【1】七つの丘の街/幻影序曲(1)
「どこで見ていたんだ?」
セルウィウスはひとりごちた。
酒場を出てからこちら、独り言が多くなっている。そのことに気づき、僅かに苦笑を浮かべるが。また、彼は自らの思考の中に戻っていくのだ。
先程酒場で声をかけてきた女性。カミラ、と名乗ったが。彼女は、一体どこでセルウィウスとあの医師とのやりとりを知ったのだろう。彼女の口振りでは、まるでその場にいたようだったが。あのとき、医者の小屋には他に人の気配はなかった。覗き窓も、無かったような気がする。
それでは、彼女は一体。
薄ら寒いものを感じて、彼は眉をひそめた。
自分の知らぬところで、何かが動き始めている。正直言って、気分が悪かった。全て他人の都合で動かされる人生なのか。自分の意志はどこにもないのか。それを思うと、いらだちを押さえられない。
(義姉上も。得体の知れぬ動きをしているしな)
エッピアの面影を心に描く。宮廷での唯一の味方、そう言って憚らないのは、彼女くらいなものだ。皆、国王とブリタニクスに気を遣ってか、表立ってセルウィウスを支援するものはいない。
失われた王太子。捨てられた王子。そういわれるのは、当然だった。彼に王座はまわってこない。
ブリタニクスが不慮の死を遂げぬ限り。
重大な失態を犯さぬ限り。
(失態?)
もしも。ブリタニクスが謀反に問われたら。国を裏切るような行為をしたとしたら。彼の公職は剥奪されるだろう。王太子となることはおろか、七将も罷免。生涯幽閉の身か、悪くすれば死を以て罪をあがなうこととなる。
(ばかな)
あの男がそのようなことをするはずがない。愛国心が強いかと言われれば、そうだとは答えられないが。しかし、あの男は。国を裏切るようなことは出来まい。それだけは、はっきりということができる。なぜなら。彼は、大ルクレティウスの子供なのだから。
(大ルクレティウスの?)
ぴたりと足を止める。
ルクレティウス・リシウス。ルオマの英雄。シティリャ戦役の功労者。
この国で、その名を知らぬものはいない。ルオマ市民は彼の名を尊敬をもって叫び、奴隷達は呪詛を込めて呼ぶ。その忘れ形見が、ブリタニクス。だが。
――閣下の父上は、大ルクレティウスではない。
そんな噂を耳にすることが多い。そしてそれは、宮廷では公然の秘密のようだった。
ブリタニクスの本当の父は、アエミリアス・セイヤヌス――王女ファウスティナの、婚約者であった男。もしも。もしもこの噂が本当であれば。
(まさか)
脳裏に閃く答えがあった。
突如として現れた、ブリタニクスの義弟。遠縁にあたる少年だとブリタニクスが主張している、ドーリアの血を引く少年。彼も、アエミリアスの子である可能性が高くなるのではないか。アエミリアスが、シティリャでドーリア娘との間に儲けた子供。その可能性も否定はできまい。だとしたら。
(面白いな)
ブリタニクスの足元を揺るがすもの。それは、彼に他ならない。ブリタニクスが目をかけている少年、ユリウス・ルクレティウスに。
●
捜査の手伝い。それがどのようなものであるのか。実際に携わるまで、アンフィッサはなにも知らされてはいなかった。知らされたら最後、彼女が逃げ出すと思われていたのだろう。確かに、それは彼女には不向きな作業だった。
「わぁ、かわいいーっ」
「ドーリアのコ? 青い目、綺麗ねー」
「やーん、食べちゃいたいっ」
女性達の嬌声に辟易して。アンフィッサは、よろめきながら
(てか、もーちょっと人を見る目を養ってくれよ、ねーちゃんたちっ)
ブリタニクスに依頼された作業。それは、聞き込みだった。それも単純なものではない。主に、娼婦館がその対象なのである。当然、彼女は娼婦を買うことなどできるわけが無く。地方からでてきた、『姉を捜す弟』として、彼女たちの中に入って行くわけである。
「ルオマの娼婦館で働いているって手紙が来たきり、行方不明になっちまったんだよ」
そういって、でっち上げた姉の容姿を説明し。最後にこの言葉を付け加えることを忘れない。
「俺とお揃いの指輪、これが目印。月桂樹と、薔薇が絡まった、ちょっと珍しい指輪を持っているんだけど」
こうやって、その情報網は確かだという娼婦達から、手がかりになりそうなものを聞きだそうと試みてはいるものの。なかなか思うようにはいかず、却って、娼婦達の興味を引いてしまうようである。アンフィッサの青い瞳、飾らない人柄が、彼女らに受けるらしい。アンフィッサはどこへ行っても愛玩物のようにからかわれ、まともに相手にして貰えないのだ。それもそのはず。どう考えても、彼女は子供にしか見えないのだから。
「十四歳? うっそーぉ? 十歳くらいよね、ぼく?」
そんなことを言われるのは、毎回である。これにはいい加減、イヤになってきた。
(大体、情報収集なんてのは、カミラに任せりゃいいじゃねーか)
ぼやいても、詮無いことである。彼女は、今夜の任務を果たすべく、次の娼婦館に向かった。
「ドーリア系の、女の子ねえ?」
下町の、とある娼婦館の裏口。客を送り出した娼婦をつかまえて、そこに連れ込んだアンフィッサは、いつもの如く彼女に問いを投げかけた。娼婦は、考え込むように目を細め、暫く固まっている。ここも外れか。そう思って、礼を述べて去りかけたとき。ちょっと待って、と。娼婦に呼び止められた。
「指輪。指輪している、っていったわよね?」
彼女は何か心当たりがあるのだろうか。アンフィッサは、ぎゅっとその両手を掴んだ。
「そ。指輪。ロドンと、月桂樹が絡んだような指輪!」
口から出任せを言ってみたりする。と、娼婦は、やや難しい顔をして。
「でもね。あたしが見たのは、男の人なのよ。お客さんで、うーん、ルオマの人かなあ?」
網に掛かった。アンフィッサは顔を輝かせる。
「もしかして、惚れた男にあげちまったのかも? ねーちゃん、惚れっぽかったから。で、その人、誰よ? よく、ここに来るの?」
畳みかけるように尋ねる。娼婦は勢いに気圧されてか、数歩後退した。
「え? ええ。多分。ロリアにご執心のようだから、また今夜も来るかもしれないけど」
「名前は?」
「それは知らないわ。知っていても言えない。それが礼儀よ。あたしたちの」
「そっか。悪りぃ」
素直に謝ると、娼婦は笑った。いいのよ、と、アンフィッサの肩を軽く叩く。そのときに、おや、というような顔をする。アンフィッサは、怪訝に思って首を傾けた。なに? と問うように彼女を見上げる。
「あなた、男の子かと思ったら。女の子だったのね」
「えっ?」
思わず身を固くする。気づかれた? 体に触れられただけで? アンフィッサは、とっさにかぶりを振った。違うよ、と必死に否定する。
「バカね。男の子とは体のつくりが違うのよ。触れば分かるわ。隠しても」
娼婦の言葉に、アンフィッサは息を呑む。今まで一度として、ばれたことはなかったのに。あれほど触りまくっているリウィアヌスですら、アンフィッサが少女だとはつゆほどにも思わなかっただろう。そう思ってから。
ひとつ、息をついた。
分かっていたのだろうか、リウィアヌスは。アンフィッサが、女だということを。
そんなはずはない、とは思っても。それを完全に否定することはできない。
「……」
黙り込んだアンフィッサを、娼婦が困ったように見おろしている。まずいことを言ってしまったのか、と。困惑気味の表情をしていた。そこにぎこちなく笑顔を向けて、アンフィッサは簡単に礼を述べた。そのまま、逃げるように踵を返す。その背に、娼婦が声をかける。
「言わないから、大丈夫よ」
アンフィッサが探っていたこと、彼女が少女であったこと。その両方を指しているのだろう。アンフィッサは、心の中でもう一度。娼婦に向かって頭を下げた。
走り続けたせいか、胸が苦しい。アンフィッサは、路地裏に入ると、壁に背を預けた。どくどくと跳ねる心臓を、掌で押さえる。そのときに、ふっと違和感を覚えた。布越しに、掌に柔らかな感触がある。
(嘘だ)
試しに、右側にも触れてみる。そちらも同じく。ふんわりとした弾力を持って、掌を押し返した。
確実に成長しているのだ、体が。このまま行くと、彼女は完全に女性の体になってしまう。いや、元々女性なのでそれは当たり前のことなのだが。
アンフィッサは、少年でなければならないのだ。女性になってはいけない。
女性になったら、ばれてしまう。シラクサのアンフィッサだということが。
それに。
少年でなくなったら。
(ブリタニクス)
彼の側には居られない。
そう思った瞬間、ズキリと胸が痛んだ。喪失感。ドルシラのことを考えたときに感じたものと同じ。鈍い痛みだった。
(バカだよ、俺)
いずれは、ブリタニクスのもとを離れなくてはならないのだ。元々、彼とは敵同士である。ともにあり続けたいと願うほうが、おかしいのだ。頭では分かっている。それでも、感情は。理性では御せなかった。ブリタニクスとともにいるときに感じる、安らぎに似た感覚。言葉にせずとも伝わる、微妙な呼吸。それを心地よいと感じているから。だから、怖いのだ。ブリタニクスと離れることが。一人で、放り出されることが。
いつの間にか、子供に戻っていたのだ。群れることを嫌っていたはずなのに。ブリタニクスや、ファウスティナ、リウィアヌス。彼らに出会って。ぬくもりを知って。それに甘えていたいと思う、子供に。
(こりゃ、ちっと気合い入れないとな)
苦笑して。ぱん、と拳を掌に叩きつける。なるようになれ。そう腹をくくり、彼女は吹っ切るように壁から離れた。その視界の隅を、見覚えのある人物が掠めていく。アンフィッサは、一瞬目を疑い、幾度も目をこすった。路地から飛び出し、まじまじとその人物の後ろ姿を見て。
「カリナ?」
声に出して、彼女の名を呼んだ。
カリナ。タウリルトに仕える奴隷。ブリタニクスによく似た容姿を持つ、アイオリアの少女。その彼女が、何故このようなところにいるのだろう。アンフィッサは不思議に思いつつ、そのあとを追いかけようとした。が。
「ユリウス、さま?」
彼女のほうが、気づいたようだった。視線を感じたのだろう。振り返った先に意外な人物を認めたせいか、その瞳は大きく見開かれていた。
「珍しいところで逢うよな」
暫く並んで歩いたあと。沈黙を破るようにアンフィッサが口を切った。カリナは、「ええ」と小さく頷く。
「買い物を、頼まれました」
見れば、彼女の手には小瓶が握られている。中でとろりと揺れるのは、おそらく香油。伊達男に相応しい、品である。
(こういうのをべったり付けて、ブリタニクスに迫るのか。――おえっ)
想像すると、気分が悪くなる。露骨に顔をしかめたアンフィッサに、カリナはびくりと肩を震わせた。
「ユリウス様、わたし、何か失礼を?」
初めて会ったときと同じく、おどおどとした声で問いかける。アンフィッサは、慌ててかぶりを振った。そういうのではなくて、といいかけて。
「それよか。よく、俺の名前知ってたな」
「えっ? ああ」
彼女は、ほっとしたように表情を和ませる。が、アンフィッサの青い双眸を真正面から覗き込んだことに気づいたのか。ぽっ、と頬を染めて目を伏せた。
「ユリウス様、有名ですから」
「そうかなぁ?」
こくり、とカリナが頷いた。そこで、会話がとぎれる。カリナは、顔を背けたままこちらを見ようとはしなかった。元々アイオリアの出身である。アイオリアといえば、スファルティア以上に婦女子に対する躾けは厳しい。どちらかといえば、女性蔑視の傾向にある。婦女子は常に男性の管理下に置かれ、婚礼前に異性と道を歩くだけでも後ろ指をさされるものだ。それが、良家の子女であればあるほど。奴隷である付き添いの男性と肩を並べたというだけで、ふしだらの烙印を押されるのである。
カリナも奴隷とされる前は、かなり裕福な家の娘であったのだろう。だから、ユリウスとともに道を行くことを恥じるのかもしれない。そんなことを考えて、アンフィッサは、思い出したように。
「あのさ。カリナって、アクラガスの生まれなのか?」
「えっ?」
これには、過剰な反応が返ってきた。カリナは弾かれたように顔を上げ、驚きも隠さずにアンフィッサを見つめる。その姿に、アンフィッサは先程の己の姿を重ねた。娼婦に少女だと指摘されたときの、自分の姿を。
「なぜ、それを? 訛りが、ありますか?」
「いや。なんとなく。今、あんたくらいの歳で、ルオマで奴隷にされている
本当に。ただ、そう思っただけである。その言葉を聞いて、カリナは肩を落とした。憑き物が落ちたように、その顔に穏やかさが戻る。
「アクラガスの記憶は、ありません。私は、シラクサで育ちましたから。母はアクラガスの出身ですが、父は、シラクサなんですよ。なので、私は」
今度は、アンフィッサが息を呑む番だった。
シラクサ。その名をここで聞くことになるとは。
「シラクサの、カリナです。そう、あの剣奴のアンフィッサと同じ。シラクサです」
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