わねばならない試練。

 それを逃れることは出来ない。

 その試練に真正面から向き合うには自分一人ではまるで敵わない。


 そんな時に助けとなる存在がいたらなんて心強いのだろうか。……自分はなんとかこのムクゲの手も借りながら来るべき場所まで来られた。

 そう、今度は自分が他人ひとに対し心強い助けとなるべき側なのかもしれない。




 ――まずは、わしの手助けをしてもらおう。


 かくしてこの冥界で義理でも生活、いや死活をしていくことになった僕、柏木信治ではない誰か、はまずこの訳の分からなくなった肉体(肉体年齢小学生・精神年齢は高校生で、実際年齢を合計すれば三十代ほど)に慣れようと努めている……。見た目はまあまあ若返り随分なショタで、中身は中年、頭脳は高校生とかまるで目の前のムクゲとリアルに同じような状態なのだからやれロリババアだ、なんて笑ってはいけない。ブーメラン突き刺さるから。

「……今何を考えていたのじゃ?」

「いっ、いえ何でも!」

「まあよい、他人の思うたことすべてが耳に入ってくるとなると思ったよりなかなか大変での、いらない情報は流していかねばならぬ」

「それは大変だ……」

「いちいち全部拾っていたならば、こうして一息つくことすらできんからの」

 ムクゲと僕は、神社の麓にある里の茶屋で休息をとっている。

「……というか、この世界にもこんなお店とかあったりするんですね」

「そうじゃよ、死者だって何もせんとこんなところにいられまいであろう」

 そうか、確かに死んで何もできなかったら退屈だ。

 この麓にいる人々は確かにみんな幸せそうだ、でもたぶん俺みたいに……。

「まあ、彼らは彼らなりに自らの答えをああやって探し求めているからの、あちらの日常を少しでも再現できれば思い出すきっかけはできよう」

 そうか、きっかけさえあればこの人たちは無念を残すことなく旅立つことができるというわけか。

「それで、いつもムクゲさんはここでなにをしているんでしょうか」

「ムクゲ、と呼び捨てで構わん。その固い喋り方も少しは崩せ。……そうじゃな、とくに助けを必要としている者がいなければ雑談やらにふけるのもよし、じゃ」

 なんか思ったより楽、そう……?

「いいや、彼らには少なからず現世に残した何かがあるはずじゃ、思い出の物だったり、歌であったり……皆それぞれその願いを果たしておけたほうが展開へ召されたとしても気が楽じゃろう? その思いをくみ取るのがわしの役目、これはとても大事な任務じゃ」

「彼らの思いをどうやって汲む……あっ神通力……そっか」

「うむ、わしにはその能力が生まれつき身についておるのでの、その能力を駆使して彼らの願いをかなえるのじゃ……だがな」


 そういってムクゲは口をつぐんだ。

『わしが思っていることを知ることもできると同時に、心の中を覗き見たりその者の過去、未来を知ることができる千里眼の持ち主でもあるということに気づいていたじゃろうか』

 この神様は人の願いを果たすのにそこまでの能力を持っている……少しぞくっとした。

「この能力が災いし、わしは彼らに人の心を盗み見られるのは気味が悪いと何度も避けられてきた」

「確かに心の内を覗かれて良い思いはしない」

「そちもそうじゃろう、わしも嫌な思いはさせまいと極力この能力は使わないでおるのじゃ……特段好かれる、ということに興味はないが嫌われるのも厄介でな、気味悪がった彼らは内なる願いも何もかも、わしに見られまいとだんだんと心を閉ざしやがて願いを見えなくなるまで曇らせてしまうこともあった」

「それじゃ、彼らの願いは……」

「彼ら自身で果たしてもらう、ということに他ならない。わしが手を貸すのはひとりで願いをかなえるのが難しい者であったりと、ほんとうに手助けが必要だという者のみに限った」

 それなら……悪い心地はしないな、なるほど。

「それでも僕にはムクゲのそういった能力が使えない」

「なくても構わんだろう、そちは目に見えて困っていそうな者に手を差し伸べてやれ」

 人助けに格段ムクゲのそんな能力は必要がない……まあそうだよな、何もなくても人助けはできる。

「わかりました、じゃあムクゲさんとはここで」

「では頑張るのじゃ。わしはこのあと用事があるのでな、夕べにはこの社の上で会おうかの」



 人助けをしろと言われたものの、道行く人に「困ってませんか?」なんて急に声でも掛けるにもムクゲの体験談が脳裏をよぎり、何をするでもなく散策がてら探すことにした。


 この世界の時間の流れは緩やかだ。いつまでも陽の向きが変わらないような気がするが、気のせいだろう。

「んしょっ、んしょ! ええい、くそー!」

 なかなかいないと思ったらいかにも困っていそうな女の子が!

 どうやら手紙を持つ手がポストに届いてない。

 おっとこの世界にもポストがあるんだな、こう見てると結構冥界って現世に似せてある。ムクゲってそもそも現世に行ったことがあるのか? まあこれだけ知っていたら……。

 そんなことよりも任務遂行を。あの女の子を今は助けるしかないでしょう。

「だ、大丈夫? 明らかに届いてないよ?」

「ああっ! ねえねえ君、ちょうどいいところに来た……ってことで、あのずっと見てないでちょっと手伝ってくれない?」

 こっちも助ける人がいてちょうど良かった、これはまさしくwin-winだ!

「その手紙をポストに入れたいんだね、入れてやるよ」

 僕自体現在のところ死んだときと同じ小学生のときの身長なので大してこの子と変わらない。向こうからしたら同い年くらいに見えるのだろう。こんな小さな子も死んじゃってるなんて世界は残酷だな、どの口が言うのか。

 そのちっちゃい子(身長はほぼ同じ)はそんな同情を余所に積極的に話してくる。ああ、コミュ力高い系女子だ……生きてたら高校生活とか将来も安定だったろうなぁ、なんて思っちゃう。

「まって! その前にわたしの話を聞いて」

「おう、聞くよ」

「さっきのポストに届かないのはフリで、ほんとうはめっちゃつま先立ちになれば届くもん」

 そういって女の子は手紙を持っていないほうの手で実演してみせた。それでも結構ぎりぎり、つま先立ちになった脚はめっちゃプルプルしてるし。

「じゃなんでそんなフリを?」

「……じつはねちょうど助けに来た君に、わたしの相談を聞いてもらいたいの」

 やりおるなこの子。

「この手紙のことはね、中に書いてあるのはわたしの家族のことなの、いまあっちの世界で暮らしてる」

 なるほど

「でも現世……向こうにいる家族にどうやって送るの?」

「どうやって送るのか君も気になるよね! どうなっているのかというと、このポストにとーかんした手紙はあっちの世界の家族には直接届くわけじゃないんだよ」

「だめじゃん」

「だめじゃん、じゃない! たまに山のキツネさんが集まった手紙のいくつかをほんとうに届けてくれるんだから! そのまま手紙か、何か思い出せるようなもので、って言ってた」

 よもやそんなことまで……というかほかに神様とかいないの? あといると聞いているのは閻魔大王ぐらいしか。明らかに人手、いや神手不足だよな。

「はいはーいわかりましたかぁ? でもここからが本題だからね! ちゃあんと聞いてね……」



 ーーなるほど、病気で死ぬ直前に家族に宛てて手紙を書いた、と。

「そうなんだけど……」

 といって女の子はうなだれる。

「手紙に書いたことが『どこどこに行きたい』とか無理なことばっか書いてて、その時わたしは無茶だ、ってわかってはいたけど書きたいなって思えたのがそれくらいで」

「それだけでもよかったんじゃない?」

「でも、今はね、もっとたくさん楽しかったこととか、みんなへの気持ちとか書きたかったの」

 死んだときそういうのは伝えられていなかった。僕の両親に何を書き残した記憶もないし、あの時は……。

「……どうかしたの?」

「あ、いや……考え事」

「こっちがずっと話しちゃったし君のことも聞いてあげるよ? 君もお母さんとかに手紙とか書いたの?」

「いや、あまり覚えてなくて……」

「ふーん、また思い出したら君の話聞かせてよ! ……ねえ、君の名前はなんていうの? わたしは文香!」

 自己紹介タイム始まったよってか僕、名前ないし……適当でいっか。

「……シン」

「シン君って言うんだ! いまさらだけどよろしくね!」

「よ、よろしく……」

 シンってのはぱっと思いついただけで、真の名がないからっていうことで特に意味はない。

 この女の子の願いも聞けたし、そろそろ……。

「あ、あのさ、わたしとかみたいな冥界にいる子どもたちが集まってる寺子屋、君も来てみない? 行ったことないでしょ?」

「寺子屋?」

 あれか、江戸時代にあったとかいう、そろばんとか読み書きを教える、現代の小学校みたいなアレ?

「そう! よかったらわたしの大事なもの、見せてあげるよ?」

「お、おう……じゃあ僕も行くよ」

「じゃあ私についてきて!」


 ぱっと走り出す文香ちゃんのあとを見失わないように追いかける。

 いくつか角を曲がり、裏道を抜け……。

「ここだよ!」

 そこは割とちゃんとした、アレだ。

「……普通に学校じゃん」


 がらっと教室の扉を開けるといきなり

「せんせーい! 今日あたらしい友達を連れてきましたー!!」

 わーっとこっちをみてくるのは小学生に幼稚園児、あと明らかに中高生に見える生徒もちらほらいる。みんな教室のあちこちに分散して遊んだり、談笑したりしている。

「どうしたのかな、文香ちゃん」

 そのなかでもひときわ目立ったのはこの、やさしそうに微笑むムキムキのおじさん。

 どうやらこの人が先生らしい。

「おお、あたらしい子か、いらっしゃい……ええと、名前は何君かな?」

 先生はそういうと教卓の引き出しから黒っぽい手帳を取り出した――出席簿、か。

「ええと、斎藤シンです」

「む……そんな子はいないなぁ、おかしいぞ」

 あ、これでたらめな名前じゃダメなのか、どうしよう……。

「せんせい! シン君は今日初めて来た子だから名前が載ってないんじゃないんですか?」

「そりゃそうだよ先生」

 窓際で水彩画を描いていた男の子が絵筆を止めぬままこちらに反応した。

「ま、まあ多分ミスか見落としか……冥界に来た子の名前は全部ここに書かれるはずだからありえないんだけどなあ。うむ、ここでは何をするもよし、みんなと仲良くして、迷惑を掛けなければ大丈夫。わかったかい?」

「わ、わかりました」


 とはいえ、ここに来る機会もそんなに多いものではないだろう。ムクゲはこうも言っていた。


『ーーそちには生ある世界で彷徨ってしまっている、いわば幽霊状態の死者の魂を説得し、無事にこちらの世界へ来れるようにするという任務を請け負ってほしい』


 生ある世界、つまりは現世に戻って霊の除去をしろ、ということだろうか。


 まあそれはさておき文香ちゃんが大事なものがあると招待してくれたのだから、この子の飽きるまで付き合ってあげよう。


 僕は文香ちゃんに連れられ、大事なものがあるという別の教室の前に来ていた。

 この教室はどうやら物をしまったり飾ったりしている教材室……でも壁に絵が飾ってあったりするので美術室っぽくもある。

 文香ちゃんが中に入り、僕は教室の前で文香ちゃんがその大事なものを持ってくるのを待っていた。


 と、どうやら文香ちゃんは何か――トレー? を大事そうに抱えてこちらへ来ようとしている。

「そうそう、わたしの宝物はこれなの……きゃっ!!」


 文香ちゃんは悲鳴を上げて尻もちをついた。横から廊下で追いかけっこをしている男の子たちのひとりが文香ちゃんが出てくる扉の前まで走ってきていて、間に合わず突っ込んでしまったのだ。


「大丈夫!?」

「うん……へいき」

 文香ちゃんは特にすりむいたり打撲もしてはいないよう。

「ごめんな文香姉ちゃん」

「うん、いいよ……でも次からは気をつけなさいよ!」

 男の子の文香ちゃんに対しての呼び方が気になってつい口に出てしまった。

「姉……?」

「あ、それはね……私が姉貴分でこいつが弟分ってだけ」

 義理の家族的な? それともたんに下僕的な意味か、よくわからないけどそういうのがあるんだな……。


「というかピース? がいっぱい散らばっちゃったな」

 どうやらトレーに入っていたのはジグソーパズルのピースのよう。


 さっきの男子も一緒に手伝うと言い出し、僕と文香ちゃんとその子で教室の入り口と廊下に散乱したそれらを拾い集めることになった。


「どうせだからここでジグソー完成させない?」

「なに、そうしたいのあんたは? かけっこはどうするのよ」

「ま、いっかなって思って」

「そ、じゃあこの教室でジグソーやるわよ」

 見つけがてらはめていくという弟君のアイデア通り、ピースを拾う係とはめる係に分かれてやることになった。


 僕と弟君が拾う係で、姉御文香ちゃんがはめる係。

 作業効率も良い感じでだんだんとジグソーは出来上がっていった。


「……やっぱり一ピース足りないのよね」

 完成目前にして文香ちゃんはため息をついた。


「ほんとだ……」

 一ピース分だけ白くぽっかり穴が開いている。

 やっぱり、ってことは前からこのピースがなくなっているのか?


「……俺もっと探してみるよ」

 弟君はさっき拾い集めていた場所以外も探し始めた。


 じゃあ僕も探そう。しばらく探し続けて、そうすれば文香ちゃんも弟君も、僕も満足できるし。

 僕はわりといろんなもの――消しゴムとかカードをなくす天才だったので、そういうのが隠れている場所を当てるということには慣れているほうだ。

 こういう小さいものがありそうなところ、といえば意外とえぐい場所にあったりする……例えばこのでっかい縦長の銀色の引き戸の隙間とか。

 ……ないな。

 じゃあこっちはどうだ……大きめの、奥側の二脚が板でつながっている机、その板と床の間。

 ……ここもない。

「だれか見つかった……げほげほっ! ここ埃臭っ」

 文香ちゃんは机によじ登り、戸棚の上にピースがないかを見ている――うん……そこにはないと思うな、投げ入れたりしない限り。

「俺もねえよ……なあ文香姉ちゃん、今日はもう諦めよーぜ」

「いや、探す!」

「……へい」

 姉の言うことは絶対のようだ。

 僕も本腰入れて探そう。

 こういうのは意外と床じゃなくて、机上に……

「あった」

 ひとこと僕はそう言った。

「……えっ、ほんとう!?」

「ほら、ここ」

 僕は何かいろいろな作品が載った机の一角を指さす。

 紙粘土みたいなので作ってある何かの鳥のオブジェの足元にピースは落ちていた。

「まじかよやるじゃんお前」

「本当に見つかるなんて思ってなかった……」


「……よし、じゃあこのピース、文香ちゃんがはめて」

「うん!」


 ――出来上がったのは、広い野原で楽しくピクニックをしている人たちの絵だった。

「わあ……」

 足りなかったピースは木陰に座る男の子の顔の部分だった。

「よかったな、完成出来て」

「うん、見つけてくれてありがとう」

 外を見るともうすっかり夕方で、電気をつけていない教室は暗くなっていた。早く見つけられて何より、じゃなきゃもうとことん日が暮れるまで探す羽目になっていたかもしれないな。


「お前がいなきゃ見つけなかったよ、シン」

「そうかもな、なくしたものを見つけるのはまあまあ得意だし……あれ、僕って自己紹介したっけ?」

 そういえばそうだ、この弟君に自分の名前を教えてはいなかったような。


「いや、教室にいたじゃん。俺、絵描いててさ」

 あの教室で水彩画描いてた……あぁあの子か。

「あーあれ弟君だったか! 声は似てると思ったけどさ、いや早く話してくれって……」

「おとうと言うなよ、誰もお前と兄弟になった覚えはねえ! ……んで、俺は佑太」

「佑太君か、よろしくな」

「今更よろしくなんていうなし」

 なんか機嫌悪くしたかな……?


「あのね、こいつ……佑太はね絵を描くのが好きでさ、これまでにいっぱい絵を描いているの」

 文香ちゃんは佑太君の趣味もわかっているようだ。

「じゃああれもかぁ」

「そうだけど」

 入り口から目立って見えていた大きな絵も佑太君作だったのか……すごいな。

「あのジグソーパズルもそうよ」

 さっき仕上がったジグソーを指して文香ちゃんは言った。

「あのジグソーの人たちは私の家族なの……ちょうどね、家族でピクニックに行ったことを思い出したときにね、佑太に言って描いてもらったの」

「ここはこう、とか注文がやたら多かったけどな」

「それでも気に入ったのができたからいいじゃない」

「俺が姉ちゃんの言うことに頑張って合わせたからだろ!」


 そうか、それでこれが大事なものだって言ったのか。

 真ん中でサンドウィッチをほおばる女の子――これが文香ちゃんか、野原を駆け回っている男の子がもしかすると弟さんかな? レジャーマットで寝そべる大人たちはご両親だろう。もうひとり、木陰の男の子は……だれだろう。


 一件落着したし、そろそろ僕は戻ろうかな。

 ……そうだ、ムクゲとの約束のことを完全に忘れてた。

 早くいかなきゃいけないな。


「僕は約束があってもう行かないといけないから、じゃあそろそろ……」

「待ってお兄ちゃん」

 ん……聞き間違い?

「なに、お兄ちゃん?」

「そう、シン君がお兄ちゃん」

「僕が?」

 よく意味が分からない。

「おい何言ってんだよ姉ちゃん、シンが迷惑がってるだろ、お前の家族ごっこ」

「……親切だししっかり者だからシン君はお兄ちゃんでいいじゃん、ほら佑太、シン君は今日からお前のお兄ちゃんだぞ」

 あー、僕とも一緒に家族になろうよってことか。小学生っぽいなそれ。なんか……。


 三人が校門を出るときにはもう、空は真っ赤に色づいて、太陽は今にも地平線の向こうへ消えそうになっている。

 この世界でも太陽はちゃんと昇り沈みするし、昼も夜もあるということはよく知ることができた。


 文香ちゃんは校門を出るまでずっとスキップしながら鼻歌を歌っていた。

 今日のことが余程嬉しかったのだろう。

「本当にシンお兄ちゃんのおかげで今日楽しかった。それに、大事なものまで見つけてくれてほんとうに……おいこら佑太も! せーのっ」


「「ありがとうございましたっ!」」


 二人の元気な声は夕暮れ空にこだまして消えていった。


 ふと校舎を眺めてみる。何度見ても改めてよくできているものだと思った。これをどうやってあっちの世界からイメージをまるまる移し替えられるようなことができるのだろうか。それも、まるで向こうからそのまま持ってきたような。



 二人と別れてから、僕は神社を目指した。

 神社の場所はよく目立つ。この里の一番高い山の上にあるからどこから見てもだいたい見える。

 しかし、今の時間、昼間とはまた違った印象を見せている。山の斜面や神社の本殿は陽に照らされて煌々としている。



 石段を駆け上がる時にはもう既に日は沈み、脇の狐火がてらてらと燃えていた。

「遅かったの」

 狐の神様は境内の傍の石に腰掛けていた。長く待たせてしまったのだろう。

「はい……すみません」


「――とまあ先ほど言っていたように、そちには一度現世へ行ってもらうことになる」

「まあそうか、現世……ってまさかまた憑依しろみたいなこと言うんじゃないですよね!?」


「まさか! まったくそちにはわしの言うとることが伝わってないようじゃの……『憑依』という状態は一番質が悪い、禁忌だ、とされているものじゃ。何故か? それはの、死者が生ける世界において生者に悪戯するということは本当ならあってはならぬことであって、そのような死者は直ぐにでもこの世界へ来るということが望ましい」

 なるほど。じゃあ僕って、ばりばりタブーやっちゃってるじゃん。

『そうじゃよ、そちの場合かなり憑依していた期間が長かったのでな、わしが用いる術式でかなりの高難度である除霊の秘儀と霊体憑依乖離術を使い申さねばならなかったの……まったく、苦労したのじゃぞ』

「その苦労はよくよくわかったので心に直接語り掛けないでくれますか!?」

「ほっほっほ! わしの気苦労が知れてよかったよかった。そうじゃ、現世に行って来たらついでにお稲荷さんでも買ってきてくれぬか、『冥土の土産に』とでも言ってな」

 ぐっ……どこまでこの狐は僕をいじる気だ。

「いやいや、生きてる人にちょっかい出しちゃダメなんじゃないですか! お稲荷買うにしろその金もないし」

「お前は幽霊じゃろ? なーに、姿も見えぬのじゃ、お稲荷一つとってくるのも容易いことじゃ」

「いくら幽霊だからって盗んでくるにしても良心というものが……」

「良い奴過ぎるのじゃそちは!! 嘘もまじめにつけぬやつ、間違うなくそちは天国行きじゃ、安心するがよい! ……わかった、そちにいくつかくれてやるものがある、その中にお駄賃も入れてやるのじゃ。これに関してはそちの手から離れた瞬間実体化するのでくれぐれも気を付けるのじゃぞ」

「わかりました。で、何をくれるんで……わっ」


 言い切るのを待たずして、ムクゲの掌に棒状の道具が出現した。

 あっこれあれか、神主さんが持ってるやつか……どうりで既視感があると思ったら。

「言うより出すが易し、と思ったのでな。

 ――これは『大幣おおぬさ』。それに少々の『切麻きりぬさ』や米と塩も必要じゃな……」

 でんでん。

「なんかいっぱいありますね……」

「今日は名だけ覚えて帰るが良い。それぞれの使い方も明日からこの場で教えるのじゃからよく聞いとくのじゃぞ!」

「は、はい!」



 道具の使い方と、向こうに行ったときのルールを(あと何故か向こうの美味しい稲荷ずしを売る店も)この一週間ほどみっちりムクゲからレクチャーされ、そのかいあってどうにかマスターした俺は、ようやく現世へ旅立つことになった。

 昼まではあの寺子屋に顔を出したりとわりかし自由にさせてもらって、一日のスケジュール的には午後おやつの時間を挟んでのレクチャーだった。


 ムクゲは何やら呪文を唱え始め、神社の鳥居に暗雲が立ち込める……どうやら向こうの世界とつなげるようだ。そういえばこの冥界に来た時も、こんな黒い雲のようなものが視界を覆っていたような気がする。

 僕は言われた通り、鳥居へ歩みを進め、周りにこの雲か霧かよくわからない気体が充満していくのを感じた。だんだんと黒く染まってゆく視界のなかでは、とくに何も思うことはなかったはずなのに可笑しいな。つい、向こうに行ったらもう会えないのだろうと思うとなんだか寂しくて、ムクゲのほうを見てしまった。


「――ではこれで大丈夫じゃな……くれぐれも気をつけていってくるのじゃぞ! あと土産も楽しみにしてるからの」

 ムクゲはにひっと笑い、吸い込まれてゆく僕を見送った。




 視界が開け、日差しが差し込む。

 鳥は囀り、木々は葉を風に靡かせる。

 ああ、これが現世か。

 冥界には一週間といただけだったがあっちとの違いはよくわかった。

 あるものすべてが「生きている」。

 生の鼓動を感じるのだ。


 時がとめどなく流れ、生あるものすべてがその中で支えあい成り立っている。


 これが……現世だ。僕がこれまでの一週間たりとて欲してやまなかったこの感覚。

 でも、この世界には死ある者がいてはならない。

 ここには僕だってほんとうはいちゃいけないし、いけなかった。


 再び来てよくわかった気がする、死者になったとしてもこの世界にい続けたいという思いが。

 死んだ者ほど生を渇望し、また生きたいと願う。

 しかし僕の生前の最期みたいな、死を渇望する奴もいる。

 こんなの不条理だ。

 だけどこの世界にごまんといるわけだ、そういう人が。


不条理に生きねばならない、ただひたすらに。

その不条理の中に埋もれた花は、不条理を生きることを諦めた今だからこそ気づく。

そして‪――‬もうその花は咲かない。





 紆余曲折あって現世に戻ってきたシン(仮)はふと、ここの景色に見覚えを感じていた。


 ――そうか、ここは学校へ通う道の途中……しかし違和感も同時に生じていた。

「ここは……あそこなんだよな――!?」

 来るまで普通にあったもの――見慣れていた店や住居の数々が消滅していて、新たなものに置き換わっている。


 きっとこれには三つの可能性がある。シンはそう考えた。

 まず一つ、ここがたまたまあの通学路に似ているだけ

 二つ、ここが現世と似通った別世界である

 三つ、冥界に行く直前よりも時間が進んでいる


 二つ目の可能性はあの神に至ってしないだろう、と思うのでまず一つ目か三つめかを探ればいい。

 一つ目の攻略はいたって簡単。

 建物の隅にある青や緑の住所プレートさえ見てしまえば。


「恵和五丁目 32-8」

 変わらない……とすると後者――時のずれの可能性、か。

 どうするか? 掲示板のチラシとかで今日がいつかぐらいは知れる。

 来たときは20X1年9月14日だったと覚えているから、本当ならば今日はそれより一週間後の「9月21日」であるはずだ。無論、瞬間から時間が止まってたらそこからスタートも有り得る。が、移動した場所も時間的にもそれは違うし……。


 掲示板は変わらずそこにあった。

 チラシには地区祭りの開催日だったりが……あった。


「恵和稲荷神社御祭礼」


 問題の開催日はというと……ッ!?


「20X8年9月20日」


 なんと衝撃の事実が判明してしまった。

 ここは、なんと何年後……うん、七年後の未来だ。いやこれは手違いじゃないか? それとも……

「ん?」


 と目の前にひらひらと紙が漂い、何か書いてある面を伏せて落ちた。

 拾い上げて書かれた文字を見ると、

『すまんの、ひとつ言い忘れていたことがあっての』

 とはじまっている。


 ああ、やっぱり何かあるんだな……どこから出てきたんだこの紙は?


 ――時間の流れについてはそちが察した通り、冥界と現世の時の流れ方は違うのじゃ。

 まず、冥界で過ごす一日は、現世では一年過ごすことと同じになるのじゃ……つまりそちは今、その街の七年後に来ている。


 こちらのことが分かっている!? ああ、ムクゲの千里眼で……否、これは文香ちゃんの言っていた、例の現世に送れるという手紙の一種かも知れない。こういう風に送られてくるとは。


 すると驚くことに、紙のまっさらだった部分に新たな文字が現れた。


 ――まあ……そちのことが心配であったからこの紙も持たせよう思ってな。そこにわからないことを話しかけるなりすればわしが応じる。

 忙しい時には反応ができない場合もあるのでの、応答がなければ後で掛け直してたも。


 お節介焼きな神様だな。

 でもこの紙はとても役に立ってくれそうだ、いろいろと。


 まずは霊を探さなくちゃならなくて、そしてこのムクゲのくれたお祓いグッズを使って無事に冥界へ送り届ける。

 それが僕に託された任務。


 とりあえずここから僕は頑張らなきゃ。

 そう、僕にこんなまで親切にしてくれるムクゲにも……それに僕が憑依してしまったあの少年、柏木信治君に対しても。

 生前や憑依中に関わった人たちにも、僕のように死にたいと渇望した結果命を落とした、なんていう悲劇の顛末を繰り返さないことを願うばかりだがそう綺麗事のようにはいかないだろう。

 しかし、だれもが生ある限りチャンスと平等な愛が与えられて、生きる活力は無限に沸き立っている。

近所の人、両親や祖父母、今の友達、いつの日か顔を合わせたい昔の友達、たとえ友達や親がいなくたって君自身が君を愛せばいい。


 見渡すばかりに息づく生命があるこの世界で、生きている証を見せつけてほしい。




 少年が欲した未来に、もう彼の手は届かない。

 何故なら彼は生きる者の宿命を全うしてしまったから。


 生きる者にあてがわれた宿命、それは「死ぬこと」。

 同時に死んだ者に与えられた宿命は「同じ生命体として生きるチャンスはもう与えられることはない」


 死ぬことが確定要素だとして、そこまでに何をするか。

 もし死んだら、なんて考える前に生きられたら、と考えなけばならない。

 生きることは死ぬこと。

 当たり前だが死ぬまで生きねばならない。

 その生きる時間を、限られた時間をどう過ごすか。

 宿命に囚われてなお、その囚われの身の状況でも、その瞬間すら儚いものだ。

 もしゼロからやり直せるとしても、その生きた時間そのものを取り戻すことはできない。


 今という時間を過ごすことに快楽と苦痛を見て、過ぎていく時間すら惜しくて退屈なこの今を、美しいと思えるだろうか。


 美しいと思えたならば、この人生の限りを、命の鼓動を、己のままに貪り、喰らい尽くして果てようか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妖狐冥界譚 ─淡く、深く、穹の蒼い─ 足羽くるる @sasha903rgd

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ