黄泉比良坂 鬼ノ道行
一視信乃
よもつひらさか おにのみちゆき
「やだ、真っ暗」
大きな紙袋を提げて、バスを降りたナミは、辺りを見回し、ひっそりと呟く。
自然豊かな里山と、宿場が置かれた往時の面影を色濃く残す町・
緑の多いイイトコだと思ってたけど、今はすべてが闇に染まり、不気味でしかない。
駅に着いてすぐメールして、バス停まで迎えに来てもらえばよかった。
スマホを片手に、彼女は思案する。
今からメールして、迎えに来てもらう?
でも、こんなとこで待つのもイヤだ。
車は時折通るけど、人の姿はまったくない。
草むらで
スマホをバッグに突っ込んで、ナミはしぶしぶ歩き出す。
そんな遠くないんだし、迷ってるだけ時間のムダだわ。
それよか早くアパートへ行って、たっぷり文句いってやろう。
妹をパシリにするなんて、最低だよお兄ちゃんって。
大きな道を離れ、狭い上り坂に入ると、辺りは一段と暗くなった。
街灯が一つもない上に、民家の灯りもまったく見えず、月明かりだけが行く手を照らす様は、遥か
道もいつの間にか舗装がなくなってるし、虫の音さえも静まり返り、見知らぬ異界へ迷い込んだような気分になる。
やっぱ、ちょっと怖いかも。
ナミは思わず立ち止まり、引き返そうかと考えた。
大した距離じゃないはずが、先は全然見えないし、今ならまだバス停も近い。
そこで大人しく迎えを待てば──。
「待ってっ」
不意に、凛と冴えた若い男の声がして、グッと腕を掴まれた。
驚いて振り向くと、暗さに慣れた目に、頭に白い布を巻いた青年が、鋭い眼光で見下ろしているのが映る。
「何……ですか?」
今まで人の気配なんて、まったくなかったのに。
恐る恐る尋ねると、向こうも少し怯んだのか、慌てて手を離した。
そして、気まずげに頬をかく。
「えーと、この坂は、あの世と繋がっていて、途中で引き返すと二度と戻れなくなる──とかいわれてるんだ。もちろん、ただの迷信だけど」
そこで彼は、相好を崩した。
すると雰囲気がガラリと変わり、一気に人懐こくなる。
「君、坂の上まで行きたいの? だったら、送ってくよ。ここには、鬼が出る、なんて噂もあるし」
「鬼?」
そのとき初めて、彼が和装であることに気付いた。
青っぽい着物に、暗い色の
これで刀でも差してたら、もう武士にしか見えないが、そこはさすがに丸腰で、代わりに肩に棒状の長い袋を担いでいる。
「出稽古の帰りなんだ」
ナミの視線に気付いたのか、彼は袋を正面に掲げ、自らそう切り出した。
「出稽古?」
いってる意味がよくわからず、「何か習ってるんですか? 剣道?」と聞くと、彼は楽しそうにクスクス笑う。
「習ってんじゃなくて、教えてる方。僕、これでも結構強いんだぜ」
「若いのに、スゴいんですね」
大学生の自分と、同じくらいにしか見えないのに。
「いやまあ、それほどでもあるけど」
得意げにいって、また袋を肩に担ぎ、「じゃあ、行こうか」と歩き出す。
別に、送ってと頼んでないのに。
見知らぬ男性とふたりっきりなんて、褒められた状況じゃないけれど、屈託のない笑顔にほだされ、そのまま付いてくことにした。
「君、この辺の人じゃないよね。どっから来たの?」
「えっ?」
「いいたくないなら、別にいいよ。僕もこの辺の人じゃないし」
それから彼は、あれこれ勝手に話し始めた。
お姉さんや、同じ道場で一緒に剣を学んでる人たち──知らない人の話ばかりなのに、面白可笑しくいうものだから、聞いてて楽しくなってくる。
だから、つられて自分まで、年子の兄がいることや、これからその兄の元へ、届け物をしに行くことまで、ついペラペラと喋ってしまった。
「へえ、お兄さんか。お兄さんは強いかい?」
「えっ? うーん、別に強くはないんじゃないかな。背はあなたより高いけど、ひょろっとしてて、ケンカとかしたことなさそうだし。あっでも、スゴく優しくて、いざって時は頼りになるよ」
さっきまで、パシリにされて怒ってたのに、ナゼかそんな言葉が出た。
この人といると、なんか心が
そう思い始めたとき、上の方に明かりが見えた。
「あっ、そろそろお兄ちゃんちかな?」
彼との別れを、少々残念に思いながらいうと、彼がいきなり歩みを止めた。
ナミも一緒に立ち止まると、彼は袋を肩から下ろし、中身をゆっくり取り出していく。
「出稽古の帰りというのは半分嘘で、本当はここへ腕試しに来たんだ。みんなに内緒で、特別な刀まで借りて」
袋から現れたのは、一振りの日本刀だった。
「
慣れた動作で抜き放つと、刀身がキラリ月光を弾く。
「鬼は人によく似ているが、異人みたいな、妙ちきりんなナリしてるから、すぐわかるっていってたけど、まさかこんな、可愛い女の子だなんて、夢にも思わなかったよ」
冗談を、いってるようには見えなかった。
切なげに揺れる、真剣な眼差し。
彼はきっと、わたしを鬼だと思ってる。
和装の彼と違い、異人みたいな洋装──秋色のロングスカートに丈の長い上着を羽織ったわたしを。
もしかしたら本当に、タイムスリップしたのかもしれない。
ここは、わたしの世界じゃなくて、異端なのは、わたしの方かも──。
「斬るんですか、わたしを?」
違うというより先に、そんな言葉が出た。
もちろん、斬られたくなんかないけど、無様に言い訳したくもない。
覚悟を持って見返すと、彼はフッと笑った。
「斬らないよ。僕には君が鬼には見えないし、例え鬼だとしても、女の子を斬る
最後は軽い口調だったけど、それは
やはりこの人は、違う世界を生きてる人だ。
面白くて優しい人だけど、大切なものを守るためなら、それこそ、鬼にだってなれる人。
ちょっと怖いけど、いいなって思った。
もっと深く知りたいと──。
「行こう。お兄さんが待ってるんだろう」
刀を収めた彼が、代わりに手を差し伸べてきた。
それを取ってナミは、また坂を登る。
あれほどお喋りだった彼も、今じゃすっかり無口になって、繋いだ手の温もりだけが、その存在を伝えてくれる。
ずっと、こうしていられたらいいのに。
握る手にほんの少し力を込めたとき、遠くにあったはずの明かりが、急に目の前に迫ってきて、そのあまりの眩しさに、ナミは目を細めた。
激しいクラクションに、条件反射で端に避けると、すぐ脇を軽自動車が下っていく。
テールランプが遠ざかると、また虫の音が響いてきた。
なんなの、いったい?
いろんなものが一気に押し寄せ、頭が少しくらくらするが、そこで、はたと気付いてしまった。
彼がいないということに。
急いで辺りを見回せば、坂の様子もさっきと違って、少ないけれど街灯もあるし、民家の灯りもちゃんと見える。
だから余計、はっきりわかった。
彼はどこにもいないって。
どこかへ走り去ったわけでも、車に連れ去られたわけでもない。
もちろん、そこらの物陰に隠れてることもないだろう。
現れたときと同じ唐突さで、彼は忽然と消えてしまった。
一瞬夢かと思ったけど、彼と話したことも、その手の温もりも、まだはっきりと覚えている。
いったい、どういうこと?
本当に異世界へ行ってたとか?
あれこれ考えてもわからないし、このままここにいても仕方ないから、ナミはとりあえず、兄の家へ向かうことにした。
見覚えのある、木造二階建てアパートの、二階一番手前の部屋。
一応名前を確認し、チャイムを押すと、すぐにドアが開いて、兄のナギが顔を出す。
以前京都で買ったとかいう、ややくたびれた『誠』の文字入り白Tシャツに、紺のハーフパンツという寛いだ格好の兄は、妹を見てへらりと笑った。
「おお、ナミヘイ、遅かったじゃん。持ってきてくれたか、オレのスーツ」
「持ってきたよっ。てゆーかっ、バス停まで迎えに来てくれても、いーんじゃなーい?」
緊張感のない兄の姿に安堵しつつ、袋を押し付け文句をいうと、ナギは「迎えにって、夜道が怖いのかよ」と、小バカにしてくる。
「オイオイ、どーした? 狐に化かされたみたいな顔して」
きょとんとした兄へ、彼女は詰め寄った。
後ろでドアが、バタンと閉まる。
「狐、出るの?」
「さあ?
「じゃあ、鬼はっ? この辺に、黄泉の鬼が出るって噂、ある?」
「鬼って、そんなん出るわけないだろぉ。ああでも、黄泉がどうこうって話ならあるぜ。小野路のどこかに、
「よもつひらさか?」
今度はナミがきょとんとすると、兄は神妙な顔付きになった。
「黄泉比良坂ってのは、黄泉の国、つまり、あの世とこの世の境にある坂のことなんだが、まーよーするに、丘のふもとの墓地に埋葬された人の魂が、黄泉の国へ向かうときに通る、霊道があるんだと。だから、霊感の強い人には、お化けが見えたりするって話だ」
「お化け?」
じゃあ、あの人は幽霊だったの?
大昔に死んだ武士の霊、とか?
とてもそんな風には、見えなかったけど。
すごくイキイキしてて、腕試しに来たって言葉も、嘘には思えなかったし、何より繋いだ掌が、力強く温かかった。
やっぱり、タイムスリップしてたのかな?
それとも彼が、タイムスリップしてきた?
あるいは、黄泉比良坂に、ふたりで迷い込んだとか?
結局、本当のことはわからないけど、ただ一ついえるのは、恐らく彼にはもう二度と、会えないだろうということだ。
「名前くらい、聞いときゃよかった」
「は?」
まあ、聞いたところで、どうなるもんでもないんだけど。
もう呼ぶこともないんだし、名前がわかっても、実在が確かめられるわけじゃない。
彼が、歴史上の有名人なら話は別だけど、そんなことあるわけないし。
「それよか、早く上がれよ。メシ食ったのか? まだなら、ピザでもとるけど」
兄の言葉に促され、ナミは素直に靴を脱ぐ。
「夕飯は食べたけど、なんか甘いもん食べたいかも。冷たくて甘いヤツ」
「は? そんなんないぞ」
「だったら、コンビニで買ってきてよ。夜道、怖くないんでしょ、お兄ちゃん」
「えーっ。ったく、めんどくせーなぁ」
そういいながらもナギは、財布を手に部屋を出ていく。
「いってらっしゃい。迷子になんないよう、気を付けて」
「なるかよっ」
主のいなくなった部屋に、バラエティーの笑い声が大きく響く。
ナミはテレビを消すと窓を開け、月の光に浮かび上がる黒い山影を見つめた。
あの山は、あの人が生きてた頃を知ってるのかな?
それがいつかもわからないけど、彼も今頃こんな景色を、自分の世界で眺めているかもしれない。
そう思うと、最初不気味に感じたものが、なんか愛しくなってくる。
これから、日常を重ねてくうちに、あのときのことも、どんどんあやふやになってっちゃうんだろうけど、時々はわたしのこと、思い出してくれたらいいな。
「わたしも絶対、忘れないから」
彼と繋いでた手を握り、ナミはひっそり呟いた。
黄泉比良坂 鬼ノ道行 一視信乃 @prunelle
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