〇(まる)

石野路傍

〇(まる)

 わたしは中学時代にある学習塾に通っていた。「通っていた」というよりは、「通わされていた」のほうが正しいかもしれない。中一のころまでは特に良くも悪くもない成績だったけれど、学年が上がって受験を意識する生徒が増え始めると、周りに追い越される形で席次がかなり下がってしまった。娘の成績不振を心配した母がわたしを塾に通わせようと言い出したので、とりあえず友達が通っている塾に入ることになったのである。

塾そのものについて特に話すことはない。教室の冷房が効きすぎていたとか、コンビニが近くになくて不便だったとか――そのぐらいのことしか覚えていないから。

当時使っていたノートや参考書は全て捨ててしまったっけと――机の辺りを探してみた。すると引き出しの奥深くから一枚のプリントが見つかった。

くしゃくしゃになっていたプリントを広げる。それは講師の手で採点されたプリントだった。わたしの丸みを帯びた文字で書かれた答案には、ピンクのボールペンで丸が付けられている。

 わたしは思い出す。

この答案を採点した人のことを。



 口数が特別多いわけではなかったが、新しく塾に入ってきた生徒にはフレンドリーに話しかける人だった。いつも名前と部活を聞くのがお決まりで、私も名前をすぐに覚えられた。生徒からは名前をもじったあだ名で呼ばれていて、他の講師よりは一回り若かった。清潔感のある人で、彼のことを嫌っている生徒はあまりいなかったはずだ。むしろ、一部の女子生徒から人気があった。いつもパリッとした白のシャツを着ていて、胸ポケットにはペンを二本挿していた。軸の太い多機能ペンと、ピンクのボールペン……。

塾で行われた小テストの答案が返ってきたとき、わたしは堅苦しいテストに似つかわしくないピンクのボールペンで採点がされているのに驚いた。ふと隣の男子の答案を覗くと、私と違って何の変哲もない赤色のインクで丸が付けられている。周りを見渡すと、どうやら女子の答案だけピンクで丸が付けられているらしい。……いったい何のために? 恐らく、決まった理由はないのだろう。本人も特別女子に気に入られようとしてやっているわけでもなさそうだ。

わたしは、この目的のない行為のためにかかっている手間を想像した。ピンクと赤のペンをいちいち持ち換えて採点をするのは、正直面倒な作業のはずだ。もしかしたら男女で分けて採点をしているのかもしれないけれども、そのために用紙を並べるのですら、普通は面倒に感じるはずだ。恐らくこれを採点した人間はその手間を手間と思っていないはず……。わたしにはその感覚が異常なものに感じられて、段々と目の前に並んでいる可愛らしいピンクの丸に対して言いようのない生理的嫌悪が芽生えてきた。

――別に悪い人じゃないんだから。確かに、少々偏執的なところはあるかもしれないけど、考えようによっては可愛らしい遊び心だ。

わたしはネガティブな印象を本人に対して抱かないよう、その嫌悪感を抑えつけた。別に、これぐらい何だという話だ。気にしすぎるのも良くない。

実際、それ以外で不愉快な感情を抱くことは一度もなかった。わたしは答案の返却の時だけ、何も考えないようにしてその時々をやり過ごした。



中学校を卒業してしばらく経った。塾に通った成果か、わたしは仲の良い友達と一緒にそこそこの高校に進学した。母をはじめとして、家族もみんな喜んでくれた。

ある日、テレビのニュースに見覚えのある名前を見つけた。

『塾講師、買春の容疑で逮捕』

 あの人だった。

自身の生徒から連絡先を聞き出し、塾の外で密かに買春を繰り返していたと言う。いつからそれをやっているのかは報道されなかったが、もしかするとわたしがあの塾に通っていた時も同じことをしていたのかもしれない。

目の前にシワのついた答案を広げて私の心の中に生まれたのは、何かが腑に落ちたような感覚だった。あの時感じた嫌悪感は、何ら筋違いのものではなかったのだ……。

あの人はよく口癖のようにこう言っていた。

「わからないことがあったら、何でも先生に聞いていいぞ」

 先生。

今頃は取調室で質問攻めでしょうね。

多分みんなわからないことだらけだから、丁寧に教えてあげてくださいね。

わたしは手の上にある答案用紙をくしゃくしゃに丸めて――捨てた。




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〇(まる) 石野路傍 @ishinorobo

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