こんな事すら言葉にできない

「傘、忘れないようにしろよ」


 頭の中で仏頂面の兄がそう言った。実際、今日の朝、降水確率七十パーセントという天気予報を聞いた兄が、これまたやっぱり仏頂面でそう言っていた。

 委員会の用事があった私は急いでいて、かなりおざなりに返事をした記憶がある。


「大丈夫だって。折りたたみがあるし」


 そうだ、確かにそう言った。実際折りたたみはカバンに入れているつもりだった。


 けれど今、私は下駄箱の前で立ち尽くしている。がさごそとカバンをあさってみるが折りたたみ傘は出てこない。廊下の端の方に寄ってカバンをひっくり返しても結果は同じだ。


「えぇ……なぜに、なぜにないのさ……」


 ぼそっと戸惑いながら言葉をもらせば、静かな廊下に私の声が響いた。

 窓の外ではざあざあと雨が降り続いている。昼前は小雨程度だったのに、放課後にはグラウンドに大きな水たまりができるほど本格的に振り出していた。


「おかしいでしょ……」


 雨脚が強まっていくなか、私はうだうだと荷物を漁り、悪あがきを続けていた。


 高校に入ってすぐに買った折りたたみ傘は三年になった今でも現役で、ずっとカバンに入れっぱなしにしている。取り出すのはそれこそ今日のように雨の時だけ。

 指定の通学カバンを使っているのでカバンを間違えた、なんてこともないはずだ。


 そこまで考えて、ふと数日前のことを思い出す。たしかあの日は朝から雨が降っていて、私は普通の傘を持ってきていた。それで、放課後に友人と帰ろうとして。


――げっ、あたしの傘、盗られてるんだけど!

――えっ、大丈夫……?

――大丈夫じゃない……折りたたみ持ってないし、どうやって帰ろう……。

――それなら、私の折りたたみ傘使う?


「か、貸したままだ……!」


 傘を盗まれた友人に、折りたたみ傘を貸し出した。思い出して頭を抱える。すっかり忘れてた。貸した本人が忘れるなんてどうなんだと思うが、忘れていたんだから仕方がない。

 どうりで傘が見つからないわけだ。理由はわかった。けれど、問題が解決したわけじゃない。折りたたみがあるからと普通の傘は持ってきていないし、件の友人はすでに帰宅済みである。


「…………」


 ちらり、と共用の傘立てを見る。ビニール傘と柄物の傘がそれぞれ数本残っていたが、さすがにそれを手にすることはできない。簡単な気持ちで盗っていく人もいるけれど、傘泥棒は立派な犯罪だ。私は犯罪者にはならない。


「……どうしよう」


 小さな声を漏らして、スマホを取り出す。電源ボタンを押しても画面は明るくならない。


「なんで今日に限って充電忘れてくるかなぁ」


 電池はとっくに切れていた。昨日充電を忘れて、朝から十五パーセントしかない状態だったのだ。モバイルバッテリーも持っていないので、恥を忍んで兄に連絡する、という手段さえ取れない。


「……これはもう、走って帰るしか」


 それしかない。濡れても仕方ないとあきらめよう。教科書は――褒められた行為ではないけれど――教室に置いてきた。ノートも同じ。だから、濡れて困るのはスマホとスケジュール帳だけだ。


 カバンには、今日の朝コンビニでお菓子を買ったときの袋が入っている。その袋に濡れて困る二つを入れて口を縛った。

 ついでに体育で使ったタオルも取り出して、ないよりはマシだろうと頭にかぶせる。


 準備は万端だ。靴を履き替えて、下駄箱前から玄関の、屋根があるぎりぎりの部分まで移動する。


 雨はさらに強くなっている気がした。走る、と覚悟したから余計に「降っている」と感じるのかもしれない。深呼吸して、クラウチング……とはいかないけれど、勢いよくスタートを切ろうとした。


 ところで。


「何やってるんだバカ」

「うわっ!」


 呆れた声がすぐ後ろでした。驚いて声をあげて振り返るとそこには見慣れた顔。先ほどまで私の頭の中で仏頂面を披露していた兄が、そこにいた。


「え、兄ちゃん?」

「おう」

「え、兄ちゃん?」

「なんで繰り返すんだよ」


 ため息をついて、兄は「ほら」と私に傘を差しだした。なんとなくそれを受け取るが、私の頭の中は大混乱である。

 呆然とする私をよそに、兄は持っていたもう一つの傘を開く。そのまま歩き出そうとしたところで私の意識はようやく現実に戻ってきて、慌てて傘を開いて兄の背を追いかけた。


「ちょ、ちょっと兄ちゃん! なんで高校にいるの? それに、傘どうしたの?」


 兄の横に並んで問いかける。去年まで同じ高校に通っていた一つ違いの兄だが、今年はもう大学生。高校にいるはずのない人物だ。

 それに、兄がさしている傘は兄自身のもので、私のさしている傘は私のもの。どちらも折りたたみではなく、きちとんとしたものである。


「お前の友だちから連絡がきたんだよ。『あの子の傘を借りっぱなしだと家に帰って気づいた。昼に折りたたみがあるから大丈夫って言っていたけど、その折りたたみが自分の家にあるから、きっと困っている』ってな」

「えっ」

「あと、本当なら自分が迎えに行くべきなんだけど、親に連れられて隣の県の親戚の家に行ってるからどうしようもなくて俺に連絡した、とも言ってたな」

「えっ」


 つまり、なんだ。友人からの連絡を受けた兄は、わざわざ私を迎えにきてくれたというのか。傘がないと濡れると心配して、二人分の傘を持ってきて。


 そこまで理解して、私の頬がゆるんだ。兄が自分を心配してくれたという事実が嬉しくて、思わず笑顔になる。

 兄は優しい。私を思ってくれて、私を幸せにしてくれる。すごく贅沢なことだといつも思っているのだが、恩返しはなかなかできない。


 いつもありがとう、大好きなお兄ちゃん。私はあなたの妹で幸せです。


 言葉にすれば、そんな感じだろうか。けれど、それだけで終わらせると私の感謝は伝えきれない気がする。


 ありがとう。大好き。幸せだよ。


 簡単な言葉だけれど、私はそれを言葉にすることができない。こんなに簡単な、単純なことも言葉にできない。


 けれども。


「兄ちゃん、ありがとね」


 私たち兄妹は、この一言で十分なのだ。

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