その身に負う時を刻む町にて

 その町には、『声』に呼ばれたわけでなく、ただその道すがら、通りがかったというのが正しい。声はこの町を抜け、もう少し先へ向かえばようやく出会える程度であったけれど、町に入らず通り抜けるのはいささか非効率がすぎる。少し通り抜けるだけなら、とレオノーラはその門をくぐることにした。

 その門は煌めく玉石が積み重なって作り上げられ、その壁にはいたるところにコツリ、コチリと時を刻む時計が飾られている。

 すっかり目を奪われて見上げていたら、そんなレオノーラを見かけた城壁の男が声を掛ける。

「神父様、この町へ教えを説きに来られたのかい?」

 門は閉じたままだ。レオノーラは男を見上げ、するすると右手を走らせる。なぞった虚空に光が文字をかたどっていく。レオノーラはそれをほんの少しの風に乗せて、男へと渡した。

――教えを説くべきならば説くかもしれないが、平和な街であるなら説く必要もないと思う。しばしの観光、としてもらって構わない――

 なるほど、と彼は納得したようで、何やら覗かせていた顔を引っ込めてがちゃがちゃと音を立てながら機械を動かす。そうすればレオノーラの眼の前の門は鈍い音を立てながら、ゆっくりゆっくりと開いていく。

 その門の先に見えたのは、煌めく石で築かれた都だった。

 その石畳は色とりどりの宝石が敷き詰められ、大通りの奥には大きな塔が立っていた。時刻を示す、時計塔。門からこの町へ入り、レオノーラはこの町の空気に圧倒されるように立ち尽くした。

 どうぞ、良い観光を、と告げる門番にレオノーラは見上げて会釈をして、その町へと入った。

 大通りは見える先まで石畳で作られていた。その両脇に立つのはこぢんまりとした商店。所々に脇道があり、そこから先はこの門からは見えないものの、民家が連なるのか隠れ家的な店が並ぶのか。どちらにせよ、少し好奇心をそそる町並みだった。

 とはいえ、まず行き先を決めないことには動けない。指針も今のところはないのでどうするべきかしばし悩んだ。

「司祭様?」

 佇んだレオノーラへそう声をかけてきたのは、年の頃にして十になるかならないかという幼い少年だった。ぱちくりと目を瞬かせながら彼はまじまじとこちらを見ていた。その青い目にゆるりと笑んでおく。

「司祭様、旅人さんなの?」

――そうだね。ここは、とてもきれいな町だ――

 いつものように、文字を綴る。少年は不思議そうにその様子を見ていたが、彼に言葉を向ければゆっくりとそれを読み、納得したように頷いていた。そしてそのうちレオノーラの服を掴む。

「司祭様は、奇跡を起こすんでしょ?」

 そう屈託なく笑う彼へ、レオノーラもどう答えたものかと少し迷うより他にない。彼が望むような「奇跡」を起こせないことは、レオノーラが一番良く分かっていたからだ。

 けれど、それもなかなか理解してはもらえない。代わりに、レオノーラは話を変えることにした。

――この町に、宿はあるかな? 少し観光させてもらいたいと思ってる――

「あるよ! 時計塔のそば!」

 彼が指差す先には大きな時計塔があった。かなり距離があるように見えるが、その塔の頂点に近い大きな文字盤はこの場所からもしっかりと見え、この町の時刻を刻んでいた。

 その少年にこの町の歴史を聞くのは少し忍びなく思えたし、自分で歩かねば町のことはわからない、とかつて聞いたことを思い出して、レオノーラはその少年とここで別れた。屈託なく「ばいばい!」と手を振って、その少年はその場を去ろうとした。

 ただ、なにか思い入れがあったのか、くるりと振り返る。

「司祭様、もしお時間があったら、僕の家に来てね! 司祭様の祝福があったら、きっとみんな幸せだから!」

 満面の笑みで、少年は言う。もうすぐ、弟ができるんだ、と。レオノーラは静かに笑む。

――あぁ、時間が合えば――

 レオノーラがやんわりと告げたその真意を、彼が理解しないことを願った。それは幸いにして叶ったようで、それじゃあまたね、と少年は去っていった。

 レオノーラの祈りは決して彼の望む祝福にはつながらない。だからこそ、これから生まれいづる生命にレオノーラが祈りを捧ぐことが無いようにと、彼自身が祈っている。

 とは言えども、彼に真実が通じなければそれでいい。

 少年が小道へと駆けて行くのと同じくらいに、大きな鐘の音が響いた。耳障りには決してならず、けれど人の気を引くにはちょうどいい、綺麗な音色だった。遠くへ音を届けるよう、何かしらの魔法が施されているようにも聞こえた。

 時計塔を見やれば、その一番上には艶消しを施した鐘が見える。どうやら、あれが時報らしい。文字盤はきっかり正午を示していた。

 どうやらこの町では馬車が交通の要のようだった。乗り合いの大きな辻馬車で、少年に聞いた時計塔まで向かうこととする。どうやらこの町も聖職者は少ないのか、珍しそうな目を向けられることは多かった。ただ、旅人自体は少なくないようだった。このあたりには目立った町がないから、立ち寄るものも多いのだろう。

 乗客はレオノーラを含めて四人。がたごととレンガ色の石畳を走る辻馬車から、レオノーラは窓の外を流れる景色を見る。ここはおそらくこの町一番の大通りなのだろう。すれ違う辻馬車もあれば、人の往来もあり賑やかだ。商店が並ぶ前には臨時の露店が並び、昼食を買い求める人々が多く目についた。

 立ち並ぶ建物は色こそまちまちであったが、ほぼすべてが二階建ての石を積み重ねた石造りのものだった。だいたい背の高さは揃えてあり、美しい景観はこうしたところから作られているのかもしれない。

 時計塔前、という終点で馬車を降りる。この時計塔は中が博物館になっているようだ。町の工芸品や歴史を語っているならば、あとで少し入ってみよう、と心に決める。

 少年が教えてくれた宿はすぐに見つかった。瀟洒な佇まいの玄関を中心に左右対照のデザインで、それぞれ客室には窓がついているようだ。なかなかの部屋数を有しているらしい。少しながらの気後れと、できれば宿代があまり高くつかないことを祈りながらその扉を開く。

 正面奥の受付につながるロビーの床は綺麗に磨き上げられ、どこか談話室のような様相を呈していた。

 この町では少しばかり長く滞在をするつもりだった。単に、ここへ来るまでに旅支度に使っていたものがかなり目減りしたり悪くなったりしてしまったので、調達の資金と時間が必要だった。

 長期滞在でも構わないか、と尋ねてみれば、そうした客も少なくはないという。少し長期の滞在を見越して、と用意された部屋は二階の角部屋。ベッドがひとつに書き物用の机と、飲食ができるようになのか小さなローテーブルが置かれたその部屋は、確かに長期滞在であっても居心地が良さそうだった。提示された宿代にも感謝をしながら、レオノーラは簡単な荷解きをしてから部屋を出ることにした。

 レオノーラは宿を出てまず時計塔を訪れた。時計塔の下へ立てば塔の先端はなかなか見えず、それでもカチリカチリと時の刻む音は変わらず聞こえている。

 中は少し薄暗く、少し高いところから陽の光がさしていた。中央は外から見るよりも随分と広かった。もしかすると、空間を少し広く使えるような魔法がかけられているのかもしれない。レオノーラはこのあたりに暗いため、詳しいことはわからない。

 目に見えた場所から訪ねていけば、はじめに行き当たったのはこの町の風土と歴史を語る部屋だった。入ればその部屋の主らしき男性がひとつ頭を下げた。

「旅人さんですかな。ようこそ、この歴史館へ」

 レオノーラは頭を下げる。温和そうな初老の男性だった。聞けば、時計塔の管理人だという。アッシュグレーの髪と同じ色の蓄えられた口ひげは彼に似合っており、よくよく歳を取った美しい御仁だった。

 彼はこちらへ応えるように頭を下げ、その柔和な笑みを絶やすこと無くその部屋の奥を指し示した。この部屋の順路は奥からなのだという。案内をしようか、と言われたので、せっかくだからとお願いをする。もしかすると、文字の説明だけではわからないこともあるかもしれない。

 この国の歴史は、場面を似絵で切り取り文字を添える、という形で語られるようだった。はじめの一枚は、古い鉱山で採掘を行う人々の絵だった。

「今、この町は成り立ってから二百年ほどが立っていますが、はじめはこの近くの鉱山で貴金属を採掘し、近くの町へ出荷することで成り立っていました」

 この時計塔は言うまでもなく、立ち並ぶ家々も石畳もみな石を基調に作られていたことを考えれば、想像には硬くない。天然石だけでなく、鉄や銅なども取れたのです、と彼は続けた。

 二枚目は、そうした石を細工する人々、そして製鉄して加工する人々が描かれていた。この町の人々は手先が器用な者が多かったらしく、試行錯誤の末に採掘した石や鉄、銅を加工し、芸術品として売りさばくように変わっていった、ということらしい。

 また、この町には少し変わった風習があった。誰が言い始めたかは定かでなかったが、彼らは「世界」の時間と同じように「自分」の時間を重んじる、というのだった。

 レオノーラがその意味をよく理解できず時計守の方を見れば、それも無理ないお話ですね、と彼はひとつの懐中時計を取り出した。

 銀色の蓋は中央がガラスになっており、蓋を閉めたままでも中の文字盤が確認できるタイプのものだ。細かな細工が施されたそれは長年持ち続けているものなのだろう。ところどころに傷がついていた。けれど丁寧に磨かれ、大事にされているのはよくわかった。

 けれど、その文字盤は今の時刻とは大きくかけ離れた時刻を示していた。六の盤面の上部には日付のようなものが入るようになっていたが、それも今日とは違っている。

「これは、私が生まれてから今まで生きてきた時間を測る時計なのですよ」

――あぁ、なるほど。だから、「私の時間」――

 合点がいった、とレオノーラは礼を言う。古くから、それこそこの町が出来始めたころには、こうして「自分の時間」を測る時計を皆持っていたという。

 そのうち、外へ売り出された飾り細工を呼び水に少しずつ、この町に移住してくる者たちが増えてきた。それは細工師であったり製鉄の知識に明るい者であったりと様々だったが、皆それぞれ程度はあれども「ものを作ること」に秀でた者たちだった。

 そこから、この町は各自工房を構え、自らの情熱をかけて何かを作り上げる「工房の町」としての側面を持つようになっていった。そして、彼ら移民にも「自分の時間を測る時計」の習慣は広まっていったらしく、それぞれ「この町に来てからの時間」に合わせたり、おおよそでもいいからと「自分の生まれた時間」に合わせて、時計を持つようになったそうだ。

 レオノーラが入ってきた門から時計塔までの、町でいうならば南側は新市街と呼ばれ、それぞれこの町の工房で作られた品が並ぶ商店や居住区域。北側は昔から今に連なる工房が並び、鉄を打つハンマーの硬質な音をかすかに聞きながら、職人たちが己の技術を高めるべく仕事に打ち込んでいるのだという。

 最後の展示は、この町で名産とされる工芸品の数々だった。古くはアミュレットや指輪が多かったが、同時期から作られていたらしい、飾りの少ない懐中時計や腕時計のようなものも保管されていた。

 そうして時計守の男から勧められたとおり、時計塔の上へと昇ってみることにする。この町が一望できるその場所は観光名所となっている。

 「展望回廊」とそっけなく書かれた扉を開いたそこは、塔の外周をぐるりと回る廊下につながっていた。高さ的には、ちょうど時告げの鐘の下、大きな文字盤の上あたり。

 空に地にと煌めく光に、息を呑んだ。

 外はすっかり夜になっていた。今宵は月も浮かばぬ朔の日。見上げればそこには降り落ちるような星空が、下を見れば家々から暖かな光が町を彩っていた。吹き抜ける夜風も爽やかで心地よい。

 工房の方へ目を向ければ、ぽつりぽつりと建つ煙突からは煙が立ち上り、まだまだ彼らは眠らず仕事をしているらしい。

 しばらく時間が経つのも忘れてその景色を眺めていたが、時計守から「そろそろ閉めようかと」と言われ、立ち去ることにした。思えばまだこの町へたどり着いたばかりだ。宿の部屋に戻れば今まで感じなかった疲れがどっと押し寄せてきて、レオノーラは夕食もそこそこにベッドへと倒れ込んだ。


*****


 翌朝は少しゆっくり時間を使い、昼手前あたりで工房の方を訪れた。

 やはりこれだけの工房が軒を連ねているのは珍しいということで、ここも観光の要となっているらしい。大通りの入り口には案内所があり、工房街の地図を配っていた。なんでも、似たような路地が多く場所も広いために迷子が多いのだとか。

 もらった地図はデフォルメされたイラストで路地がわかりやすく記載されていた。温かみのある丸文字とイラストが愛らしい。

 また、その案内所には工房見習いを募集する張り紙も多く掲示されていた。職業斡旋所のようなものも兼ねているのかもしれない。

 いろいろその掲示板を見ていきながら、目に止まったのは人々へ渡すべく作られる時計の仕上げとなる研磨作業と、修理依頼された時計の簡単な調整と手入れ。

 この町にもいくらか宗教を生業とする場所はあるようだが、当然のことながらレオノーラと同じ神を信仰するものはいなかったし、そこまで皆が信心深いわけでもないようだった。ちょっとした節目、それこそ身内の誰かが儚くなったその時に宗教者を呼び儀式をする程度。それならば、自身の生業はそのまま伏せて、何も知らぬ人間として働いてみたほうが良いと思った。

 いくつかの工房の案内をもらって、地図を見ながら路地を歩く。煉瓦色の石畳はあるきやすく、石や鉄を打つ音や時計の針が進むカチリコチリという時計の音がしていた。窓からその作業場を覗けるようになっているものもあって、観光客らしき人々も作業場を覗きながら歩んでいた。

 目的の工房は程なくして見つかった。佇まい的にはそれほど大きくもなかったが、古くからここに建っているのだろう。元は白かったのであろう漆喰の壁は町と一緒に歴史をまとい、趣のある色合いになっていた。

 閉まっている扉を開く勇気はなかなか無かったが、幸い扉は開いていた。訪ねる声をかけられない代わりに、少しだけ風を動かして扉のベルを鳴らして、中へと入る。

 入り口から見えた奥には大きな柱時計が立っていた。ガラス張りの中には振り子が揺れている。壁には様々な工具がかけられ、広い作業机の上は雑然としていた。今この作業主は不在らしい。

「よくいらっしゃいました!」

 奥の部屋からぱたぱたと走って出てきた青年がそうレオノーラを迎えた。機械油で汚れた長いエプロンをまとった彼へレオノーラは頭を一度下げ、斡旋所にもらった仕事の案内を提示した。

 青年は孔雀石のような目を爛々と輝かせてレオノーラの手を取りぶんぶんと振った。少々強すぎる握手だった。

 なぜこんなに彼が喜んだかといえば、この工房、親方がすぐに新しく入った人間を「気に入らない」と追い出してしまうから、ここしばらく新しい人はやってこなかったのだという。腕はとてもよく、時計の注文も多い有名な工房だということなのだが。

 その親方は現在時計塔の仕事にこもっており、こちらの工房へはほとんど顔を出さないそうだ。昨日訪れた時計塔の大時計を手入れしているのが、この工房の親方らしい。時計塔の管理人は、この工房の先代に当たるとか。

 たまたま引き当てた場所が大変由緒正しいところだというので、レオノーラは一度自分の状況を彼へ伝えた。時計のことは素人ほどの知識がなく、この町に来たのも数日前。いつかはまた旅立つつもりでいる。そして、何より自分は声を出すことが出来ない。話すには筆談に限るけれど、それでも問題がないだろうか、と。

 すでに奥から作業者用のエプロンを引っ張り出してきた青年は、レオノーラの言葉をじっくり読んで、「大丈夫ですよ!」と笑った。歳の頃は十七〜八くらいだが、笑うとまだ少し幼さが見える。

「真面目にやってもらえたら、親方は何も文句は言いませんよ」

 なまじこの町では有名な時計工房のひとつであるがゆえに、「工房見学がしたい」というような目的で志願してくる人がいるらしい。そうした人間は大概仕事をこなすよりも工房を見回して時間を使うため、親方が烈火のごとく怒り出すのだとか。

「どんなに下手でも慣れなくても、やる気さえあるならしっかりやり方を教えてくれる、いい師匠です」

 そう言う青年の表情は誇らしげだった。彼の他にここで働いている人はいないのか、と聞けば、そのとおりだと頷かれた。彼が入った頃は先輩も同期もいたそうだが、独立したり別に職を変えたりして結局、残ったのは彼だけになった。

 いろいろ話を聞いた結果、暫くの間、ここの仕事を引き受けることにした。渡されたエプロンをつけ、工房の奥へと案内された。

 大小様々な歯車を始めとした部品が並ぶ。広めの机は三つ、それぞれ陽の入る向きの窓際に配置してあった。机には手元を照らすためのランプがある。一つはその未だ見ぬ親方の、ひとつは青年の作業机なのだろう。

 そんな工房の傍らに、完成品と修理品に分けられて懐中時計が置かれていた。それなりに数がある。

 そこで手入れの仕方を少し学び、はじめは見よう見まねで比較的簡単な研磨作業を行った。慣れてきたら、中を開いた調整作業も任されることになるらしい。

 外側が金で出来ているか銀で出来ているかによって、磨くための溶液の質が違うのだという。それぞれの材質に合わせて、日頃持つが故にくすんでしまったその汚れを落としていく。

 遠くから鐘の音がして、レオノーラは一度顔を上げた。気づけば外も暗くなり始めていた。熱中している間にすっかり外は夜になっていた。窓から見える町並みの上を彩る空に散りばめられた星々はやはり幻想的だ。

 慣れない作業から、半日ですっかり身体は凝り固まってしまっていた。一度ぐっと伸びをすれば、肩がバキバキと音を立てた。

 それが聞こえていたのか、見習い青年はくすくす笑って「続きはまた明日」と言われた。彼はもう少し残って帰るのだという。彼の手元には作りかけの時計があった。

「近々納める予定の時計なんです」

 近々産まれるという双子のための、対時計。きっと子どもが持つには大きいだろう。レオノーラや見習い青年が持ってちょうど程度の大きさだった。生涯持ち続ける時計、ということだから、それも致し方ない話なのだろう。


 その日、宿に戻り眠る間際。小さくだが確かに、『声』が響いた。


 『声』の主を探すのは、毎度骨の折れる作業ではあった。なにせ『声』の主はレオノーラが探していることはおろか、自分が『声』を上げていることすら気がついていないような状況がほとんどであったからだ。状況的に誰にも看取られず弔われない魂が哭(な)くのだ。

 ただ、今回は少々勝手が違った。昨日から働き始めた工房に赴けば、今日も親方は工房へ姿を見せてはいなかった。一人残る見習い青年がどこかせわしなく工房の中を行ったり来たりしていた。レオノーラが工房へやってきたことにもはじめは気が付かなかったほどだった。

――一体何が? ――

「あぁ、すみません。ちょっと、お客様の方が大変みたいで……」

 彼が二の句を告ごうとした時に、ジリリリリと言葉を遮るように電話が鳴った。

 ここへ来てからも聞こえていた『声』が、少しだけ。その声量を増した。


 見習い青年はうなだれたように顔を伏せた。受話器を置く。けれど、次にはもう顔を上げている。レオノーラがいることを思い出したのだろう。振り返った彼が見せたのは、困ったような悼んでいるような笑みだった。手にしたのは、昨日見せてくれた対時計。

「要らなくなってしまったそうです。この時計」

 お金は前払いだからいいんですけど、困ったなぁ、という彼の言葉はどこか寂しそうだった。詳細を彼は語ることがなかったけれど、聞ける雰囲気でもなく、『声』が聞こえていることと、無関係とは思えず。

 つまりは、そういうことなのだろう。

「……レオノーラさん、もしよかったら、なんですけど。もらってもらえませんか?」

 手巻き式の懐中時計。いつもは、本人の手元に届いてから、初めてネジを巻いて時を刻ませるのだという。使われないものは寂しいですから、と青年は告げる。本当は良くないんですけどね、とも。

 工房で作り上げるものはすべて特注品扱いだ。作り手の思いを一心に受けたものである。その熱量がいかばかりのものなのか、レオノーラには想像にもつかないほど。

――もらいうけるのは、私でいいんだろうか? ――

「……これも、何かの縁ですから。よければ、もらってほしいなと思ったんです」

 嫌ならいいんですが、というので、レオノーラは頭を振った。

 青年から手渡された対時計の片割れは、ずしりと重たく艷やかだった。

――それから……その人の家は、分かるだろうか? 一緒に弔いに行かせてほしい――

 はた、と青年はレオノーラを見つめた。どうやら、弔いに行くという考えはなかったらしい。ただ、しばらく時間を置いたほうがいいだろう、という話になった。

 青年はしばらくその時計をじっと見つめていた。要がなくなった残りの片割れ時計を、彼がどうするのか。レオノーラにはわからないことだった。

 その日は前日と同じように、けれどどこか青年は空元気のままその日の作業を終えて。待ち合わせる段取りを付けて、レオノーラは宿へと戻ることになった。

 未だ『声』は聞こえたままであったけれど、この町の葬儀で弔われるならばそれでいい。なれば、只人と同じように参列して帰ればいいらしい。自分の喚ぶ神は、その機会をレオノーラに教えこそするが、別の方法で弔われるならそれでも良いらしかった。


*****


 レオノーラに聞こえていた『声』は、いつもにまして要領を得ないものだった。幼子だろう、とは思っていたのだが、まさかまだ生まれ得ぬ赤子であったとは思わなかった。

 宿に戻ったレオノーラは、譲り受けた懐中時計を開いた。巻き方も教わり、ひとりで扱えるようにはなっていた。少し、思い返すように視線を宙に遊ばせる。

 かつて、自分が神を降ろしたその時刻は、今でも確かに覚えていた。

 カチ、カチと時を刻み始めたその音をかすかに聞きながら、小さく祝詞を口ずさむ。その旋律は少しだけ開いた窓から夜風に乗って、未だ灯の落ちぬ工房の町を包んでいく。悼むもの悲しむもの、今日がい日であった者も運がなかった者も、すべてに等しく、心地よい眠りが訪れるように。そう願いをこめながら。

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その眠りに祝福を 唯月湊 @yidksk

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