死んだら酷かった

原幌平晴

第1話 これにて最終回

 死んでみてわかったのだが、死者でいるのも楽ではない。よく、「楽にしてやる」なんて言って殺してくれる奴がいるが、そんな奴に限って死んでみたことなどないのだ。ひどい話だ。一度も食ったことのない料理を「これはうまいぜ」なんて言って、他人に勧めるようなもんだ。そんな料理に限って不味いのに。

 事故などで手足などを失うと、それがまだあるような幻覚に悩まされることがある。幻肢というらしい。失った手や足の記憶が意識に残りつづけて、それらが痛んだり痒くなったりするのだ。どんなに痛んでも痒くても、さすることも掻くこともできないので、どうにもつらくて困るらしい。

 俺など、死んじまったので体全体を失ってしまったわけだ。おかげで、幻の身体(幻体?)に悩まされるはめになった。体中が痒いのだ。

 なんとかして欲しい。頭は一週間も洗わなかったみたいにムズムズするし、手も足も腹も背中も一ヶ月も風呂に入らなかったみたいにウズウズする。いや、そんなに不衛生な生活を送ったつもりはないんだが……。とにかく、掻きたくても手がないし、柱にこすり付けたくても背中もないのだ。

 痒いのはまあ、我慢ができるとしても、死んでるくせに腹が減るのには参った。どうやら、胃袋がある時の記憶が残っているらしい。……なんてことを意識したもんだから、残りの器官の記憶が、いっせいに自己主張しだしやがった。

 頭痛や歯痛に始まり、心臓は鷲づかみされるし、肺は息苦しくなるし、下っ腹は痛くなるし、膀胱は尿意を伝えてくる。最後の奴など、解消したからといって誰に迷惑がかかるでもないのだが、そもそもつまもうにもナニがないのだ。

 いい加減うんざりしてくる。なんだって、こんな不快な感覚ばかり残るのだ。もうちょっとマシなものは残らないのか? 俺だって生きてるときは、ちったあマシな経験だってあったはずなんだが。

 ……しまった、そんなことを考えるもんだから、ナニがむくむくと……。困る。これは困るぞ。一体、どうしてくれるんだ、コレを。文字どおり、手も足も出ないじゃないか。

 まさか、俺にとってマシな経験って、コレだけだったりしないよな。いや、ソレはソレで天国かも知らんが、ここではいわゆる蛇の生殺し状態だ。

 それともあれか、ここがいわゆる地獄なんだろうか? だったら話はわかる。実際、こんな不快な状況が永遠に続くなんて耐えられない。死んだ方がマシだ。いや、もう死んでるんだっけ。

 とはいえ、地獄なら地獄で、落とされる前のなんか儀式めいたものがあったはずじゃないのか? いきなり気がついたら地獄だなんて、そりゃあんまりだ。閻魔大王でもキリストでも良いから、地獄行きの理由を内容証明付きで送ってもらえないもんだろうか。善行と悪行のバランスシートぐらい、つけてあるはずだ。見せてくれ。

 などと考えて気がついたのだが、納得して刑罰を受けるくらいなら地獄へは来ないよな。うーむ、俺ってほんとに救いがたい悪党だったのだろうか?

 生前の俺を振り返る。何も出てこない。なんてこった、脳みそもなくなっちまったから、何も思い出せないのか。幻体の方は、それこそ身体が覚えてるのか? それだってもうなくなってるのに。

 ……てことは、あれか。今の俺は言葉だけの存在なのだな。なあんにもないところに、ただ言葉だけがある。おお、それって神様みたい。

 言葉は神とあった。言葉は神である。

 うーん、いいねぇ。でもって、もし神になれたら、一発やってみたかったことがあるんだよね。

 光あれ

 なーんちて。あはは。

 ……げ、マジ? ほんとに明るくなってきやがった。やばい、やばいっすよこれ、ナニをおっ立てたまんま天地創造したとあっちゃ、神の股間、じゃない沽券に関わるじゃないか。


「先生、患者の容態が!」

 看護婦は心拍数の変化を伝えた。

「う……うむ、回復しつつあるようだが……」

 看護婦は下半身の方を見て「キャッ」と悲鳴を上げた。

「ううむ、こっちも回復しつつあるようだが……」

 患者の妻は、夫の手を握って懸命に祈っていた。

「あんたぁ……あんたあ……生き返っておくれよぉ、でないとあたしぃ……」

 そのとき、患者のまぶたがぴくりと動き、うっすらと目を開けた。

「あんたぁ!」

 患者の妻が顔を寄せて叫んだ。


 俺は見開いた眼前に広がるドアップの顔を見た。その瞬間に、この女のせいで巻き込まれた数あまたの悲劇を思い出してしまった。

 神は、自らが創造した世界を見渡した。それは、はなはだ悪かった。

「やっぱ俺、死ぬわ」

 ……神は、死んだ。


 ……俺は、生きた。

 というか、生きてしまった。

 半月後。死に切れなかった俺は退院し、女房の押す車椅子に乗って家路に向かった。

 まあ、なんだな。生きてりゃなんか、いいことあるだろ。死んだ気になって頑張る、とか言うけど、確かに死んだ気持ちはしっかり味わってるし。

 その時、北風がピューッと吹いた。背後で女房が「へくちっ」とくしゃみをした。両手で口元を押さえて。目の前は下り坂だった。

「あらぁ?」

 ……おまえ、両手を離したな。

「あららぁ?」

 車椅子はずりずり前進しだした。

「あんたぁ!」

 早く止めてくれぇ!

 次第に速度を増す車椅子の肘掛を握りしめながら、俺は包帯だらけの身体をこわばらせた。女房は、はるか後ろからドタドタと追いかけてくるが、ぐんぐん離されてしまう。

 まただ。またこんな生活が始まるのか。

 俺は、猛スピードで断崖に突進しながら、痛烈に思った。


 やっぱ、あのとき死んどくんだった!

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死んだら酷かった 原幌平晴 @harahoro-hirahare

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