【1】七つの丘の街/アクラガス残照(2)

 アクラガス――シティリャの華と歌われたその都が滅びたのは、今から七年近く前のことであった。

 きっかけは、些細なことだったように思う。カルタギアの商人と、アクラガスの貴族との間でちょっとしたいさかいが起こった。いさかい、といえども商売上の問題である。よくあることといえばよくあることであった。しかし、そこにルオマが口を挟んできたのだ。これに対して、アクラガスが不満を訴えた。なぜなら、ルオマはカルタギア商人の肩を持つような発言をし、あまつさえ、それまでアクラガスとなしてきた取引を、この事件を理由にカルタギアに変えたのだから。

 取引の一つや二つ失ったからとて、滅びるような街ではなかった。アクラガスは、古きアイオリアの伝統を持つ街である。数百年にわたって築いてきた基盤は、そんなことで揺るぎはしない。揺るぎはしなかったのだか。アクラガスは自ら、破滅を呼び込んだのだ。当時、アクラガスに留学していたシラクサの学生が、この事件の直後、ルオマ商人に対して暴行を働いたのである。当然のごとく、商人たちは本国に訴えた。訴えると同時に。ルオマ軍が大挙してシティリャに押し寄せたのである。


きっかけは、本当に些細なことだった。


些細なことではあるが、それがとても重要であった。なんでもいい。きっかけさえあれば。軍隊を動かす口実さえ出来れば。

こうして、つまらないことからアクラガスはその身を焦土と化してしまったのである。それが、かのシティリャ戦役の発端であった。

それでも、アクラガスが意外にも持ちこたえたのは、身の内にかつてのルオマの名将を飼っていたからかもしれない。ルオマはアクラガス攻略を当初は数日と踏んでいたのだが。思いのほか手間取り、一ヶ月以上を要してしまった。その間、シラクサは軍備を整え、いつでも出撃できるよう待機していたのである。ルオマの本当の狙いは自分たちなのだと。そう確信していたから。


アクラガスを守る。その行為は、そのまま己の身を守ることに他ならなかった。


 それから後のことは、アンフィッサもよく知っている。二手に分かれたルオマ軍が、シラクサの街にも攻め込んできたのだ。守備隊として残されていたものたちは、全力で彼らの攻撃を防いだ。どこからも、誰からも助けが来ないとは知りつつも。いつ果てることのない戦いだと覚悟しつつも。自分たちのために、自分たち自身を守るために、必死の抵抗を試みたのだ。

 大国対一都市の戦いなど、はじめから結果は見えている。いくら勇猛果敢なドーリア人の子孫とはいえ、シラクサは一介の都市に過ぎぬのだ。小さな島の、小さな都市である。カルタギアのような経済力もなければ、ルオマに匹敵する軍事力もない。負けることは、戦いを挑んだ時点でわかりすぎるほどわかっていた。それでも、戦わねばならぬことも。当時は、まだやっと歩き始めた子供ですら、知っていたのである。


 シティリャの華が手折られたとき。シティリャの盾が動く。

 そのときが、来たのである。



 月桂樹と、薔薇ロドン。なぜ、もっと早く気づかなかったのだろうか。

 シティリャに、それもシラクサに生まれた自分が気づかなかったとは。情けないやら悔しいやらで、本当に自分が嫌でたまらなくなる。これでは、ブリタニクスに「鈍い」といわれても仕方がなかった。リウィアヌスの言葉で、漸くアンフィッサは全ての糸を繋ぐことが出来たのである。

 シラクサ。アクラガス。根源は、シティリャにある。

(月桂樹は、『武術』。剣を表す。ロドンは、『華』――文化だ。だから、これはつまり)

 剣と文化の融合。シラクサとアクラガスの融合だった。セイヤヌスの指輪の持つ意味は、それなのである。シティリャでの理想郷創造。それを象徴するものとしての紋章なのだ。その指輪についてリウィアヌスに語ると、彼は暫く考え込んでいるようだったが。やがて、深いため息とともに一言。こう漏らした。

「ブリタニクスは、どこまで知っているんだろうな」

 それはわからなかった。ブリタニクスがどこまで調べているのか。何を掴んでいるのか。まったくアンフィッサには知らせてくれなかった。ただ、初めの頃。あの指輪を発見したときは、模様の意味を”武人と淑女”といっていた。あれが、アンフィッサを欺くためでなかったとしたら。彼はまだことの真相には気づいていないのではないか。いや、ブリタニクスのことだ。ある程度の推理をしたうえで、行動を起こしているのだろう。そうなると、彼が今とっている行動は。

(セイヤヌスの尻尾を掴みに行く)

 彼ならそうする。ことが公にならないうちに、根本を断つつもりだ。

 それならそれで、一言言ってほしかった。何も言わないで出かけるのは、水臭いではないか。それとも、口ではどういっていても、彼はアンフィッサのことを心の底では信用していないのではないだろうか。

(いや。違う)

 彼女は、ゆっくりとかぶりを振った。ブリタニクスは、待っているのだ。彼女が来るのを。彼女が自分の力で調査をし、彼の元にたどり着くのを。今か今かと待っているのだ。


『信用しているからな。ユリウス』


 かつて耳にした言葉を思い出す。彼は、自分を信用しているといった。敵国に生まれたアンフィッサを。奴隷とされたものたちの希望の灯となっていたアンフィッサを、信用する、と。

 黙っていてもアンフィッサはブリタニクスに協力する。生まれがどうであれ、辿った道がどうであれ。それは確信に近いのかもしれない。ルオマの混迷を、崩壊を。ひそかに彼女が望んでいることを知っていたとしても。彼は、同じことを言うだろう。


『信じているからな』


(ドーリア人を、信用するってのかよ。イリオンを滅ぼした敵かたきだぞ?)

 アンフィッサは苦笑した。彼には敵わない。少なくとも、今は。

 そう思うと、踏ん切りがついた。彼女は勢いよく立ち上がると、呆れるリウィアヌスの腕を掴んで。

「俺らもいくぜ、リウィアヌス。だーれもしらねぇルオマの危機を、こっそり防いじまうってのもかっこいいじゃんか」



 記憶の中にあるのは、炎だった。

 一面を焼き尽くす炎。その中に、自分は取り残された。

『ここから出たらだめだよ』

 母はそういって、彼女を酒蔵の中に押し込めた。彼女たちは、逃げ遅れたのである。非戦闘員である婦女子は先に脱出する手はずだったのだが、ルオマの侵攻が早くそれは叶わなかった。一部の婦女子はそれでも難を逃れたものの、大半は町の中に取り残され、炎の中を逃げ惑い殺されるか。それともルオマ兵に捉えられて陵辱されるか。二つに一つだったのである。

 アンフィッサの家族と、その近所の人々は、揃って近くの集会所に隠れた。それでも、ここは狭すぎると何人かが外に出て行き。ルオマ人の刃にかかったのである。

『ここも、じきに危なくなるかもしれない』

 一人が漏らした言葉で、全員が不安になった。もう少し安全なところはないか。外の状況はどうなっているのか。そんな疑問が生まれてきたころ。数人が、子供だけを残して外に出ようと言い出したのである。

 そうして、また。幾人かが表に飛び出していった。そのときに、アンフィッサの母は、彼女を集会所地下にある酒蔵に隠したのだ。

 そこは、シメジメとした、薄気味の悪い場所であった。アンフィッサは、ここは嫌だと騒いだのだが。ほかの子供たちと同じく、有無を言わせずに大人の言葉に従わされたのである。

『あたしたち、どうなっちゃうの?』

 アンフィッサよりも年上の少女が、声を殺して泣き始めた。すると、ほかの子供たちも一斉に泣き始める。皆、寂しいのだ。不安なのだ。それはアンフィッサもよくわかる。わかるけれども。泣いていても始まらない。

(今度は、助けてくれないんだから)

 アクラガスの街で、父とはぐれたとき。カルタギアの商人にかどわかされそうになったところを、謎の少女に救われた記憶がある。あの時は、運がよかった。だが、今回もそう上手くいくとは限らない。自分の身は自分で守らなくては。そのために、軍事教練を受けたのだ。あの頃よりも自分は強くなっているはず。アンフィッサは、家を出る前に父に渡された短剣を、ぎゅっと握り締めた。これがあれば、誰にも負けない。教官にも筋がよいと誉められた。剣を持ったら、女であろうと、子供であろうと。敵と対等に立ち向かう力が与えられるのだ。

(でも、ここは、やだな)

 鼻を付く酒の匂い。それが、不思議と気分を高揚させる。地上では、激しい戦闘が繰り広げられているのだ。炎が街を埋め尽くし、断末魔の叫びと、剣の打ち合う音と、骨が断たれ肉がちぎられる音が絶え間なく響いているのだ。その音を、心地よいと感じるのが怖かった。炎に照らし出された、地獄絵図を綺麗だと思う自分が嫌だった。

 暴れた一人の子供が、棚から酒瓶を落とした。弾みで瓶が壊れ、中から葡萄酒がこぼれだす。立ち上る、芳醇な香り。床に広がる、赤い、シミ……。

 アンフィッサは、ごくりと唾を飲んだ。血、だ。血が、流れている。


 それからの記憶はなかった。ただ、誰かが自分を呼ぶ声を聞いたような気がして。彼女は立ち止まった。いつの間にか、外に出ていたのだ。


 ごうごうと音を立てて燃え盛る炎。その中で激しく切り結ぶ兵士たち。その何人かが自分をめがけて切りかかってくる。それを、夢の中の情景のようにぼんやり見ていた。これは、夢だ。夢だから。どうとでも出来る。そう思って、彼女は手にしていた短剣を、敵の胸に繰り出した。ぐしゅ、という湿った音。赤く染まる刃。柄を伝ってくる、生暖かい液体。渾身の力を込めて刃を回転させて始めて、これが現実だということに気づいた。気づくと同時に、彼女は背後に迫った今一人の凶刃を、倒した兵士の屍で防いだ。それでも、まだ幼い子供が大の大人と互角に戦えるほど、戦闘は甘くはなかった。別の刃に襲い掛かられ、避けようとした弾みに、死体に足をとられた。派手に転ぶ瞬間を、ルオマ人の剣が捉えようとする。それを間一髪救ったのが。

『父ちゃん?』

 前線に出ているはずの父だった。彼は敵兵と切り結ぶうちに、ここまで来てしまったらしい。

『母ちゃんたちは、どうした?』

 父の問いかけに、アンフィッサは『知らない』と答えた。酒蔵に押し込められたおかげで、酔ってしまったのだ。ぼんやりとした頭で、彼女は集会所を出たらしい。母やその他の大人たちに気づかれたら、中に連れ戻されることは必至なのだから。彼女は抜け道を通って酒蔵から地上に出たのだろう。

『父ちゃん。シラクサはもう終わりなの? アクラガスも、なくなったの?』

 沈黙が答えだった。父は幼い娘を連れて、炎の中を進んだ。逃げることは、不可能だった。シラクサは、完全に包囲されている。男子は見つけ次第殺害。婦女子は捕えて奴隷とする。生き延びたとて、奴隷として送る生がどれほどのものだろうか。敵国の支配下に落ちるくらいならば、華々しく戦いながら死にたい。アンフィッサのその思いを読んだのか、父は『生きろ』『逃げろ』とは言わなかった。ただひたすら、勢いの衰えていく炎の中をがむしゃらに突き進んだ。途中、味方にも敵にも遭遇した。味方は敵と遭遇するたびに数が減り。敵も戦うごとにその数を減らした。いつしかアンフィッサの手に握られているのは、件の短剣ではなく。大人が持つ長剣に変わっていた。彼女はそれで、幾人を傷つけたのだろう。幾人の命を奪ったことだろう。

 思えばこのときの戦いが、その後の彼女の剣技の基礎となったのかもしれない。十歳の少女は、三年の教練と約半日に及ぶ実践で、技量を開花させたのだ。

『死ぬ前に、一人でも多く殺してから死ぬ。これが、ドーリアの戦士だ』

 それが、父の最後の言葉だったかもしれない。その後の会話もなく、父はルオマ兵に殺された。目の前で父を屠られた怒りか、殺戮に対する興奮からか。この前後の記憶もなかった。



(親父は最後まで、シラクサの戦士だった)

それだけはいえる。戦って死んだのだ。捕えられて処刑されたのではない。そのことを誇りに思う。父を倒した兵士も、名のある男ではなかったのか。そう考えれば、怒りもおきない。

 あれは、戦争なのだ。


 人が人を殺す。

 より多く殺したほうが勝ち、という非情なものだ。


 アンフィッサも多くの人間を手にかけた。あの日も、そして、そのあとも。

 自分が生き延びるために。

(誰かの仇とか、誰かのためとか。そんなのは違う。そんなので動くもんじゃない)

 自分のため。自分が生きるため。自分の信じた道をいくため。人は、動くのだ。


『小さなことに、こだわるな』


 ブリタニクスは、アンフィッサにそれを告げたかったのかもしれない。国と国ではなく、民族と民族ではなく。過去ではなく、歴史でもない。人と人として。個人として。今、この繋がりを大事にしろ、と。


 アンフィッサは、傍らに馬を並べて走るリウィアヌスにそっと目をやった。この青年も。アンフィッサが実はドーリア人で、あのシラクサのアンフィッサだということを知ったとしても。彼女に対する信頼を揺るがしはしないだろう。

「で? どこに行こうって言うんだ、ユリウス?」

 不意にリウィアヌスが声をかけてくる。セイヤヌスの居場所に心当たりがあるのかと、そう尋ねているのだ。アンフィッサは確信はないものの。エッピアとセイヤヌスが密会していた、件の娼婦館の名を答えた。リウィアヌスは、「あそこかぁ?」と頓狂な声を上げて。暫し瞑目する。

「気が付かなかったなぁ。まあ、人様の密会に口を挟まんのが礼儀だからな」

 彼は、あの店に出入りしたことがあるのだろうか。アンフィッサは、呆れて露骨に嫌な顔をした。

「それにしても。お前もそんなところに行くような歳になったのか、ユリウス。そうか。おまえももうすぐ十五か。元服だな」

「はぁっ?」

「そろそろ女に興味を持ってもいい歳だしな。よし、今度俺がいい店を紹介してやる。いいも揃っているからな。期待してろよ」

「てか、そーゆー問題じゃなく……」

 言いかける彼女の背を、リウィアヌスが乱暴に叩いた。ばん、という派手な音がし、アンフィッサは危うく落馬するところであった。打たれた背中をさすりながら、彼女は恨みがましい目でリウィアヌスを見やる。彼は声を立てて笑いながら。

「任せとけ。嫁とりの事前演習はばっちりだ」

 親指を立てる。緊張感のない男だ。アンフィッサは脱力する反面、彼を頼もしく思った。いかなるときも、心の余裕を失わないのだろう。そう思っておきたい。今は。

「で? そういうあんたはどうなんだよ、リウィアヌス。婚約者はいないのか? ブリタニクスみたいに」

 切り返すと、彼は不意に押し黙った。やれやれ、という風に肩をすくめ。

「俺は、坊主になるのさ。だから、嫁は要らないんだ」

「って。家はどうなるんだよ? 跡継ぎは?」

「そんなの。ブリタニクスの家に二人子供が生まれたら、そのうち一人をもらえばいいさ。簡単だろうが」

「おいおい」

 しゃあしゃあと答えるリウィアヌスに、軽いめまいを覚える。そこまで人任せなのか、彼は。もしもブリタニクスに子供が生まれなかったらどうするのだ。その前に、彼が婚姻を結ばなかったら? ドルシラを、妻に迎えなかったら? 虚しいことを考えて、アンフィッサはため息をついた。



 アウェンティヌスの閑静な住宅街を抜け、綺麗に舗装された石畳の上を駆け抜ける。彼女らは、程なくしてパラティヌスの雑踏の中に足を踏み入れた。ここから先は、徒歩で進んだほうがよいだろうと判断し、馬を警備部の詰所に預けると、そのまま、まっすぐに件の娼婦館へと向かったのだ。ざわめきの中、物売りの声と通行人の罵声が飛び交う。人であふれる主要道路は、いつもにもまして込み合っているような気がした。早く進まなければ、と、気ばかりが焦っている。

「相手の人数とか、どういうやつらが加担しているかとか。そういうのがわかればいいんだけどな」

 とにかく情報が少なすぎるのだ。ここで二人が飛び込んでも、娼婦館丸ごとセイヤヌス一派に牛耳られていたとしたら、勝ち目は万に一つもない。芝居のように主人公が多勢を相手に圧倒的な強さを誇れることなど、現実ではありえないのである。

 それでも。セイヤヌスが、エッピアとの密会にあの店を選んだということは。店自体は特に今回のことにはかかわっていない。そう判断していいのではないか。息のかかった店で会うのなら、何もエッピアが娼婦の真似事をすることなどないのだから。

「あの店か? ユリウス?」

 リウィアヌスの指し示す方向に。あの日エッピアを見かけた娼婦館がひっそりと佇んでいた。

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