あかゑいのうを

安良巻祐介

 

 二階の部屋に一人で寝転がって、窓から、町を見ていた。

 視界いっぱい、見える限り、家が段々に屋根を連ねて、そのところどころから、蜜柑の樹が、あざやかな葉を湧かせている。

 風には幽かに磯の香が混じり、吹き上げてくる。

 空は、狭いようで広い。下ってゆく家々の斜面が切り取った、その余りは全て空だ。

 薄白いその一面に、何かの鳥の群れが、散るように飛んで、手拭いの生地にあるような模様を作っている。

 ――こんなに、坂の多い町だったろうか。

 思ううちにも、部屋はたいそう静かで、つい先刻まで誰かが階下でお琴を弾いていたような気もしたけれども、耳を澄ませば、矢張りしんとしている。

 煤けた天井から笠付きの電球が下がって、その灰色の硝子球バルブの真ん中だけが赤い。消え残った火の温かみが滲んでいるらしい。

 部屋の隅では、少し古い型のテレビが画面を黒くしたまま沈黙しているが、こちらは、点かなくなってしまってから、もうどのくらい経つものか知れない。

 考えの纏まらぬまま、自然とまた、窓の外を眺める。

 町は相変わらず、山の斜面のような屋根の連なりと、白茶けた空の色とを、ぼんやりした視界に晒している。

 静かな心のまま眺めながら、しかし、その底でふと、何か奇妙に思った。

 ゆっくりと身を起す。

 窓に近づいて、視線を巡らす。

 視線の下では、不揃いに刻まれた急な石段が、柑橘類と磯の匂いの混じった風を浴びながら、向こうへ下っていく。

 脇に並ぶ家屋は、みな一様に虫食いのある壁をこちらに向けているが、窓や戸は一つも見えない。

 だが、違和感はそれではない。

 つつ、と目が滑り動いて行く。

 重なる屋根の下方、石段が下り切った急斜面な視界の端に、砂浜と、海が見える。

 ひどく白い砂。波の高い海。

 その、真っ白な浜の端、大きく頭を伸ばした松があって、その下に、小さく人が見える。

 男だ。

 紺の着物を尻からげにした男が、背中を向けて何かをしている。

 筋の張った手足が、動いているようないないような、何か動くと言うよりは膨れると言うような態でいて、そうしてむくむくと揺れる体躯の、鬢の向こうばかりが、富士の峰のように青々と剃り上げてあって、何か、広重や北斎の絵を見るような男である。

 手繰っているのは、細い地引綱だ。

 何か巨大なものを――そう、小さな島ほどもあるものを、綱に引っ掛けて、波打ち際から陸へ引こうとしている。


 赤えい。


 紙に薄墨が染みるように、頭の中に字が浮かんだ――『赤えいのうお』。どういうわけだかわからないが、そういう画題だとわかった。

 ざんぶざんぶと、波の音が響いた。

 やけに形のはっきりした、錦調の大潮の間に引き出されてくる、巨大なえいの真っ白い腹に、哂うような形の切れ目が――こんなに遠く離れているのに、やけに明瞭に見える。

 まくり上げた袖から伸びる、男の二本の腕が、泡立つ波の中でまたむくむくと肥る。

 いつの間にか、口を開けていた。

 窓から部屋の中へ、強く風が吹きこんでいた。

 視界の端に、窓のそばの壁に貼られたポスターが写っている。

 発泡酒の広告で、扇情的な水着を着た女の子が、グラスを片手にほほ笑んでいる。

 その、女の目じりにある泣きぼくろに、何だか見覚えがない。記憶にない。


 と――その黒いものが、ぶんと飛んだ。


 ああ、虫だ。

 小蠅が止まっていたのだ。

 ほくろがなくなって、少し顔がのっぺりとなった女の子が、口元ばかり同じように笑っている。

 しかし、その顔にも、見覚えがなかった。


 呆然としたまま、再び、窓の外を見る。

 生まれた町の、見慣れているはずの風景。

 その一画に、その屋根と屋根との小さな切れ間に、相変わらず、白砂青松の画景がある。

 そこで、大時代な、浮世絵じみた男がえいを曳いている。

 たぶん、あの男には、背中しかない。

 向うを向いている側の面には、顔はおろか、模様も、凹凸もない。

 潮風が鼻を撫で、遠くでざぶんと波が寄せて、いつの間にか、松の向こうには、紙のような月が現れている。

 階下では、誰かの弾いていたお琴の音が、幽霊のように漂っている。

 これは夢なのだと自分に言い聞かせながら、しかし、その、夢なのだということが、かえってひどく恐ろしくも思われてきた。……

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あかゑいのうを 安良巻祐介 @aramaki88

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