【1】七つの丘の街/幻影序曲(2)

「シラクサのアンフィッサは、私たちの希望でした」

 カリナは、遠い目をした。

 アンフィッサは、そんな彼女の横顔を半信半疑で見つめる。彼女が、自分を知っていた。そのこと自体驚きであるのに。『私たちの』希望、とは。彼女の他にも、アンフィッサのことを知り、その活躍を讃えていた人々がいるのだろうか。

「シティリャの生まれで、しかも、シラクサの少女剣士で。そう、女の子なのですよね。その彼女が、たった一人で闘っている。敵国で奴隷とされながらも、自らの誇りを守って。そのことが、同じシラクサの民として、誇らしく思えたのです」

 彼女は微笑んだ。アンフィッサは、居心地が悪くなって曖昧な笑みを漏らす。

「彼女が、私たちを支えてくれていました。輝きを、見せてくれていました。誇りを、失わせずにいてくれました」

 半ば、恍惚と語るカリナ。彼女は、そして、彼女の周囲にいた人々は。アンフィッサの中に、勝手に英雄像を描いていないだろうか。たった一人で街を開拓したエリッサや、古代ヘラスの女傑達。そのようなものの姿を重ねているに違いない。

(そういうんじゃ、ないんだけどな)

 あのころの自分は、ただひたすら闘っていた。生きるために。自分の手で、明日を作るために。

 カリナの言うような、大義名分、誰かの希望の灯になろうなどという気持ちは全く持っていなかった。

 故郷のことを忘れたわけではない。奴隷であることを認めなかったわけではない。ただ、それは二の次であって、最大の優先項目は、自らの命。自らの存続であった。

「ユリウス様も、シラクサのアンフィッサはご存じでしょう?」

 話題を振られて、アンフィッサは言葉に詰まった。知っている、といえば語りすぎてぼろが出てしまう。知らないと答えれば、それもまた不審に思われる要因となる。カリナの口振りからすると、『シラクサのアンフィッサ』は、それこそルオマ中で知らぬものなど無いほどの有名人であったようだ。


 ――シラクサのアンフィッサは、死んだ。


 ブリタニクスの言葉が思い出される。確かに、それだけ有名だったとしたら。名を変えたところで、女性であれば、金髪であれば。遠からず正体を暴かれることになるだろう。ブリタニクスは、彼女を最も安全な場所に隠したのだ。

(でも)

 ブリタニクスは、なぜそこまでしてくれるのだろう。いつも疑問はそこに行き着く。奴隷達の希望の灯、そうまで言われる存在ならば、生かしておくのは危険である。本人に自覚がないとは言え、何らかの象徴にされることもあり得るのだ。

 逆に、だからこそアンフィッサを死んだことにして。希望を吹き消すつもりだったのかもしれないが。

(ブリタニクスは、そういうことをするヤツじゃねえよな)

 そう思う。彼は、そんな卑小な策を弄する人物ではない。

「ユリウス様?」

 黙り込んだアンフィッサを、カリナが不安そうに覗き込む。アンフィッサはその場を取り繕ろうとしたが、上手く言葉がでてこない。なんと言えばいいのだろう。こういうときは。すぐに切り抜けられない自分が、もどかしい。

 だが。アンフィッサの想いとは裏腹に、カリナは何かに気づいたようにふいに身を小さくする。初めてあったときと同じ。先程声をかけられたときと同じ。不安げな、機嫌を伺おうとするような、見ようによっては卑屈なまでの仕種で、アンフィッサに頭を下げた。

「すみません、ユリウス様。不愉快なことを申し上げまして」

「カリナ?」

「申し訳ありません、つい、ユリウス様をヘラスのお方と思ってしまいまして」

「えっ? あ、いや。別に」

 アンフィッサは慌ててかぶりを振った。アンフィッサが口をつぐんだわけを、カリナは誤解したようだった。

 カリナはユリウス・ルクレティウスが、ブリタニクス・ルクレティウスの縁者だということを思い出したのだろう。ブリタニクスの縁者と言うことは、ドーリアの血を引いてはいてもルオマ貴族なのである。その『ユリウス』に向かって、このような話をするなど。無礼者と思われたのだ、と。カリナは危惧したに違いないのだ。

「髪が黒いのに、この目だろ? だから、色々言われたんだ」

 こうなったら、話をあわせるしかない。そう、合わせるフリをして、逸らすしか。

「あんまり気にはしてないけどな」

 ニヤリと笑ってみせる。上手く芝居ができただろうか。アンフィッサは、内心カリナ以上に怯えつつ、平静を装い、言葉を続けた。

「どうせなら、アイオリアとの混血のほうが良かったんだけど。そっちのほうが、まだ分からないだろ? パッと見には」

「はっ、はい」

 カリナが小刻みに頷く。

「なんて言ったっけ。あの、宮廷にいる美人。あの人も、混血だろう?」

「美人? 宮廷の?」

「ほら、王様の愛人。エッピア、だっけか?」

「エッピア様?」

 心なしか、空気が緊張した。

 カリナは何事かを恐れるように、視線を泳がせる。エッピア。その名を呟く彼女は、畏怖に満ちていた。エッピアが、国王の愛妾だからか。それとも、別に何かあるのか。気にはなったが、追及するようなものでもない。アンフィッサは別段、彼女の反応を気にもとめなかったが。カリナの方はそうではなかった。

「申し訳ありません、ユリウス様。もう一つ、買い物をいいつかっていたのを思い出しました。これで失礼させていただきます」

 挨拶もそこそこに、カリナはアンフィッサのもとを去る。アンフィッサは呆気にとられて、彼女の華奢な後ろ姿を見送った。

(何なんだ? あいつ)

 女性はよく分からない。特に、アイオリアの女は。

 そんなことを考えるアンフィッサであった。



 アンフィッサが再び件の娼婦館に現れたのは、夜半を過ぎた頃であった。

 ロリア、という店の売れっ子に、『指輪を持つ男』が執心のようなのである。今夜現れるという保障はないが。見張っていても良いだろう。ここで逢えれば儲けものである。そんなことを考えていたのだが。


 ――勝手な行動はするなよ。


 ブリタニクスの台詞が、脳裏を掠めた。更に彼は、


 ――何かあったら、必ず連絡を入れろ。


 とも言っていた。しかし。

(ここで、もうちょっと見てからでも、いいよな)

 身軽な彼女である。逃げは得意だ。それに、いざとなったら。

(脱いじまえばいいんだよ)

 裸になって、娼婦に紛れれば、なんと言うことはない。

(けど、やだな)

 それは最終手段にしておこう。アンフィッサは、彼女なりの作戦を練りながら、そっと館の内部に侵入した。館、とはいえども粗末な造りである。ブリタニクスやリウィアヌスの屋敷、宮殿とは全く違う。単なる箱である。高く空にそびえた箱。その中を、布の帳で仕切っているだけなのだ。隠れる、といってもそれ相応の場所が見つかるわけでもない。彼女は仕方なく、廊下に積んである荷物の中に身を隠した。観葉植物や何に使うか分からない箱。無造作においてある絨毯など。このような薄暗がりの中では、よくよく注意してみなければ、そこにひとが隠れているなど思いもしないだろう。

 そう思うことにして。アンフィッサは絨毯の影に身を潜めた。それが間違いだと気づいたのは、そう後のことではなかった。



(カンベンしてくれよぉ)

 アンフィッサは壁にもたれたまま。重く息を吐いた。忘れていたわけではないのだが、ここは娼婦館。しかも、娼婦達の私室の前ということは。イヤでも睦言を聴かされる羽目になるのだ。薄い帳の向こうから、あやしげな物音が聞こえるのである。これではただの覗きではないか。彼女は、夕刻娼婦館の聞き込みにまわったときよりも更に、深い疲れを感じた。そんなときに。

「ロリア。旦那様が来たよ」

 年輩の女性の声がし。アンフィッサの潜む場所からほど近い部屋の帳が開けられた。中から覗くのは、若い女性。いや、アンフィッサよりは十歳ほどは年上だろうか。長い髪を結わずに垂らし、うすぎぬをしどけなく体に巻き付けている。彼女は気怠げな笑みを浮かべ、壁に手をついた。

「……」

 何事か、その朱唇が紡いだ。言葉こそは聞き取れなかったが。想像はつく。

「お通しして」

 そのような形に唇が動いたのだ。明かりを受けたロリアの端正な顔は、女神の彫像を思わせ。これが娼婦かと思えるほど、妖艶にして気高かった。

(嘘だろ?)

 アンフィッサが言葉を失ったのは、そのせいだけではない。彼女の美しさもさることながら。その、ロリアの顔立ちは。

(エッピア?)

 間違いない。国王の愛妾・エッピアであった。



 よくあることだ、と。ブリタニクスは呟いた。

 あれから。ロリアと密会をした男性の存在を確認すると、すぐさまアンフィッサは娼婦館を後にした。矢のように帰宅すれば、そこにはもうブリタニクスが帰っていて、彼は、一日の成果を平板に書き込んでいた。その最後の行に、アンフィッサが先程入手した情報が記入されることになるのだが。

「良家の娘、身分あるものの妻女が、街に立って娼婦の真似をする。そう、驚くことじゃない」

 平然と言ってのけるブリタニクスに、アンフィッサは思わず目を剥いた。

「って、なんで、そんな。別に金に困っているわけじゃないだろ?」

「金じゃない。遊びだ。淫乱女の、行きずりの火遊びだよ」

「火遊び?」

「知らなくてもいいことだ。お子さまは」

「ちぇー」

 アンフィッサは唇を尖らせる。ラトニア語に明るくないから、馬鹿にしているのだ。ブリタニクスは。そう思い。

(『火遊び』だな。あとで、辞書で引いてやる)

 密かに決心するのであった。

「で? エッピアと会っていた男。その特徴は?」

「うーん。ちょっと暗かったからよくはわからないけど。結構背が高くて。がっちりしていたような。軍人、って感じだったっけかな」

 アンフィッサは、記憶の糸をたぐり寄せる。

 ロリアことエッピア。彼女のもとを訪れた男性。あれは、かなり年輩ではなかったか。中年の男性。いや、壮年といっても良いかもしれない。少なくとも、タウリルトよりは年上で、下手をすれば、国王と同い年くらいだろう。こんなオヤジが、というのが最初に覚えた感想である。

(エッピアって、オヤジ趣味だったのか)

 と。これは以前、どこかで――同じことを考えたような気がする。しかし、どこであったのか、思い出せない。思い出せないが。

「エッピアって、いろんな場所で男といちゃついていたぜ、そういえば」

 初めて出会ったとき。アンフィッサがふとしたことで乗り込んでしまった貴人の舟。その中に、エッピアがいたのだ。しかも、男性と同衾していた。そのあとも。宮廷で、男となにやらむつまじく話し込んでいたのを目撃した覚えがある。

「そんときの男が、みんな同じヤツとは言いきれないけど。でも、なんだか引っかかるんだよな」


『……さま』


 エッピアの呼びかけを、思い出してみる。彼女は、男をなんと呼んでいたのか。アンフィッサは目を細めた。どこかで聞いた名だった。あれは、知っている名だ。

(えーと。確か)


『セイヤヌス様』


 あっ、とアンフィッサは声をあげた。

 セイヤヌス。確かに彼女はそう呼んでいた。

「ユリウス?」

 アンフィッサを促すブリタニクス。彼女は急いでその名を伝えようとして。はっと口をつぐんだ。

(セイヤヌス?)

 この名前は。


 ――アエミリアス・セイヤヌス


(って、まさか、ブリタニクスの……)

 すうっと血の気が引いた。ブリタニクスの父と言われる人物。その人も、セイヤヌスといわなかったか。

「ユリウス?」

 ブリタニクスが、不審そうにこちらを見る。アンフィッサは息を止めたまま、とっさにかぶりを振った。

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