第10話 黄昏のシンフォニー

 そう、そのあと春はやって来なかった。短い過渡期を経て、すぐに夏がやってきた。雪解け水が押し寄せて村の土を流したあと、日照りが始まり、作物は茶色になって枯れ始めた。雨がほとんど降らない暑い夏の日が何日も続いたかと思うと、突然嵐がやってきて雹を降らせた。村の人たちは、この天候不順を《空に浮かぶ島》と結びつけて考え始めた。確かに、島の西の端が不時着してから、大吹雪や干ばつ、嵐が起きるようになった。その前はこの村もぼくたちの故郷と同じように、肥沃な土地に恵まれた豊かな農村だったのに。


 そんなことが何ヶ月も続いたある日、ぼくとレーナは他の家族に呼ばれて家の食堂に入った。いつになく謹厳な顔をした父母と兄は、ぼくたちを座らせて、理を説くように言った。曰く、この村に留まる特段の理由がない限り、ぼくとレーナは村を出ていくべきだ、と言う。兄は村の女性との結婚を控え、その父親の広大な農場をいずれ継ぐことになる。それに父母はすでに人生の盛りを超え、これ以上あてもなく移動することは好ましいとは思えないのだ。しかし、ふたりは若く、まだ前途がある。このままこの村にいても生きていくので精一杯で、人生の最もよき時代を楽しむ事も出来ないだろう、と。


 ぼくはそれを聞きながら、潮時だ、と思った。そうして、自分の横に座って俯くレーナを見つめた。そのガラスのように澄み切った瞳からは、宝石の欠片かけらのような涙がこぼれ落ちている。ぼくはそっと手を伸ばすと、テーブルの下で彼女の手を握った。



 人間は何の理由もなくこの世界に放り込まれ、条理と不条理にがんじがらめにされたあげく、何が起こったのか分からないまま、意味もなく死んでいく。そこに理由や意図はなく、ただ、喜怒哀楽の数だけ渦巻く模様が人生という名のタペストリーに描かれるだけ。その模様には目的どころか一貫した方向性すらない。主題を欠いたこの壮大な交響曲において必死に音符を刻み、音色を奏でて、死を、全ての終わりを、その直前に至るまで繰り延べ、延期し、誤魔化して1秒でも長くこのシンフォニーを演じ続けるしかない、それが人生だ。そして、ぼくたちはまだ、曲のほんの始まりにいるに過ぎない。ぼくはそう悟った。


 その夜、ぼくとレーナはやっと暑さの収まった戸外に座り、虫の音に包まれながら星を眺めた。虫除けの煙が辺りに漂っている。優しい風が、レーナの長い髪を揺らした。あたりは静かだった。村はずれに近いこの辺りでは家々もまばらで、時折聞こえる人の声も、ほんの小さな擾乱を空気にもたらすだけ。


「ね、昔はどんなだったのかしら」


 レーナが口を開いた。


「昔?」


「そう、ずっと昔。人々が、《空に浮かぶ島》を作る前。きっとその頃はまだ全てのものに命があって、空気が美味しくて、何も悩まなくてよかったのかもしれないわね」


「レーナ…」


「でも、そんな事ないわよね、いつの時代も、みんな苦労している。私たちの時代も、きっと夕暮れみたいなもの。もうすぐやって来る夜は怖いけれど、でもどうしようもないもの。だって、世界は回るもの、ね」


 そう言うレーナの目はひどく寂しげで、この黄昏の世界に、一種の哀しい感興を添えた。それは流れ星のようにぼくの脳裏にひらめいて、すぐに消えた。その刹那を、しかし、ぼくは一生忘れないだろう。悪意ある他者も、この世界の造物主でさえ、この瞬間をその本質において侵襲することはできない。なぜなら、この人生はすでにその各瞬間において充足して、一個の完結した世界なのだから。どんな悲しい結末が待っていたって、この瞬間は永遠だから。その胸を締め付けるような想いを伝えたくて、ぼくはそっと、レーナの肩を抱いた。

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少女の空 安崎旅人 @RyojinAnzaki

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