【1】七つの丘の街/アトラスの柱(3)

 セルウィウスがカミラの店に現れたのと、ほぼ同時刻。

 下町の娼婦館を訪れるものがあった。ルオマ水道橋の程近く。距離にすれば、『金の林檎』からもかなり近い。曲がりくねった裏路地の、最奥にあるその店は。先日アンフィッサがエッピアを見かけた場所であった。この時代の上流社会の女性は、役者買いだけでは飽き足らず、自ら街に赴いて娼婦の真似事をしていたのだ。楚々とした良家の夫人、令嬢。その多くが如何わしい場所で如何わしい行為を重ねている。それは、いわば公然の秘密であって、事実を知ったとしても誰も吹聴するものはいなかった。

 ゆえに。

 それと知らず、上司の妻や令嬢と関係を持ってしまったものもいる。示し合わせて不倫を楽しむものもいる。姦通は、表向きには禁じられていたが、娼婦はその対象には含まれていなかったのだ。



「いらっしゃいますか?」

 その娘は、おどおどと娼婦のひとりに声をかける。客待ち顔で塀に凭れていたその娼婦は、親指で奥の部屋を指した。娘はぺこりと頭を下げ、静かにそちらに消えていく。

「綺麗な子ね」

 年配の娼婦が、その後姿を見て感嘆の声を上げる。と、娘を案内した娼婦が馬鹿にしたように口元をゆがめた。

「アクラガスの娘よ? 奴隷ですわ。どなたかの」

 言葉には、棘が含まれている。奴隷、という言葉を口にするとき、あからさまに侮蔑の色がにじんでいた。

 自分よりもはるかに美しい娘に対する嫉妬。そのようなものがあったのかもしれない。

「ご主人様に、無料でご奉仕しているのよ。自由意志ではなくてね」

 くす、と彼女が笑うと。年配の娼婦も笑い出した。

 そんな声を背に受けて。アイオリア娘は更に身を縮こまらせながら廊下を進んでいった。その目がかすかに潤んでいることに気づくものは、この場に一人としていないだろう。



「いかがです? セイヤヌス様。国王の愛妾を寝取る気分は?」

 情交のたび、エッピアはセイヤヌスに問うていた。それが、彼を突き刺す棘となることを知っていて、わざと探るように尋ねるのである。彼女の性格を知り尽くしているはずの彼も、これには辟易しているようだった。彼女がその問いを紡ぐたび、強引に唇を重ねて声を奪ってしまう。

 それは、今夜も同じだった。

「愛する女性を、ほかの男に渡さねばならなかった。これ以上悔しい思いはないでしょうね」

 長い口付けの後、エッピアが微笑む。彼女はセイヤヌスの胸に体を預けるようにして。甘く囁いた。

「奪ってしまわれれば、よろしかったのに」

 セイヤヌスは、無言でエッピアの髪を愛撫した。無骨な手の中で艶かしく動く黒髪。これが、偽りの色だとどうして判断できようか。毒薬使い、そう呼ばれたあの女の作る薬は、どれも完璧だった。あの女――カミラ。彼女とも長い付き合いになるが。まさかこのようなところで役に立つとは思わなかった。

 ルオマの宮廷に入りたい。そう言い出したのは、エッピアだった。

 誰でもいい、ある程度の地位のある人物の妻として。宮廷に入りたい。

 彼女の願いを、セイヤヌスは聞き届けた。近衛の長官が妻と子を出産で失って消沈している。そう聞き及んだとき。迷わず彼の元にエッピアを送り込んだ。もともと、女性に対して晩生であった近衛長官は、あっさりとエッピアの手管の前に陥落した。彼は彼女を後妻として迎え、その一年後に原因不明の死を遂げることになる。エッピアが国王の愛妾として宮廷に頻繁に出入りするようになったのは、その直後からであった。その仔細を、彼女に問いただしたことは一度もない。おおよその見当はついている。彼女の目的ははじめから明確であったし、彼との利害もほぼ一致していた。

 ただ。ある一点を除いては。

「ブリタニクス・ルクレティウスの命を頂いてもよろしくて?」

 彼女の言葉に困惑しなかったといえば、嘘になる。

「あなたのご子息かもしれないから? だから、ためらわれますの?」

 そうではなかった。彼は、ファウスティナの息子であったから。だから、殺すのがためらわれた。

 エッピアがたびたびブリタニクスに刺客を送りつけるのを、苦々しい思いで見つめてきた。彼女はそれと知ってわざとブリタニクスの命を脅かす。まるで、セイヤヌスの反応を楽しんでいるかのように。

「閣下を殺害して、セルウィウスを王位に就ければ、あなたはご満足でしょう?」

 エッピアの誘惑は、蜜よりも甘かった。国王とブリタニクスを暗殺して、セルウィウスを即位させる。これこそが、もっとも正当なる復讐であった。だが。そうなった後で。ファウスティナはおそらく自分を許すことはあるまい。あのような男でも、国王はファウスティナにとってはたった一人の兄である。そして、ブリタニクスはかけがえのない存在だ。――亡き夫の忘れ形見でもあるが。

「早まるな、エッピア。計画は、確実に実行せねばならない」

「あなたは慎重すぎますわ、セイヤヌス様」

「お前が大胆すぎるだけだ」

 ひそやかな会話は、そこで途切れる。二人はもつれるようにして、臥所の中に倒れこんだ。エッピアの甘い声が、ゆるゆると部屋の中に満ちていく。それが、徐々に媚声に変わっていったとき。

 入り口から、遠慮がちな声が響いた。

「失礼致します。あの、お姉さま?」

 若い娘の声だった。エッピアはセイヤヌスから離れ、ゆっくりと身を起こす。乱れた髪を整え、敷布で前を隠した。セイヤヌスは、そんな彼女に苦笑を送り。傍らの短衣に手をかけると身づくろいをはじめた。

「いらっしゃい。そこでは話が出来なくてよ」

 呼ばれておずおずと入室してきたのは、鮮やかな黄金の髪を持つ、たおやかなアイオリア娘だった。彼女は伏目がちに寝台に近づき、懐から取り出した小さな袋をエッピアに差し出す。エッピアはそれを指でつまみ、更にセイヤヌスに渡した。彼は受け取る前からその中身がなんであったのかわかっていたらしく、取り立てて驚きも喜びもせず無言で中のものを掌に転がした。


 指輪である。

 月桂樹に絡まるロドン。それを刻んだ金の指輪。


「恐ろしいことをしてしまいました」

 娘の肩が震えた。エッピアは彼女の腕を掴み、そっと引き寄せる。今一方の手で娘の顎を持ち上げ、やはり震えている唇に己のそれを重ねた。娘は、されるがまま。彼女の口付けを受け止める。まるで、そう、まるで。それが普通の行為であるように。

「今更怖がることはないわ。カリナ。はじめから私たちは、裏切っているのですもの」

「お姉さま」

 その娘――カリナは、聖緑石の瞳に戸惑いの色を浮かべた。

「裏切り、とも違いますわね。もとよりルオマになど組していないのですから」

 エッピアは笑い、セイヤヌスから指輪を取り上げた。それを己の指にはめ、光にかざしてみる。それなりに値打ちの出るものではあるが、際立って豪奢なつくりでもない。純金とはいえ、その厚みは貴族が好む上物と比べてしまうと格段に劣っている。下級貴族の青年が商家の娘に送るもの。位置的にはそんなところであろうか。だから、誰も気づかない。この指輪の意味には。気づくはずはなかった。

 その慢心が、今回の事態を招いたのかもしれない。

「ブリタニクスが気づくとはな」

 セイヤヌスの言葉に、カリナははっと顔を上げた。ブリタニクス、その名に反応したのだろう。彼女はまた、罪悪感に苛まれたような。暗い眼をして顔を伏せた。

「今これを取り戻したところで、何も変わりはないだろうが。指輪が消えたことに気づいた七将がどうでるか。それが見ものだな。タウリルト、ブリタニクス。それから、誰が出てくるか」

「……」

 カリナは、ますます縮こまる。その姿に、エッピアは皮肉めいた笑みを投げた。

「仮の主人を裏切ることが辛いのかしら? カリナ。あなたは、そんなに弱い子だったの?」

「いいえ。いいえ」

「そんなことはないでしょう。完全に彼の敵に回ることが怖いのね?」

「お姉さま!」

 カリナは上ずった声を上げ、激しくかぶりを振った。それ以上は言わないでほしい。そんな仕草である。エッピアは彼女の気持ちを察したのか、それともからかうことに飽きたのか。後の言葉を継ぐことはなかった。かわりに「お疲れ様」、というねぎらいの言葉がこぼれると、カリナはほっとしたように肩を落とし。逃げるようにその場を立ち去った。その後姿を見やり、セイヤヌスは肩をすくめる。

「あの娘も髪を染めればルオマとの混血で通るのに。尤も、そんなことをすれば、ブリタニクスの妹かと世間が騒ぐことだろうが」

 カリナの面立ちが、ブリタニクスに似通っていることに、セイヤヌスも気づいているのだろう。彼はその面影の向こうに、引き裂かれた恋人の姿を描いているに違いない。その証拠に、カリナを見るセイヤヌスの瞳は違っていた。恋人を見るような。離れて暮らしていた娘を見るような。異性を見るときとは少し違う。眩しい存在に対する、臆したかのような視線を向けるのだ。

「彼女は、ブリタニクスに思いを寄せているのか?」

 セイヤヌスの問いに、エッピアは笑い出した。そうかもしれませんね、といいながらも。目は笑ってはいない。

 カリナがその胸に秘めている面影は、中つ海と同じ色の双眸を持つ、ドーリアの少年なのだ。

 その彼も混血ではない、生粋のドーリア人だと知ったら。カリナはどう思うだろうか。

「でも、それは秘密ですわね」

 あの少年、ユリウスも髪を染めているであろうこと。その事実が、彼女にとって最後の切り札である。ユリウスの髪が黄金であるとしたら。それが公になったとしたら。自分の身も危ないのだ。いわば彼の存在は、諸刃の剣。

「髪を染めたくらいで、ひとは、変わりませんわ」

 彼女の台詞をどう受け止めたのか。セイヤヌスの表情からは何も読み取れない。エッピアは意に介さず、ちらりと彼を見上げて。


「もう、潮時かもしれませんわね、あのこも。想い人を裏切るような真似は、彼女には出来ないでしょう」



 主人を裏切ることに罪悪感はあった。だが、苦痛はなかった。

 タウリルトは、故郷を滅ぼしたルオマ人。憎き敵の執政官である。そんな彼を裏切ることなど。彼女にとってはたいしたことではなかった。彼がいくら自分を信用していたとしても。彼女の素性を疑うことがなくとも。覚えるのは、ほんの少しの罪悪感。ただそれだけ。

 しかし。


『ブリタニクス』


 その名がセイヤヌスの口から漏れたとき。カリナは稲妻に打たれたような衝撃を覚えた。エッピアやセイヤヌスに組することは、ブリタニクスも敵に回すということだ。彼が敵だということは、当然。

(ユリウス様)

 あの、青い瞳のルオマ人。ドーリアの血を引く少年も。いつかは刃を交わす相手なのだ。

 それを考えると、胸が痛かった。彼には嫌われたくない。そんな気持ちが湧き上がる。

(ユリウス様。わたし)

 あなたを騙していました。

 胸の中で、そっと呟く。



 カリナは、アクラガスの娘であった。アクラガスに生まれ、シラクサに育った。両親を早くになくしたため、シラクサに嫁いだ伯母の元に身を寄せていたのである。その伯母の娘。それが、エッピアだった。彼女は母に似て生粋のアイオリアの容姿を持って生まれた。評判の美女で、縁談は彼女が幼いころから殺到していたのである。その中で、伯母夫婦の目にかなったのがアクラガスの有力商人であった。彼はカルタギア、ヘラス、ルオマと幅広い取引先を持ち、アクラガスでも屈指の財力を有していたのである。そしてなにより、彼はエッピアの幼なじみでもあった。

 こうしてエッピアは幸せのうちに輿入れし、アクラガスでの生活を送っていたのである。

 それが、突然壊れたのは、ルオマ軍のシティリャ遠征によってだった。数ヶ月でアクラガスは陥落し、それから一年と経たないうちにシラクサもルオマの手に落ちた。カリナが偶然にもエッピアに再会したのは、ルオマ宮廷でであった。


『お姉さま?』


 死んだと思っていた従姉は、近衛長官の未亡人として。国王の愛妾として。ルオマ宮廷に君臨していた。

 カリナがエッピアの、その背後に存在するアエミリアス・セイヤヌスのもとに引き込まれるのは、それからまもなくのことであった。


『ともにルオマに復讐を果たしましょう』


 従姉の言葉に、カリナは素直に頷いた。

 伯母夫婦を殺し、カリナを辱め、奴隷として本国に連れ帰ったルオマ。許せるわけがなかった。これが戦争だと割り切っているつもりではいても。やり場のない怒りに苛まれない日はなかったのだ。

 エッピアは、アクラガス陥落の前後のことを語りたがらない。彼女もまた、カリナと同様の、もしくはそれ以上の辛酸をなめたのだろう。己の体ひとつで、ルオマという巨大国家に立ち向かう。それほどの恨みを抱かせるもの。いな、そうでも思い込まねば。彼女も生きてはいけないだろう。生きるための糧。それが復讐。

 エッピアもセイヤヌスも、それを楽しんでいるようだった。

 復讐が成功しようがしまいが、結果にはこだわらない。ただ、生きた証として何かを成し遂げたいのだと。そう思うときがある。


 タウリルトは、今までの主人の中で最も人間的であった。

 カリナのことは、小間使いとしてあくまでも身の回りの世話をさせるにとどめていたのである。それ以上の要求はしない。普段も彼女の自由にさせてくれる。おおむねルオマの奴隷主の、多くがそうであるように。タウリルトは寛大な主人であった。

 それまでカリナが仕えてきた主人に比べれば、それはもう、聖人のごとき存在である。

 タウリルトがそんな人物でなければ、彼に対しても罪悪感すらも抱かなかったであろう。

(ユリウス様)

 タウリルトも、彼が愛するブリタニクスも。ブリタニクスが頼りとするユリウスも。

 よいひと、であった。憎めなかった。

(ユリウス様)

 心の中で、彼に救いを求める。自分はどうしたらよいのか。復讐に生きるべきか。それとも、この安穏としたぬるま湯の中で行き続けることを望むのか。どうすればいい。どうしたらいい。答えが見つからない。


 考えているうちに。裏通りにまぎれてしまったようだった。

 人波は途絶え、寂れた様子の通りが、目の前に延々と続いている。風にはためく洗濯物が、ここから出て行けと彼女を追い払っているかのような錯覚を覚えさせる。

 カリナは一瞬恐怖を感じ、足を止めた。そのまま、くるりと振り返り、元来た道を走ろうとする。夕べの雨でたまった汚水を跳ね上げ、彼女は何かに駆られるように、ひたすら走り続けた。そして、もうすぐ表通りに出る。そう思ったとき。

「……っ!」

 背に激しい痛みを感じた。振り返ろうとして、そのまま彼女は地面に倒れ伏す。固い石畳が、柔らかな少女の体を乱暴に受け止めた。

 視線を上げると、そこに男の足が見えた。逞しい、成人男性の足。それに沿うようにして、鈍く光を放つ銀色の刃。

(殺される)

 カリナは息を呑んだ。がたがたと体が震え始める。助けて、と。かすれた声で彼女は叫んだ。

「ユリウス様!」



 女とは残酷なものか。それとも、あれがエッピアだからだろうか。

 従妹を役に立たなくなったから、あっさり切り捨てるとは。

 感情の入る余地はない。見事に理性だけの決断である。男に生まれていれば、優秀な軍人となったものを。なぜ、彼女は女性に生まれついたのだろう。それも、魔性を秘めた、女性らしい女性になど。

 先ほどの情交を思い出しながら、セイヤヌスは苦笑した。エッピアに関して。彼女のことを思い浮かべるたびに上るのは、苦い笑みばかりである。用意周到な彼女のことだ。今頃あの哀れなカリナは、ルオマのどこかで骸となって転がっているに違いない。


『あなたが、甘すぎるのですわ』


 わかっている。非情になどなりきれない。こと、ファウスティナに関しては。

 惚れた弱みとはよく言ったものだ。彼女にだけは、手を出したくない。彼女だけは悲しませたくないと。そう願う自分がいる。

 ブリタニクスは、殺せない。彼が最大の障害になるとしても。彼の命を奪うことはできない。

 狙うのは、国王の首。その玉座。己の血を受け継いだものが、そこに就いたそのときに。セイヤヌスの復讐は成就する。

(セルウィウスを、玉座に)

 それは、ひそやかな願い。


『セルウィウスのことを、随分と買ってらっしゃるのですわね』


 エッピアも知らない。これは誰にも告げていない。あの、解放奴隷の娘さえ誰にも口を割らなければ。彼らのほかに誰も知らぬ秘密なのだ。

 セイヤヌスは、薄暮の中人ごみを流れるように歩きながら。そっとその秘密を呟いた。

「セルウィウスは、国王の子ではない。私の息子だ」

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