ボクたちは終わらない夏の中で

太刀川るい

ボクたちは終わらない夏の中で

 破り取った6月を丸めて捨てて、数万回目の夏が来た。


 カレンダーの上の7月は、もう何度も何度も見た海の写真。真っ青な空と海と白い砂浜と、遠慮がちに佇む真っ赤なビーチパラソル。この写真が撮られた場所にもボクは行ったことがある。あれは何千回か前のことだったか。


 そんなことを考えていると、湿度の高い空気が流れ込む窓から、蝉の大合唱に混じってクラクションの音が聞こえてきた。

 強烈な日差しの下に顔を出すと、

「おーい~! 起きてる~!?」サングラスをかけた友人が手を振っていた。今日は白めのワンピースを着ている。どこで手に入れたのだろう。後で聞いておこう。ボクは頷いて返事をすると、アパートの狭い鉄の階段を降りた。


「凄い車だね。一体どうしたの?」

「苦労したよ~。探すの。持ち主に交渉して借りてきたんだ。超ォ~アメリカン」日本の狭い路地には全く不向きな、頑丈なオープンカーの表面を軽くなでながら、友人は満足そうにそう言った。

「ガソリンを道に捨てる機械ってやつ?」

「今じゃガソリンなんていくらでも捨てたっていいじゃん?」友人はニヤリと笑い、ボクもつられて笑う。


「いつものやつかける?」FMトランスミッターの周波数をいじりながら友人が聞く。ボクはうなずくと、携帯音楽プレイヤーの電源を入れた。


 馬鹿みたいにでかい排気音を、陽炎漂うアスファルトの上に撒き散らしながら、軽快な音楽に乗ってボクらは海を目指してひた走る。

 puffy、チャゲアス、オレンジレンジ、バンプ、平成のヒットナンバーがシャッフルされ流れ続ける。シャッフルはいい。少なくとも同じことの繰り返しは起こらない。


 横からの風がボクの頬を撫でる。ブラウスの裾がパタパタとはためき、飛びそうになった麦わら帽子を手で抑える。こうやって海を目指すのは初めてだ。しかし、これもまたすぐに体験したことになり、また退屈がこの夏を支配するのだろう。

 後は繰り返しだ。あとどれくらい続くかもわからない永遠の。


 ――最初の夏の記憶はもうおぼろげだ、何しろ数万回も前のことなのだから。

 でも、最初の繰り返しが起こったことだけは、はっきりと覚えている。


 8月31日の夜、ボクはいつもよりかなり早めに床についた。ああ、これで平成最後の夏も終わりか……としみじみと思ったことを覚えている。そして、目が覚めた時、そこは7月1日だった。スマートフォンの待受に表示された日付を見て、最初は故障だと思ったが、手近にあるすべての時計が今は7月だとそう告げていた。何が起こったか解らなかった。いや、今でも何が起こったのか正確に理解している奴なんてこの世界にはいないだろうが……。


 テレビによると、時計の狂いは全世界で発生したらしい。

 それもネットワークで繋がった機器だけでなく、壁掛けの時計から、教会の機械時計まで、全ての時計が2ヶ月前の時間を指していた。

 そのうち、天文学者が星を観測して惑星の位置関係が綺麗に2ヶ月戻っていることを確認し、ようやっとボクらは今起こっている現象の詳細を理解し始めた。


 時間が戻ったのだ。平成最後の夏の終わりから、始めまで。

 部屋の中を見てみると、全ては2ヶ月前の通りだった。体は日焼けしておらず、注文したはずの蚊取り線香はまだ届いておらず、冷蔵庫の中には6/30に食べ残したカツサンドがまだ入ってた。

 この現象は奇妙すぎた。テレビでは連日知識人が議論をぶつけ合い、インターネットでも様々な流言が飛び交った。

 某国の陰謀だとか、我々は集団催眠にかかっているのだとか、実はこの世界はシミュレーションの中に存在して、そのシミュレーションに致命的なバグが発生したのだとか、そういう説がいくつも提唱されては消えていった。


 ボクはというと、何をするでもなく結局そのまま会社に行った。そう、そのころはまだ会社という組織があったのだ。

 違和感はあったし、貰ったはずの給料が消滅していたのは腹が立ったけれど、使ったはずのボーナスが復活していることに気がついて機嫌を直した。


 数週間も立つと、皆はだんだんと落ち着き始めた。悪い夢でも見てたのさ。とでも言いたげに、人々はこの現象を話題にすることもなくなり、高校野球が始まる頃にはすっかり日常に戻っていった。


 ――2回目の繰り返しが起こるまでは。


 GMT(世界標準時)2018/8/31 14時35分 日本時間22時35分、ふっと意識が遠のいたかと思うと、ボクは2018/6/30 22時35分の布団の中にいた。

 今度は会社には行かなかった。溜まっていた有給を全部使った。今では有給なんて忘却の彼方へ消え去ってしまったけれど、そのときはまだ日常に戻れると思っていた。


 3度めの繰り返しで、大体皆はこの現象の本質を理解しはじめた。


 それから平成最後の夏は何度も何度も繰り返した。最初は楽しかった。好きな場所に行けたし、貯めていた映画や小説を消化することができたからだ。でも5回目あたりから急に不安になってきて、10を超えたあたりで数えるのをやめた。今は多分数万回繰り返しているのだと思う。

 ネットのフォーラムでは律儀に数を数えている人がいる。繰り返しが起こるたびにブラウザを立ち上げて、記憶していた数字に1を足して描き込む。だが、そのカウントが本当に正しいのか確かめることは出来ない。

 すべての記録は虚無になる。ノートに書いた鉛筆の線も、電子的に記録された情報も、全ての記録ははじめからなかったことになり、再びボクらは夏を繰り返す。


 車は国道をひた走る。人気はほとんど居ない。今では全ての人間が無気力だ。永遠は残酷だ。何かを変えようとしても、全てはリセットされる。人類は無限の夏休みを手にいれた。だがそれをどう使えばいいのだろう?

「そういやさ、まだ図書館行ってるの?」ハンドルを握りながら友人が問う。

「うん、通ってるよ。あと何回かあれば、全部コンプリートできるかもしれない」

「はぁ~すご。もうそんなに読んだん? ねぇ、どんな気分なの? 何万冊も本を読むってのはさ」

「正直、面白くない本も沢山あるから、微妙だけれどね。たくさん読むとどれがどれだったか、だんだん解らなくなってくる。同じ本を二回読んでも気が付かないことだってあるし」

「へぇ、じゃあ無限に楽しめるってわけ」

「無限にか……」ボクはそう呟くと小さく笑った。「それはいいことかもね」

「いいことだよ」友人はそういうと、アクセルを踏み込んだ。


 海は穏やかに透きとおり、何千億回も繰り返し打ち寄せてきた波は今日も優しく砂浜を撫でる。

 友人は、裸足になると、パシャパシャと水しぶきを上げて海に入る。キラキラとした飛沫がワンピースの裾を綺麗に縁取った。


 写真が欲しいな、とふと思って驚いた。最後に写真なんて概念を思い出したのは一体どれほど前のことになるのだろう。すべての記録がやがて消滅する世界では、写真の意義なんてものはもはや存在しない。

 美しいものはこうして、記憶の片隅にとどめておくことが一番だ。そしてそれもまた何千万年か後には忘却の彼方に消えてしまうのだろうが、それでも今この瞬間は貴重なのだと思う。


 海の温度は心地よく、思わずため息が漏れる。何回来てもいい。地球表面の七割を覆っている広大な水が、薄いヴェールとなって、蒸し暑い熱気からボクの体を包む。

 服を着たままだったが、この魅力には抗いがたい。

 海から顔をあげて潮風を吸い込むと、友人と目が合って、自然とボクらは笑顔になった。


 まだ自分たちが笑えると言うのは貴重なことなんだなと心の何処かで思う。そのうち、ボクらも他の人みたいに全てが退屈になり、自宅の布団の上で身じろぎもせず、ただ何万年も時が過ぎ去っていくのをじっと見つめるだけの存在に成り果てるのかもしれないけれど、それには、まだ時間があるということだろう。


 ひとしきり泳いだ後、車に戻って昼食を食べて、その後は浜辺で貝殻を探した。貝殻が打ち寄せられるかどうかはランダム性が高いため、他の遊びに比べると飽きが来るのが遅いが、それでも最近は見たことのある種類の貝殻ばかりで、瓶とかガラスのウキとかそういう貴重なものが見つかった場合は嬉しくなるけれど、そんな幸運はめったにやってこない。


 夜は波の音を聞きながら星を見た。今回の夜空は雲ひとつ無く晴れわたっていて、透き通った大気が宇宙の深淵に向かって静かにその身を横たえていた。

「ねぇ……」ふと友人が、口を開いた。「あたし、この間死んでみたんだ」


「いつ?」

「二回ぐらい前かな。あなたと海に行った後」そう言って彼女は左手首を人差し指で撫でた。

 自殺する人は多い。永遠は魂を蝕む。しかしあれほど人々の恐怖の対象であった死でも永遠の前には無力だ。

 死んだ後、気がつけばまた同じ夏の始まりに戻っているのだ。


「そう、なんで?」

「なんとなく。久しぶりに死んでみようかなって思って」

 それっきり彼女は黙り込んだ。


 流れ星が流れないかなと思う。流れたらそれで話題ができるのに。


 彼女は静かに自分のお腹に手を当てると、ゆっくりと口を開いた。

「あたし、ひどい人だと思う?」

「全然」ボクは即答した。それは本心からだった。ボクも似たようなものだから。

「キミが何を悔いているのかは、解るよ。でもそれはキミにはどうしようもできないことだから、考えたって意味はないと思う。

 ……さあ、もう寝よう。明日また違う場所に言って楽しいことを探そう。きっとまだ死ぬには早いってものが見つかるよ」


 彼女は小さく笑って言った。

「ありがとう。あたし、あなたに会えてよかったと思う」

 暗くて見えなかったけれど、彼女は多分微笑んでいたのだと思う。


 ボクは星空に目を戻した。

 彼女と初めてあったのは、どれくらい前のことだろう。繰り返す夏のどこかで、彼女は恋人と別れ、そしてボクと出会った。

 その時、ボクは恋愛感情に流されるのをとっくにやめていた。永遠に続く夏の間には、何人か一緒に過ごしてみた男はいたけれど、結局全て虚しく思えて、繰り返しが進むうちに自然と別れてしまった。

 だから、彼女に感じたのは恋愛というより、安心感だった。自分の足りない部分にピッタリとハマるような、彼女はつまりそんな人間だった。

 だから、彼女に出会えて感謝しているのはボクの方だ。彼女が居なければ、もっと前にボクは退屈に殺されていただろう。


 ボクらはこの夏に閉じ込められたまま、永遠に時を過ごすのだろう。老いること無く、成長すること無く、親になることもなく、ただ年を取っただけの子供として。でも彼女と一緒ならば、耐えられる気がした。


 母の胎内で生まれること無く永遠を過ごす胎児は何を思うのだろう。

 産まれてくることのない我が子をその身に抱く母親は何を思うのだろう。


 この記憶も、やがておぼろげなものになるのだろうか。この会話をボクらはあと何回繰り返すのだろうか。

 それでも、今ボクは彼女のことを大切に思っているし、今のボクにはそれだけで十分なのだ。


 明日、良い日になりますように。ボクはそっと目を閉じた。

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ボクたちは終わらない夏の中で 太刀川るい @R_tachigawa

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