星の降る青空



(※短編小説「見知らぬ人、優しい人」同一設定)


 今年も夏がやってきた。俺の嫌いな夏。彼女と俺の、別れの季節。


 Tシャツとジーパンというラフな格好をして、俺はなんとなく家の近くを歩いていた。アスファルトを熱する太陽も、ゆらめく陽炎も、セミの鳴き声もすべてが過去を彷彿とさせて嫌になる。けれど家にいるとクーラーの排気音や回していないはずの洗濯機がうるさく感じて、どうにも気分が悪くなってしまうから結局いつも外出するのだ。

 知らないふりも、気づかないふりも、うまくなったはずなのに。

 俺は何も変わっていない。過去に囚われたまま、抜け出せずにいる。

 思い出は昇華されることなく、醜い感情とともに心の中心に居座っていた。彼女との別れによってできた傷はとっくにかさぶたになっているのに、俺はできたそれを剥いでは再び血を流し、そうしてまた新しいかさぶたを作る。

 傷は治らない。彼女の幻影も、消えない。

 そういえば、と空を見上げる。わずかな雲と、青い空。まぶしい太陽に照らされた青いキャンパスには、当然のように星なんて見当たらない。

星は夜の恋人なんだよ、といつか彼女が言っていたことを思い出す。



「星は夜の恋人なんだよ」

 それは何回目の時だったか。縁あって画家である彼女と出会い、新作のモデルになることが決定して、アトリエに通うようになって。俺も大分遠慮がなくなっていたから、そう早い時期に話したことではないと思う。

「星は、夜の恋人なんだ」

 彼女は言葉を繰り返した。「ずるいよね」と続けて、俺を見る。

「キミは、ずるいと思わない?」

「何がですか」

「夜が星を独り占めしちゃってること」

 詩的な表現が好きな彼女は、よく抽象的な問いかけを俺へと投げかける。どうやら今日も、その類らしい。

「星は夜としか、デートしないんだよ。昼や朝は出てこない」

「はぁ」

 気の抜けた返事をする。まだ彼女の言わんとすることがわからない。俺が理解していないことを知っているのだろうが、彼女は構わず言葉を続けた。

「月は違うの。明け方にも見えるし、よくよく見れば昼にもいる。けれど星だけは……星だけは、夜と、夜が顔を出し始める夕暮れにしか、いないんだ」

「……うらやましい、とか?」

 焦がれるような、どこか哀愁を漂わせた瞳。それを見て俺は直感的にそう思った。根拠も何もなくて、今までの話とのつながりさえも読めなかったけど、それだけはなんとなく感じ取れたのだ。

 彼女は俺の言葉に薄い笑みを返すにとどめた。うん、とも、ちがう、とも言わずに「私はね」と音を紡ぐ。

「誰かの夜になりたかったんだよ」

 過去形で語られたその言葉の意味を問うほど、その時の俺は無知ではなかった。ただ、その言葉に込められた意味は、これまでの付き合いのせいで、嫌でもわかってしまった。



 星は夜の恋人。星は夜にしか顔を見せなくて、星にとっての唯一は夜だ。

 朝も、昼も、星には出会えない。星とともにあることはできない。

 星を知るのは、夜だけ。


 私は誰かの夜になりたかった。

 言い換えるならば、それは。


「私は、誰かの唯一になりたかった」



 あの話をしたとき、すでに俺は彼女の先が長くないことを知っていたし、彼女もまた俺が「知っている」ことを知っていた。

 たぶん、あれは彼女が俺に見せたただ一回の弱気な姿。

 この絵でもう十分なんだと語った彼女の、ただひとつの心残り。



 彼女の語ったように、昼の今、空に星は浮かんでいない。物理的に「ない」わけじゃないのはわかっている。あくまで視認できないだけの話だ。

 ずるいよね、という彼女の声が再生される。ずるいのはどちらだと、声に出さずに俺は言う。

 夜になりたかったと語った彼女は、そう言いながらも星を抱こうとはしなかった。彼女は夜となってずいぶん遠い未来に消えてしまって、そこに星は浮かばない。

 俺は、あなたの星になりたかったのに。

 夜空に浮かぶことも、夜とともにあることも許されず、俺は「青空」に取り残された。

 夜が来るのは、俺が死ぬとき。それがいつになるのかはまだわからなくて、ただ、よっぽどのことがない限り「その時」はずいぶん先になるだろう。


 彼女は誰かの夜になりたかった。

 俺は彼女の星になりたかった。


 彼女はそれを伝えてくれたけれど、俺はそれを伝えられなかった。だから俺は青空のもとに取り残されて、夜とともにいられない。


 今年も、夏が来た。あと何度俺は、この青空を駆け抜ければいいのだろうか。



 星の降る青空

(それは、彼が過ごす夏)

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泡(短編集) 椎名透 @4173-bn

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