【1】七つの丘の街/アクラガス残照(1)

 このとき、カリナの悲鳴を誰が聞きつけるのだろうか。聞きつけたとしても、誰が助けるというのか。

 ここは、ルオマの下町。裏通り。繁華街の中でも、最も治安の悪い地区である。殺人・強盗などは日常茶飯事で、誰もそのようなことには気をとめない。若い女性の悲鳴を聞けば、またどこかの哀れな娼婦が、客に殺されたのだと思うだけだろう。

 カリナは諦めて目を閉じた。ユリウスの名を幾度も心の中で叫びながら。

(バチがあたったんだわ)

 タウリルトを、ブリタニクスを、そしてユリウスを。裏切った罰なのだ。これは。

(さようなら、ユリウス様)

 刃が背を貫くのを今か今かと恐れていたのに。

 そのときは一向にやってこない。

 冥府の神は、最後の最後でカリナをいたぶるつもりなのか。思い切り苦悶を味わわせてからその手に抱くつもりなのだろうか。そう思うと、覚悟を決めてはいても、体が震えた。

 しかし。その感覚は、いつまで経ってもやってこなかった。かわりに、ぶしゅっという奇妙な音が耳に届き。ぼたぼたと生暖かい液体が頬をぬらした。焼け付くような痛みを想像していた彼女は、驚いて顔を上げた。そこには、相変わらず足がある。人の足だ。それを視線でたどっていくと。

「ひっ」

 カリナは思わず押し殺した悲鳴を上げる。

 男の上半身が――なかった。

 彼女は己の頬に触れてみる。そこにべっとりと貼り付いているのは。血に濡れた彼女の金髪だった。「いや」と。彼女は掠れた声で否定する。と、それを揶揄するような声が響いた。

「助けてもらったのに、『いや』はないだろ、『いや』は、さぁ?」

 両手を腰に当てた少女が、ふくれっ面でこちらを睨み付けている。その容姿から、彼女が生粋のルオマ人であることは容易に判断できた。カリナは驚きの表情を隠せないままゆっくりと身を起こす。が、力を入れた時点で傷が痛み。あえなくその場にくずおれた。

「細っこいから、かすり傷でもくたばっちまうのかい?」

 言って、少女はカリナの手をとった。そのまま、強い力で引き起こす。カリナは少女の手にすがるようにして、掠れた声で礼を述べた。

「ありがとうございます。あの、これは、あなたが?」

 極力男の死体を見ないように顔を背けて、カリナは尋ねた。と、少女は一瞬きょとんとし。それから豪快に笑い出した。

「面白いね、あんた。あたしがこんなの、ぶった切れるわけないだろ? やったのは、こっち」

 くいくいと親指で背後を指す。カリナがそちらに目を向けると。

「やぁ」

 涼やかな笑みが返された。

 塀に背中を預けるようにして佇んでいたのは、誰であろう。ブリタニクス・ルクレティウスその人であった。公式な任務についているのではないからか。宮廷で見かける、あの七将の装束は纏ってはいなかった。ごく普通の、下級士官が身につけるような生成りの短衣と、幅広の革帯。だがそこから下げている剣は、どう見ても下級士官には不釣合いなものにしか見えなかったが。

「あんたも運がいいね。うちらが語っていたところに逃げ込んで来るんだもん。これ、フツーのにーちゃんだったら、こんな芸当できないよ」

 地面に転がる、男の上半身を爪先で蹴り飛ばして。少女が皮肉げに口元を歪める。

「でも、ちょうどよかった。うちらもあんたには会いたいと思ってたところだよ。――シラクサの、カリナさん」

 少女の言葉に、カリナは驚いた。ブリタニクスと、その連れの少女が自分を探していた。そうなれば、その目的はただひとつ。

 彼らは知っていたのだ。カリナのことを。はじめから。彼女がエッピアの間諜として動き、果てはアエミリアス・セイヤヌスとエッピアのつなぎの役目を果たしていたことも。そして。

(指輪のことも)

 件の指輪をタウリルトの元から持ち出し、持ち主に返したことも。

 全て、彼らはお見通しなのだろう。

 カリナを、先ほどとはまた違う震えが襲った。怖い。わけもなく怖い。知られているということ。それが、これほどまでに恐怖感をあおるとは、今まで考えもしなかった。こんなことなら、助けてもらいたくなかった。いっそのこと、この場で殺されてしまえばよかった。

 第一、どのような顔でユリウスに会うのだ。彼は、カリナの行為を知ったら、どんな顔をするのだろう。

「怖がらなくてもいい。お前の安全は保障する。もっとも、自分からエッピアの元に戻るというのなら別だがな」

 ブリタニクスの台詞に、カリナはかぶりを振った。違います、と否定して。真正面から彼を見た。自分に似ている、といわれる顔。瞳の色と、髪の色――決定的な違いはその二つの色と性別だけだと思っていた。だが、今は違った。間近に対峙してはっきりとわかった。彼にあって自分にないもの。いな、自分が持っていないのに彼が備えているもの。それを嫌でも理解しなければならなくなる。

 まっすぐな視線。何者も臆することなく見据える視線。その奥には、翡翠の炎が燃えているようだった。強い意志を感じさせるこんな瞳を、自分はしていない。あくまでも、似ていると感じるのは。顔立ちだけだった。それも、人に言われるほど瓜二つではない。どことなく、面差しが似ている。その程度のものである。そうとしか、言えなかった。

 カリナは、圧倒されていたのだ。ブリタニクスの持つ気配に。これが、貴族。生まれながらにして高貴な身分にある人物が持つ、気品というものだろうか。しかし。以前ユリウスと肩を並べて歩いたときも。彼からも同じ波動を感じた瞬間がある。これは、生まれの貴賎ではない。おそらくは、魂そのものが持つ輝き。それ以外にないだろう。

「私を、処刑するおつもりですか?」

 カリナの問いを、ブリタニクスは否定した。

「セイヤヌスは、まだ何も行動していない。エッピア殿も、同じだ。あの指輪を持っているものが、謀反を起こそうとしている、としても。今の段階ではこちらとしても何も出来ないだろうな」

 ただし、と。彼は付け加える。

「表立っては、の話だけどな」

「ルクレティウス様」

「俺としても、そのほうがありがたい。ことを公にすると、色々厄介だからな。だから、こうやって個人的に動いているんだが」

 途中で言葉を切り、彼は徐にカリナに近づいた。その手が肌に触れたせつな、彼女は肩を震わせる。が。ブリタニクスのとった行動は、彼女の予想外のものだった。彼は己の服を引き裂き、その切れ端でカリナの傷口を縛ったのである。驚きのあまり、傷のことをすっかり忘れていたのだが、彼の行動でまた、痛みがぶり返した。顔をしかめるカリナに、ブリタニクスはいたずらっぽい笑みを向ける。

「冒険に危険はつきものだ。怖い思いをしたくなければ、ルオマを離れてどこか田舎にでも行くんだな。間諜ごっこは、もう終わりだ」

「ルクレティウス様?」

「タウリルトには、俺がうまく言っておく。このまま、ルオマを出ろ。そして、二度と帰ってくるな。それが、お前のためだ」

「ルクレティウス様!」

「とはいえ、そうそう簡単にここを出られるとは思えないからな。マリカ。ちょっとの間、面倒見てくれるか?」

 マリカ、と呼ばれた少女は渋い顔で頭を掻いた。しょーがないね、と唇を尖らせて。じろじろとカリナをねめつける。

 カリナの容姿からすれば、水夫の好奇の的になりかねない。下手をすれば、おもちゃにされることもあるだろう。マリカはそういう場面を想像しているのかもしれない。実に複雑な表情で、カリナとブリタニクスを見比べた。

「あたしが海に出てる間、兄貴の面倒見てくれる人がほしかったんだけどね。でもねえ。まあ、いいか。せいぜい貸しを作らせてもらうよ、閣下」

「悪いな」

 ぽんぽんとマリカの肩を叩いてから。ブリタニクスは改めてカリナに向き直る。その目には先ほどとは異なる、強い光が宿っていた。

「それで……命の代償をもらおうか。セイヤヌスは、どこにいる?」

 尋ねられることは、わかっていたのかもしれない。それでも、とっさに答えが出てこなかった。

 どうすればいいのだろう。自分は。なんと答えればいいのだろう。

 カリナは、ブリタニクスの瞳に映る己の姿を覗き込み。すっと息を呑んだ。


(ユリウス様……)



 ブリタニクスが家を空けてから。早くも二日が過ぎた。

 その間も、アンフィッサは決して稽古や学習を怠けていたわけでもなく。ファウスティナの警護もそれなりにこなしていた。

 自分なりに、完璧な行動だと思っている。ブリタニクスであれば、きっとこうしたであろうという行動を、全てにおいてとっているのである。本人からも文句を言われる筋合いはない。

 そして。それを楽しいと思う自分がここにいる。ブリタニクスの行動を予測して、彼になったつもりで対応する。すると、侍女たちはおろか、夫人ですら

『ブリタニクスがいるみたいね』

 そういって苦笑するのである。

 久しぶりに従弟を訪ねてきたリウィアヌスも。やはり、初対面のときと同じことを言った。


「ブリタニクスが、ガキに戻ったのかと思った」

 豪快に笑い飛ばし、いつものようにくしゃくしゃと髪をかき回される。これも最近慣れてきた。以前ほど鬱陶しいとは思わないが。それでも、歓迎すべきことではないことだった。

 第一、体に触られれば、ばれてしまう。”ユリウス”が少年ではないことが。

 アンフィッサは適当に誤魔化しながら、リウィアヌスの手を避ける。と、彼は「何を照れてるんだ」と言わんばかりに強引に引き寄せる。これは、どう考えても異性に対する行為ではなかった。

(このにーちゃん、ホントにニブチンなのかも)

 世慣れている風を装ってはいるものの。実は、口ほどに遊んではいないのかもしれない。

「で? あいつはどこにいるんだ? 婚約者もほったらかして、別の女のところへいっているわけじゃないだろうな」

 冗談めかして言うリウィアヌス。アンフィッサは、どうだか、と肩をすくめた。ブリタニクスにも、それくらいの甲斐性があってほしいものである。大体、ブリタニクスが娼婦を買いに出かけることなど皆無だったのだ。真面目とはまた違うようではあるが、どことなく浮世離れしていて不気味に思うことがある。

「まあ、あいつがいないほうが話しもしやすいかもしれないが。ユリウス、おまえ、前にアエミリアス・セイヤヌスのことを聞いていただろう?」

 これまた、唐突な質問だった。アンフィッサが答えあぐねていると、彼は意味ありげに視線を揺らしながら。

「あまり気乗りはしなかったんだがな。気になって調べてみた。叔母上とのことがあってから、彼がどういう経緯をたどって戦死したのか。生きている、という情報を信憑性があるものと仮定して。そうしたら。色々なことがわかった」

「その人が、実は戦死じゃなくて暗殺された、ってことか?」

「ほぉ? よく知っているな。ブリタニクスか? まさか、やつに真っ向から聞いたのか?」

 これにはリウィアヌスも呆れたらしい。相手に手の内をさらして、戦いを挑むようなものだと。軍人としては、あるまじき行為だと眉を寄せる。大体お前は、正直すぎる、と却って説教をされてしまった。

「まあ、いいさ。で、ここじゃなんだな。庭にでも行くか」

 周囲の目を気にしたのか。リウィアヌスはアンフィッサを促して、中庭のほうに歩を進めた。こちらでならば、よほどのことがない限り、人に話を聞かれることはない。この時間は、ファウスティナも部屋で読書をするのが慣わしだった。昼を過ぎるまで、彼女は部屋に篭り。しかるのち湯浴みを行ったり、市内へ出向いたりするのである。それまでの間、アンフィッサもこれといってすることはなく。ブリタニクスがいない日は、暇をもてあまし気味なのだ。

 二人は、花壇脇の噴水に腰をかけ、揃って空を見上げた。抜けるような青い空である。冬の澄んだ空だ。ここにきてから、こうして空を見上げる機会が多くなった。今までは、とてもそんな余裕がなかったのに。こうしてみると、空は青いだけではなく。限りなく広がっていることを嫌でも実感させられる。同じ色をしていても、空は海よりも広いのだ。そして、この空は。故郷にもつながっている。故郷のシティリャにも。

「シティリャのことだがな」

 その言葉を聞いたせつな、アンフィッサの心臓がどくりと跳ねた。心を読まれたのか、と焦るが。そうではないらしい。リウィアヌスの思考は、セイヤヌスにあったのだ。彼は眉間に皺を寄せ、思い悩むように言葉を切りながら先を続ける。いつもの彼らしくない、歯切れの悪い喋り方であった。

「あの島は、ヘラス、カルタギア、そして、ルオマと。三つの勢力による権力争いに常にさらされていた。そのせいか、シティリャの各都市の市民は、郷土愛が強くて。外敵に対しては、一致団結して戦うことを前提にしていたんだ。どこかの都市が攻められたときは、別の都市から援軍を送る。とはいえ、殆どそれはシラクサの役目だった。シラクサは、シティリャの盾と呼ばれていたしな。アクラガスが、シティリャの華といわれるのと同じ意味で。ま、それは置いておいてだ」

 リウィアヌスの話はこうだった。

 ルオマとしては、シティリャを征服するにはまずシラクサを滅ぼさなければならない。そう考えたのである。その結果として、厄介者のセイヤヌスをまず捨石として派遣したのだ。シラクサは、難攻不落の街である。加えてその戦士の屈強なことは、ルオマも一目置くほどであった。ゆえに、シラクサの攻略を命ぜられるということは、十中八九死を意味した。それを、自ら望んで引き受けたのが、セイヤヌス。これは表向きのことであって。その実、左遷であった。これはブリタニクスから聞いたことでもあるが、国王ははじめからセイヤヌスを殺すつもりであったらしい。ところが、セイヤヌスが遠征の総指揮官であると知ったルオマの兵士たちは、我先にと彼に従った。驚いたのは国王である。ここで彼に英雄になられては困る。まだ、シラクサを滅ぼすには時期が早かった。

 そこで、国王は一計を案じた。セイヤヌス暗殺。しかも、シラクサと通じてこの謀略は行われたのだ。

「ところが、殺したと思ったセイヤヌスは生きていた。彼は、そのあとどこにいたと思う?」

「まさか、シラクサか?」

「近い。けど、外れだ。彼は、アクラガスにいた。アクラガスで姿を変えて。とある屋敷にかくまわれていたんだ。それが、アクラガスでも一、二を争う名家でな。彼はうまいことそこに隠れていたんだよ。ほぼ十六年間。たいしたもんだ」

 十六年。ということは。あの、シラクサ戦役の年までか。

「シラクサ戦役のとき、彼はアクラガスにいた。アクラガスで、陣頭指揮を執っていた。だから、なかなか攻め落とすことが出来なかったんだろう。あの、腑抜けた街をな」


 セイヤヌスが、ともに戦っていた。アクラガスの側について。


 アンフィッサは、言葉を失った。アンフィッサにとって、シラクサにとって。少なくともそのときは。アエミリアス・セイヤヌスは味方であったのだ。

「そのとき、彼は言っていたらしい。この戦に勝ったなら。この島を、完全にひとつの国としよう。ルオマにもカルタギアにも脅かされない。シティリャの民だけの楽園をここに築こう。神話時代のように、平和な都市をこの地に再現するのだ、と」

「リウィアヌス。それって、まさか」

「そう。もしも彼が今生きているとしたら。まだ同じことを考えているかもしれない。自分を見捨てた国に対抗できる勢力を作ろうと。シティリャに理想の都市国家を建てようと。そんな夢みたいなことを考えているかもしれない」

 国王暗殺よりも、大それた望み。そんなものを、あの男は抱いているのだろうか。彼につき従うエッピアは。彼女もやはり、アイオリアの再興を夢見ているのだろうか。そしてなによりも。

(俺も、同じかもしれない)


 シラクサの復活。


 一瞬、その夢を追った。だが。幻は儚く消える。そんなものを作ったとしても、シラクサはもう還らない。あの街は、蘇ることなどないのだ。

 同じ街を作ることは出来ない。過去を掘り起こすことは出来ない。愚かなるルオマの民は、イリオンの再興を夢見てルオマを建国したのだが。ここは、ルオマだ。イリオンではない。失われた国は、二度と地上に現れることはないのだ。

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