その眠りに祝福を
唯月湊
夜海に響く祈りの歌
薄暗くすらあった森を抜けた高台で開けた視界に広がったのは、
肌を撫でるぬるい風はこの晴天でも少し湿っていた。寄せては引く波の音は、初めてながら心地の良いものに思えた。
どこか空虚さすら感じるほどに、その群青は広かった。
視線を少し手前へ落とせば、その群青を高台の裾野が少しばかり侵食している。海に面した部分はどうやら切り立った崖のようになっているらしい。その崖の上から地を這うように、小さな白い家々が立ち並んでいた。
レオノーラの故郷は渓谷の町であった。いつものとおりに『声』に導かれ流れ流れてここまで来たが、このような風景が待っているとは思わなかった。
『声』はどうやらその町から聞こえるようだった。レオノーラは降りる道を探すことにする。
海に面したその町は、活気のある港であった。少し行けば砂浜もあるようで、観光にやってきている人間もいるらしい。レオノーラもそんなひとりとして見られているらしい。ようこそ、といくらか声をかけられることが多かった。この町へ教えを説きに来られたのか、と人は問う。
そして同時にもうひとつ。
「しかし、その格好は暑くないかい?」
レオノーラの格好といえば、厚手の布を仕立てた丈の長い修道服に、フードのついた長い外套。
外套はともかく、修道服に関してはレオノーラの故郷での正装であり儀祭服でもある。他国ではどのような位置づけになるのかは分からないが、こちらが名乗ることもないまま「司祭様」と呼ばれたことからも、神に仕える者たちはみな同じような格好をしているのかもしれない。
レオノーラはすっと宙に指を走らせた。すると、その軌跡は光となり文字をかたどり、反転して相手の方を向く。今は昼だ。意志を乗せ表す文字は宵闇色を選んだ。
レオノーラは言葉の代わりにこうして文字を書く。声を出すことを忌避する彼は、いつもこうして人と会話をする。はじめは驚かれるし、時には腫れ物にさわるような素振りを見せたり、露骨に避けていくものもいた。
幸いにして、ここで話しかけてきた行商人はこちらを忌避することもなく、「司祭様じゃあなくて術師の方だったのかい?」とレオノーラの言葉を楽しそうに見た。
――この辺りで、波の音がよく聞こえるのはどの辺りですか? ――
「うん? 妙なことを聞くもんだね。ここは海の寵愛を受ける町だ。どこにいたって潮騒は聞こえるようなところだよ」
困ったな、とレオノーラは少し眉間にシワを寄せたが、代わりに宿の場所を尋ねてその場を立ち去った。
大した荷物も入っていない鞄をベッドへ起き、その隣へ腰掛けた。ひとまず滞在は三日間とした。そこまで広い町ではないから、それくらいで目的は達せられるだろう。
*****
声がする。
それは、物悲しく謳うような女の声。
切々と願い祈る、傷みすら孕む声。
(だれか、とどけてほしい)
聞こえている、とレオノーラはひとり口にせずとも呟いた。
けれどレオノーラに応えを届ける力はない。だからこそ、こうして実際にこの声の聞こえる町に足を運んだ。
どうか、彼女の嘆きを掬い上げられることを、不安ながらに祈りながら。レオノーラは床につく。
*****
翌日も、この町はきれいに晴れていた。なんでも、雨が少ない地方なのだという。陽光煌めく海は少しレオノーラには眩しかった。
港町の朝は早い。日が昇る頃には市場が活気づき、その夜や朝方早くにとれた海産物がならんでいた。
レオノーラの生まれでは、魚というものは川に生きる小さなものか、日持ちをするようにと塩漬けにしたり干したりした加工品が主だった。まだびくびく動いている
大鍋でぐつぐつと煮込まれていた、魚介のアラや端切れで出汁を取ったといわれる野菜のスープと、付け合せにと焼き立ての丸いパンを朝食にもらった。
少し透き通ってはいるものの、赤色のスープは初めて見た。口にするのは少し勇気がいったが、一匙掬って口に運べば、よくよく煮込まれた野菜の甘みと程よい酸味が口の中に広がる。とろとろに溶けた具の中に魚は入っていないはずなのだが、しっかりとした魚介の旨味も感じられる一品だった。
付け合せで、ともらった丸いパンは外側が少し硬く、真ん中から割ってみれば、中から現れた白い生地はほかほかと湯気が上がる。ほんのりと塩味が効いていて、確かにこれはこのスープと合わせて食べるにはちょうどいい。
ゆっくりと朝食を取って、今日はどの辺りを回ろうか、と宿で仕入れた地図を広げた。この町は海岸線に沿ってえぐり削られたような形をしている。ちょうど宿はその湾の一番深い場所、真ん中に位置していた。
ただ、その地図でひとつ。離れ小島があった。そちらを見れば、白く高い塔が立っている。この町の住人に聞けば、それは「灯台」というらしい。夜に海に出る船達の道標を兼ねているそうだ。
(来てくれたの。名も知らぬ方)
灯台守の部屋の主は、幾度かのノックの後に入ってきたレオノーラをそう迎えた。
けれど、その部屋に生きた鼓動は何もない。見る者の居なくなった時計だけが硬質な音を立てている。
波たつ銀糸の髪は床へ広がり、髪の間から見える血の気の引いた肌は、生きている人間には白すぎた。それがなお、この部屋の主を人形めいて見せている。
床に転がったその身体を抱き起こす。服の裾から見える腕はやせ細り枯れ木のようで、ずいぶんとその身体は軽かった。
(どうか、とどけてちょうだい)
部屋の主は口聞けぬ身体を抜け出して繰り返す。
レオノーラには、死者が自身を喚ぶ『声』が聞こえる。それはこの身に眠りの神を降ろしたその時から。
この世で死ぬすべての生命の声が聞こえているわけでもないだろう。その仕組みはわからない。
この町へ入って初めて聞いたのが「この辺りで、波の音がよく聞こえるのはどの辺りですか?」だったのは、彼女の声の背後に、静かなれどレオノーラの身近にはそれまで存在しなかった音、海のさざ波が聞こえていたからだった。
けれど、この声が聞こえるのは自分だけで、その声が嘆きに満ちているのなら、赴くのは必然とも思えた。それは、彼の宿す「神降ろし」の性質ゆえ。
(届けてちょうだい)
少し、考えた。
思えば今までは、死者となったその身を嘆く言葉ばかりを聞いてきた。神の
死者の魂というのは、強い念によってこの地に縛られたものだ。そのため、新しく何かを得、学び、前へ進むということがない。
だから、彼女は繰り返す。最期に残した無念を。
その机には、出すことのできなかった手紙が置かれていた。
実は、レオノーラは手紙という文化に馴染みがない。離れた場所へ何かを伝えるのなら、声を遠く向こうの相手まで飛ばしてしまうものだから――使い魔に声をこめた小瓶を運ばせたり、声自体を相手へ届けたりと形式は様々だ――こうして紙に文字を書いて人が届ける、という制度を知らない。前に渡ってきた町でこうした文化を知った程度だ。
入れるつもりであっただろう封筒は傍らにあったが、誰に向けたものなのか、宛先は書かれていなかった。中身を読まないようにとその手紙を折りたたむ。封は閉じ方がわからないので、ただ口を折り曲げて。ひとまずレオノーラは立ち去ることにした。
(おねがいね)
そう『声』に見送られる。
その灯台守の部屋からは、海に沈みゆく美しい夕陽が見えた。
*****
その手紙の送り先は、思ったよりも早くに見つかった。手紙を配る人々――郵便屋の仕事場へ持っていくと、「いつも宛名のない手紙」として有名な話であったらしい。いつも郵便屋の前にあるポストへ入れられていたが、誰の行いなのか誰も知らなかったそうだ。
「中身を読んだか?」
レオノーラは頭を振る。かさり、と郵便屋のひとりがその手紙を開き、こちらへ見せる。
それは誰かに宛てた言葉というより、誰かに向けた物語だった。
ほんの数枚の物語は必ず、海の描写から始まったのだという。
あの灯台守の部屋から見えるものといえば海ばかり。そんな彼女が、何を思いこの物語を綴り続けたのか。
それは、レオノーラにはわからないことであった。
*****
再び灯台守の部屋へやってくる頃には、空には星が瞬く夜となっていた。灯台はある程度自動で灯りがつくようになっているらしく、今も煌々と海を照らしている。
外套を脱ぐ。郵便屋からの連絡で、人が来るのは明日の朝だという。
首から祭礼用のアミュレットをかける。
深く息を吸い込み、レオノーラは謳う。その身に受けた業も祈りもすべてを込めて。彼が声を使い意思疎通をしないのは、この歌のため。
その旋律はどこか物悲しくも優美な、神を讃え祈り捧ぐ
この部屋の主は、既に息絶えている。
けれどこの世界に思い深く遺してしまったがゆえに、天へ還りたくとも還ることの出来ぬその魂の嘆きを、レオノーラは聞く。
少なくとも今この眼の前にいるならば、レオノーラはその御霊をすくい上げる事ができる。
還れぬ魂の末路は苦しい。人の作り上げたものはいずれ壊れ消え失せるが、そこに囚われた魂はずっと残り続けるのだと。だから、死して逝く場所へ、正しく導く。
それが、レオノーラの喚ぶ「鎮魂の神」。それは魂に眠りをもたらし安らげるモノ。
レオノーラには、魂の形は見えない。聞こえるのは声だけである。だからこそ、嘆きの声が聞こえなくなるよう、先に『声』に従い願いをかなえることを優先した。
朝まで祈り捧げた最後に聞こえた彼女の言葉は、ひとこと。
それを報酬に、レオノーラはまた次の町へと旅をする。
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