其れは無いもせぬ箱の隅にて
九十九 那月
其れは無いもせぬ箱の隅にて
人の心とは、さながら一個の箱のようなものなのだろう、というのが、彼女の推察だった。
生まれたときには、その箱の中には何もない。けれど、年月が流れゆく中で『体験』『思い出』『記憶』……そんなものが徐々に収まっていって、死ぬときにはきっと、その箱はほとんど埋まっている――それがきっと、正しい生き方をした、ということで。
そして――その箱の中に入れるようなものを何一つ得られなかった人間はきっと、自分のようになるのだろう、と――つまるところ、それが彼女の自己定義なのだった。
思いつく限り、彼女に幸福だった記憶などない。
物心ついた頃には、既に、自分を産んだ、という関係でしかない母親と、途中から生活に入り込んできた義理の父親とともに、『家』という名の檻の中に囚われていた。
彼女の体には、常に何かしらの傷が絶えなかった。
傷つけられる相手には事欠くことがなかった。
母親は、さして理由もなく彼女に手をあげた。
強いて言えば、自分の存在それ自体が気に入らないのだろうな、と、彼女は自分を殴っている時の母親の、隠しきれない、隠そうともしない蔑むような瞳から読み取っていた。
義理の父親は、善良な人間だった。
世の中のあらゆるものは、善意によって回っている、と信じ込んだまま大人になった、数少ないうちの一人だった。
そして、善良すぎる故に、彼は自らの妻が娘に対して暴力をふるっていることなど、想像もしなかった。
彼は『よき父親』を目指して、妻とも娘とも接する時間をできるだけ長くしようと努力した。しかし、夫の愛情が自分以外のものに向けられているのが許せなかったのか、彼女が父親に優しくされた次の日は、彼のいない場所で、彼女はより手酷く母親から暴行を受けた。それでも母親は狡猾で、そして夫に自分の行いが露見することを恐れていたがために、目立つ場所に傷をつけることなどせず、彼女の方も、『疑う』ということすら知らない、善良さそのものが罪であるかのような義父に対してそのことを話すような気は起こらず――結果として、彼は妻と義理の娘の間に横たわった問題については、蚊帳の外の存在であった。
少しして彼女は、『一人の方が好きだ』と彼に告げて、家にいる時間のほとんどを部屋に閉じこもって過ごすようになった。
食事の時にすら、居間に顔を出さなくなって、しかし娘の顔を見ずに済むことに満足したのか、母親の暴行の頻度は少しだけ減った。
時折、ドア越しに父親が声をかけてくることと、夜のうちに千円札が一枚、ドアの隙間から差し込まれる以外に、家族との関りはほとんど断たれていたが、それでも殆ど何もない殺風景な部屋で『いない』ものとして存在している時間は、彼女にとって唯一と言っていいほどの、安寧と呼べる時間だった。
学校も、彼女にとっては決して良い場所ではなかった。
どれほど本人が隠そうとしていようと、彼女の年頃にしては異様に細い体や、その荒んだ目つきを周囲の人間は敏感に察知した。
一度、ちょっとしたきっかけから彼女を手酷く痛めつけ、普段隠れている部分の肌に痣や切り傷のようなものを見つけた彼らは、彼女がそういう人間であることをすぐに見抜いた。
集団によって行われた、いじめと呼ぶにはあまりに苛烈なそれは、彼女の肉体だけではなく、精神まで余すことなく、効率的に、徹底的に蹂躙した。
けれどそれに打ちひしがれるほどのものを、彼女は持ってはいなかった。
程なくして彼女は、その時間をできるだけうまく受け流す方法を身に着け――やがて、そこでも彼女は『いない』存在になった。
消えてなくなりたい、と、そう思ったことは何度もあった。
けれど、薬を手に入れることも、縄を手に入れることも、彼女にはできなかった。
手元にある金はほぼすべてが日々の食料だけで尽きてしまう。
夜中に食べ物を買いに出かけるうちならば機会はあったのかもしれないが、しかし出歩ける範囲にある川は浅く、飛び込んだとて確実に死に至ることができる自信はなかった。
死ぬのであれば、一度で確実に行う必要がある、と彼女は考えていた。
もし失敗すれば、父親は彼女に、何故、と問うだろう。そこで母親から受けた仕打ちの数々を打ち明けれたとて、彼は信じないだろう。或いはそれを信じられたとしても、その時に母親の方から何をされるかはわかったものではない。
それに、彼の善良さがかえって災いになることを知っている彼女は、そもそも父親に頼るという発想などなかったのだ。
そして適当に誤魔化せば、彼女は母親によって家に連れ帰られ、より酷い束縛と暴力の下にさらされるであろうことも、わかりきったことだった。それを怖いと思う心は彼女には既になかったが、それでも僅かな安寧すら刈り取られてしまう可能性を考えれば、それはできるだけ避けるべき事態だ、ということは、考えるまでもなかった。
そうして、何もせず、何もできずにただ時だけが過ぎていった先で。
ふいに彼女は、ほんの小さな、『
いつも通り、学校で暴力の嵐に晒され、止めの蹴りを腹部に喰らったときに、彼女はこれまで体験したことのない、内側から響くような痛みを感じて倒れ込んだ。
そのまま気絶してしまった彼女は病院に運び込まれ、その時に見つかった酷い外傷は状況からいじめによるものだ、と判定されたのだが、それはそれとして。
生存に必要な臓器のひとつが、どうしようもなく病魔に侵されている、と、医者はそう告げた。
その言葉を聞いて、彼女は最初に、これでやっと、ごく自然に消えることができる、と、そう思った。
かくして、彼女は入院することとなった。
医者曰く、彼女の病気はとても深刻で、これまで普通に日常を遅れていたのが奇跡だということだった。
多分、これといって激しく動き回ることがなかったからだろう、と彼女は解釈していた。
その真偽はわからなかったし、気にもならなかった。
入院初日には義父が病室に来て、着替えなどを置いていった。
彼によれば、彼女に手を出した同級生たちはそれなりの処罰を受けることになるだろう、ということだった。
許せない、と語る彼の言葉には一切興味がなかったが、同級生たちの人生がこれから先狂いに狂っていくことになるだろうと想像すると、少しだけ
母親は、一度も病室に顔を出さなかった。父親は何度か母親が見舞いに訪れているはず、というように話すので、上手く口裏を合わせておいた。母親と関わらずに済むのであればその方が良かったし、向こうもこちらと関わらずにいられる状況を手に入れたとあればそうすることを望むだろうと思った。
とはいえど義父が何度も自分のもとを訪れるのを母親が不愉快がって何かをしに訪れる可能性は否定できなかったので、食事を少し控えめにして、やつれた風を装いながら、『弱ってくのを見られたくない』と彼に告げた。
実際、暫く立っていられないような状態になることも一度や二度ではなかったので、演技をしている自覚もないままごく自然にそうしていることができた。
一週間もせずに、義父も病室に姿を見せなくなった。
カーテンに包まれた病室のベットの上、新たに手に入れた安寧の中で、彼女はただぼんやりと壁を見つめていた。
暇を嫌っているわけではない。ただ何もせずにいることには、すでに慣れ切っていた。
自覚もないまま、なんとなく迫ってきている『死』のことも、まるで実体のない幽霊のように、そこにあることがわかっていてもそれが彼女に何の影響を与えることもなかった。
ふと、彼女は、自分が以前ほど、『消えたい』と思っていないことに気が付いた。それを不思議に思った彼女は、少しの間思考を巡らせて――そしてふと、それも当然だと思いなおす。
そもそも、どこにも居場所がなかったから、居ると邪魔だという扱いをされていたからこそ、彼女は消えたいと思っていたのだ。
しかし既に彼女は、学校でも家でもない場所で、誰からも隔離されてただ一人でいて。だから、消えてしまいたい、という彼女の願いは、すでにある意味では叶えられているのだった。
けれど――そうしてみると、余計に、彼女はただ空虚だった。
これまで、『いなくなる』ことだけが、彼女の、中身が殆どないようなものだった『箱』の中に、それでも辛うじて、支えとして存在していたもので。
そして、それが急がずとも達せられる、と理解して――しかし、降って湧いたそのわずかな『これから』の時間を潰すための『中身』が彼女には一切なかった。
そして――そこで初めて、彼女は激しい渇望を覚えた。
何かが、自分にはどうしても必要だ、という欲望が、それを求める衝動が、内側から湧いてきてたまらなかった。
そうして――その『何か』は、唐突に訪れた。
あるとき彼女は、隣のベッドに一人の男がいることに気が付いた。
彼が、いつ病院に来たのか、どんな病気なのか、ただただ時間が流れるままに任せて過ごしていた彼女にはわからなかったが、しかし一日中外を眺めて過ごしている彼のその目を見て、彼女はすぐ、この男も自分と同じ、『箱』の中身が空の人間なのだと悟った。
そうして――それに気付いたとき、不意に彼女の脳内に、悪魔的な閃きがよぎった。
その閃きを実行するかどうか、彼女は逡巡する。それはあまりにも独り善がりで、そしてあまりにも残酷で。だから、思惑通りに行けば、彼女は間違いなく、彼の心を弄ぶようなことになるだろう、と。
けれど――そんな、僅かな良心の呵責などでは止めようがないほどに、その思い付きは彼女にとってとても魅力的で――故に、彼女は決意とともに、誘うような笑みをつくり、口を開く。
「……ねぇ、お兄さん――」
そう、声をかけるとき。
彼女は、心の内でただ静かに、空のままの彼の『箱』の中に、ただ一つだけ中身を投げ入れる――そんな、どうしようもなく悪意に満ちた行為に手を染めることへの
彼女の狙いは――順調に、とは言えないが、少しずつ成功しているように思われた。
彼が初めのうち、ほとんど彼女のことを無視してきたのが、想定外と言えば想定外だった。けれど、よく知りもしない相手から急に話しかけられて愛想よく応える、なんていう方がおかしい話だ、とすぐに思い直して、それからは根気よく彼に話しかけ続ける方針へと変更した。
自分のような人間が何をされたら喜ぶのか、それは彼女には推し量れないことではあったが、しかし何をされたら鬱陶しいか、というのは知っていた。それを避けることにだけ気をつけながら、彼女は彼に話しかけ続けた。
自分が臓器に障害を負っていること、自分の年齢のこと、家庭がそれほど上手く行っていないこと――そんな一つ一つを、さして重大そうでもなく、同情を誘うようにでもなく、ただ淡々と。ただ暇を持て余しているが故に気まぐれで独り言を漏らしている、そんな感じで。もとより自分が同情や共感を求めているわけでもなかったから、あとはただ言葉に気を使うだけでよかった。
数日と経たず、彼は彼女と言葉の交換をしてくれるようになった。
彼を懐柔しようと試みているさなか、彼女の手術が行われることが決まった。
成功する確率は低いが、しかし手術なしには生き延びられる保証はない――そんな甘言に、彼の保護者である義父はすぐにつられてくれた。母親の方も金さえ払えば早急に娘を亡き者にできると察してか特に文句を言うこともなかったので、あとは手術をしたいという意思を示すだけでよかった。娘の寿命を縮めることに同意しているということに最後まで気づかないまま、義父は書類に判子を押した。
かくして、彼女の企みを叶えるための土台は完成した。
そうしてすべての段取りが済んでから、彼女は男に、近いうちに手術を控えている、と打ち明けた。
「多分、それで治っちゃうと思うんだけど」
息を吐くように漏らしたその嘘は、言葉を発する彼女からすればなんとも軽薄な調子に思えてしまったけれど、幸いにして男に気取られた様子は無かった。
「治って、元気になったとしても、そこからやることなんて思いつかないんだよね。……お兄さん、私はどうしたらいいと思う?」
「俺に聞くな」
「うわ、冷たっ」
釣れない様子の彼に、しかしもうそれにも慣れてしまっていた彼女は、けれど言葉だけでも傷ついたというふりをしておく。
それから、ぽつりと。
「……やっぱり、死ぬしかないかなぁ」
そうつぶやいた言葉を――しかし、彼は何でもない様子で、「そうかもな」と流しただけだった。
彼にしてみれば、それは単に彼女の生死について大した関心がないだけなのかもしれなかった。何より彼も、口を開けば毎度のように「死にたい」と口走るような人間であったから、或いは死というもの自体に大した思い入れもないのかもしれなかった。
それでも、彼女からしてみれば、それは下手に関わってこられるよりもずっと好ましい態度で――だから彼女は、言葉を続ける。
「でも、なんかこのまま死んじゃうのも、悔しいといえば悔しいかな。……どうせなら、いろんなところに行ってさ、それでも自分は誰にも必要とされないんだ、って理解して、ほら、私の思ってた通り、わたしってどこにもいらないじゃん、って思ってから死にたい、っていうか」
それも、嘘だった。
いや、或いは、それも完全に嘘ではなくて、本心では少しだけ望んでいたことだったのかもしれない。
もし、ちゃんと『箱』の中身が順当に埋まっていくような人生を歩めたなら、そうして自ら様々な場所に出向くことも、よかったのかもしれない。或いは、自分が近いうちに、ほぼ確実に死ぬ、という身でなくて、なおかつ家から抜け出すことができたなら、実際にそうしていたのかもしれない。
それも全て、かもしれなかった、という、もう決して実現しえない仮定の話だった。
そんなことを話すうちに――段々と彼女は興が乗ってきてしまい、つい、余計なことを口走ってしまう。
もし、彼女が――二人が、助かるようなことがあったら。その時は、彼と一緒に、色々なところを旅してみよう。
決して心が通じ合っているとは言えない、一人ぼっちどうしの二人旅をしよう。
そうして――なにもかもに受け入れられないという孤独を極めた末に、たどり着いたどこかもよくわからない場所で――彼と私は、心中をするのだ。
そんな、夢物語のような空想の話に――しかし、彼女がそれを語り終えた後で、彼の口が僅かに歪むのが見えた。
そうして――「それは、最悪だな」と、彼が答えたとき――彼女はついに、自分の思惑が達されたのを感じたのだった。
そうして、今。
体調が急変した彼女は、ストレッチャーに乗せられて手術室へと運ばれていく。今まで感じたことのないような、じわじわと迫りくる致命的な苦痛に苛まれながら、それでも彼女の心は既にそこにはなかった。
少し前に聞き出したとおりであれば、同室の男も、今頃、手術を受けているはずだった。
彼は、自分が助からない、と思い込んでいたけれど、彼女には、おそらく彼は助かるだろうという確信があった。彼の話の端々からは、医者の話などロクに聞いていない、ということがにじみ出ていた。日頃口癖のように「死にたい」と言うような彼のこと、どうせ自分に都合のいい部分しか聞いていないに違いない。大体彼の病気だって、どうしたってそんなにすぐに死に至るものでもないのだ。
手術室に到着し、麻酔によって意識が少しずつ薄れていく中で、彼女は、生き残った後の彼のことを想像する。
手術後に目覚め、そして彼女が死んだということを聞いた彼はどうするだろうか。大して気にもとめないだろうか。そんな可能性も、もしかしたらあった。
けれど――たとえ数日、どうでもいい会話を交わしただけであっても、空虚な彼にとって彼女の存在はきっと、『箱』の中に唯一存在するものになる。だとしたら、その大きさなんてきっと問題ではない。
それに――彼女の空想譚に、口の端を歪めた彼の姿を思い出す。あのとき、彼は少しだけだとしてもそれを、いい、と感じてしまったはずだ。
そのせいで、もうただ自殺する、なんてことに満足できなくなってしまえばいい。そうして拾った命を、ただ持て余して、引きずって生きていってしまえばいい。
そうさせているのが、もし自分の存在だったとしたら――それはなかなかに愉快なことではなかろうか、と。
そんな思いから彼女はほとんど感覚のない口をそれでも動かして――短い人生で初めて、心から笑みを浮かべて――そして、瞳を閉じた。
あとは、ただ、彼の無事と――そして、自分の仕掛けたそれが上手くいくことを祈るだけだった。
かくして――彼女はその短い人生に幕を閉じ、そうして彼女は姿を変える。
形を失い、色を失い――それでも、僅かに残るものとなって、ある一人の男の、空虚な『箱』の中に侵入する。
『箱』の隅へと居ついたそれは、やがて目覚めた彼の心を縛り、意に反して彼を生かし続けることになる。それはまだ未来の話だが、しかしきっと、それは成されるだろう。
その、悲惨な未来をもたらすものを『呪い』のようだというなら、それは――正しく、彼の『箱』にのみ、ただ一つ残される災厄――希望、と呼ばれるに相応しいものだった。
(『其れは無いもせぬ箱の隅にて』 了)
其れは無いもせぬ箱の隅にて 九十九 那月 @997
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