ベルエポックのようなあなた

アオヤマ

第1話

恋愛は人生の花であります。

今林はそう言いながら350ミリの缶ビールを机に置き、ごろりとフローリングに寝転がった。なんとなく陳腐な響きのそれに、俺はただ一言「なに?」と返したが、今林は俺に背を向けたまま黙っていた。彼は俺の黒いTシャツを着ていて、襟首のあたりが少し余っている。もし今俺が、浮き出た首の骨を舐めずったなら、彼はどんな反応を示すだろうか。


今林に情欲を感じ始めたのはいつ頃からだったか、はっきりと思い出すことはできない。友情であったはずのそれは気づけば恋慕に形を変えて、俺をずっと苛んでいることだけが確かだ。


俺は机の向こう端に置かれた缶を黙って手に取り、今林の目線が明後日を向いているのをいいことに、そっとかたい飲み口に口づけ、また同じ場所に液量の変わらぬそれを音を立てぬよう慎重に置く。それから何秒後かには自身の気味の悪い行為にいたたまれなくなる、いつもそうだ。俺は身じろぎして右の尻ポケットからソフトのセブンスターを取り出し、一本引き抜いて机上にあったライターで火をつける。


「坂口安吾も知らないのか」


それが先ほどの相槌への返事であることに気がつくまで、俺は三秒要した。肺に煙をたっぷりと取り込んでから、俺は答える。

「ヒロポンだろ」

「……そう言ってやるなよ」

薬物中毒だったことを揶揄すると、今林は可笑しそうに喉を鳴らしておもむろに起き上がった。アルミ缶を手に取りちびちびと舐めるように飲んでいるのを、気づかれないよう横目で見つめた。俺は今林と一緒にいる時にしかタバコを吸わない。理由は単純で、彼の肺を俺の副流煙でじわじわと満たすことに昂りを感じるからだ。純真で馬鹿な彼は、浅ましい俺のこの劣情に一生気づくことはないのだろう。


「"恋愛論"の一節だよ」

彼は細い声でそう呟いたのを皮切りに、 滔々と安吾の"恋愛論"について語り始めた。純文学とギリシア美術に傾倒している彼は、自分の領分の話になるとひとかたならず饒舌になる。俺もいつもならば適当に相槌を打ってやり、彼の声を聞くことに徹していたが、今日はあいにくそんな気分ではなかった。自分のこの恋着の行くあてのなさにいい加減うんざりしていたのもあるが、今林が彼女と別れたことを一丁前に悲しんでいることに苛立っていたからだ。

さっきまで別れた彼女の話を延々と聞かされていた俺は、軽口を叩き、励ましのような薄っぺらい言葉をかけたりしたが、彼の不幸が喜ばしくて仕方なかった。

俺は彼の話を遮るように大きなため息をつき、部屋に白煙を撒き散らかす。

「お前は、そんなんだからすぐ女に振られるんだ」

嫉妬と羨望を織り交ぜた言葉に、今林はなぜかほんの一瞬、俺のことを哀れむような表情を見せたが、それを隠すように少し歪に片頬を上げた。

「その通りだ」

目を伏せ、依然として微笑んでいた彼の目が、ふわりふわりとさまよう煙を追ってから、その出どころてある俺をじっと見つめる。今林の瞳は茶がかっている。俺はその全てを見透かすような目にどうしようもないバツの悪さを感じ、口の中の渇きを振り切るように、レコードでもかけるか、と口を開いた。






"But Not For Me"のイントロが流れ出し、俺は少し短くなった七本目のタバコを右手で弄びながら、それを何の気なしに小さく口ずさんだ。いい歌だ、まるで俺のことを歌っているかのようでもある。


余韻を残しながら次の曲に移った時、俺の本棚から引っ張り出したポーの詩集を眺めていたはずの今林が、「俺のことを歌ってるみたいだ」と笑いを含んだ声で言ったから、俺は本当に驚いてしまって、思わず顔を上げた。その声に春情が孕まれていたことに、気づかないはずがない。


「なにを……」

「お前が思っているほど、俺は馬鹿じゃない」


俺は勘弁してくれ、というふうに肩をすくめた。


「妬いただろう」


何本目かわからない、ビール缶の淵をゆっくりと指先で辿りながら、今林は熱い目で俺をじっと見た。


「なんのはなしだ」


強がった俺の声は無様に震えていた。ふたりの目はしみじみと出会い、凍ったように止まった。俺の心臓は早鐘を打つ。今林の細められた薄い一重の目と、少し赤らんだ両の頬がいやにいやらしくて、俺は、どうすればいいのだろうか。考える余地を残すまいとしてか、俺の視線を振り切るようにして今林は立ち上がり、フラフラと俺に近づいてくる。俺の右側に乱暴に座り込んだ彼の息がひどく近くて、何秒経ったのか、一秒も経っていなかったのか、俺は動けないまま、じっと座ったまま、焦点が合わない目も動かせずに、ゆっくりと絡む彼の指の冷たさだけをただ、夢のように感じていた。


「大友」


今林は泣きそうな声で俺の名を呼び、そっと俺の口から短くなったタバコを引き抜く。

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