【1】七つの丘の街/追憶(1)

「遠慮せずに、飲んだらどうだ? ここは、私のおごりだ」

 セイヤヌスの言葉に、ブリタニクスは肩をすくめた。セルウィウスはというと、眉を潜め胡散臭そうに二人を見比べている。二人――ブリタニクスと、セイヤヌスを。いや、セルウィウスにとっては、セイヤヌスはタナトゥスだった。先日この店で発作を起こし、倒れた女性。淫婦として名を馳せたズミュルナを介抱した、町医者である。セルウィウスの知るタナトゥスは、このように鷹揚な人物ではなかった。人を食ったところはあったが、言葉遣いは丁寧であり、これほど砕けた物言いをするとは思えなかったであろう。

 ゆえに。セルウィウスは疑っている。ブリタニクスとタナトゥスの関係を。この二人の間にいかなる繋がりがあるのか。探ろうとしている。

 そんな気配を感じ取って。ブリタニクスは小さく息をついた。

 タナトゥスを名乗る男が、セルウィウスの前に姿を現さないはずはなかった。セルウィウスは、エッピアの義弟。その彼の動きを、セイヤヌスが見逃すはずはない。セルウィウスは非公式ではあるが国王の息子。次期国王の座に最も近い場所にいる。ルオマを滅ぼそうとしている男が、次期国王を放っておくほうがおかしいのだ。

(何を考えている?)

 表情には出さず、ブリタニクスはセイヤヌスの様子を伺った。彼は、セルウィウスを殺すつもりだったのか。それとも、傀儡として利用するつもりであったのか。確かに、国王亡き後の傀儡は、ブリタニクスよりもセルウィウスのほうが扱いやすいであろう。ブリタニクスがセイヤヌスの息子である、と。そういう昔からまことしやかに囁かれる噂を信じるのであれば。

 同じ魂を持つものは共鳴はすれど、どちらかがどちらかに従うことなど決してない。それが、父と子であれば。同じ血を持つものであれば、なおさら。


 それは、奇妙な宴であった。


 長卓子の隅に固まる、三人の男。傍目には和やかに談笑しているように映るのだろうか。少なくとも、表面的には違和感はない。近衛の若手士官が、上司の奢りで飲んでいる。そんな風にも見える。この店では、よくある光景だった。しかし。

 内実は、奇妙な宴であった。

 何よりも奇妙なのは、誰一人として笑わないこと、会話が成立していないこと。酒の量だけが減っていくこと。

 気まずい沈黙が流れるわけではない。会話がまるでないわけではない。ただ、会話が成立していないのだ。セイヤヌスの言葉に答えるものはなく、セルウィウスの静かな問いに答えるものもない。ブリタニクスは、終始無言でセイヤヌスを見つめている。

「ご母堂は、ご健勝でなにより」

 セイヤヌスの言葉に、ブリタニクスは目を見開く。

「逢ったのか? 母に?」

 すると。セイヤヌスは相好を崩した。少年のようにも見える純粋な笑顔で、かつての許婚の子を、己の息子かも知れぬ青年を、見やる。

「初めて口をきいたな」

「俺と話すために、母のことを?」

「でなければ、御身はずっと黙り込んだままだったろう?」

「姑息だな」

「会話が成立すれば、それでいい。目的は果たした」

 先日下町の裏路地で出会ったときと同じ。乾いた笑みを浮かべて、セイヤヌスは杯を干した。

「御身の母上をどうこうするつもりはない。ただ、懐かしかっただけだ。」

「……」

「御身が側にいれば、私も安心だ。『王女殿下』を頼むぞ、小ルクレティウス」

「!」

 小ルクレティウス――ブリタニクスは、再び軽く目を見開いた。小ルクレティウス、と。セイヤヌスは彼を呼んだ。と、いうことは、つまり。

「あなたは」

 ブリタニクスが問いかけたときだった。ふいにセルウィウスが口を挟んできたのである。



 イズミルは、巫女であった。

 詩人の歌う『風の旋律』は、そう告げている。イリオンの皇女イズミルは、神に仕える巫女であった、と。そして、また。彼女は予言者でもあった。神の言葉を聞き、正しく民を導くもの。


 彼女の言葉は神の言葉。そこには誤りなどあるはずはない。

 彼女の予言は、正しき言葉。過ちなど一切ない。


 それなのに。

 それなのに、彼女の言葉に従ったイリオンは滅びた。彼女の言葉を信じて戦ったのに、イリオンは地上から消えた。

 なぜ? なぜ? 問いだけが繰り返される。幾度も幾度も。時代は下っても、彼女に対する疑惑は消えない。彼女に対する非難は高まるばかり。イリオンを滅ぼした皇女。破滅の娘。いつしか、イズミルはそう呼ばれるようになった。


(ばかな人たちだこと)

 エッピアは、けだるげに髪をかきあげ、表を流す詩人の歌に冷笑を浮かべた。何か仰いましたか、と飲み物を運んできた奴隷娘が問いかけたが、それには微かにかぶりを振るだけで。彼女は卓子に頬杖を突き、窓の外に目をやった。

 日は既にとっぷりと暮れ、あたりは夜の闇に包まれている。ここ、アウェンティヌスは住宅地ということもあり、宴でも催されない限り夜は静かなものであった。だから、こういった流しの詩人の声もよく通るのだ。詩人はこうして貴族の屋敷の近くを回り、声がかかればその家に上がる。そこで乞われるままに曲を奏で、詩を口ずさむのだ。

(ばかな人たちだこと)

 エッピアはもう一度。同じことを心の中で呟いた。

 一人の娘の言葉に踊らされて、国を滅ぼした愚かな男たちの物語。


 ――皇太子の花嫁になる女性は、若草色の瞳と陽光を織り込んだ髪を持つ女性。


 そんなイズミルの予言を信じて異国の国王の妻を奪うなど、どう考えても愚か過ぎる。なぜ、その反対のことを考えなかったのか。もしも、自国の皇妃が他国の男に寝取られたら? その恥をどうしてそそごうかと思うだろう。それは誰もが思うことなのだ。怒りは、屈辱は、誰でも感じるものなのだ。人にだけあるものではない。自分にだけあるものではない。

 それがなぜ、わからない。

 わからないから、人は繰り返す。過ちを重ねて生きていく。歴史を刻んでいく。

(そして。愚かな娘の愚かな言葉は、戦をするための格好の材料になっている)

 過去の復讐。その名目で、ルオマはドーリアを目の仇にしている。そんな、神話の中での話なのに。本当は誰も信じていないのに。ただ、争うための口実として、人々は愚かな娘の言葉をいまだに信じているのだ。そう、ある意味。まだ、巫女の予言に呪縛しばられているのだ。この、中つ海の諸国は。

 そんな言葉のせいで。

 エッピアは思う。そんないるかどうかもわからない、伝説の中にだけ存在するような小娘の言葉で、自分の人生は歪んでしまった。

 生まれた時代が悪かったのかもしれない。育った場所がいけなかったのかもしれない。それは、わかっている。重々承知している。

 もしも、ルオマが伝説の伝えるとおり、イリオンの子孫であるならば。

 数百年の時を経て、彼らは同じ過ちを繰り返したのだ。アクラガス――アイオリア最後の楽園で。

「むかしの、ことですわ」

 誰に言うともなく呟いて。エッピアは侍女に運ばせた葡萄酒に口をつけた。窓から流れ込む夜風が、彼女の髪を優しくくすぐり、部屋の明かりを揺らして消える。この風は、どこから吹いてきたものなのだろう。ほのかに潮の香りがしたのは、気の迷いだろうか。詩人があのような歌を口ずさみながら通り過ぎたからかもしれない。



 若草色の瞳、日差しを織り込んだ黄金の髪。

 皇妃にふさわしいのは、その乙女。

 乙女は、はるか西に住み、皇子の来訪を待ちわびている。



 そんなわけがない。そんなことがあるはずがない。



 かの乙女の名は、ミルティア。麗しの、アイオリアの至宝。

 不本意な婚姻で、スファルティアの国王に嫁がされた。



 嘘だ。彼女は幸せだった。幸せに暮らしていた。最愛の夫のもとで。



 皇子は、彼女を救い出した。

 二人は一目で恋に落ち、皇子の故国へと渡っていった。



 違う。恋に落ちたのは、皇子だけだ。彼は一方的にミルティアを求め、彼女を奪っていった。その心のありかも全く考えずに。

(野蛮な男)

 自分が愛した相手は、自分のことも愛してくれる、と。そう信じていたというのか。こちらが愛せば向こうも愛を持つと。勝手に思い込んでいただけではないのか。なんと身勝手な。なんと野蛮な。人の心をなんだと思っているのだ。



 だから。だから。殺した。

 あの、野蛮な男を。夫を殺し、その遺体の前で自分を辱めた男を。

 殺してやった。

 誰も責められない。この行為を、誰も責めることは出来ない。

 これは、復讐なのだから。

 エッピアは、杯を強く握り締める。中で芳香を放つ液体が、ゆるゆると波打った。それが一瞬、血に見えて――夫の流した血、あの、野蛮なルオマ人の流した血。その両方に見えて。


 ――吐き気がした。


 それでも記憶は、否応なく押し寄せてくる。シティリャの、独特の香りを持つ葡萄酒が、彼女を過去に引き戻していく。

 耳障りな、『風の旋律』とともに。



 アクラガス陥落の報は、瞬く間に町中に広まった。

 ルオマ軍が市街に侵入し、略奪の限りを尽くしていると。そんな報告も入ってきた。若い娘を持つ家は、一刻も早く娘たちを安全な場所に避難させようと右往左往していたようだったが。それでも、多くの娘たちが飢えた狼の犠牲になったようだった。そんな知らせを聞くたびに、いつ自分のもとにもその牙が向けられるかと、エッピアは不安におののいていたのだが。

『大丈夫だ。おまえは、私が守るから』

 夫の言葉に、漸く精神の安定を保っていた。

 街の有力者である夫、彼ははじめは彼女をシラクサに送り届けようとしていたのだが。エッピアが頑としてそれを聞こうとしなかった。私は最後まであなたのそばにいます、と。健気な新妻は短剣を握り締めて、屋敷の中に篭っていたのだった。


 ――おじ様がいらっしゃるのですもの。大丈夫。アクラガスは、完全に落ちることはない。


 彼女は確信していた。元、ルオマの将軍であったという男。彼女の家でかくまっていたその男は、まれに見る戦上手であった。彼の奇襲が功を奏し、全くの無力と思われていたアクラガスは、あのルオマを圧倒することが出来たのである。それでも、国力の差。軍備の差。それをあがなうことは出来なかった。

 結局シラクサの援軍を待たずして、アクラガスは滅びた。停戦協議後すぐに市庁舎はルオマ軍に占拠され、主だったものたちは処刑された。婦女子は、おおむね奴隷として接収され、ルオマ本国に送られることになっており、かろうじてそれを免れられたのは、エッピアを含む一部の特権階級の子女だけであった。

 ルオマは、特にアクラガスを滅亡させる気はなく、今までどおり貿易の中継地点として利用するつもりだったようであった。ゆえに、有力者たちとの関係を悪化させることは望まず、彼らにはそれなりの待遇を約束したのである。

 その約束は、絶対のはずだった。

 あの日が来るまでは。



『ルオマの指揮官を、うちにお招きすることになった』

 夫の言葉に、エッピアは不安を覚えた。ルオマ軍が、総司令官が屋敷にやってくる。何かよくないことが起こりそうな、そんな気がした。それは出来れば断ってほしいと、夫に幾度も告げたのだが。決まったことだからと取り合ってもらえなかった。

 そして。彼と出会ってしまった。

 ルクレティウス・リシウス――ルオマ軍総司令官。

 アイオリアの風習では、女性は宴に出るのは好ましくないとされた。女性は慎ましやかに、奥に控えているものだ、と。彼女も幼いころからそう躾けられ、この夜も宴には顔を出さなかった。しかし、

『ルオマでは、女性もともに宴に出席するのです。奥方も呼ばれてはいかがですか。一人で引きこもっていらっしゃるのは、かわいそうだ』

 司令官の一言で、エッピアは渋々宴席にはべることになった。主賓として迎えられたルオマ軍司令官。その男を前にして、エッピアは、足がすくんだ。彼の自分を見る目。それが、ひどく恐ろしかった。


『コルネリア』


 司令官がかすかに呟いたのは、そんな名だったのであろうか。彼の隣に控える、利発そうな少年。彼の息子であろう、その少年が、苦い面持ちで父を見上げたのは、やはりその声を聞き取ってしまったからなのであろうか。

 エッピアが全てを知ったのは、このずっと後のことだった。

 彼が、エッピアが父とも慕っていた男――アエミリアス・セイヤヌスと、少なからぬ因縁を持っていたことなど。このときは、知る由もなかった。

 もしも、知っていたとしたら。運命はもっと違う方向に進んでいたかもしれない。

 ルクレティウス・リシウス。彼は、国王に妻を寝取られた。その代わりに、国王の妹を『下賜』されたのだ。その妹は、アエミリアス・セイヤヌスの妻となるべき女性であった。

 このことに負い目を感じたのか。国王はセイヤヌスを疎んじるようになり、ついにはシティリャで暗殺しようとした。結果、セイヤヌスは、アクラガスの匿うところとなったのだが。


『失礼。昔の思い人に、面差しが似ておられたので』


 リシウスはそういって、その場をやり過ごした。エッピア夫妻も、特にそれ以降その話題には触れないでいた。が。成り行きで司令官親子を屋敷に泊めることになったとき。エッピアは悪寒に襲われた。寝所に引き上げる前の、リシウスの目。なめるように彼女の体を見つめるあの目が恐ろしかった。



 おじさま、と。エッピアは心の中で呟いた。

 もしもあの夜。セイヤヌスが彼女の家にいたら。どうなっていたのだろうか。彼女は、あの薄汚いルオマ人の毒牙にかかることもなかったのだろうか。

 考えても、詮無いことだった。


 すべては、定められたこと。


『風の旋律』にもある一節を、口ずさむ。

 いつか、誰かが、この因縁を断ち切るまで。

 愚かな娘の言葉を忘れるようになるまで。

 無益な争いは続くのだろうか。涙を落とすものが増え続けるのだろうか。

 ――もしも、ルオマが滅びたら。

運命の輪は、回ることをやめるのだろうか。

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