【1】七つの丘の街/アクラガス残照(3)

 ロリアという女性は、いないか。


 開口一番、アンフィッサが尋ねると、案内の奴隷娘は深々と頭を下げた。

 申し訳ありません、とそつのない詫びの言葉がその口から漏れる。どうやらエッピアは、ここにはいないようだった。

「ロリアでなくとも、他にもお心を動かすことの出来るものは多くおります。どうぞ、奥でお選びください」

 まるで、品物を勧めるような彼女の言葉に、アンフィッサは辟易した。確かに、娼婦館にとって娼婦は商品である。それでも、この言い方は気分が悪い。ここにいるものは、ブリタニクスの話によれば奴隷として捕らえられたものたちではなく、上流階級の夫人や令嬢だという。その彼女らですら、『もの』という定義でくくられているのだ。ある意味、本当の平等はこういったところで実現されているのかもしれない、と。アンフィッサは、ぼんやり考えた。

「ロリアがいないなら、話にならない。いくぞ、ユリウス」

 リウィアヌスにせっつかれ、アンフィッサは店を出た。

 ここには、エッピアもセイヤヌスもいなかった。当てが外れて、アンフィッサは深く息をつく。ここにいなければ、どこだ? 彼女には、想像すらすることが出来ない。

「二人揃っていてくれたらありがたかったんだけどなあ」

「そう、うまくいくものか。それより、そんなところに踏み込むつもりだったのか、ユリウス?」

 無粋な奴だな、とリウィアヌスは顔をしかめる。

「好きでそんなことするわけないだろ?」

「まあな。――好きだったら、縁を切るぞ。今すぐに」

 やましいことでもあるのだろうか。そちら方面に関しては、妙な礼節を重んじるリウィアヌスであった。

「で? ほかにエッピア殿の行きそうなところといえば、宮殿、だろうなあ。それか、彼女の屋敷か」

 彼の呟きに、アンフィッサは忘れていた何かを思い出した。

(あっ?)

 エッピア。

 彼女とはじめて出会ったとき。あれは、ティウェレの川面ではなかったか。ティウェレを流れる船の中に、彼女と、セイヤヌスがいた。そう、あれはセイヤヌス。間違いはない。彼女は船で彼と密会をしていたのだ。そして。そのあと。宮殿であったときも。彼女とセイヤヌスは一緒であった。

 いつも。いつも、そうだ。彼女らは、側にいる。

 セイヤヌスがああも易々と宮殿に入り込めたのも、エッピアの手引きであろう。

 そうなれば、彼が普段潜んでいる場所も、エッピアの近くということになる。

 エッピアの屋敷、もしくはそれに近い場所。もしくは、彼女の縁者のもと。

 セイヤヌスは、かくまわれている。かくまわれつつ、暗躍している。

「なあ、エッピアの家ってどこにあるんだ?」

「アウェンティヌスの、お前のうちのわりと近くだと思ったが。そんなところには、セイヤヌス閣下はいないと思うぞ」

 あっさり却下された。

「彼が身を潜めるとすれば。そうだな……」

 リウィアヌスは眉を寄せた。候補地を絞っているのだろう。

 エッピアはともかく、セイヤヌスさえ見つけることが出来れば。彼を抑えることが出来れば。

 事は未然に防げるはずだ。アンフィッサは、確信していた。

(けど)

 押さえてどうする。また、その疑問が去来する。ルオマのために、なぜそこまでしなければならない?

 吹っ切ったはずの思いは、揺り返されて。アンフィッサを悩ませる。

(ルオマのためじゃねえだろ?)

 ブリタニクスのためでもない。ファウスティナのためでもない。誰のためでもないのだ。ただ、自分のために。

 自分がやめてほしいと思うことを、やめさせるために。

 セイヤヌスが動けば、ファウスティナが悲しむ。ファウスティナが悲しめば、ブリタニクスが苦しむ。ブリタニクスが苦しめば。

 苦しめば。

(……)

 アンフィッサは、胸を押さえた。心臓のあたりが、ずきずきと痛む。

 ブリタニクスが苦しめば、自分が辛い。心臓が、痛くなる。心が冷える。

 いつからだろう、そんな感覚を覚えるようになったのは。

「そうか」

 リウィアヌスの声に、アンフィッサは我に返る。途端、胸の痛みも綺麗に消えた。彼女は息を整え、リウィアヌスを見上げる。と、彼は渋い面持ちで額を押さえていた。ぶつぶつと、独り言めいた台詞がその後に続いている。彼女は首をかしげたまま彼を見つめ続けたが。首が痛くなってきたので、一瞬下を向いた。せつな、ばん、と背中を叩かれる。油断していた彼女の体は、思い切り弾き飛ばされ。危うく壁に激突するところだった。

「あぶねーな、何するんだよ」

 彼女の抗議をものともせず、リウィアヌスはその腕を掴んだ。そのまま、彼女の体を引きずるようにして走り出す。アンフィッサは、慌てて足を動かした。

「おまえにゃ、ちょっとばかり危険なところかもしれん」

 振り返らずに彼は説明した。

 ルオマの下町。様々な国の人間が住み着いている町。解放奴隷や、異国の商人、下層階級のルオマ人。ルオマの仲でも治安が悪いといわれているその界隈の、さらに最下層。犯罪の温床になっている小路が幾つか存在する。そのひとつ。

「ドーリア人をめちゃくちゃ嫌っているやつらが、うようよいるところだ。気をつけろよ」

 ルオマ人水夫。気が荒いことで有名な、彼らの住まいが密集する一角。

 そのあたりであれば、身を隠すのにはちょうどいい。愛人として生きる女性が、間男を隠しているのもそのあたりだという。いわゆる、ヒモ。そういった類のひとびとが生活するところだ。

「ルオマの水夫は、伝説を信じている。ドーリア人は見つけ次第フクロにする奴らだ。ユリウス、絶対顔上げるなよ。顔上げたら、お前二度とうちに戻れなくなるぞ」

 これはあながち、嘘でも脅しでもなかった。

 エッピアと出会った日、アンフィッサは水夫に追われていた。あの、男たちの目。あれは、獲物を狙う肉食獣のそれであった。

「外れかもしれないが、当たりかもしれない。確率は、半々ってとこだな」

 そんないい加減な、とはいえなかった。もう既に、彼女らは危険区域に足を踏み入れている。脇を通る水夫の荒々しい足音が、威嚇のように思えて。アンフィッサの剣闘士としての血が騒ぎ始めた。



 意外なところに、その人はいた。

 カリナからセイヤヌスの隠れ家を聞き出したブリタニクスは、ためらうことなくその場に足を向けた。カリナを、マリカに預けて。


『信じていいのかい? あの娘?』


 別れ際のマリカの言葉。素直に頷くには抵抗があったが――今は、カリナを信じるしかないだろう。セイヤヌスにつながるものは、全て断たれた。下町の飾り職人も、淫婦ズミュルナも。伝になりそうのものは、悉く先に潰されていく。今も危ういところでカリナを失うところだった。彼女の命を救えたことは、かなりの収穫である。

 カリナ。エッピアの、従妹。かなり以前から彼女の存在には気づいていたが、近づくことは出来なかった。

 カリナの主人は、ブリタニクスの天敵。いや、天敵というほどのものではないかも知れぬが。


(苦手だ)


 あからさまに男色趣味を向けられるのは、正直言って気分のよいものではない。

 あの男……タウリルトに抱かれて、娼婦のように喘ぐことを想像しただけでぞっとする。ブリタニクスが肉体を提供するといえば、タウリルトは二つ返事で全面的な協力を申し出るだろう。それがわかるだけに――嫌だった。

 だから。今回のことは好都合であった。幸運の女神が微笑んだとしか思えない。うまく行き過ぎているくらいである。これで、仮にカリナの裏切りにあったとしても、おそらく対処することは出来るであろう。少なくとも、それだけの準備は出来ている。

(あとは、ユリウス次第か)

 青い瞳の『ルオマ人』。ブリタニクスの『弟』。『彼』が動いてくれれば。


『ルクレティウス様』

 カリナの聖緑石エメラルドの瞳が、脳裏をよぎる。

『ユリウス様に。ユリウス様に、……宜しくお伝えください』


 彼女の瞳に映るのも、ユリウス。

 そう、今は全て。ユリウスの動き一つにかかっている。

 シティリャで、シラクサで、そして、ルオマの闘技場で。ブリタニクスに見せたあの瞳を、信じてみたい。ユリウスを信じることは、自分を信じることに他ならないのだから。



 ブリタニクスがたどり着いたのは、パラティヌスの神殿近く、近衛士官たちが通う居酒屋であった。

 セイヤヌスは、この店によく顔を出している。タナトゥス、という名で。表向きは、下町の医者という触れ込みであったらしい。ここでは、彼は同志と目されるものたちと、酒の席で情報を交換し、ルオマの情勢を伺っていた。近衛士官のなかに密通者がいることからして、この店ほど格好の根城はないだろう。ブリタニクスもそう思って、ここは先に調べていたのだが。

 甘かった。

 セイヤヌスは、その痕跡を隠すことにかけては、ブリタニクスの上を行っていたのだ。

 セイヤヌスは、腰をかがめ、足を折り、長身の元軍人から猫背の医者に成りすましていた。しかも、タナトゥスという医者は実在の人物で、本人は数年前に他界している。その彼の最後を看取ったのがセイヤヌスで、彼の戸籍をそのまま譲り受けたというわけである。

 タナトゥスは住まいこそ仲間にも教えてはいなかったが、ここには毎晩顔を出していた。ここでズミュルナや他の士官と連絡を取りあっていたのである。

「……」

 ブリタニクスは、ひとつ息をついた。そっと手を伸ばし、入り口のとばりに手をかける。わずかに翻った布の向こうから、酒と人いきれの匂いが漂ってきた。

 この中に、彼がいる。長年、母を苦しめてきた男が。

(アエミリアス・セイヤヌス)

 胸のうちでその名を呟き、彼は中に踏み込んだ。

 ちょうど夕食どきを少し過ぎていたせいか、狭い店内はぎっしりと人で埋まっていた。気に入りの席を見つけるのも、人を探すのも、この熱気、この人数からでは骨が折れる。酒場に慣れているはずのブリタニクスでさえ、その酒の匂いと男たちの体臭、醸し出される異様な空気に眩暈を覚えたほどだ。彼は額を押さえるようにして、ゆっくりと店内を見渡した。

 アエミリアス・セイヤヌス。

 一度だけ会ったことのある、『彼女』のもと許婚。

 向こうもこちらの顔は知っている。目が合った瞬間が勝負だった。そのときの動き如何で、全てが決まる。かつてルオマにその人あり、とうたわれた名将。そんな男との闘いを前にして。知らず、体が震えていた。恐怖からではない。武人としての、高揚感からだ。強敵に巡り合えた、その喜びから来る興奮。滾り始めた血を押さえながら、ブリタニクスは鋭く客たちを見つめる。

「!」

 しかし、その視線が捉えたのは、セイヤヌスではなかった。

 店の隅。長卓子カウンターに肘をつく格好で、杯を傾けている優男。頬にかかる髪をけだるげにかきあげて、こちらを見る青年は。

「セルウィウス」

 ブリタニクスは、苦笑を浮かべた。セルウィウスも、苦い顔を返す。二人の青年――いとこ同士である彼らは、そうして暫し時を過ごした。それが破られたのは、年配の酌婦の一言である。

「おや、お連れさんかい?」

 彼女はおせっかいにもセルウィウスの隣に席を設けてくれ、そこにブリタニクスを導いた。迎えるセルウィウスは、鋭く従弟を睨み付ける。

「非番のときは、下級仕官の振りをして居酒屋めぐりか。いいご身分だ」

 皮肉には冷めた笑みで応えて、ブリタニクスは酌婦にシティリャ産の葡萄酒を注文した。

「こういうところは嫌いなのかと思っていたけどな。お高く留まっているようで、案外庶民派なのか」

 くすっ、と笑うと、セルウィウスは露骨に顔をしかめた。余計なお世話だといわんばかりにそっぽを向き、また、杯を口につける。その仕草が艶っぽいと宮廷の好事家どもが囁いているのを聞いたことがあるが。こうして近くで見ると、確かにそんな気もしてくる。

 男性にしては、華奢な体。細いうなじ。服の上から見ると、薄く思える胸板。杯を持つ手首は細く、一瞬貴婦人のそれを思わせる。

 筋肉質、というわけではないが。肩幅が広く胸板も厚い。体格がよく、典型的な武人の体躯だといわれた父に比べれば、細身の部類に入るが。それでも着やせして見える自分とは全く印象が違うと、ブリタニクスは思った。

(タウリルトも、こういう男が好きだというのならまだわかるんだけどな)

 つまらない思いに心を飛ばして、ブリタニクスは運ばれてきた葡萄酒をあおった。


 そんな彼らの背後で。また、帳が揺れた。ブリタニクスは、セルウィウスは――知らず同時に視線を動かす。

 はたして、そこには。目当ての人物が佇んでいた。

「セイヤヌス」

「タナトゥス」

 ブリタニクスの呟きに重なるように。セルウィウスもまた、彼の名を口にしていた。二人は互いの反応に驚きを覚えたが。やがて相手を無視するように視線をそらす。そして、もう一度。入り口の珍客に目を向けた。

 そこに影のように佇む男は、二つの視線を感じたのか。口元に不敵な笑みを浮かべたのである。

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