【1】七つの丘の街/追憶(2)

 その路地は、人であふれかえっていた。何事がおきたのだろう、と。アンフィッサは足を止める。腕を掴んでいるリウィアヌスの手を逆に掴み返して、彼女は彼の翡翠の瞳を見上げた。

「なんか、様子が変だぜ?」

 小声で囁くと、リウィアヌスも立ち止まり、彼女の示す路地裏を覗き込んだ。

 アエミリアス・セイヤヌスが潜んでいるかもしれない一角。その界隈に向かっている途中であった。貴族の愛妾たちが間男を囲っているという噂のある地域。荒くれの水夫たちが住まいを構えている場所。彼女らの目的地は、もう、すぐそこであった。だが、運命は思わぬところで思わぬ転がり方をするのだ。

「何があったんだ?」

 アンフィッサを背後にかばうように――彼女の青い瞳が見えないように配慮しながら、リウィアヌスは野次馬の一人に尋ねた。尋ねられた男は、胡散臭げに彼を見上げたが。すぐにある場所を顎でしゃくった。「見な」と、オスティア訛の入った言葉で付け加える。その場所には、

 そこに、死体があった。

「うっ?」

 それもただの死体ではない。下半身だけの死体であった。石畳の上に棒立ちになった足の上に、彼の上半身はない。アンフィッサも色々と死体は見てきたほうだが。これはかなりの衝撃だった。こみ上げるものを必死で押さえ、リウィアヌスの服を強く掴む。何よりもそれは気味が悪かった。

「なんだ、イリオンの皇帝か?」

 リウィアヌスの呟きに、野次馬たちの中にざわめきが走る。

『風の旋律』では、イリオン皇帝はスファルティアの国王に両断されたことになっているのだ。それを象徴しているわけではないのだろうが。

「縁起でもねえ」

 ぼそりと水夫の一人が呟いた。周囲の男たちも、次々に同意する。こんなことが出来るのは、只者ではない。囁きが徐々に広まっていく。彼の上半身はどこだ、とリウィアヌスが問えば。傍らに佇む水夫が足元を指した。そこには、ころんと品物のように男の体が転がっている。

 まるで、作り物のようだ。

 アンフィッサは、ぼんやりと考えた。そうだ。作り物だ。人間が、こんなに簡単に両断されるわけがない。

「――まさかな」

 遺体の見分をしたリウィアヌスの、うめくような声に、アンフィッサは目を上げる。彼は顎を押さえ、目を伏せたまま。小さくかぶりを振った。

「近衛の、士官か?」

「ああ。まだ、見習いに近い下級士官だ。多分。この男の剣、身なりに不釣合いなくらいの業物だ。おそらく誰かの命を受けて、ここへ……」

 その先を想像して、彼女は息を呑んだ。この殺された男。彼は、誰かの命を狙っていた。己の正体を知られぬよう、平服で現れて。ここで、誰かを殺そうとし、返り討ちにあった。ルオマ下町、ことにこの一角では喧嘩が日常茶飯事といわれるが、近衛士官が姿を偽ってまで殺しに来る相手などそういるわけではない。この男が狙ったもの。その相手の正体を想像して、アンフィッサは顔をしかめた。

「セイヤヌス?」

 彼を狙い、彼に討たれたのか。そうなると、彼女たちのほかにも、セイヤヌスの存在に気づいているものがいるということになるが。以前、ブリタニクスが持っていた指輪。あれは、殺された近衛士官が所持していたものだという。近衛の中に内通者がいるのではなく、近衛の中で、セイヤヌスの存在に気づいているものがいる、と。そういうことなのだろうか。新たな疑惑に、アンフィッサは眉をひそめて唸った。解けかけた糸が、また。絡まっていくような。そんな気がする。

「いくらなんでも、セイヤヌス相手に一人でこようと思う奴はいないだろう。彼は、剣の腕もそれこそ伝説的でな。ブリタニクスと、ためはるんじゃないかってくらいだから。だから、余計に奴がセイヤヌスの息子だ、なんて噂が流れちまうわけだが。――それにしても、派手なやり方だな。これじゃ、まるで『殺しました、見てください』といわんばかりの悪趣味さだぞ」

「剣奴だって、こんなことはしないな」

 ぼそりと呟いて。それが危険な一言だと気づき、アンフィッサは慌てて口をつぐんだ。幸いリウィアヌスはそれには気を止めず、己の考えに没頭しているようである。そんなとき。

「おまえ、いつかのガキじゃねえか?」

 近くにたむろしていた水夫の一人が、アンフィッサに気づいて声を上げたのだ。彼女も反射的に声のしたほうを振り向くと、そこには、見覚えのある顔が幾つかあった。

 初めて一人で下町を訪れた日、彼女に絡んできた水夫の仲間だった。

 あの時彼女が斬った男の姿は見えない。彼は、傷が元で絶命したのか。それとも、海に出てしまっているのか。そんなことを考えるよりも早く、

「悪い、俺、ちょっと用事が出来たっ」

 リウィアヌスに声を掛けると、彼はきょとんとした目でアンフィッサを見下ろした。そして、彼女に迫り来る水夫の集団を認め、瞬時に状況を悟ったようだった。水夫たちは獲物を追い詰める狩人の目で、アンフィッサを見据えている。

「こいつ、ドーリア人だ。ドーリアのガキだ。うちのアニキが、こいつにやられた」

 そんな叫びが、路地にこだました。

 野次馬たちの間に緊張が走り、その視線が一斉にアンフィッサに注がれる。彼女は油断なく身構えながら、腰の剣に手を伸ばした。ぎゅっと柄を掴むと、血が滾りはじめるのがわかる。――相手はルオマ人だ。殺そうが傷つけようが、構うことはない。そんな囁きが、耳元で聞こえたような気がした。

「動くな、ユリウス」

 ぽん、と頭にリウィアヌスの大きな手が置かれた。それが、頭に上った血をすうっと下げたようである。アンフィッサは肩の力を抜き、それでも剣にかけた手は離さず。四方に目を配った。

「言いがかりはよせ。こいつは俺の弟だ。れっきとしたルオマ人だ。つまらんことを言ってないで、さっさと役人でも呼んでこい。死体をこのままにしておくつもりか? 腐るぞ?」

 啖呵、とは言いがたい、からかうような言葉。水夫たちは毒気を抜かれたのか、一瞬動きを止めた。

「おまえらも、くだらないことで命を落としたくはないだろう? 海の男なら、海で散りたいと思うのが当然だろうが」

 陸で、剣の錆と成り果てるつもりか。

 リウィアヌスが嘲笑した。嘲笑。そう、彼の言葉は挑発だった。それに気づいた水夫の一人が、嬌声を上げて殴りかかってくる。つられるように、二、三人が。懐から刃物を取り出した。野次馬たちの中から、歓声が湧き上がる。もともと、ルオマの水夫は、カルタギアの船を狙った海賊行為をするような連中である。気が荒いといわれる海の男の中でも、もっとも獰猛な、たちの悪い輩であった。先日の乱闘のあとにその話をブリタニクスから聞いて、彼らとはあまり揉め事を起こさないほうがよいと忠告されていたのである。それをふと思い出し、アンフィッサは一瞬剣を抜くことを躊躇した。そのためらいを見抜いたのか。

「びびったか、小僧!」

 拳が顔面めがけて飛んできた。まともに当たれば、鼻が折れるであろう。アンフィッサは紙一重でするりとそれを交わし、剣を抜き放った。――はなった、つもりであった。が、その寸前に手首をリウィアヌスに押さえられ。彼の背後に追いやられた。それと同時に、彼女は信じられないものを見た。リウィアヌスがあの大きな手で。水夫を張り倒しているのである。水夫は勢い余って仲間の中に倒れこみ。刃物を持った連中も、あおりを食らって吹っ飛んだ。全ては一瞬の出来事だった。殴られた水夫は脳震盪を起こしたのか、転がったまま起き上がろうとしない。仲間たちは、リウィアヌスを警戒して一定の距離を置いたまま、こちらをにらみ続けている。

 そんな時間が、どれだけ過ぎたであろうか。

「なんだ、それだけか?」

 リウィアヌスが、再び彼らを挑発したのである。

 なんなのだ、この男は。アンフィッサは怪訝に思って彼を見上げた。彼女がドーリア人であることがばれたので、開き直っているのだろうか。

(いや。多分、違う)

 アンフィッサは悟った。リウィアヌスの声ならぬ声を聞いた。彼女は了解の意を示し、軽く彼の背を叩く。と、瞬間。リウィアヌスの目がこちらを見た。彼は小さく頷き、「行け」と目で伝えた。アンフィッサは答えるように剣を抜き放つ。薄闇にこぼれる白銀の光が、男たちの闘争心を刺激したようだった。怒号とも雄たけびともつかぬ声とともに、他の水夫どもも一斉にこちらに向かって飛び掛ってくる。彼らの一人を鞘でなぎ倒し、アンフィッサは大きく飛んだ。ふわり、と。風の如く。

 そのまま彼女は、二、三人を鞘で殴りつけ、件の路地裏を離れた。一度振り返ると、そこではリウィアヌスがヘラスの英雄さながらの奮闘を見せている。彼もまた剣を抜き放ち、一合と打たせぬ間に相手を地に沈めている。力技ではない、相手の力を利用した防御法。彼は、一切自分からは仕掛けてはいない。こういう戦い方もあるのだと、アンフィッサの中で別の彼女が感嘆の声をあげていた。

「小僧、逃げるのか!」

 オスティア訛の罵声と、剣圧がそんなアンフィッサを襲う。が、彼女はあっさりとその切っ先を交わした。リウィアヌスがしたように、敵の勢いを利用してその体を弾き飛ばす。彼女と二倍以上体格の違う男は、仔犬のように汚水の中に転がっていった。続けて迫る敵も、同じように力をいれずに交わす。そのせいか、呼吸も弾まず、血も滾らなかった。冷静に。ごく冷静に。本能ではなく理性で、剣を振るった。

 そのせいか、退路を確保するのは簡単だった。押されていると見せかけて、するすると路地を抜けていく。頭に血が上った水夫たちは、彼女の思惑など推し量ることもしない。アンフィッサは次第にリウィアヌスからはなれ、別の路地へと移っていった。移りながら、別の視点で辺りを見回す。

(アエミリアス・セイヤヌス)

 彼の姿を探して。

 この騒ぎになれば、何事だろうと顔くらいは出すであろう。アンフィッサは、彼の顔こそ知らなかったが、おそらく逢えば一目でわかると、確信していた。そう、それは根拠のない確信であった。なぜそう思ったのか。それは後年になってから、ルオマを離れたはるか遠い地で彼女は知ることになるのである。しかしそのようなことなど今は知る由もなく。彼女は剣を振るいながらひたすら目当ての人物を探した。冷静に戦っている分、周囲の状況がはっきりと読み取れる。今までなぜこのような戦い方をしなかったのか。こういうことを考えなかったのか。不思議なくらいだ。

 ブリタニクスの剣が、変幻自在だと思えたのも、おそらくはこういう理由があったのだろう。この方法を会得した今。戦ってみたい相手は、このようなザコではない。ブリタニクスただ一人であった。

 彼をいつか打ち負かしてみたい。常に抱いていた願望が、今、いっそう強くなった。



「なんだよ、ここ?」

 かかってくる水夫の姿も消え、少し入り組んだ路地にもぐりこんだアンフィッサは。とある家の前で立ち止まった。薄汚れた帳が、そこが家の入り口であることをかろうじて示しているような、粗末な建物を見上げて彼女はひとりごちた。すそが破れ、はたはたと風になびいて揺れている帳は、まるでアンフィッサに中に入れといっているかのようだった。彼女は何かに惹かれるように帳をつかみ。ゆっくりと引き上げる。

 ぐうう、という呻き声に似た声が、奥のほうから聞こえた。彼女は一瞬足を止める。が、わずかな燭台の明かりに照らされた狭い室内を見たせつな。息を呑んだ。部屋の隅に置かれた、粗末な寝床。その上に、人が横たわっている。白い髪が光を反射しているところを見ると、老人の様でもあったが。よく見ればそれは、青年だった。しかも、おそらくまだ若い。ブリタニクスともそう変わらない年頃であろう。彼はこちら向きに横たわったまま。起き上がる気力もないのか、無言でアンフィッサを見つめていた。

「そっちに逃げたぞ!」

 怒鳴り声とともに、幾つかの足音が表で聞こえた。アンフィッサは奥の青年に頭を下げると、帳を下ろす。その破れ目から外を見やれば、数人の水夫たちがなにやらわめき散らしながら走り去っていくところであった。一人一人は取るに足らない相手であるが、集団になるとしつこい。彼女は辟易して、肩をすくめた。その背中に、また。唸り声のようなものが投げられる。

「え?」

 振り返れば、まだ青年がこちらを見ていた。淀んだ沼のようだった翡翠の瞳に、わずかに光が射したように見えたのは、気のせいか。彼女が首をかしげると、青年はやつれて骨と皮ばかりになった手を彼女に向けた。唇が何かいいたげにもぐもぐと動いている。

「なんだって?」

 彼女は青年に近づいた。かがみこんで、彼の顔を覗き込むように視線を高さを合わせると。頬に、彼の手が触れた。その手は彼女の感触を確かめるように、ゆっくりと輪郭を辿る。

「う、み」

 彼はそういった。そういったように聞こえた。

「海?」

 聞き返したが、彼は頷くことはなく。ひたすらアンフィッサの目を見つめる。彼女の青い双眸を。

「アトラスの、柱」

 伝説の、中つ海と外洋との境の岬のことである。彼女の瞳に、海を思い出したのか。

 何かを訴えるようなまなざしに、彼女は眉をひそめた。

「見た。柱の、向こう」

「外洋を、見たのか?」

 アンフィッサは声を上げた。同時に、ある記憶が蘇る。


『下町に行ってみないか?』

『アトラスの柱を越えた奴がいる』


 ブリタニクスが、そのようなことを言っていた。それでは、この男が彼の言う、柱を越えた人物なのだろうか。

 男は、まっすぐにアンフィッサの目を見つめる。瞳の向こうにある、紺碧の海を思い描いて。

 こんな眼差しも、見たことがあった。記憶の奥底に、この目と同じ目が沈んでいる。

(あれは)

 誰だったか。アンフィッサの双眸をこのような目で見た人物。それは一体――

 一瞬、その面影が浮かんで消えた。常に遠くを見つめる、翡翠の視線がなぜか痛かった。


「ブリタニクス」


 胸に浮かんだ面影の名を呟き。アンフィッサは、唇を噛んだ。

 徐々に、全ての糸が繋がっていくような気がする。ほどけていた部分が結ばれ、絡まっていた部分がほぐれ。彼女の中で、それはあるひとつの意味をなしていく。

 彼女は徐に青年に背を向け、その家を出た。しんと静まり返った通りには、人の姿は全くない。彼女の乾いた靴音だけが、かすかに響くのみである。

「おう。いい運動になっただろう?」

 その通りを抜けたところで、リウィアヌスとぶつかった。彼は息一つ乱さず、余裕の笑みを浮かべている。アンフィッサはそれに同じく笑顔で応え。「わかったよ」と短く告げた。

「セイヤヌス殿を見つけたのか?」

「ああ。多分、あのひとはあそこにいる――ってとこを思いついたんだ。リウィアヌス、近衛の兄ちゃんたちがよく行くところって知ってるか?」

「近衛の? ああ、士官連中が行く店ならわかるが? まさか、そこに彼がいるってんじゃないだろうな?」

「その、まさかだよ」

 彼女は苦笑した。

 なぜ、こんな簡単なことにまたも気づかなかったのだろう。

 指輪を持っていたのは、近衛士官。先ほど殺されていたのも、近衛の関係者だと目される。

 今回の件は、近衛がかかわっているものだとして。更に、実質的には近衛にかかわるのもではないとしたら? 偶然に、近衛の連中が巻き込まれているのだとしたら。彼らが日常集まる場所に、セイヤヌスとの接点がある。おそらくこれは、ブリタニクスも考え付いたはずである。

「ブリタニクスと、セイヤヌス。両方に逢えるかもしれない。急ごう、リウィアヌス」

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風の旋律 上庄主馬 @septemtrio

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