【1】七つの丘の街/アトラスの柱(1)

 それは、女神の微笑なのだろうか。

 北方の神話に語られる、戦士の魂を冥府に導く女神の。



 今から六年前のことだった。六年、いな、もう七年近く前になるか。当時まだ十六歳のブリタニクスは、父に伴われてシティリャに赴いていた。アクラガス制圧を目的とした遠征である。ブリタニクスにとっては、これが初陣であった。立場は一士官であったが、事実上父の副官であった。シティリャ攻略の全権を委任された父の副官。ということは、父にもしものことがあった場合、ブリタニクスにその指揮権がゆだねられることになる。

『元服を終えたばかりの小倅に、そんな大役など務まるものか』

 年配の執政官たちは、口をそろえて非難した。しかし。ルクレティウス・リシウスの実力か、国王の後押しがあったからか。さほど揉めることはなく、ブリタニクスのシティリャ遠征は決まったのである。そうして、彼は運命の地へ足を踏み入れることとなったのだ。

 彼は、十代のはじめごろをアクラガスで過ごしていた。月足らずで生まれた、そのことが原因なのか。幼いころの彼は体が弱く、ちょっとしたことで寝込むことが多かった。高熱にうなされ、気管が弱いこともあってか、肺炎になりかけたことも幾度かある。そのたびに母が寝ずの看病をし、父も帰宅した後は必ず息子の部屋を見ることを習慣付けていたくらいであった。

『シティリャで静養なさいませ。そのほうが、お体にもよいでしょう』

 医師の勧めで、ブリタニクスは十歳から十三歳までの三年間、アクラガスに遊学をしていた。

 だから。彼にとってシティリャは、いわば第二のふるさとであった。

 その街をわが手で滅ぼすことに、ためらいがなかったといえば嘘になる。しかし、これは戦争だった。個人の感傷は許されない。ましてや武官が感傷にふけるなど、あってはならないことであった。幸いなことに、ブリタニクスは骨の髄から軍人であったらしく、父の片腕として、無事に務めを果たしたのである。

 シラクサの援軍がアクラガスに向けられたのは、アクラガス陥落の前日だったろうか。知らせの早馬は、伝令を乗せたままルクレティウス親子の前で息絶え、伝令も背に受けた矢が元で間もなく命を落とした。報告を受けると同時に、ルクレティウスはシラクサ攻撃の指令を出した。アクラガスで援軍を迎撃する部隊とシラクサ攻撃に出向く部隊と、軍を二手に分けたのである。シラクサ攻撃には今一人の副官を配し、息子であるブリタニクスは己のそばに置いた。その父の判断は、正しかったのかもしれない。

 大ルクレティウスは武官として申し分のない強靭な精神力と理性とを兼ね備えていたが、同時に直感力も持ち合わせていたのだ。今から思えば、父は何かを感じていたのだろう。そして。父のその考えは正しかった。大ルクレティウス。ルオマにその人ありと称えられた、希代の名将。その彼の、唯一の汚点。それが、彼の死にまつわることになろうとは。誰が想像できたろうか。


『仇を討つのなら、今しかないわ。今を逃せば、私があなたを殺す』


 そう言って、父の骸の向こうで哄笑をあげていたのは、誰だったのか。

 黄金の髪と、聖緑石の瞳。美しいアイオリアの女性は、魔性の笑みを浮かべていた。あの笑顔は、今でも目に焼きついている。こうして、七年近くたった今でも――胸の奥に、はっきりと刻み込まれている。刻み込まれているがゆえに、たびたび悪夢として、彼を苦しめた。彼女の姿と、彼女の言葉と。それにつながる、全ての出来事と。否応なく思い出させられる、糸口のようなものであった。

 全ては、あの瞬間に始まった。彼女の凶刃が、父の頚動脈を切り裂いたときから。


 ――エッピア。


 魔性の女神の名を呟いて。ブリタニクスもまた、狂気じみた笑みを浮かべる。

 あの日の彼女は、アトラスの柱。穏やかな『守られし海』と、『あらぶる外洋』を隔てたその柱のごとく。平穏な日常と修羅の日々との境にいた、運命の女だったのだ。そう、彼女が開いたのは、終わりなき煉獄へ続く扉だったのである。



 目を開くと、そこには闇が広がっていた。

 ブリタニクスはひとつ息を付き、ゆっくりと身を起こす。また、同じ夢を見ていた。幼いころの夢。父が、死んだ日の夢。勇猛で知られる父が、ただの肉塊となって無様に床に転がっている。その向こうに佇むのは、冥府の女神。黄金の髪と、緑色の瞳を持った、アイオリアの女。ミルティア――イリオンを滅ぼすきっかけとなった、ドーリア王妃。記憶の中の彼女は、凄絶なまでに美しく。その存在は、彼の心に楔のごとく打ち込まれていた。

 あのとき。父が、不用意に彼女を招き入れなかったら。運命はまた、別の顔を見せていたのかもしれない。別の顔を見せていたら。


 見せていたら。


(おまえには、会わなかったな)

 傍らに眠るアンフィッサに、ふと目を向ける。彼女は掛布で体をすっぽり包むようにして、ぐっすりと眠っていた。そっと髪に触れても、目を覚ます気配はない。よほど彼に心を許しているのだろう。それか、単なる無頓着なのか。どちらとも判断が付きかねる。それでも。最近は、とみに女性らしさが目立つようになってきた。性格は相変わらずであるが、ふとしたときに首筋の細さや腕のしなやかさ、肩のまろやかさを感じるときがある。アンフィッサは、確実の大人への階段を上っている。

 時間がなかった。早くしなければ。彼女が完全に女性になる前に。彼のもてる全てのものを、与えなければならなかった。

 彼のために。そして、何より彼女のために。エッピアが開いた扉をくぐるために。

「ん……っ」

 ブリタニクスの気配を察したのか。アンフィッサがごろりと寝返りを打った。子供のような寝顔が、こちらに向けられる。そこに視線を落として、ブリタニクスは微笑んだ。無防備な彼女が、たまらなく愛おしく思えて。

「……」

 彼は、アンフィッサの前髪をかきあげた。指に絡みつく髪は、ぬばたま。ドーリアの金髪は、染め粉の下に隠されている。同じ偽りの色なのに、こうも印象が違うのはなぜだろう。秘めたる思いは、同じく復讐。それなのに。

「父ちゃん」

 アンフィッサの口から、くぐもった声が漏れた。父ちゃん、と。彼女は数度繰り返す。彼女も、夢を見ているのだろう。昔の、夢を。

 ブリタニクスは、そっと彼女の耳元に口を近づけて。ひそやかに、だが、はっきりと。

「お前の父上は、立派だったよ」

 そう告げたのである。



「下町に行ってみるか」

 何がきっかけだったのだろうか。不意にブリタニクスがそんなことを言い出したのは。

 確か、本でアトラスの柱を調べていたときだったと思う。


『これって、イベリアの先にある、岬のことだろ? これの向こうには、何があるかわからないって。親父たちも言ってたよな』


 幼いころ父の膝の上で聞いた話を思い出し、アンフィッサは平板を伏せた。アトラスの柱、それは伝説とも歴史とも言える。南の大陸と北の大陸。双方からそれぞれ飛び出た岬がある。南の大陸、つまりカルタギアのある半島の呼称は、『女神の腕』だった。対して、北の大陸の岬。こちらの先端は、『アトラスの柱』という。巨人アトラスが、天球を支えている、そんな伝説からこの名がついたのだというが。この柱を越えると、そこは未知の世界で、穏やかな中つ海と、あらぶる外海とその二つの海を遮る、門のような役割をしているのだと。そんな説もあったのだ。確かに。アトラスの柱を越えて、戻ってきたものはいなかった。かのカルタギアでさえも、おそらくは内海だけを支配下においているのだろう。

 アトラスの柱は、この世の果て。アンフィッサは、幼きころからそう信じてきた。

「アトラスの柱を、越えたやつがいる。会ってみたいだろ?」

 いたずらっぽく笑う彼は、子供のようだった。アンフィッサは呆れて、肩をすくめる。

「いいのかよ? 今、そんなことしていて」

 アエミリアス・セイヤヌス。彼の動きも気になるのだ。アトラスの柱の話は確かに興味深いが。今でなくともよいだろう。アンフィッサがそう訴えると、ブリタニクスは笑った。笑って、そうだな、と。小さく頷く。

「でもな。今じゃなければ、出来ないんだぜ?」

「はぁ?」

 言葉の意味がわからなかった。どういうことなのだろう。彼は何を言いたいのか。

「今じゃなければ出来ないこともあるさ」

 その言葉を残しただけで。

「出かけてくる」

 彼は一人、部屋を出て行った。それが、夕べのことである。



「って、さぁ。あいつ、最近おかしいって」

 朝露の残るロドンの花を、剣先で軽く払って。アンフィッサは思い切り頬を膨らませた。

 報復とばかりに、ロドンから跳ね返ってきた雫を手の甲で払い、彼女はふてくされた表情のまま、その場に腰を下ろす。

 しっとりと湿った、草の感触が心地よい。彼女は剣を傍らに置き、大きく伸びをする。

 頭の上には、青空が広がっていた。まだ紫色の、夜の名残をとどめた柔らかな色である。皇帝が好んで使う色も、確かこんな色だった、と。彼女はぼんやりと思った。皇帝の紫。この色を作り出せるのは、カルタギアの職人だけ。この布を求めて、各国の貴族たちは、競って大金をつぎ込んでいる。カルタギアはその布を、主力商品としていた。

(潰そうと思うなら、買わなきゃいいのに)

 もっともなこと、だが、ルオマ貴族たちにとっては出来そうもないことを考えて。

 アンフィッサはまた、空に目をやった。

 ここで。こうして、この空を見ることが出来るのは、あとどれくらいだろうか。

 彼女は、そっと己の胸に触れた。

 固く布を巻いてあるはずなのに。膨らみ始めた乳房は、かなりの弾力を持っていた。それは、腫れ物のように。日々、その存在感を主張してくる。少年そのものであったはずの無骨な手も。骨ばっていた足も。棒切れといわれた体も。徐々に、変化を遂げてきた。


 今でなければ、出来ないこと。


 それは、もしかして。

(嘘だろ)

 ブリタニクスは、気づいているのか。彼女の体の変化に。男でなくなったら。完全な女性となったら。もう、用済みとでも言うのだろうか。用済み、というのは少し違う。彼は、アンフィッサを己の副官として、国外に出そうとしているのだから。ということは。彼女が、少年を装っていられるギリギリの限界まで、そのときまでに、計画を実行しようとしているのかもしれない。そうなると、時はもう迫っている。彼女に残された時間は、わずかだった。

(くそっ)

 ブリタニクスは、それどころではないはずだ。実の父かも知れぬ人物が、国王暗殺を企てている。その計画は、一人で実行するつもりなのか。組織立っているのだとしたら、人数は。決行の日時は。一ヶ月先か、半年先か。それとも、一年以上先のことなのか。たとえ、セイヤヌスを捉えたとしても、彼の一味を全て押さえぬ限り、この計画は生き続けることになる。そして。下手をすれば、反乱にもつながるのだ。

「反乱?」

 アンフィッサは、思わず息を止めた。反乱。反乱が起これば。それに乗じて、ルオマを脱出することが出来るのではないだろうか。それよりも。うまくいったら、憎きルオマを倒すことが出来るかもしれない。

(そうだよ)

 それが、アンフィッサの願いでもなかったか。祖国を滅ぼし、自分を奴隷としたルオマ。そんな国が滅びても、彼女にとっては損はない。むしろ歓迎すべき事態である。

 心の奥が、ざわめいた。


 アトラスの柱。平穏と、混沌とを隔てる柱。

 その向こうを、混乱を。見てみたい気がした。



 パラティヌス近くの市場は、今日もにぎわっていた。異国から取り寄せられる、数々の品物。東の絹に、南の香料。北の鉱物。あらゆるものが、この街には集まっているのだ。ほしいものがあれば、ルオマに行け。そんな言葉が生まれたのも、この時代である。ルオマは、既に国力ではカルタギアをしのいでいる。カルタギアを倒せば、名実ともに中つ海の覇者となれるのだ。この地に住む人々は、みなその日を夢見ている。北の、グィール人の攻撃を受けても、揺るがない基盤と。何者にも侵されない、強固な国家と。蹂躙されない豊かな街と。それを作るために、ルオマは最強とならねばならない。口せずとも、その声は聞こえた。街の奥底から、湧き上がってきた。

ブリタニクスは人いきれの中を突き進み、慣れた足取りで、ひとつの店を目指す。カミラの居酒屋ではない。もっと、入り組んだ路地の。もっと、柄の悪い場所。水夫たち――それも、異国から集まるあらくれ男たちの、定宿に近い場所であった。

「なんだぁ? 何の用だ?」

「ここは、坊ちゃんの来るとこじゃねーぜぇ」

 水夫たちの罵声が飛ぶ。質素な身なりをしてはいても、ブリタニクスの容姿が、人目を引くのだろう。艶やかな濡れ羽の髪。意志の強さを表す、翡翠の瞳。凛とした容貌。明らかに、この土地のものとは違う姿に、彼らが嫌悪感を示すのは無理もない。だが。ブリタニクスはそのようなことに頓着せず。目的の場所に到達すると、そこで初めて声を上げた。

「マリカ!」

 声をかけると同時に、薄汚れた帳を引き上げる。すると、奥からしゃがれた声が返ってきた。

「あんだよ?」

 ぼさぼさの頭をかき回しながら現れたのは、まだ若い少女だった。彼女はブリタニクスを見ると、興味なさそうに大あくびをする。ついでに伸びまでして彼の鼻先に顔を突き出した。

「朝っぱらから、大声出すなっての。兄貴が騒ぎ出すだろ?」

 鼻に皺を寄せる彼女の頭を指で軽くどけて、ブリタニクスは中を覗き込んだ。その視線の先に、ゆるゆると蠢くものがある。

 ひと、だった。

 ひと。それも、ただの人ではない。やせ衰え、骨と皮ばかりになった。白髪の男性である。

 知らぬものが見れば、彼を老人だと思うことだろう。この男がまだ二十代半ばで、数年前までは屈強な海の男だったといわれても。にわかに信じることは出来ぬかもしれない。現にブリタニクスですら、そうだったのだから。

 彼は、元は水夫だった。とある商人に雇われて、中つ海を巡って商品を買い付ける。そんなことを生業としていたのだが。数年前、やむにやまれぬ事情で、大博打に出たのだった。すなわち、アトラスの柱を越えること。あの柱より先に、出たものはいない。もしもあの柱の向こうから無事に戻ってきたのならば。そういう条件をつけられて、法外な報酬とともにオスティア港から出航させられたのである。誰もが、無謀だと思った。彼のたった一人の身寄り、妹のマリカが天涯孤独になってしまうとの理由で、止めるものも多数いたという。だが、当のマリカは当時はやり病にかかっていて。彼女の薬代を稼ぐためにも、彼はこの話を受けざるを得なかったのだ。

 その結果、彼は柱の向こうから戻ってきた。記憶と言葉を失って。

「兄上は、元気そうだな」

「おかげさんで。最近は、ちょっと調子がいいよ。波音を聞いても、おかしくなったりはしないから」

「それはよかった」

 ブリタニクスは、案内も請わずに中に入る。じっとりとかび臭い匂いが、鼻を突いた。貧民窟。そんな表現がふさわしい場所である。穴倉に近い半地下の部屋、そこに兄妹二人が暮らしているのだ。兄が廃人同様になってからは、マリカが生計を支えていた。女の就く仕事といえば、手っ取り早いのが娼婦であるが。彼女はそうならなかった。彼女の選んだ道は、兄と同様水夫であった。今では数少ない女性の水夫として、このあたりではちょっと名が知られている。危険な海域に出るときは、彼女の水先案内を頼むという人々も増えてきているのだ。

 酒があるけど飲むか、というマリカにかぶりを振って。ブリタニクスは、懐から指輪を取り出した。例の、ズミュルナの指輪である。それをマリカに放り投げ、彼女が受け取ったのを確認すると、かすかな笑みを浮かべた。

「また、厄介ごとかよ」

 いい加減にしてくれ、と。マリカは唇を尖らせた。つり上がり気味の目が、更にきつくなり。マリカは彼を睨みつつ、指輪を懐にしまう。

「明後日、また来る」

 言い置いて、ブリタニクスは彼女ら兄妹に背を向けた。

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