【1】七つの丘の街/アトラスの柱(2)

 それは、地獄絵図だった。

 そう、神々に見放された土地。地獄というものがあるとするならば。

 そのとき、シラクサはまさしくそれだった。

 強固な城壁は跡形もなく破壊され、それに守られた街は、焦土と化していた。

 見渡す限りの屍の山。一歩、歩くごとに、靴底に感じる違和感。焼け爛れた皮が、肉が。骨から剥がれ落ちるのが、足を通して伝わってくる。

『……』

 異臭を避けるように布で口元を覆った少年は、目の前に広がる光景を呆然と見つめていた。

うめき声が、絶え間なく聞こえる。瓦礫の下から、棒切れのような手が差し伸べられる。救いを求める叫びは、そのまま呪詛の声に聞こえた。伸ばされた手は、ともに地獄へと言わんばかりに、彼の足首を掴もうとする。

『いつしか、聖なるイリオンが滅びるだろう』

 少年は、慣れ親しんだ詩の一節を口にした。

『イリオンを滅ぼすドーリアにも。ドーリアを滅ぼすものたちにも』

 やがて、滅びのときが来る。

 それが、今なのだ。イリオンの巫女が予言した言葉。イリオンを滅ぼしたドーリアが、その最後の砦を失ったのだ。

 少年は、ゆっくりと辺りを見回した。今、彼のたたずんでいる場所。そこは、かつては集会所だったのだろう。すすけた柱が幾本も天に伸び、神殿の名残を伝えている。元は白かったはずのその柱には、血と肉の塊がこびりつき、どす黒く染まっていた。彼はその柱に触れ、暫しの間黙祷する。消えていった命へ。彼が滅ぼした街へ。鎮魂の願いを込めて。

 女性たちは、既に捕らえて奴隷として本国に送り込んだ。子供も、同じく奴隷として。戦闘員と呼べる成年男子は虐殺し、事実上シラクサは滅び去った。その瞬間、ルオマのシティリャ制圧が成功したのである。

 彼の父の悲願であった、シティリャ攻略。息子は無事父の遺志を果たした。いや。果たしたのは、父の思いだけではない。

 数百年にわたる確執。神話の時代に続く、イリオンとスファルティアの抗争に終止符を打ったのだ。イリオン皇女の言葉通り、イリオンを滅ぼしたドーリアも、この世から消滅した。イリオンの末裔を自称するルオマが、憎んでやまなかったドーリア人――シラクサは、その最後の都市である。

(滅ぼすつもりは、なかったのかもしれない)

 ぼんやりと彼は思った。シラクサを攻めたのは、事のついで。本命は、アクラガスの陥落であった。シティリャにおけるカルタギアの拠点となっていたアクラガス。その実権を得ることが目的であった。そこにシラクサが横槍を入れる形になったのである。結果、シラクサは反撃に出たルオマに滅ぼされることとなった。

『全ては、運命の定める通り』

 イリオン皇女の結びの言葉を思い出し、彼は苦笑した。全てのものの上に、等しく終わりはやってくるのだ。

 だが。その前に。『はじまり』もまた、やってくる。



 彼女に出会ったのも、ここであった。

 なぜ、そのとき彼は一人で街を歩いていたのか。思い出せなかった。おそらく、『風の旋律』を思い出しながら。滅びというものを実感するために、ひとり、陣営を抜け出したのだ。このときはまだ、父の死亡は公にはしていなかった。ルオマ本国への伝令も、シラクサ攻略とともに飛ばしたばかりである。

 しかし、この時点でのルオマ軍の総指揮官は、事実上彼であった。その立場をおもんばかってか、側近たちは彼の周囲を固めていたのだが。どうにかして、その監視の目をすり抜けた。

 今のシラクサは、恐れるべきものではなかった。街を破壊され、兵士を殺され、非戦闘員も都市を追われた。ここに残るのは、もはやルオマ軍のみである。仮に、刺客がまぎれていたとしても、容易に撃退する自信はあった。そんな油断があったからかもしれない。ふいに、横合いから繰り出された刃を、避け損ねた。避け損ねたというよりも。明確な殺意を感じて、体が勝手に反応したのだ。振り下ろされる剣を己の剣で払い、襲撃者の腹を爪先で強く蹴り上げた。

『が……っ』

 それは、胃液を吐いて吹っ飛んだ。投げ出された人形のように、無防備なまま柱に激突する。それでも、ごほごほと咳き込みながら、その人物は顔をあげた。中つ海を思わせる、深い青い瞳がまっすぐにこちらをにらみつけた。

『ルオマめ!』

 そんな言葉だったと思う。アイオリアの柔らかな言葉とは違う。歯切れのよい、ドーリア方言であった。襲撃者――中肉中背の、農民と思しき男は、よろめきながら立ち上がり、しっかり握り締めている剣を再び少年に向けた。

『やめろ。もう、終わった。シラクサは、滅びた』

 はっきりしたアイオリアの言葉で、彼は告げた。男は驚いたように彼を凝視したが。ためらわずそのまま切りかかってきた。鋭い太刀筋に、少年は思わぬ苦戦を強いられることになる。たかが農民、そう侮ったのが間違いだった。ドーリアの、シラクサの民は、戦士なのだ。男に限らず女性も子供も。農業を営む傍ら、戦士としての訓練を受ける。その実力は、正規の軍人として教育を受けた自分には及ばぬかもしれないが。それでも、充分脅威となった。

 一合、二合、と剣を合わせるうちに、その気持ちは強くなる。手を抜けば、こちらがやられる。そう思ったせつな。少年は反撃に出た。男の剣を受け止めると見せかけて、その懐に飛び込んだ。甲冑すらつけていない農民兵は、少年にあっさりと心臓を貫かれ、その場で絶命した。くず折れる体から剣を引き抜き、少年は血に染まった己の手を見つめる。

 初めて、人を殺した。

 この手で。

 間接的には多くの人を殺害してきたが、直接手を下したのは、これが初めてだった。

 肉を断つ独特の感触が、まだ手にこびりついているようだった。これが、戦争。これが、勝利か。やるせない思いが胸の中を駆け抜ける。


 ――いつか、滅びのときが来る。


 あの旋律が、心によみがえる。宮廷で聴いた楽士の歌声が、耳の中に響いた。その旋律に包まれるようにして、今一人の人物が、彼の前に立った。まだ、あどけなさの残る子供だった。短く刈り上げた、金色の髪。日に焼けて真っ黒な顔の中で、ぎらぎらと光る青い双眸。涙にぐしゃぐしゃになったそれは、少年を見つめていた。その子供は、先ほど果てた男の剣を拾い上げ、声を限りに叫んだのである。


 ――とうちゃんの、かたき。



「おや、今日はひとりかい」

 珍しいこともあるもんだ、と。カミラは茶化すように言った。

 マリカの家からまっすぐに、ブリタニクスが向かったのは、『金の林檎』だった。まだ日の高いうちは、この店は居酒屋としてではなく、軽食屋として店を開いている。それでも、時刻が早すぎるせいか。まだ客は彼のほかは一人もいなかった。ブリタニクスは、長卓子カウンターに陣取ると、品書きのひとつを指で示す。あいよ、とカミラは頷いて、棚からシティリャの葡萄酒を取り出した。

「胡椒と蜜は、適当だよ」

 憎まれ口を叩く彼女に、ブリタニクスは視線で答える。卓子の上に投げ出されるように置かれたつまみに手を伸ばし、彼はそれを指先で弄んだ。果物である。乾燥させたものではない。まだ、みずみずしく、もぎたての印象を与えるものだ。おそらく、シティリャから取り寄せたものであろう。それを惜しげもなく籠に盛り、料金は取らずにつまみとして出している。これは、何もカミラの店に限ったことではない。ルオマの下町。そこに軒を連ねるあらゆる居酒屋でも、同じことが行われていた。

「豊かになったもんだな」

「貧しかったときなんて、知らないくせに」

 その通りだった。ブリタニクスは、貧しさを知らない。戦で荒廃したルオマを知らない。カルタギアによって、壊滅寸前にまで追い詰められたルオマを知らない。彼の知るルオマは、豊かで、無敵で。そう、彼が生まれてからのルオマは、無敗を誇っていた。彼が七将としての地位についたとき。その不敗神話は確固たるものとなった。父の後を継ぎ、まだ早すぎるとの声も出る中で。彼は、見事にシティリャを制圧して見せた。シティリャ遠征中に不慮の死を遂げた父。ルクレティウス・リシウスの指揮権を行使し、一時危うくなった対シラクサ戦役を勝利に導いたのである。

(シラクサを滅ぼしたのは、この俺だ)

 結果、シティリャはルオマの植民地となり。シラクサは滅亡し、その住民たちは殺されるか奴隷とされた。もう、七年近く前のことになる。

「シティリャの酒は、胡椒をきかせると味が引き立つからね。からいよ」

「わかってる」

 出された杯を、口に含む。確かに、辛かった。彼は僅かに咽て、たまらない、といった表情でカミラを見やる。

「懐かしい味だ」

「だね」

 ここでこの酒を飲むと、嫌でも昔のことを思い出す。

 アトラスの柱に憧れていた時代。未知なる世界に乗り出したいという、願いを持っていた少年時代。

『初陣だ』

 元服の後。そういわれたことが嬉しかった。早く大人になりたくて。早く、父に認めてもらいたくて。

 緋色の長衣を纏う日を、心待ちにしていた。


 だが。現実は、甘くはなかった。

 十六歳の少年が、初陣の際に見たものは。


「ユリウスと初めて会ったのも、シティリャだったな」

 遠い日に見た、青い瞳。廃墟の中で、まっすぐに自分を見ていた幼い少女。



 ――とうちゃんの、かたき。



 叫んで、体程もある巨大な剣を振り上げた彼女に、彼女の背後に。彼は何を見たのだろうか。

(あいつは、多分忘れている)

 あれほどの怒りも、おそらくは消えてしまっているのだろう。剣奴時代に培われた反骨の精神はあったとしても、あの狂おしいまでの情熱は今の彼女からは感じなかった。押さえているのだ、封印しているのだ、と。そう思ってはみても。何かが違っていた。

 変わってしまったのだろうか、シラクサのアンフィッサは。あのとき瞳の中に見たものは、失われてしまっていたのだろうか。

 遠き日のシラクサで彼女を見た瞬間。彼の中で、何かが弾けた。長いこと、心に描いていたもの。望んでいたものが、少女の形をとってそこに現れたのだ。これは、運命のいたずらかもしれない。エッピアが開いた扉は、このようなところにも続いていたのだ。

 あの日の彼女に、ブリタニクスは見てはいけない幻想を見てしまった。

「人をね。自分の思い通りに動かそうなんて、甘いんだよ」

 人間は、誰かのコマじゃない。

 カミラは、杯に酒を注ぎ足しながら。ふっと小さく息をついた。

「あんたのしようとしていることは、セイヤヌスよりも大それたことかもしれないよ。坊ちゃん」

 彼女のいうとおりかもしれない。

 自分の計画は、ある意味国王暗殺よりも恐ろしく、非人道的なものだろう。それは、わかっている。わかっているのだが。

 今更、やめるわけにはいかない。全ては、もう動き出しているのだ。

(そして。時間は、あと僅かだ)

 ブリタニクスに、アンフィッサに。与えられている時間は、幾らもない。

 アンフィッサが、大人になる前に。成熟した女性となってしまう前に。終わらせなければならない。

「ブリタニクス!」

 ふいに。背後の帳が持ち上げられた。そこから顔を覗かせたのは、先程の少女。女水夫のマリカであった。彼女はブリタニクスに表に出ろ、と言うように顎をしゃくる。その仕草に苦笑を浮かべ、ブリタニクスは卓子に代金を置く。

「動き始めた歯車は、止めることは出来ない。……そういうことだな」

 カミラは、一瞬目を見開き。やがて、皮肉めいた笑みを浮かべた。



『染め粉を作ってくださらない?』

 そういって彼女がやってきたのは、ブリタニクスの同様の依頼を受ける、数年前であった。

 依頼者は、若い女性。アイオリアの容姿を持った、美しい女性である。彼女はカミラの前に大量のセスティルティウス金貨を積み上げ、黒い染め粉を要求した。どこからカミラのことを聞き及んだのか。情報の出所を尋ねると、『あるお方』とだけ呟いた。あるお方ねえ、とカミラが笑うと。女性は

『もうお分かりでしょう、あの方です』

 と。妖艶な笑みを浮かべたのだ。そのときに、カミラは気づいていた。女性の正体と、彼女の背後にいる人物に。

(生きていたんだ)

 やはり、という思いが強かった。彼は、アエミリアス・セイヤヌスは死んではいなかった。シティリャで殺されたのは、身代わりの士官だろう。焼け爛れた遺体では、本人かどうかの区別も付けかねる。

 あえてブリタニクスにそのことを告げなかったのは。勘のよい彼のことだ。言わずとも察するだろう、そう思ってのことである。案の定、彼は気づいていた。セイヤヌス生存のことも、エッピアがシティリャ出身のアイオリア娘だということも。逆に、それを逆手にとって、アンフィッサの髪を染めることを思いついたのかもしれない。

(抜け目のない人だよ)

 どう考えても、温室育ちの御曹司とは思えない。下町のことにも、人の心の裏にも精通し、ときに千里眼のような洞察力も持つ。

 シティリャで過ごした三年間、彼は一体どのような生活を送っていたのか。無性に気になるときがある。あの三年間は、カミラだけではない。彼の両親も、誰も知らない。空白の時間であった。ともあれ、シティリャ遊学から帰国した彼が、それまでとはまったく印象が異なっていたことは紛れもない事実である。

(親子で、因縁の場所だね。シティリャは)

 ルクレティウスも、セイヤヌスも。シティリャでその運命を変えた。そして、ブリタニクスも、また。

(シティリャ、ねえ)

 今後の、ルオマ・カルタギア情勢を握る島。

 ルオマと、シティリャと。役者は揃った。あとは、カルタギア。そこからのコマを待つだけ。

 歴史は、また。動き始める。




「ここだったのか」

 三人目の珍客が訪れたのは、その日の夕方であった。店にもちらほらと客が集まり始めた頃である。魚介類の汁物が漂わせる香りに誘われたのか、その男はふらりと自然に店に入ってきた。そうして。長卓子についた途端、カミラの顔を見て声を上げたのである。

 どこか影を含んだ、翡翠の双眸が驚いたようにこちらを見ている。その青年は、一瞬戸惑ったようだったが。品書きを求めて手を伸ばした。そこに、今日の献立を示したものを渡してやると彼は無言で地鶏の蒸し物を指差した。

「好みは違うんだねえ」

 どこかの誰かと。そういって笑うと、彼――セルウィウスはきょとんとした。その「どこかの誰か」がブリタニクスであることに気づくと、むっとしたようにカミラを睨みつける。

「どこまで知っているんだ? おまえは」

「さぁ?」

「大体、何者だ? なぜ、俺たちのことを知っている?」

 周囲の目を気にしてか、彼の声は幾分抑えられていた。彼は差し出された酒を受け取り、そこに口をつける。が、胡椒が利きすぎていたのか。それとも熱かったのか。軽くむせて、杯を卓子に置く。

「シティリャの酒は、好みじゃないんだね」

「当たり前だ。酒は、ルオマに限る。ここは、ルオマの酒はないのか?」

「あるよ。あるけど、ここの客はシティリャ系の商人が多くてね。ルオマの酒はあまり売れないのさ」

「……」

 シティリャに住んだことのないものは、シティリャの酒は好まない。宮廷では最近はシティリャの酒が流行っているというが。それは、国王の愛妾・エッピアが好むからであって、ほかの貴族たちがそれに合わせているという。そんな噂を耳にする。一般の兵士、ことに生まれてこの方ルオマを出たことのないものたちは、癖のあるシティリャ酒をそれほど好まなかった。

「ルクレティウスは」

 セルウィウスは吐き捨てるように呟く。

「シティリャびいきだったな」

「そうだね。父上からして、シティリャが好きだった。酒も女も。あのひとはシティリャに目がなかった」

 カミラの皮肉めいた笑みに、セルウィウスは眉を寄せる。下品なことを言う女だと、非難する眼差しだった。

 こういうところ、彼は父である国王とはまったく違う。妙に清廉潔白なのだ。まじめすぎる、との噂も高いが。真面目なのではない、不器用なのだ。

「王子さん。あんた、もっとよく周りを見たほうがいいよ。あんたは誰も味方がいないと嘆いているけれど。味方はちゃんといる。味方だと思っている人間が、実は敵だったってこともあるんだからね。賢いあんたのことだ。なんとなく、気づいているんだろう? あんたは馬鹿じゃないよ。わかってるはずだ。単に、それを認めたくないだけ」

「何を言っているんだ?」

「坊ちゃんの粗探しばかりしていないでさ。もっと、やることがあるだろう?」

「坊ちゃん? ルクレティウスか?」

 警戒するセルウィウス。知らず、剣を引き寄せる彼に、再びシティリャの酒を勧めて。カミラはふっと顔を近づけた。

 そのときに、彼女に囁かれた言葉。それにセルウィウスははっと目を見開いた。信じられない、といった目でカミラを見つめる。

「な……」

「そうあるべきなんだよ。全ては、定められていることさ」

 カミラの笑みには、毒があった。

 セルウィウスは、今しがた聞いた言葉を幾度も胸の中で反芻する。


「自分の国は、自分で守るんだよ。いいかい、未来の国王陛下」

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