【1】七つの丘の街/幻影序曲(3)
何と答えればよいのだろう。
アンフィッサは、しばし言葉を失っていた。
下町で娼婦の真似事をしていたエッピアが、客として迎えた男性。それが、父かも知れぬ人物だと知ったら。ブリタニクスは、どうするのだろうか。彼のことを考えると、口をつぐむことしかできなかった。言えない。これだけは言えない。
(おばさんのためにも)
そう。いまだ、アエミリアス・セイヤヌスの面影を追っているであろう、ファウスティナ。彼女のためにも。
「それよかさ、ブリタニクス。あんたのほうはどうだったんだよ? あの指輪。あれの意味、わかったんだろ?」
話題を強引にすり替える。こんなちゃちな子供だましにかかる相手だとは思えないが。それでも。アンフィッサは、賭けてみた。
「交換条件だな」
口元をゆがめるブリタニクス。ここで頷いたら、彼の話を聞いた後にアンフィッサは答えなければならない。
「一般的には、
彼はおもむろに立ち上がり。壁に立てかけた剣を手に取った。その鞘にも月桂樹の模様が刻まれている。
「男を。武人を表している」
「武人?」
貴婦人と、武人。
ファウスティナと、セイヤヌス。
瞬間、その名が脳裏をよぎる。なぜ、エッピアでなくファウスティナだったのか。自分でもわからなかった。
「一般的に見れば、これは婚姻の成立を表していることになるな。月桂樹に絡まるロドン。つまり」
「つまり?」
「男女の契りの証だな」
契りといえば――アンフィッサは、唇を噛みしめた。
「婚約者同士の、指輪?」
嫌な気配は、ますます強まってくる。しかし。
「指輪って、二個じゃなかったよな?」
古代の異国の王ではないのだ。妻を同時に何人も娶ることなどするだろうか。もしも、これがすべての恋人に贈ったのだとしたら、送り主は罪な男である。
「だから、一般的に見ればだ。言い訳には出来るだろう? これは、婚約者との愛の証だと」
ブリタニクスの言うとおりだった。そうやって、人の目をごまかして。欺いて。実は、何か別の意味があるのだとしたら。
女性が、命に代えても隠そうとしたもの。
殺人者が、命とともに奪おうとしたもの。
それは、一体。
「お前が会った男が、俺の考えているやつと同一人物なら。答えはたった一つ」
「え?」
「復讐だ」
静かにブリタニクスが告げる。アンフィッサは、眉をひそめた。
復讐。誰が。誰に対して。何のために。
「自分を裏切った人々へ。復讐を遂げようとしている」
「嘘だろ? だって、あの人はおばさんの元の婚約者じゃ……」
言いかけて。アンフィッサは、あわてて口をつぐんだ。言ってしまった。ついに。これは、ブリタニクスの誘導尋問ではなかったのか。はめられた、と、彼女は舌を打つ。
「やっぱりな」
彼は苦笑を浮かべた。
「アエミリアス・セイヤヌス。あの男か。やつなら、やりそうだ」
「ブリタニクス!」
「どれだけの規模で網を張っているかは知らないが。狙いは大体わかっている」
「って。まさか、あんたを殺す気だったり?」
ブリタニクスに刺客を送りつけているのは、エッピア。その彼女とかかわりがあるということは、やはりセイヤヌスが黒幕なのだろうか。それにしては、ブリタニクスを狙うのはまだわかるとしても。なぜ、元の婚約者であるファウスティナの命まで狙うのだろうか。彼女が自分を裏切ったと。そう思い込んでいるのだろうか。それにしては、やり方がまわりくどいような気もするが。
ファウスティナの目の前で息子を殺して。彼女の嘆く姿を見たいのか。
(でも)
ファウスティナは。まだ、セイヤヌスのことを想っている。彼のことを忘れられないでいる。
あの、共同墓地で見せた彼女の表情。あれを見れば、セイヤヌスもつまらぬ考えなど捨てるのではないだろうか。
「どうせ、リウィアヌスあたりに聞いたんだろうが。……おまえ、わかりやすいな」
不意に声をかけられ、アンフィッサはぽかんと口を開けた。
「母と、セイヤヌスの関係。俺は話した覚えはないぜ?」
「あっ」
墓穴を掘ってしまった。彼女は上目遣いにブリタニクスを見る。
「中途半端にしか話を知らないのもいやだろ? 教えてやる。全部」
「ブリタニクス?」
「アエミリアス・セイヤヌス。彼は、戦死したんじゃない。殺されたんだ」
●
アエミリアス・セイヤヌスに関する記録は、通り一遍のものしか残っていなかった。
ルオマ七将の一人にして、王女ファウスティナの婚約者。
王女との婚約を破棄された後は、自ら志願して戦地に赴く。
二十数年前のシラクサ戦役で戦死。
その後の記録は途絶えている。当然のことではあるが。
(ここでの死亡報告は偽で、実は生きているとしたら?)
生きていて、シラクサの娘との間に子供を儲けたら。それが、ユリウスではないのだろうか。
(だから、なんだ)
それだけである。
セルウィウスはため息をつき、平板を棚に戻した。ユリウスがセイヤヌスの子供で、ブリタニクスの異母弟だったとしても、それだけである。それ以上の何者でもない。
自分は一体何をしていたのだろう。一日、図書館につめていて、調べたことがこれだけだったのか。
もう、何がしたかったのかもわからなくなってきた。
彼は髪をかきあげ、ぼんやりと天井を見上げた。そこに描かれているのは、古代の神話。聖イリオンの黄昏から始まる、ルオマ創設の物語である。
イリオンを滅ぼすドーリアにも。
ドーリアを滅ぼすものにも。
やがて、滅びのときが来る。
風の旋律の一節を、知らず口ずさんでいた。
王女の婚約者であった、セイヤヌス。七将として頂点を極めた彼も、最後は滅びの人となった。どんなものにも必ず終わりが来る。人を追い落とせば、必ずそのものにも破滅がやってくる。それがことわり。この世のさだめ。
(はかないものだな)
一言で済ませてしまえばそれまでだ。だが。それだけではないだろう。
いつか終わりが来ると思うから、誰よりも輝きたい。そう思ってしまうのだ。
(そう、いつか)
ブリタニクスにも。滅びのときがくるのではないだろうか。
そのとき、自分セルウィウスは。どうなるのだろう。彼の前に自分に滅びがやってくるのではないか。それは誰にもわからない。わかるのは、神々だけ。あの、黒い瞳の預言者も、予言をするだけであった。彼女の言葉は誰も聞かず。彼女の嘆きは天に届かなかった。イリオンの皇女・イズミル。神に寵愛された娘。そして、神に疎まれた娘。彼女の予言は神をも超える。そう、噂が立ち。彼女もそれを自覚するようになったとき。神々の断罪があった。彼女の予言はそのままで、予知能力はそのままで。しかし、彼女の言葉を信じるものは誰もいなくなった。
彼女の言葉を聞き入れていれば。
彼女の哀れな兄は、人の妻を略奪するようなことはなかった。
彼女の予言を聞き入れていなければ。
彼女の誠実な弟は、恋人を見殺しにするようなことはしなかった。
破滅を呼ぶ巫女。
後世、彼女はそう呼ばれている。イリオン最後の皇女。美しきイズミル姫。
もしも彼女がここにいたら。彼にはどのような予言を下すのだろうか。
●
アエミリアス・セイヤヌス。彼は、戦死ではなかった。殺されたのだ。刺客に。
二十数年前の、シラクサ戦役。シラクサがルオマを退けたあの戦いで、セイヤヌスは死んだのではない。
その前に、殺されていたのだ。
国王にとって、セイヤヌスの存在は疎ましいものであった。
他人の妻を奪い取り、その代償として己の妹を嫁がせる。そんな非道なことをなす男だ、と。国王に対して無言の抗議をしているように思えたのだろう。国王たるもの、民の手本となるような振る舞いをしなければならない。そういい続けてきたセイヤヌスにとって、これは何よりの裏切りだった。先王の轍を踏んではならない。それは人として基本的なことだと。教えたセイヤヌスに、国王は手ひどい仕打ちを与えた。
二重の裏切りだった。
セイヤヌスは国王に、ルオマに失望し、自ら戦地を求めて国を出た。
ここまでは、表の話である。
しかし、実際は。
彼をシティリャに送り込んだのは、国王だった。当時まだ勢力を保っていたシラクサを攻略しろとの命令を下したのは、国王自身。死地を求めていたセイヤヌスがそれを断るはずもない。契約は成立した。
兵を集め、戦地に赴くセイヤヌスに、国王が不安を覚えたのは、一体なぜだったのだろうか。
――人望の厚い方ですな、セイヤヌス殿は。
――彼が行くとなっただけで、勝ち目のない戦だと敬遠していた兵士までもがあのように。
――彼とともに死ねるのなら本望だと。
――みな、同じ気持ちでしょう。
執政官たちの言葉だったのか。それとも。
(カルタギアとシラクサが手を組んだら? そこにセイヤヌスが加わったら?)
セイヤヌスの忠誠心は、今度のことで揺らいでいる。もしも、カルタギアから和平を持ち込まれたら。シラクサに取り込まれたら。
あの男は危険だ。
――セイヤヌスを、殺せ。
はっきりといった覚えはない。おそらく、彼に生きていてもらっては困ると。酒の席での冗談のようだった。そんなことを言ってしまったのは。だが、国王の言葉は現実となった。セイヤヌスは何者かに暗殺され、戦況はルオマにとって著しく不利になった。そして、シティリャ撤退。すべては、闇に葬られたはずだった。
二十数年のときを経て、過去の亡霊がよみがえろうとしている。
アエミリアス・セイヤヌス。彼は、ルオマに戻ってきたのだ。
「あの
ブリタニクスは、さして興味のないことのように軽く言い放った。
「国王の首、だよ」
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