カタルシス

@cocomocacinamon

第1話

1


 薄暗い部屋の中央に、シングルサイズのベッドが一台置かれ、全裸の男がその上に胎児のような姿勢で横たわっている――この部屋は角部屋で窓は東向きと南向きの二面あるが、どちらも学校の音楽室で見かける防音カーテンのような厚い黒いカーテンに覆われ、外からの光は遮られている。明かりと言えばフローリングの床にベッド以外では唯一の家具である、球形のライトが置かれ、まるで夜の海に浮かぶおぼろげな月のように、優しく暖かな光を放っている。

 眠っていたのか、気を失っていたのか、とにかく男は目を覚ました。彼はゆっくりと起き上がり、辺りを見回すと、見るものすべてがぼやけて見えた。だがすぐにそこが見覚えのない場所だということがわかり、急いでベッドから立ち上がると、突然、激しい頭痛に襲われた。彼はもがき苦しみ、再びベッドの上に倒れこむと、その上を転げ回った――実際にはそれはほんの短い間だったのだが、男にはまるで時間の経過が粘着性のある液体のようにねっとりとこぼれ落ちてゆくように感じられた。

痛みが和らいでくると、それまで淀んでいた瞳の奥にじんわりと光が戻ってきた。         

「俺は、誰なんだ?」

 男の怯えた声が夜の海に沈んだ。


2


 愛華楼は横浜中華街の東側入口、朝陽門から中華街大通りを西へ向かい、中山路を左に折れ、少し入ったところにある古びた中華料理屋だ。店の外観はお世辞にもきれいとは言えず、一見すると営業しているのか疑わしくなるほどだ。だが、こういう店には往往にしてある話だが味の評判は意外に良く、常連客には著名人や政治家などもいる、知る人ぞ知るといった隠れた名店だ。  

店の横にある狭い路地に面したドアが開き、中から両手にごみ袋を抱えた調理服姿の、大きな身体をした中年の男が姿を現す。彼は両手のごみを放り投げようとしたが、ごみ捨て場の山の中に、大の字に眠る女性がいることに気がついた――まるで場違いな彼女は人形のような可愛らしい顔をしたポニーテールの女性で、背もあまり高くなく、どちらかというと華奢な感じのその姿はまさに少女のようだった。

彼は彼女を見ると、ため息を一つ落とし、ゴミを脇に置くと、そばに寄った。

「なんだよ、愛ちゃん。また酔っぱらってこんなところで寝ているのか」彼は叫んだ。「ほら、起きて。風邪ひいちゃうよ」

「誰? ていうか、ここはどこ? 私は誰?」

 目覚めた彼女はまぶたをこすりながら、彼の顔に焦点を合わせるように大きくてクリクリした目を細めながら、言った。


3


 川崎駅前、本町のラブホテル『アクエリアス』の前は、深夜でしかも雨が降っているというのに、警官と報道人と野次馬でごったがえしていた。このホテルの三階の一室で事件は発生した――カップルで休憩に入った客の一人がベッドの上でナイフで胸を刺され、死亡したのだ。

 鑑識員たちがせわしく動き回る殺害現場の部屋の窓際で、一人の女性刑事がじっと立ったまま、外の雨を見つめている。さながら彼女だけが時間の流れの外側にいるかのようだった。

彼女に鑑識員の一人がビニールの袋に入った【Achiever】と記された血まみれのカードを差し出した。

「月乃警部、これを」

 女性刑事はそれには答えず、あいかわらず窓に顔を向けている――彼女は腰まで届きそうな長く艶のある黒髪に透き通るような白い肌を持ち、まるでスーパーモデルのような体型で、身長は百七十八センチあり、足も長い。顔立ちは西洋人のように鼻が高く、大きく切れ長の瞳はどこか冷淡な感じが漂ういわゆるクールビューティーだ。さらに彼女の優れているのは容姿だけではなく、三十二歳という若さで警部――国家公務員採用試験一種に合格し、警察庁警部補から、交番や警察大学校での研修を経て、最速で昇任している、ということだ。 

「雨が激しくなってきた」

 遠い目をした彼女がつぶやいた。

「え? 大丈夫ですか、警部」

 鑑識員が心配そうに言った。

「例のカードね」

 彼女はようやく我に返ったような表情を見せ、袋を受け取った。

「あ、はい。詳しく調べてみないとわかりませんが、おそらくこれまでと同様の物かと」

 鑑識員が去ると、彼女は再び窓の向こうに降りしきる雨を見つめた。

「誰かが泣いているのかしら。涙雨。すぐには止みそうもないわね」

 そう言うと、彼女は無意識とはいえ自分自身の妙に芝居じみた言い回しに気がついて、苦笑した。


4


「あら、金ちゃんじゃない。何?」

 愛華楼のゴミ捨て場で目を覚ました愛は自分を見下ろす、太った中年男に向かって言った。

「何? じゃないよ。嫁入り前の娘がみっともない」

 あきれ顔の金太郎が答える。

「あれ、またやっちゃったんだ、私」

 彼女は辺りを見回し、自分の状況を理解すると照れくさそうに笑った。

「ほら、立って」

 彼女に手を差し伸べる金太郎。愛は差し出されたその太い腕に窮屈そうに巻かれた腕時計を見つめた――針は夜の八時半を指している。それから、「ヤバイ」彼女はそう叫びながら、立ち上がり、酔い潰れていたことが、嘘に思えるほどしっかりとした足取りで、その場から走り出していった。

「オイ」金太郎が叫んだ。「一体、どうしちゃったんだよ」


5


 見覚えのない薄暗い部屋の中で記憶を無くした全裸の男はそこにいたたまれず、ドアを探し、隣の部屋に移ると、急に目の前が明るくなり――夜ではなかった。立ちくらみして倒れそうになった。

目が慣れてくると、その部屋も六畳ほどの洋室で大きなガラス窓があり、外にバルコニーが見えた。それともう一枚のドアがあった。床は同じくフローリングでやはり家具も何も無い部屋だったが、壁にかかる鏡を見つけると、彼はすがるように駆け寄った。一瞬、鏡に映る姿にたじろいだ――スキンヘッドで、目鼻立ちの整った美しい顔。その顔にまったくの見覚えが無かったのだ。

「俺は、俺は誰なんだ?」

 彼は涙を流し、顔を伏せると、足許に数枚のカードが散らばっていることに気がついた。

「何だ?」

 拾い上げたカードにはアルファベットの文字が記してあった。彼は訝しげな表情で、カードを裏にすると、「あ」突然、声をあげ、カードを放り投げた。床に落ちたカードの裏側には真っ赤な血の雫が、まるで毛細血管がそのまま張り付いたかのような模様を描いていた。


6


 息を切らし、愛が駆け込んだ教会はちょうど今、聖書と祈りの会が終り、敬虔な信者たちがぞろぞろと教会を後にするところだった。山下公園の近くに建つ、この由緒あるプロテスタントの教会では毎週水曜日の夜に熱心な信者が集まり、聖書を学び、神に祈りを捧げている。   

愛は胸のところで小さく十字を切ると、中央の通路を祭壇へと向かった。

「やあ、愛ちゃん。久しぶりですね」

 彼女に気づいた牧師が笑顔で迎える。

「こんばんは。上野牧師」

 彼女はバツの悪い顔をした。


 愛はクリスチャンの母親に連れられ、幼い時から、姉の恵理と一緒にこの教会へは幾度となく足を運んでいた。神山恵理と愛は歳が二つ違いのとても仲のいい姉妹だった。外見がよく似ていたので、しばしば双子に間違われることもあった。しかし、性格はまったく逆で、普段はおっとりしているが、実は内面はしっかりしている恵理といつも元気いっぱいで何事にも積極的だが、本当は小心者なところがあり、姉に甘えてばかりの妹であった。  

二人の父親は恵理が五歳、愛が三歳のときに交通事故で亡くなり、父親というものをよく知らない愛は自分でも気づかぬうちに、牧師になんとなく自分が思い描く父親のイメージを重ねていた。そのためか幼い時より、いつも悩み事があると、何でも牧師に相談してきた。特に三年前、恵理が大学二年、愛が高三の夏にそれまで再婚もせず、細腕一つで、二人を育ててくれた母親が心臓麻痺を起こし、いわゆる突然死してからは、頼れる親戚縁者もいなかった姉妹にとって、牧師の存在は精神的な支えであった。二人は週末や休みの日にはよく教会の催しものなどの手伝いをするようになった。母親が亡くなってから恵理はすぐに大学を辞め、働きだし、愛も高校卒業と同時に働き始めた。それから、二人は力を合わせ、それほど裕福な暮らしではなかったが、姉妹楽しく幸せにやってきた。   

だが、一年前に恵理が突然、ビルの屋上から転落死した。それまでの幸せが、一瞬にして崩れ、天涯孤独となった愛の悲しみは深く、涙が枯れるまで泣き続けると、それまで飲んだこともなかった酒を浴びるほど飲むようになり、恵理の葬式の後は、ほとんど教会にはよりつかなくなっていた。


 白を基調としたモダン・ゴシック調の重厚なたたずまいをみせる礼拝堂の長椅子に愛と牧師は並んで腰かけた。

「そうでしたね。今日は恵理さんの誕生日でした」

「うん。お姉ちゃん、いつもここにきて神様に幸せを祈っていた。ここからは私たちの声が必ず神様に届くって……」

「恵理さんにはなんというか不思議な魅力があって、周りにいる人みんなを笑顔にしてくれました。まさに天使のようでした」

「そのお姉ちゃんがどうして――」

 彼女は顔を伏せ、泣き始めた。

「私にも神のその御心がわかりません。ただ、これだけは信じています。恵理さんとご両親はもう苦しむことや悲しむことのない永遠のやすらぎの場所から、愛ちゃんの幸せをこれからずっと見守ってくれていると」

 顔を上げ、牧師を見つめた彼女は今年で還暦を迎える彼の顔にいつの間にか皺が増えていたことに気がついた。そして、いつも笑顔を絶やさないその目尻に刻まれた深い皺にあらためて彼のやさしさを感じ、あたたかな気持ちになった。彼女は涙をふき、笑顔をみせた。

「ありがとう。そうだよね。お姉ちゃんきっと見ていてくれるよね。よし、頑張るぞ。お姉ちゃん、私が必ず犯人を見つけてみせるから、天国から応援してね」

「愛ちゃん、危険なことはよして下さい。恵理さんはそんなこと望んではいないと思いますよ」

「大丈夫だよ。心配しないで。無茶はしないから」

 彼女は心の中で、嘘をついたことを神と牧師に謝罪した。


7


 神奈川県警、特別広域捜査班は連続殺人などの凶悪な犯行を県内五十四ある警察署の管轄を飛び越え、自由な裁量で捜査し、また情報もすべて共有できる、縦割り社会の警察組織にあっては非常に画期的な、ある意味実験的な側面を持つ、特別な捜査チームだ。チーム名は一般に英語名の《SPECIAL SEARCH CONDUCTED OVER WIDE AREA UNIT》の頭文字の一部を取って《SOWA》と呼ばれる。《SOWA》は横浜市中区海岸通にある神奈川県警本部に設置されている。 

 《SOWA》のオフィスの隅にある自動販売機の前、白い丸テーブルが二つ並べて置かれている休憩スペースに三人の刑事が徹夜明けで、眠たげな表情を浮かべながら、コーヒーを啜っている。

いわゆるベテラン刑事といった風貌の川島刑事は、五十九歳で独身。現場捜査にこだわっているため、昇進試験は一度も受けたことが無い。性格は生真面目で実直。外見は年の割に筋肉の衰えも無く、まるでボディビルダーのような体つきで強面だが、人の面倒見がよく、後輩たちから慕われている職人肌の刑事だ。一方、チーム内で若手と呼ばれる、二十代後半の石本とチャン。二人はコンビで行動することが多い。若者らしい熱を帯びた正義感と行動力がある刑事たちだ。石本は来年で三十路を迎える長身で細身の、少し調子がいい感じの男で、対照的に一年後輩の日本人と中国人のハーフであるチャンは背が低く、筋肉質のいい身体をした少し生真面目な男だ。

 早朝のため、徹夜した三人以外、オフィスに人はいない。

「指紋、掌紋一つ、髪の毛一本残さず、目撃者もいない完全犯罪」チャンが一人ごちるように言った。「唯一の手がかりは現場に残される謎の英単語が記されたカードか……」

「しかし、そのカードというのがご丁寧によく出回っているありふれた紙とインクを使ってやがる」すかさず石本がぼやく。「凶器は今のところ発見されていないが、傷口からいって、それもよくありふれた刃物を使っているみたいだし、そうだ、赤外線で取れた足紋のスニーカーの跡を見ただろう、あれだってそうだ、量産品を選んでいる。抜かりなく、細心の注意を怠らない、まったく敵ながら恐れいるよ」

「感心している場合じゃないですよ。それに、手がかりになるのは、やはりカードに記されたあの英単語の方ですよ」

「まあな」

「最初の犠牲者、中尾政之さんの殺害現場にあったカードの単語は【Refomer】意味は“改革者”です」

「ああ……確かにそのガイシャは市民オンブズマンで、彼が中心となり開かれた、公共事業の入札に関しての市民フォーラムが、現在の横浜市の入札制度の改革につながったらしいからな」

 川島が意味を補填するように言った。

「ええ、で次の被害者、神山恵理さんの現場にあったカードの単語は【Supporter】こっちは“支援者”の意味で……」

「それは」今度は石本が後を引き取った。「彼女はクリスチャンで、山下公園の近くの教会のサポーターをしていた」

「そう。そして今日発見された菊井一馬さんの現場にあったのが、【Achiever】のカード。これの意味は“成し遂げる”ですけど、彼のブログを見たら、去年の暮れからダイエットをしていて、十二キロの減量に成功したとありました」

「しかし、いくら単語の意味とガイシャの関係がわかったところで、彼らの繋がりはまったく見えてこないよな」

 石本が再びぼやいた。

「馬鹿野郎、そんな簡単に白旗揚げるんじゃないよ」

 川島が孫の手で、彼の頭を小突く。

「だって、そんなこと言ったってわかんないですもん。大体、川さんの方はどうなんですか? 何かわかったんですか?」

「いや」

「なんじゃ、そりゃ」

「一番謎なのはその動機だ。ガイシャ同士の接点の無さからいって、怨恨の線は薄い。また、事件の綿密な計画性からいって、精神異常者による通り魔的な無差別殺人とも違う。だったら、一体奴は、何を目的に殺しを続けているんだ?」

「それはまだわからないけど、ホシは我々に強烈なアピールをしているわ。この一連の殺しすべてが奴のメッセージなのよ」

――背後から声がする。

「誰かと思ったら、瞳ちゃんか」

 振り返った川島が言った。

「我々の高度な科学捜査の裏をかいてこれだけのことをやり遂げているのよ。そこには奴の強い意志を、ううん、思いを感じるの。それが、憎悪なのか執念なのかはわからないけれど。奴はカードを使って、我々に何かを伝えようとしている。一見、被害者同士に接点は無いけれど、恐らくそれは違うわね。必ず何かしらの繋がりがあるはずだわ」

「でも班長」石本が合流した瞳に異を唱える。「ガイシャたちについての情報はその生い立ちから犯罪歴の有無、過去に経験した事件事故、病歴に至るまで、また家族、友人知人など交友関係についてもすべて洗い出しましたが、彼らに接点らしいものは何一つありませんでしたよ」

「いや、絶対にあるはずよ。何かを見落としているのよ」

 確信があるかのように、彼女は力強く言った。


8


 愛華楼はまるで有名な築地の卵焼きのようにきれいな長方形の建物で、通りに面して客用の入口があり、つづいてホールがあり、その後方に厨房。さらにその奥が事務所やロッカールームとなっている――そのロッカー室前の通路の壁に、並んで寄りかかる愛と金太郎。

「まったく、びっくりしたよ。まあ酔っぱらって、そこら辺の道端で寝ているのは全然珍しくないけど。ふらついていたと思ったら、急にシャキッとしちゃって、どっかすっ飛んでいっちまったからさあ。……そうか、昨日が恵理ちゃんの誕生日だったか」

「うん」

 愛はさびしげな表情で小さくうなずいた。

「愛ちゃん、覚えているか? 小さい頃、二人の誕生日には必ず店に来て大好きなエビチリ食べて、エビの大きさでいつも喧嘩してさ。杏仁豆腐が出てくる頃にはすっかり仲直りしていて。ほんと可愛かったなあ」

「あの頃は毎日が楽しくって。私の人生で一番幸せな時だったかもしれない。私、独りになっちゃった……」

「そんなこと無いだろう。俺だっているし、たくさん友達だっているじゃないか。おまえさんのまん丸くて太陽みたいな笑顔にはみんな救われているんだ。だから、みんないつも愛ちゃんのことは心配しているし、幸せでいて欲しいって本気で思っているんだよ」

「ありがとう、金ちゃん。そうだよね、私独りじゃないよね。ごめんね、情けないこと言っちゃって」

「そうだよ。愛ちゃんらしくないぜ」

「そういえば、私最近、本気で笑ったことなんて無かった気がする。金ちゃん、私頑張るよ。そして、笑顔を取り戻すためにも、やっぱり犯人をこの手で捕まえてやる。私は必ずそいつを見つけ出して、罪を償わせてやるわ」

「おいおい、まだ探偵ごっこ続けるつもりなのか? 危ないから止めなって言っているだろう。気持ちはわかるけど、そういうのは警察に任せておくしかないんだよ」

「大丈夫だよ。慎重に行動するし、いざとなればこれがあるし」

 彼女はピンク色のバッグパックから徐にテーザーガンを取り出した。

「そんな物、何考えているんだよ?」

 声が上擦る金太郎。

「大丈夫だって。うまいことやってみせるから。それじゃ、これから行くとこあるから、またね」

 彼女はそう言うと、彼の頬に軽いキスをしてその場から去っていった。

廊下の先で小さくなる背中を見送りながら、「危ないことするんじゃないぞ」

 金太郎が小さく叫んだ。


9


 見知らぬマンションの一室で、身に覚えのない血のついた謎の数枚のカードが足許に散らばる異様な状況で、記憶を失くした男はあまりの恐ろしさに自分が発狂してしまうのではないかと身を震わせたが、なぜか急速に冷静さを取り戻していることに驚きを覚えた。自分は一体、何者なんだ? 鏡に映る見知らぬ顔に問いかけるが、やはり何も思い出せない。そのとき彼はふいに自分が全裸であることに気がついた。

 服を探そうと、もう一枚のドアを開けると、そこはダイニングキッチンで、その奥にもう一つの部屋が見えた。和室で広さは四畳半ぐらいだが、それまでの部屋とは違い、この部屋にはいくつかの家具があった。窓際に木製のPCデスクにノートパソコン、中央には座椅子が一つ、その正面にスチール製の台の上に置かれた小型のテレビ、ドアのそばにワードローブ型で、やや小振りのスチール製の洋服ダンスがあった。彼はとりあえず、タンスから引っ張り出した服――ネイビーのスウェット・パーカーに色落ちしたブルーのデニムを適当に着ると、パソコンの前に行き、電源を入れた。すると、彼は自分がコンピューターに慣れている感覚を覚えた。パソコンが起動し、ディスプレイにはいくつかの場所の名前と思われるものが、日付とともに横書きで縦に並べて記されている表のようなものが映し出された。何のことかわからず、他に何か自分についての情報がないかと、パソコンを操作し、色々とデータを引き出してみたが、それらしい情報は何一つ得ることができなかった。彼はあきらめ、最初に見たリストに従い、その場所に順番に行ってみることにした。

「ここに行けば、何かを思い出せるかもしれない」

 外へ出ることに多少のためらいはあったが、意を決して彼は部屋を後にした。

 とりあえず、マンションを出たが、そこがどこなのかはわからなかったので、適当に歩いて、まず自分がいる場所がどこなのかを確認することにした。人に聞こうとも思ったが、なぜか怖くなってしまいそれは止めることにした。

歩き出すと、彼はすぐに猛烈な暑さを感じた。昼時で太陽は真上にあり、容赦なくその身からあふれ出る光の束を矢のごとく降り注いでいる。気がつけば、まわりを行きかう人たちはみんな半袖を着ていた。どうやら季節は夏らしい。

と。

いきなり目の前に海が現れた。彼はすぐにそれが横浜の海だとわかった。そして、急速に自分がこの場所に土地勘があることを思い出してきた。

彼は先ほどのいくつかの場所が記されたリストを書き写したメモを探して、デニムの後ろポケットに手をやると、厚みのある革の黒い長財布があった。財布のなかには一万円札が二、三十枚入っていた。驚いてあわててポケットにそれを戻し、深呼吸をして今度はデニムの前ポケットを調べると、メモはそこにあった。

メモの一番目の場所は大和市だった。遠いなと彼は思った。すると、二番目に書いてある場所はそこからすぐの山下町だった。彼はとりあえずその場所に行くことにした。

 産業貿易センタービルのそばにある九龍ビルは十六階建てのオフィスビルだ。

彼はガラス張りのビルの入り口の前で立ち止まり、屋上を見上げた。

「ここに一体何が?」

 突然、フラッシュバック――屋上から見下ろす夜の街が頭の中をよぎる。

「なんなんだ?」

 男は叫びそうになるが、なんとか気を静め、ビルの中へと入った。

その様子を少し離れた場所から謎の中年の男が見つめていた――ハンチング帽を目深に被り、黒いサングラスをかけている。

 記憶を失くした男は一階の吹き抜けのエントランスに入ると、今度はめまいに襲われ、ふらふらと二、三歩進んだところで前方に倒れこむが、両腕を掴まれ、抱きかかえるように身体を起こされる。彼を助けたのはちょうどその場に居合わせた愛だった。

「大丈夫ですか?」

 彼女は男の顔を覗き込んだ。

「ちょっと、めまいがして。すいません。でも、もう大丈夫です」

「本当に? 顔色悪いですよ。お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないですか?」

「いや、大丈夫です。ありがとう。ところで、どこかにトイレはありませんか?」

「トイレ? あります。あのご案内します」

「いや、そこまでは。大丈夫ですから、本当に」

「すぐそこです。ちょうど私も行こうと思っていたし。さあ、行きましょう」

 彼女はそう言うと、男に寄り添って、トイレまで連れて行った。

 彼は彼女に礼を言って別れ、トイレに入ると、手洗い場へと向かい、鏡をのぞきこんだ。すると、急にまた激しい頭痛に襲われ、その場で気を失ってしまった――しばらくして意識を取り戻すと、男は同じ場所に立っていたが、目の前の鏡には誰かが息を吹きかけ、曇らせ、そしてそこにメッセージが残されていた――ハルコに気をつけて    

 彼は驚き周りを見回すが、誰もいない。

「ハルコ?」

 彼は確かめるように、その聞き覚えのない名前を口にした。


10


 ダークブラウンのつや消しのデザインウッドを使用した壁パネルに囲まれた高級感のあるバス・ルームでシャワーを浴びる女性の後ろ姿。髪型は前髪とサイドとえり足が同じ長さに切りそろえてあるショート・ボブで色はベージュ。左肩にホクロが三つ、トライアングル状に並んでいる。

シャワーを終え、タオルを身体に巻きつけた彼女は浴室からリビング・ルームへと移動する。謎の女は濡れた髪を首にかけたタオルで拭きながら、ダイニング・コーナーに向かい、冷蔵庫から冷えたシャンパンを取り出し、それをグラスに注ぐと、今度はリビングの奥にある机の方へと向かった。

机の上には新聞の記事を切り抜いて集めたスクラップブックが置いてある。すぐそばの壁にもたくさんの記事や写真などが貼り付けてある。彼女はそのうちの一枚の写真(一人の外人の男の姿が写っている)を片手で撫でるように触れながら、グラスのシャンパンを一気に飲み干す。

「あなたの魂は消えない。だって、あなたは今でも私の中で生きているのだから」

 グラスの縁に指を滑らせ、彼女は不敵な笑みを浮かべた。


11


 男はトイレのメッセージにあったハルコという名前を手がかりに何か思い出せないかと何度もその名を声に出してみたが、灰皿でもみ消したタバコの残り火のように記憶の隅に何かがくすぶっているような感じがしただけで、それもすぐに消えてしまった。それから彼はメッセージを残していった人物について色々と思いをめぐらせた。誰かが自分のことを助けてくれているのだろうか? だとしたら、一体誰が? 何のために? 男はこのビルにはまだ何かあると感じ、フラッシュバックで見た屋上に行ってみることにした。

エレベーターが屋上に着き、彼は外に出ると再び、フラッシュバックに襲われる――屋上から女性が突き落とされて、仰向けに落ちていくその女性の瞳の中にもう一人の女性の影が映る。

「ああ――」

 彼はたまらず絶叫した。


 具合が悪そうな男をトイレまで案内して、そこで別れたが、愛はその後も彼のことが気になっていた。だが、彼は放っておいて欲しいようだったし、また何かあれば他の人だってこのビルにはたくさんいるのだから、心配することはないと自分に言い聞かせ、いつものように屋上へと向かった――姉がこのビルの屋上から、何者かに突き落とされて転落死してから間もなく一年。犯人は謎の連続殺人犯で、恵理が二番目の犠牲者だが、まだ捕まってはいない。愛は容疑者や捜査の進展について、警察に詳しい説明を何度も求めたが、捜査上の秘密なので明かせない、我々を信用して任せてほしいとの一点張りだった。だが、いつまで経っても事件が解決しないことに業を煮やした彼女は自分で真相を突き止めることに決めたのだ。しかし、実のところ自分なりに目撃者がいないかこの数ヶ月、このビルを利用するありとあらゆる人や周りのビルで働く人などに聞き込みをして回ったが、時間が経っていることもあり、やはり有力な情報を得ることは出来ずにいた。それでも、あきらめる気にはなれず、毎日このビルの屋上に来て、思いをあらたにしていた。彼女はいつものように、東側のフェンスから見える横浜の海を眺めた。夏の日差しで白くぼやけた穏やかな海が水平線の彼方の青空の端っこの青を滲ませ、薄い水色にしている。

 突然、男の叫び声が聞こえてきた。彼女はすぐに声のする方へと駆けていった――南側のエレベーター棟だ。するとそこには、さきほどの男が頭を抱えながら、倒れていた。

「どうしました? 大丈夫ですか?」

 愛がそう声をかけると、彼女に男がすがりついてきた。

「お、女の人が……誰かが突き落されて……殺された」

「え? 何ですって」

 彼女は思わず、大声になった。


12


 ぬかるんだ地面の上に敷かれた急場しのぎの木道を静かな足取りで川島刑事が現場入りした。現場にはすでに複数の鑑識員と石本とチャンの両刑事がいた。第五の死体は目の前に大きな横浜スタジアムが見える、横浜公園の西側にある公衆便所で発見された。

「仏さんの身元は?」

 川島が訊いた。

「はい」チャンが答える。「財布に免許証がありました。名前は八代慎平さん、年齢は38歳です。死因は見てのとおり、首を切られたことによる失血死と思われます。死後、二日は経過していると思われます。個室で内側から鍵をかけられていたこと、大量の血はすべて便器の中に流れ出たため、外には出なかったこと、そしてこの二日間の大雨でほとんど人の利用がなかったことが発見を遅らせた原因だと思われます」

「第一発見者は?」

「市の清掃職員です。ここの清掃は週に一回、

行われているそうです。凶器や指紋は残されておらず、例のカードはありました」

 今度は石本が答えた。

「土砂降り……人も寄りつかない……じゃあ足跡は? 足跡はどうだったんだ?」

「ありませんでした。被害者の靴跡も残ってはいなかったので、おそらく殺害時に雨はまだ降っていなかったと思われます。で、その後の大雨で二人の足跡は流されてしまったようです」

「そうか。今度のカードには何と?」

「はい」チャンが答える。「【Observer】とありました。“観察者”という意味です」

「てことは」石本が言う。「この仏さんが“観察者”? どういう意味だ?」

「それは調べてみないと分かりませんが、この間の被害者、宮津千代子さんのカードにあった、“革新者”という言葉と彼女の繋がりは結局、何も見つけられなかったじゃないですか。最初の三つのアルファベットがたまたまで、ヘタをすると、この言葉には何の意味も無いって可能性もあるかもしれません」

「意味がないだって?」石本が呆れたように言う。「じゃ、ホシは何のためにこんなことやっているっていうんだよ」

「僕は飽くまで、可能性の話をしているんですよ」

「よし、よし。もういい」川島が二人に割って入る。「アルファベットの詮索は後だ。とりあえず今は事件のあった時刻、この辺りで不審な人物を見かけた、あるいは何か物音を聞いた人がいなっかったか。近所を聞き込みにあたってくれ」

 石本とチャンが現場から離れ、川島と数名の鑑識の係員だけになった。

「しかし、ガイシャはまた何でこんなところで殺されたんだ?」

 川島は狭い個室で便器の脇に押し込まれたように窮屈な姿勢の遺体を見つめた。すると、顔が上向きの遺体の目線の先に天井の点検口パネルが少し開いていることに気がついた。彼は隣との仕切り板についた手すりのスチール・パイプに足をかけ、上へと登った。そこへ、瞳が臨場した。

「川さん、何しているの?」

「ああ、瞳ちゃんか。何かおかしいんだ」

 彼は仕切り板の縁を片手でつかみ、身体を支えながらもう一方の手で慎重に天井の点検口パネルを押し開いた。すると、そこからガラスの小瓶が落ちてきた。彼は素早く下に降り、床に落ちたその小瓶を拾い上げた。小瓶の中には白い紙が丸めて入れてあった。紙を取り出し、広げてみるとそこには暗号文らしきものが記されていた。それは横書きの文が縦に三列で表記され、一番上の文には【※】が九つ。真ん中の列は左はじの一文字だけが【R】であとは八つの【※】そして、一番下の文には【RSBPDHWIJ】と書かれていた。

「一体何なの? これは」

 瞳が言った。

「さあな。暗号に間違いはないだろうが。チャンは、確かこうゆうのが得意じゃなかったか?」

「そうですね。署に戻って、みんなで調べてみましょう」

 

13


 ようやく落ち着きを取り戻した男と愛はエレベーター前のベンチに腰かけた。

「これ水です。どうぞ」

 彼女はバックパックから、ペットボトルの水を取り出し、彼に差し出した。

「ありがとう。あなたは……」

「神山愛です」

 彼はうなずくと、水を飲んだ。

「あの、実は私の姉、この屋上から何者かに突き落とされて殺されたんです」

「え?」

 男が驚きの表情を見せる。

「あなたはさっき、ここから女性が突き落されて殺されたとそう言いましたよね? あれはどういうことですか? あなたはその現場を見たんですか? もし、何か知っているのなら教えて下さい。姉は誰に殺されたんですか?」

 愛は男に詰め寄った。

「ぼ、僕は――」

 彼はたじろぎ、おびえたように震えだした。

「ごめんなさい」彼女は慌てて謝った。「あなたを責めているわけじゃないんです。ただ、たった一人の家族だった姉の命を奪った犯人が私は絶対に許せないんです。犯人はまだ捕まらずに逃げ回っているんです。だから、もし何か事件のことを知っているのなら、どんなことでもいいですから、教えて欲しいんです。お願いします」

「僕は何も知りません」

「でも……」

「僕は記憶が無いんです」

 彼女の言葉を遮るように言った。

「え?」

「自分が誰なのかもわかりません」

 男はそう言うと、頭を抱えた。

「記憶喪失……?」

 愛はそれ以上、言葉が続かなかった。


14


 3LDKの高級マンションの一室で、外出着に着替えた――ブーツカットのデニムにインナーにはスクエアネックのベージュのタンクトップ、アウターはネイビーのテーラードジャケット。謎の女性(右肩にトライアングルのホクロがある)は医療用の透明な手袋をはめると、机の引き出しから、【Scanner】と記されたカードを取り出した。

「フフ」

 彼女は口元に不敵な笑みを浮かべると、カードを白い小さなバッグにしまい、玄関へと向かい、メタリックなシルバーのミュールを履き、通路へと出てドアを閉めた――表札には『山田ハルコ』と記されている。


15


 《SOWA》には三つのチームがあり、一チームに五、六人の刑事が属し、基本的にはそれぞれ別の事件を担当している。瞳のチームには川島、石本、チャンの他に武田と松田という、ともに四十代の刑事がいるが、現在、武田は捜査中に右足を骨折してしまい、入院中で、松田の方は本庁での研修に参加している。

 陽が傾き、薄暗くなってきた夕方のオフィスには今、瞳と川島の二人しかいない。

川島は現場に残されていた暗号のコピーとにらめっこしているが、眉間に皺を寄せ、考え込む表情はまるで般若の面のようだった。

「大抵の暗号は既存の方式を使用しているはずです。けど、それがどの方式の暗号かわからないうちは、どうやっても、復号はできませんよ」瞳が微笑みながら言った。「チャン君はそういうのに詳しいから、彼が帰ってくれば――」

そこへ、タイミングよく石本とチャンの二人が聞き込みから戻ってきた。

「ダメでした。収穫はゼロです」

 石本が言った。

「そう。ご苦労様」瞳が笑顔で迎える。「でも、こっちは新展開があったわよ」

「本当ですか? 何があったんですか?」

 チャンが食いついた。川島が暗号を二人に見せる。

「なんだ、こりゃ?」

 石本が怪訝な顔を見せる。

「ああ、ヴィジュネル暗号ですね」チャンは言った。「ジュール・ヴェルヌの『ジャガンダ』なんかに出てくる古典的な暗号ですよ」

「さすが」

 瞳が拍手する。

「なら、おまえ解けるかこの暗号」

川島が言った。

「さあ、どうですかね。一応、やってみますが」チャンが自信なさげに答える。「まあ、平文と鍵の文字数が同じだということがこれはわかっているので――」

「鍵?」

 石本が首をひねる。

「ああ、これは一番上にある文が平文、次の文が鍵、そして一番下の文が暗号文って言うんです」

「へえ、そうなんだ」

「それで、どうなる?」

 川島がせかす。

「そうですね。鍵が一文字わかっているので、これが何かのヒントだと思うんですが」

「ヒント?」

 瞳が言った。

「ええ、文字数があらかじめ表記してあるので、鍵となる文は【R】から始まる九つの文字を使った文章だと思うんですよ。もしも、それより短い文で、よくある反復する文字の羅列となると、九を三等分して、三文字ずつの単語とかそういう可能性もありますが、この鍵の周期性というのは問題があって、そのことはずいぶんと昔から……」

「ああ、なんだかむずかしいな。つまりはどういうことだ」

 石本が痺れを切らす。

「だから、なんかRで始まる九文字の文章が見つけられればいいんじゃないかと」

「そうは言ってもなあ」

 川島が頭をひねる。

「それは名前でもいいの?」

 瞳が言った。

「ええ、条件にあっていれば」

「たしか、その暗号が見つかった現場の横浜公園にはリチャードなんとかの胸像があったんじゃない?」

「それだ」チャンが興奮気味に言った。「リチャード・ヘンリー・ブラントン。明治政府に雇われて、日本中に数多くの灯台を設置した人ですよ」

「つまり?」

 川島が続きを促す。

「ファーストネームとミドルネームはイニシャルの頭文字だけで表記することはよくあるので……」チャンが紙に【RHBRUNTON】と書いてみせる。「彼はイギリスの建築家なので、イギリス英語風に略称のピリオドを省きました。これで鍵の文は間違いないと思います」

「スゴい」

 瞳が感嘆の声をあげる。

「で、この先は?」

 川島が訊いた。

「あとはヴィジュネル方陣という表を使って、まだ解読出来ていない平文を復号します。これは調べればすぐにできますから」

チャンがパソコンに向かう。

「しかし、暗号文とはふざけたヤツだ。ゲームか何かのつもりか」

 石本が吐き捨てるように言った。

「確かに。でもこれは捜査に役立つ大きなヒントになるんじゃないかしら」

 瞳が言った。

「ホシが俺たちの手助けをしてくれていると、そういうことですか?」

 石本が腑に落ちない顔を見せる。

「だから、おまえがさっき言ったとおり、ゲームなのさ」川島が言った。「奴はからかっているのさ、俺たちのことを」

「解けました」チャンが叫ぶ。「【A LAY JUDGE】日本語で裁判員の意味です」


16


 男はゆっくりと立ち上がると、エレベーターへと向かい、歩き出した。

「あの、私知り合いにお医者さんがいるんです」愛は言った。「とってもいい人で、腕も確かです。よかったら、病院行ってみませんか? すぐ近くですから」

「嫌だ」

 彼は言った。

「え? でも」

「嫌だ。病院には行きたくない」

 男はそう言うと、逃げ出すようにエレベーターへと乗り込んだ。

「あ、待ってください」

 愛は後を追った。


17


 瞳とチャンの二人が乗る黒塗りの捜査車両、V36スカイラインは今、横浜市立病院に向かっている。

「裁判所の公判記録を調べたら、やはり被害者たちは同じ裁判を担当した裁判員でした。今、向かっている現場の被害者である田辺和史さんの名前もありました」

 ハンドルをきりながら、チャンが言った。

「裁判官三人と裁判員六人の、合わせて九人。

やっぱりホシは彼らすべてをターゲットにしていると考えるべきなのよね?」

「それですが、あの例の謎の英単語と九という数字でネットを調べたら、エニアグラムというのがありました」

「エニアグラム?」

 彼女が首をかしげる。

「僕も初めて聞いた言葉です。エニアというのがギリシア語の九で、グラムが図を表すようです」

「九つの図?」

「いえ、なんか円周を九等分して作る図形らしいです」

「なんだか、むずかしいわね」

「はい、確かに。で、エニアグラムの意味は真の自己を理解し、本来の自分自身へと至る道だそうです」

「ますますわからないわ」

 彼女は苦笑した。

「元は宇宙の原理を説明するために生まれたものだとか、その起源については色々と説があるようですが、今は人間の性格を九種類に分類した性格論というのに使われているそうです」

「九つの性格? ああ、それが“改革者”とか“支援者”とかカードに記されていた英単語の本当の意味なのね。それなら、理解できるわ」

「はい。一時はカードが表す性格と被害者の性格とが必ずしも一致するわけではなかったので、困惑しましたが、当然ですよね。ホシは初めから、このエニアグラムで被害者は全部で九人になると、そのことを示していたのですから」

「となると、残りの三人は裁判官。彼らの保護が必要ね」

「それなら、すでに警官を送ってあります」

「さすがね」彼女は言った。「それにしても、あの暗号文といい、なんだか私たちが無能だとでも言いたいのかしらね」

「それより、班長。次の問題はなぜホシが裁判員となった彼らをターゲットにしているのか? そこだと思うんですけど」

「それは彼らが担当した裁判の事件に関係しているんじゃないかしら」

「僕もそう考えていました。彼らが担当した事件、日本在住のアメリカ人、ランディ・ムーンが引き起こした連続殺人事件、いわゆる“ナンバーズ・マーダーズ模倣事件”答えはおそらく、そこにあるはずです」

 二人を乗せた車が病院に到着した。

 殺害現場となった病室は入院患者専用の、広さは十六平米ほどの個室で、シャワーユニット、トイレや洗面所などが備え付けてあり、 

そのほぼ中央に置かれたベッドの上にはロープのようなもので絞殺された被害者の遺体がぶらさがっている。

瞳とチャンが臨場すると、ベッドの周辺を鑑識員が特製のブラシに付着させたアルミパウダーを振り掛けるようになぞりながら指紋の採取をしていた。

「つまり、夜中の二時に原因不明の停電が起こり、本来なら働いているはずのセキュリティーセンサーやカメラがまったく役に立たなかったというわけね」

 瞳が言った。

「はい。予備電源にも切り替わらなかったそうです。今、鑑識が調べていますが、おそらくホシが何か細工したのだと思われます」

 先に来ていた石本が答えた。

「警備員は何していたんだろう?」

 チャンが首をかしげる。

「停電の対応に追われて、てんてこ舞いだったらしい」

「川さん、カードは予想通りでしたか?」

 瞳が訊いた。

「ああ。確かに【Scanner】の文字だった」

「これで間違いありませんね。やはり、エニアグラムです」

 チャンが言った。

「残りは三人――」瞳が言いかけると、刑事たちの後ろで、鑑識員が二人掛かりで、ベッドの上の亡骸を遺体袋へと収納する作業に取り掛かった。彼女は少しの間、それを黙って見つめていたが、唇を少し噛んでから、再び口を開いた。「彼らはもう身元が明らかなのだから、絶対にこれ以上の犠牲者は出させないわよ」


18


 愛は男を追いかけ、九龍ビルを出た。

「あの、さっきはごめんなさい」男は振り返ると言った。「でも、僕は本当に病院には行きたくないから」

「私こそ、ごめんなさい。余計なこと言っちゃって」

 彼女は頭を下げた。

「僕、怖いんです。自分が何者なのか知るのが。それに自分が信じられないのに、他の誰のことも信じられない気がして。でも、本当は誰かに助けてもらいたくて」

 男はそう言うと、またしてもよろめいて倒れそうになり、愛に寄りかかってしまう。

「大丈夫ですか? どこかで少し休みましょう。そうだ、おなかは空いていませんか? ちょっと歩くけど、私の知り合いの中華料理の店へ行ってみませんか?」

「そう言えば、しばらく何も食べていなかった気がします」

「なんだ、そうだったんだ。おなかが空いていちゃ何もできませんよ。さあ、行きましょう」

 愛はそう言って、男の腕を自分の肩に回すと身体を支えながら、歩き出した。

「すみません」

 彼の言葉に、彼女は微笑み返すが、あまりの顔の近さに照れて顔が赤くなってしまい、慌てて下を向いた。男はそれを見て、やさしく微笑んだ。

 二人の後を少し離れて、ハンチング帽に、黒いサングラスをかけた謎の男が尾行している。


 昼時ということもあり、愛華楼はたくさんの客であふれかえっていた。愛たちはホールの一番奥の席についた。男はテーブルに料理が並ぶと、もくもくと食べ始めた。

「本当におなかが空いていたんですね」

 愛が笑顔で言った。

「すいません。一人でがっついちゃって」

「いえいえ、どうぞ遠慮なくたくさん食べてください。どうですか? ここの料理おいしいでしょう」

「はい。すごくおいしいです」

「よかった」彼女はそう言うと、ふと厨房に目をやり、手招きする金太郎に気がついた。「あの、ちょっと失礼します。ゆっくり食べていてくださいね」

 彼女は男を残し、席を立った。

「じゃあ、事件を目撃したって?」厨房脇の廊下で、金太郎は愛に詰め寄るように言った。「でも、警察発表じゃ目撃者はいないって事だったろう」

「うん。けど、記憶を失くしているみたいなの」

「怪しいな。愛ちゃん、あんな得体の知れない奴連れて、どうするつもりなんだ? 事件に関わっているかもしれないんだぞ。警察にまかせた方がいいんじゃないのか?」

「でも、悪い人じゃなさそうだし。あの人、やさしい目をしているから」

「何言っているんだよ、また。すぐそんな風に人を信用して」

「でもでも、あの人たぶん独りぼっちだから」

「え?」

「記憶を失くして、自分のことが誰かもわからなくなって、誰も頼る人がいなくて。私にはなんとなくその気持ちが理解できるの」

「愛ちゃん……」

「私には金ちゃんや牧師さん、頼れる人がたくさんいるけど、あの人にはそういう人がいないの。だから、私が力になってあげたいと思ったの」

「けど……」

「ね、わかって金ちゃん。それにあの人といたら、何かお姉ちゃんのことがわかるかもしれないし」

「危険すぎるよ」

「警察は当てにならない。でもあの人は何かを知っている。だけど、ひどく怖がっているの。だから、私があの人のことを支えてあげれば心を開いてくれると思うの」

「けどな」

「大丈夫、金ちゃん。私を信じて。きっとあの人が答えを知っている」

 人を信じる強い心が彼女の真っ直ぐな瞳に表れていた。

 

19


 少女が自室で勉強机に向かい、高校入試のための数学の問題集を解いている。

 部屋の電気は消され、薄暗い部屋にデスクライトだけが、まるで最後の希望とでもいうようなか細い光を放ち、彼女をやわらかく包み込んでいる。

 深夜の静まり返った家の中に、突然、階段のきしむ音が響き始める。

 少女の顔に緊張が走り、こわばってゆく。

小さく震える彼女の背中越しに、ドアのノブが静かに回される音がする。

「おねえちゃん、助けて」

 彼女はフォトスタンドに手をのばし、微笑む双子の姉との写真にそっと触れた。今夜もあの鬼畜に汚されるのだ。彼女は覚悟を決め、服を脱ぎ始めた。


 ――裸の少女をベッドに残し、養父が部屋を出て行くと彼女は目を覚ました。またいつものように、服を脱いでからの記憶が無かった。彼女は姉に礼を言った。そして、起き上がると再び、机の上の写真に目をやった。姉の最後の記憶は養護施設から、姉が養子縁組をしたやさしそうな養親とともに、去って行った日のことだ。彼女はまだ六歳だったが、その日のことは鮮明に覚えている。姉はどこにいても、離れていても二人は一緒だと言った。事実、離れてからもいつもそばにいるような感覚を感じることはあった。しかし、それから二年後、彼女も養女となり、鬼畜の養父から性的暴行を受けるようになると、彼女は姉にSOSを発したが、助けには来てくれなかった。次第に、一人だけ幸せな家庭に引き取られ、自分のことも忘れてしまったのだろうと姉を恨むようになり、この苦しみを自分に代わって味わうべきだと考えるようになった。すると、ある日心の中に姉の言葉が聞こえ、彼女を助けてくれると言った。それ以来、彼女は養父の相手をしなければならない時、姉に助けを求めると、彼女の中に姉が現れるようになった。そしていつしか、他の家で養女になった姉はこの世から消え、彼女と一体になったと本気で信じるようになっていた。

 養女になって、十一年。高二の夏。姉が助けてくれるとはいえ、彼女の身体には生傷が絶えることはなく、思春期を迎え、やはり精神的にもかなりきつくなっていた。そんな時、運命は急展開を迎えた。養父である鬼畜男が殺されたのだ。  

彼女にとって大恩人であり、心のヒーローとなった犯人は当時、殺害現場に数字の書かれたカードを残していくことから、“ナンバーズ・キラー”と呼ばれ、世間を騒がせていた連続殺人犯のマイケル・アーロンだった。彼は事件から一年後の夏に捕まったが、最終的には九人もの人が彼の犠牲となった。

彼女は彼の虜になり、彼の裁判には足繁く通い、彼の姿を目に焼き付け、彼の発する言葉をすべて頭の中に刻み込み、彼の生い立ちから、起こした事件の詳細にいたるまでをノートに書き込み、“ナンバーズ・マーダーズ事件”と呼ばれたこの事件を取り上げた新聞記事や雑誌をすべてスクラップして記録した。

裁判官は彼に死刑の判決を下した。これには彼女は到底、納得がいかなかった。彼女ははげしい怒りを覚え、どうにかしたかったが、結局は何もできなかった。

 それから数年後、彼の死刑が執行された時には彼女にはある計画が生まれていた。しかし、さらに数年後、それを実行に移すための準備中に彼女は衝撃のニュースを耳にする。それは、彼女同様にマイケル・アーロンを崇拝するランディ・ムーンなる男がマイケルの意思を継ぐとの理由から、“ナンバーズ・マーダーズ事件”の模倣事件を起こしたのだ。厳密には完全なる模倣ではなく、ランディは現場に残すカードにはただの数字ではなく、エニアグラムの性格論からなる九罪(九種類の倫理上の罪)を記していた。

 彼女は確信した。マイケルの魂は受け継がれると。そして、次の担い手は彼女であると。彼女は今、マイケルの魂を受け継いでいた。計画通り、姉の力も借りながら。


 誰もいない深夜の駅のホームに電車がすべりこんでくる。

停車した電車から出てきたのはスーツ姿で白髪交じりの恰幅のいい、五十代の男一人。

「やあ、待った?」

 無人の改札をぬけながら、スーツ姿の男が言った。

「ううん。全然」

 パープルのヨットパーカーのフードで顔を覆うように隠し、黒いサングラスをかけた彼女が微笑んだ。

 JR横須賀線逗子駅。深夜零時を過ぎた駅には彼女と男の他には誰もいなかった。

「しかし、こんなところ来るなんて初めてだよ。こんな夜中に一人で電車乗ったのも初めてだけど」

 彼は笑いながら言った。

「ごめんね。仕事終わりで疲れているでしょう」

「いやいや、私の仕事柄、こういうことは人目についちゃいけないのだから。絶好の隠れ場所だよ。実は今、仕事に関連してなんだけど、警察の保護下に置かれていて、いや別に私が何かしたというわけではないよ」彼は笑った。「とにかくそういうわけで、彼らの目を盗んで抜け出してくるのも結構、大変だったんだ。でもまさか、君との約束を反故にしたくはなかったからね」

「奥さんには?」

「研修だと言ってある。そもそも、私のことに何の関心も無いから、そんな嘘つく必要もないぐらいさ」彼はまた笑った。「しかし、逗子に別荘とは君は一体……。いや、それは聞かない約束だったな。お互いのことを深く知り過ぎるのはよくない」

 駅から徒歩十五分くらいの場所――閑静な住宅街で、近くに披露山公園がある。

その家はあった。鉄筋コンクリート造りのメゾネットタイプのマンションで壁は白塗り、専用の庭と一台分の駐車場がついている。両隣に建売の新築の家が並んでいるが、どちらもまだ入居者はいない。

「本当にすばらしいね。こんな素敵な別荘があるなんて、うらやましい限りだよ」

 部屋に入ると、男は感嘆の声を上げた。

「私も同感だわ。こんな家が欲しいもの」

 彼の背後で彼女が言った。

「え?」男が後ろを振り返ろうとすると、突然、首にロープを巻かれ、きつく締めつけられる。「ハルコ、何をする……」

 彼はロープを外そうと激しく抵抗するが、ロープは無情にもさらにきつく首に食い込んでいき、やがて力つきて、絶命した。

「残りあと二人、もうすぐあなたの偉業に近づける」    

 彼女は周りの壁や家具の指紋を拭き取ると、男の死体の上に【Motivator】と記されたカードを置いた。



20


 食事を終え、山下公園へとやってきた愛と記憶を失くした男は中央入口に近いベンチに腰をおろした。目の前には噴水があり、そこに建つ水の女神像は噴出する水の中から、今まさに姿を現したばかりといったたたずまいをみせている。

「ごちそうさまでした。生き返った気分です。

本当においしかったです。愛さんの、お知り合いのあのコックさんにもちゃんとお礼を言いたかったのですが、なんかお忙しそうだったみたいなので」

「ああ、いいんです。気を使っていただかなくて。金ちゃんは私にとって兄貴みたいなものですから」

と。

微笑む愛の目の前にどこからかサッカーボールが飛んでくる。

「すいません。ボール返してもらっていいですか?」

 背後から、少年たちの叫ぶ声が聞こえる。

「行くよ」

 彼女はそう言うと、サッカーボールを少年たちの方へと蹴り返した。するとボールはあらぬ方へとカーブして飛んで行った。

「あ――」

 少年たちが声をあげる。

「ごめんなさ――い」

 愛は大きな声で言った。

「キャッ、キャッ」と少年たちの楽しげな声が遠く響いている。彼女は微笑みながら、しばらくその様子を目で追った。すると、少年たちのさらに向こう側の木立の陰からハンチング帽に黒いサングラスの男がこちらを見ているような気がした。謎の男は彼女の視線を感じると、あわてて顔をそらし、姿を消した。

「なんなの?」

 彼女はそう言って、思い出したようにベンチに目をやると、記憶喪失の男は座ったまま眠っていた。

 彼女は彼の隣に座り直すと、もうすぐ夕暮れ時を迎える静かな海に浮かぶ、氷川丸の雄大な姿を眺め、小さく微笑んだ。


 男は夢を見ていた――彼は誰もいない港で一人、海を見つめていた。

突然、耳元で女の声がした。

「ハルコ」

 その囁くような声にギョッとして、彼は後ろを振り返るが、誰もいない――次の瞬間、目の前に胸をナイフで刺され、大量の血を流す女が現れる。彼女は首を前に倒し、長い黒髪に覆われ顔が見えない。

「ハルコ」

 彼女は再び、そう囁くと両手で彼の首を絞め始めた。

「うう」うめき声を洩らす彼の目の前で、彼女がいきなり顔を上げた。彼は恐怖のあまり、息を呑んだ。長い黒髪の間に見えた――それはまぎれもなく、彼自身の顔だった。彼は彼女の手を振りほどき、絶叫した。

「ああ――」

 男は叫び声とともに、目を覚ました。

「大丈夫ですか?」心配そうに愛が彼の顔を覗き込んだ。「悪い夢でも見たんですね。うなされていましたよ」

「あ、いや。すいません。知らないうちに寝てしまって」

 彼は取り繕うように言った。

「きっと疲れているんですよ。色々と引きずり回しちゃって、ごめんなさい」

「いや、そんなことないです。とても楽しかったです。僕、記憶を失くして自分が誰なのかもわからなくて。すごく怖くて、心細くて。でもあなたに会えて、救われたような気持ちなんです」

「そんな」

 彼女は照れくさそうに微笑んだ。

「お姉さんのこと、すいません。力になってあげたいんですけど、怖くて。僕はひょっとして、事件に何か関わっているんじゃないか、そう思うと――」

「そんなことないですよ。あなたは悪い人じゃない。絶対に。もし、事件に関わっているとしたら、それはあなたが目撃者だということですよ」

「では僕はお姉さんのことを見殺しにしてしまったんでしょうか?」

「え? 違いますよ。あなたは事件を見たショックで記憶を失くしてしまったんですよ。きっと、そうだわ」

「あの、変なこと言うようですが、お姉さんの知り合いにハルコという女性はいませんでしたか?」

「ハルコ? いや、そういう名前の知り合いはいなかったと思いますけど。何か思い出したんですか?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど。あの、お姉さんの事件について詳しく聞かせてもらえませんか?」


21


 前を防弾ガラス使用の黒のセルシオ、後ろを同じく黒塗りのランドクルーザープラドに挟まれて走る銀色の公用車、Y51フーガハイブリッドに裁判官である鶴見啓一を警護しながら、川島と石本の二人が同乗している。

「しかし、少し大仰過ぎやしないかね」

 五十代半ばの痩せた男は不平をもらした。

「いや、検事。犯人は絶対に現れます」川島は言った。「恥ずかしながら、この事件の担当者として、ここまで犯人を野放しにしてしまった責任が我々にはあります。ですが、必ず検事のことはお守りしてみせま――」

 信号十字路で公用車が右折したところに横から猛スピードで白の2トン車、エルフが突っ込んできた。車体の後方に衝突され、弾き飛ばされた銀色の車体は交差点の真ん中で他の車にぶつかりながら、円を描いた。続けて、トラックにはすぐ後ろを走っていた警護車がぶつかり、辺りは騒然となった。

 ようやく回転が収まった車内で川島が検事の無事を確認すると、少しクラクラする頭を押さえながら、車を飛び出し、すぐさま銃を構え、石本と二人で今にも爆発炎上しそうな軽トラックにゆっくりと近づいた。彼らがペチャンコに潰れた運転席の中を慎重に確認すると、そこに人はいなかった。

「まずい」

 アクセルに括り付けられたレンガに気がついた川島がそう叫ぶと、背後で銃声が聞こえた。


 信号手前の歩道橋の上からワイヤーにぶら下がり現れた、黒のヘルメットに黒のレザースーツ姿の殺人鬼は、車の後部座席で座ったままの姿勢で絶命した裁判官の死体の上にカードを投げつけた。

川島と石本は移動して、歩道脇に停めてある車の陰から犯人に向かい、発砲しようと銃を構えたが、そこへ先頭を走っていたセルシオが戻り、目の前を遮った。そして次の瞬間トラックが爆発した。間隙をぬって、黒ずくめの犯人はワイヤーを使い、歩道橋の上へと舞い戻った。両刑事は黒い煙と炎が舞い上がる、まるで戦場のようなその交差点をぬけ、犯人を追いかけた。

歩道橋の上からバイク――赤のVTR250で反対側の道路へと、階段を下り始めた犯人の左肩を川島の放った銃弾がかすめた。続けざまに二人の刑事は発砲したが、犯人はそれを見事なドライビング・テクニックでかわし、逃げ去っていった。


 催眠ガスで眠らされていた公用車の運転手の介抱をしていた石本が、犯人が残していった【Driver】と記されたカードを眺め、ため息をついた。

「犯人を目の前にして、みすみすそれを取り逃がしてしまうとは。しかも、マルタイを守りきれなかったんですから。自分たち、本当にヤバイですね。こうなったら、最後のマルタイだけでも死守しないと。早速、警部たちに合流しましょう」

「ああ」

 気のない返事を返す川島。

「川さん、大丈夫ですか? 話、聞いていました?」

「どこかで、見たことがあるような……」

 彼はつぶやいた。

「は? 何のことですか?」

「確かに同じものだったと思うが」

 そう言って、遠い目をした彼の頭の中には今、バイクで走り去る犯人の破れた袖に露わになったトライアングル状のホクロが浮かんでいた。


22


 日が暮れて辺りが暗くなってくると、愛たちの目の前で氷川丸のライトアップが点灯し始めた。船体のシルエットを縁取るように飾られた電球が闇の中で星座のように輝いている。

「姉は連続殺人犯の犠牲になったんです」

 愛は言った。

「え」

 男は驚きの表情をみせた。

「警察はなかなか捜査の進展状況や、その内容について教えてはくれなかったんですけど、ある時、私が事件のことを調べていることを知った記者の方――とある新聞社の社会部記者が、事件に関する色々な情報を教えてくれたんです。それでわかったんですけど、この事件の犯人は必ず、被害者のそばにカードを残していくみたいなんです」

 男の身体に緊張が走る。

「カ、カード?」

 彼は震える声で言った。

「はい。アルファベットの書かれた……」

「ああ――」

 彼女の声を遮るように、彼は叫び声をあげ、突然、その場から走り出していった。

「え、どうしたの?」

 彼女はとまどいの表情を見せながらも、すぐに後を追いかけた。

 男は公園前の道路で信号待ちをしていた中型のバイクを、乗っていた男から奪い、それに飛び乗ると、本牧埠頭の方へと走り出した。

 少し遅れて、公園を出た愛の目の前に黒のスカイラインが現れる。

「乗れ、早くしろ。見失ってしまう」

 窓が開き、中からハンチング帽の男が叫ぶ。


23


 京浜東北線、東神奈川駅のホームで白のハンチング帽に水色のポロシャツ、白のスラックス姿――そのファッションが持つ柔軟さとは裏腹に筋骨隆々とした肉体が無骨なシルエットを見せる三十代半ばの男が麦わら帽子にピンクのタンクトップ、デニムの短パン姿の小学校低学年くらいの少女を連れて電車を待っている。

「どこ行きたい?」

 男は言った。

「妹のところ」

「え」彼は困った表情をみせた。「でも、お母さんとの約束であそこには行っちゃいけないんじゃなかったっけ?」

「おじちゃんが内緒にしていてくれたら、お母さんにはバレないよ」

 彼女はすがるような目で見上げ、彼の手を強く握りしめた。

「でも、おじちゃんはお父さんと同じでお巡りさんだから、嘘はついちゃいけないんだよ」

「黙っていればいいの。何も言わなければ嘘をつかなくてもいいでしょ?」

「でも、お父さんはおじちゃんより偉くて、もし、バレたらものすごく怒られちゃうからなあ」

「お父さんやお母さんには、おじちゃんに遊んでもらってとても楽しかったって、それだけ言えば嘘にならないでしょ?」

「施設の人がお父さんたちに話しちゃうかも」

「遠くから顔を見るだけでいいの。ねえ、お願い」

「仕方ないな。ちょっとだけだよ」

「うん」

 本牧元町にある『光学園』と呼ばれる児童養護施設は補強コンクリートのRC造で、いくつかの棟に分かれていた。

二人は道路を挟んで、向かいの駐車場に停めてある車の陰から中の様子を窺った。目の前には玄関のある中央棟があり――船のへさきのような形をしていた。そこから、視線を少し左に移動すると中庭が見えた。職員と思われる女性二人と十人前後のこどもたちが遊んでいる。男はすぐに自分が連れている少女と同じ格好をしている女の子を見つけた。

「晴子ちゃん……」少女は一年ぶりで妹を見た。彼女の頬に一粒の涙がすべり落ちた。「ごめんね」

 少女が晴子ちゃんと呼ぶ、その子は数人の仲間とサッカーをして遊んでいて、誰かが蹴ったボールが道路沿いのフェンスの方へ飛ぶと、彼女がそれを拾いにやって来た。二人は慌てて車の後方へと身を隠した。意外にその距離は短かったので、危うく見つかりそうになった。妹は何かを感じたのか、こちらの方を少し見ていたが、仲間の呼ぶ声に戻っていった。男がトランクの陰から覗くと、走り去る彼女の左肩にトライアングル状のホクロが見えた。

「もう、帰ろう」

 少女が言った。

「いいのかい?」

「うん。晴子ちゃん、元気にしていたから」

「そうか。よし、帰ろう」

「今日はありがとう。川島のおじちゃん」

「いや、瞳ちゃんのお役に立ててなによりだよ」


 『光学園』の応接室の革張りのソファアに向かい合う学園長と川島。

「それでは、当時の資料はもう一つも残ってはいないのですか?」

 川島が言った。

「はい。八十年代後半から九十年代前半までの資料だけが見当たらないのです。なぜなのかはわかりませんが」

「当時の職員の方は?」

「ええ。一人、相沢というのがおります」

 応接室のドアがノックされると、四十代の眼鏡をかけた細身の女性が現れた。

「相沢です」

 彼女が言った。

「ああ、どうも川島です」席を立ち、軽く会釈した。「さっそくなんですが、九十年代前半の頃、当時ここにいた晴子という少女がどこへ引き取られていったか覚えていませんか?」

「晴子ちゃん? ああ、覚えています。私の担当ではなかったのですが。確か座間市の山田さんという方のところへ養子縁組されたと記憶しています。そういえば、何年か前、彼女も大人なってからですけど、養親はお二人ともお亡くなりになられたと、風の噂に聞いたような気がします」

「そのあとの彼女については何か知りませんか?」

「さあ、そこまでは」

「そうですか。ありがとうございました」

 養護施設を後にした川島は座間市の市役所に向かった。


24


 再び合流した川島と石本を乗せた黒のセルシオが本牧へと移動していた。

「川さん、どこ行ってきたんですか?」

 運転しながら、石本が尋ねた。

「……」

 助手席で口を閉じたまま、窓の外を見つめている川島。

「川さん、聴こえてます?」

 顔を覗きこむように横を向く石本。

「ちゃんと前見て運転しろ」

「はい……」納得いかない表情で、ルームミラー越しに川島の顔を睨む石本。目の前に東京湾を臨む港の倉庫街が見えてくる。「あ、着きました。ここです」


 最後のマルタイである風見洋子、六十八歳はもうすでに裁判官は退官して、今は去年亡くなった夫の会社、風見貿易の社長の座に収まっていた。彼女はその年齢を忘れさせてしまうほど精力的な女性で、ひと時も身体を休めることはなく、とにかく動き続けていた。その姿は、動きを止めれば死んでしまう回遊魚を連想させた。

 瞳とチャンが挨拶すると、

「私が最後の一人ですって。あなたたち、それでもプロなの。全然安心できないじゃない」洋子は歯に衣着せぬタイプの女性だ。「出掛けるわよ。あんたたち、ちゃんと守りなさいよ」

 本牧埠頭の商港区にある風見貿易の倉庫内には商品である家庭用品の詰まった段ボールが山積みされており、その間を縫うように通路が巨大迷路のように広がっていた。その中を洋子は担当者とぐるぐるとめまぐるしく移動しながら、何やら打ち合わせをしている。  

 倉庫の入り口で、チャンが合流してきた川島と石本を出迎えた。

「瞳ちゃんはどこだ?」

 開口一番、川島が尋ねる。

「え? あ、今倉庫の方に……」そう言って、チャンが倉庫を振り返ると、

「キャアー―」

 洋子の悲鳴が庫内に響き渡った。

 駆け出す、川島。あっけにとられながらも、後を追いかける二人。

 段ボールの通路を抜け、いくつかの角を曲がると、少し開けた場所に出た。そこには洋子と社員の男が血だらけの姿で倒れていた。

川島はそれを横目に通路を先へ進む。遅れてきたチャンと石本が倒れる二人の脈を取るがすでに息絶えている。チャンは携帯で鑑識と救急の手配をする。

「待て、待つんだ、瞳ちゃん」

 通路の先に川島の声が響く。駆け出す刑事たち。

 二人が通路の切れ目を曲がると、そこは工場の裏口で、ドアが開いていた。外へ出ると、目の前には東京湾が広がっている。その手前の草むらに覆われた空き地の少し先で川島が何かに向かって叫んでいる。二人が近づいていくと、さらに、その先で海へと猛スピードで突っ込んでゆく、一台の車が見える。銃を構える川島。

「止まれ、止まるんだ、瞳……」

 その瞬間、車はダイブし、そのまま海へと一気に飲み込まれていった―― 


25


「その後、車は引き揚げられたが、そこに瞳ちゃんの遺体はなかった」

 黒のスカイラインを運転するハンチング帽の男が言った。

「その女刑事さんが……私たちが追いかけているあの彼だというんですか? そんな嘘みたいな話、信じられません」

 助手席の愛が眉をひそめ、不服そうに言った。

「私にも信じられないさ……。ただ彼女はDID、すなわち乖離性同一性障害、平たく言えば多重人格者だったんだ。今は性転換して、あのとおり男の姿をしているが。」

「多重人格……? まさか、そんな……」

「ただし、彼女は本当の瞳ちゃんではない」

「え? どういうことですか?」

「彼女には晴子という双子の妹がいたんだ……」

「ハルコ……?」

「彼女の姿を最後に見たあの日から、半年経った今でもまだ事件は解決していない。私は今年で定年退職だ。もし、このままで終えたなら、私は自分の刑事人生に何の価値も見出せなくなってしまうだろう。それに、幼い時から知っている瞳ちゃんのことを私はずっと娘のように思ってきた。もちろん、今でも……だからなんとしても彼女を救いたいんだ」

「そうだったんですか……刑事さんは瞳さんとハルコが入れ替わっていると、瞳さんはどこかに囚われていると考えているんですね」

「そうだ」

 頷く川島。

「あの、刑事さんって、川島さんですよね。私、覚えているんです。姉のことがあった時、とにかく真相が知りたくて、私がしつこく捜査のこと聞いて回っていたときに他の刑事さんたちは事件に首を突っ込むなって感じだったけれど、一度しか会えませんでしたけれど、川島さんだけは自分の納得いくまで、調べてみればいいと言ってくれました」

「私も覚えていたよ」男はサングラスを外し、ハンチング帽を脱いだ。「この事件の解決は君にとっても大切なことだったね」

「でも私にはどうしても、彼がそんな事件を起こしたとは思えないんです……」

 そのとき、前を行く記憶喪失の男が乗るバイクが視界に入った。

「奴だ。追いついたぞ。私の勘が正しければ、今の奴は君の知っている男じゃない」

 バイクは首都高と一部並走する国道357号線を高速出口前の信号を右に折れ、西へと向かい、本牧元町へと入っていった。

「やはり、あそこへ向かうのか……」

 男の後を追いかける川島が呟くように言った。

 バイクは交差点で、左へ曲がりそれから少し走ると、光学園が見えてきた。次の瞬間、薄暗い闇の中、向かい側の駐車場から、猫が飛び出してきた。男はそれを避けようとして、急なハンドルを切り、バランスを崩し、バイクから、身体が放り出された。倒れて滑るように対向車線に入っていったバイクは向かってきた車にぶつかって大破した。そこから、玉突き事故が発生し、辺りは騒然となった。

 なんとか事故に巻き込まれることなく済んだ黒のスカイラインは離れた場所に停車した。

川島はすぐに車を降りると、あっという間にどこからともなく現れたやじうまの群れをかき分けながら、男の元へと駆け寄った。愛も後を追った。

「おい、大丈夫か? しっかりしろ」

 光学園の敷地内、ヨーロッパの街路灯を模した室外灯が照らす芝生の上に倒れる男を川島が抱き上げる。

「う……」

 男がうめき声をもらす。

「救急車」

 川島が叫ぶ。

 愛が慌てて、携帯をバッグから取り出そうと中を覗きこんだそのとき、頭の向こうで銃声がした。「え?」驚き、顔を上げると、目の前には腹から血を流しながら倒れる川島と一瞬で立場が逆転し、それを見下ろす男が立っていた。

「お前、晴子だろ……」川島は脇腹のホルスターから銃を奪い、自分を撃ったその男を見上げた。「お前は養父母が死んだ後、こつ然と姿を消した……ありとあらゆる記録からお前の情報がすっぽりと消えていた……瞳ちゃんに成りすましたお前がその立場を利用して、色々と画策したんだろう? 瞳ちゃんをどうした?」

「へえ。分かるんだ、私のこと。すごいじゃない。でも、それなら本当はもう知ってるんじゃないの? 瞳ちゃんがどうなったのか。たぶん、あんたの予想どおりだと思うけど、当然、私にぶっ殺されたわよ」

「貴様……」

 立ち上がることができずに倒れたままで、ハルコを睨みつける川島。

「そしてあんたもここで私にぶっ殺されるというわけね」

 川島に銃を向ける、ハルコ。

「やめて」

 テーザーガンを彼女に向ける愛。

「そんなおもちゃで本物の銃と勝負しようっていうの? あんた、マジ?」

 向き直ると、不敵な笑みを浮かべたハルコが今度は愛に銃を向けた。

「あなた……あなたは自分が誰なのかわからなくて……ひどくおびえていたわ……でも、それでも……自分がそんな状態だっていうのに、私のことを心配してくれた。力になりたいって言ってくれた」

「何を言っているの? もしかしてあいつのこと? あのダメダメ君のことを言っているのかしら? 自分の悪さを認めたくないものだから、記憶喪失なんて都合のいいキャラ作っちゃってさ、いわゆるジョン・ドゥってやつね。笑える。あんなの私じゃない。私の中に良心なんてものがあるわけがない。ニセモノの人格よ。あのとき……パトカーで海へ突っ込んだ時、軽く頭をぶつけちゃったせいで急に生まれてきた、ちょっとしたイレギュラーってやつよ。もう消えたわ。二度と現れることもないわ」

「嘘だ……」

 川島が言った。

「ああん? 何か言った?」

ハルコが川島の顔を踏みつける。

「やめて」

 愛が叫ぶ。

「お前は……瞳ちゃんを……姉さんのことを本当は憧れていた……だから、彼女に成りすましたんだろう?」ハルコに顔を蹴られながらも、川島は話を続ける。「あのトイレの小瓶……あの暗号もお前だろう? お前がヒントくれたんだろう? 認めようが認めまいが、お前の中の瞳ちゃんへの憧れが、良心を持つその人格を生み出したんだ。お前は新しく生まれ変わろうとしたんじゃないのか? そして実際にさっきバイクから転げ落ちるまで、お前は元のその、ハルコという人格を自らに封じ込めていたんじゃないのか」

「人の人生、勝手にドラマチックに語るんじゃねえよ」

 ハルコの銃が再び、川島に向けられる。それと同時に愛が引き金をひき、ワイヤー針がハルコの肩に突き刺さる。すると今度はハルコが銃を愛に向け、引き金をひいた。が、その瞬間川島が彼女の足を引っ張り、体勢が崩れた状態での発砲となり、弾は愛の肩をかすめた。百万ボルトの衝撃がハルコの身体を走ったが、動けなくなるほどではなく、すぐさま再び銃口を川島に向けた。

「川島さん」

 その場に膝をつき、肩の傷口を押さえながら愛が叫ぶ。

「やめて」

 そう叫んだのはハルコ自身だった。それから、川島に向けていた銃口を一人芝居のように、見えない何かに抵抗するように力ずくで、自分の口へと運んでいった。そして、彼は船のへさきのような形の建物に目を向けると、ひとすじの涙を流した。「姉さんとここにいたあの頃が一番幸せだった……」

「いや……」

 愛の口から、溢れる涙とともに力なくこぼれ落ちる嘆き声。

「私は瞳……もちろん本物の姉さんではなくて、晴子の中の人格の一人よ。刑事さんの言うとおり、私にはずっと、記憶にあるやさしい姉への思いがあった。でもそれは残酷なまでの裏切りから、激しい憎悪へと変わった。ううん。違うわね……それはきっと私の誤解から生じたもの、私の弱さが生み出した怪物。私はもう一人の私を……ハルコの悪事を止めたかった。だけど、結局は私も弱いままで……記憶喪失の彼は私が求めたんだと思う。新しく生まれ変わった人になりたかった……でも、やっぱりそう都合よくはいかなくて……ハルコを無理やり消そうとしても消えるはずなかった。それは彼女が……私が犯してきた罪と同じこと。だから、もうこれで本当の終わりにする。愛ちゃん、最後にあなたに会えてよかった。あなたのお姉さんを大切に思う気持ちが、最後の最後で私をハルコに勝たせてくれた。そして、お姉さんのこと本当にごめんなさい……それと、ありがとう」

 最後に彼女は微笑んだ。

「いや――」

 重なる銃声が断末魔にも似た愛の叫び声を空しくかき消した。


 光学園の前には数台のパトカーと救急車が赤色灯を回しながら停まっている。規制線のロープの向こうではたくさんの鑑識の係員たちが動き回っている。

 担架で運ばれる川島のそばに付き添いながら歩く愛。

「大丈夫ですか? 川島さん」

「ああ、なんとか急所は外れていたみたいだ。命に別条はない。私より君の方こそ、撃たれただろう?」

「ああ、でもかすっただけですから、たいしたことないです」

「しかし、これじゃ自分のために救急車呼ばせたようなもんだな。まさに刑事の勘ってやつか……ハハ……イテテ……」

「もうそんなこと言っているからですよ」

 救急車に担架が運び込まれると、最後に川島がウインクした。サイレンを鳴らし、車が走り出す。愛はそれを見送った。 


26


 山下公園近くの教会の礼拝堂に愛は親代わりの上野牧師と兄のように慕う金太郎と一緒にいた。

「なんと複雑な……大変な事件に巻き込まれていたのですね」

 牧師が驚きの表情を見せながら言った。

「愛ちゃんが無事で本当によかったぜ」

 金太郎がおおげさに胸をなでおろすしぐさを見せる。

「本当ですよ」

 牧師がうなずく。

「でも、念願だった犯人が見つけられてよかったじゃないか」

 金太郎が微笑む。

「うん……初めは私……犯人のことがとても憎かった。できればこの手で殺してやりたいとさえ思っていたわ。ごめんなさい、上野牧師……でも、だけど……彼には死んでほしくなかった。多重人格……それがなんなのかは私にはよくわからない。確かに彼とハルコはまったくの別人格だったかもしれない……けど、少なくとも彼とハルコは同じ一人の人間だった。とにかく人を殺すなんて最低、最悪の罪よ。お姉ちゃんのことは今でもくやしく思う……だけど、その罪を犯してしまう人間っていうのは必ずしも悪人一辺倒とは限らないのかもしれない……だって人はみんなそれぞれに他人にはわからない悲しみや苦しみの中で戦い続けているんだもの。だから、自分に負けちゃ……弱い心に負けちゃダメなんだって、そう思ったの」

「まさに罪を憎んで人を憎まずですね」

 牧師が言った。

「それじゃ、後は今を生きている俺たちが、死んでいった人たちの分までもがんばって生きて、そういう悲劇を二度と起こさないように努力し続けてゆくってことだな」

「うん」

 金太郎の言葉に愛が笑顔でうなずく。

「お、いい笑顔だね。それだよ、それ」

「しかし、金ちゃんいいこと言いますね」

「でしょう? 牧師様。俺だってね、こう見えて色々と考えて……」

「ごくたまにですけどね」

「え?」

「ハハハ」

 愛が大声で笑う。

「ひでぇな…そりゃ無いよ…」

 三人の笑い声が礼拝堂に響き渡る――

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カタルシス @cocomocacinamon

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