【1】七つの丘の街/過去からの使者(3)

「つれないな」

 彼は、密やかに笑った。皮肉めいたその笑いは、昔と何ら変わることはない。むしろ、あのころよりも幼く見える。ファウスティナは、一瞬、過去に引き戻されたような錯覚を覚えた。

「なぜ、ここに?」

 ファウスティナの言葉に、アエミリアスは肩をすくめる。もう一度、「つれないな」と呟いて。

「いたら、いけないのか?」

 穏やかに彼女を見つめる。その瞳が、あまりにも清冽で。ファウスティナは、思わず視線を逸らす。これ以上、彼を見つめることはできない。見つめていると、気が狂ってしまう。

 失ったと信じていたものが、また目の前に現れたというのに。喜びはない。あるのは、困惑と恐怖だけだった。

「あなたは、亡くなられたはずです。シティリャで」

「でも、今ここにいる」

「生きていらしたのなら。なぜ、今頃になって」

「もう少し、早いほうが良かったか?」

 アエミリアスはゆっくりとファウスティナに近づいてきた。ファウスティナは、反射的に後ずさる。その腕を、彼が捉えた。しっかりと手首を掴み、彼女の体を引き寄せる。翡翠の瞳が、間近に迫った。その中に、自分の姿が映っているのを見て。ファウスティナは、小さく悲鳴を上げた。

「ひとを、呼びますよ」

「呼んで困るのは、御身の方だろう? 違うか?」

 顔が近づく。ファウスティナは、必死に目を背けた。

「やめてください。あなたは、そんな方ではありませんでした」

 かぶりを振るファウスティナ。アエミリアスは、口元を歪める。

「人は、変わる。御身を奪われた日から、私は変わった。――ファウスティナ王女殿下」

「……」

 思わず顔を上げた瞬間、強引に唇を奪われた。逃げようと身を捩るが、ファウスティナの抵抗など、アエミリアスにとっては物の数ではない。あっさり封じ込め、強くその体を抱きしめる。ファウスティナは、彼を引き離そうともがき、無意識のうちに手に触れたものを掴んだ。

 剣の、束である。

 鋭い音がして、アエミリアスの剣が鞘走った。

「……!」

 軍人としての本能が、殺気を感じ取ったのだろう。アエミリアスは瞬時に飛び退いた。その胸が浅く切り裂かれる。ファウスティナは、彼の腰から抜き取った剣を構え、その切っ先を彼に向けていた。

「わたくしとて、軍人の妻です」

 毅然とした声で言い放つ。アエミリアスは信じがたいものを見たように、目を見開いた。ファウスティナ、と掠れた声でかつての婚約者に呼びかける。

「いったい、なにを」

「これ以上、無礼を働くのならば」

「自害、するか?」

 アエミリアスは、胸を押さえて彼女を見やる。いいえ、とファウスティナはかぶりを振った。

「あなたを、斬ります」

 それは、はったりではない。ファウスティナは、本気だった。本気でアエミリアスを斬るつもりだった。剣の腕からいけば、ファウスティナのそれは、アエミリアスの比ではない。それでも。命を賭して闘うつもりだった。

「私は軍人の、七将の妻です」

 彼女はもう一度告げる。

「そして。七将の、母です」

 その言葉に、アエミリアスは目を細める。

「母、か」

 そう、彼は呟いた。

「良い男に、育ったな」

「え?」

 刹那のとまどい――その彼女の隙をついて、アエミリアスは、ファウスティナの手から愛剣を奪い返した。ハッと身構える彼女の指に唇を押しつけ、彼は小さく笑う。

「私は、軍人だ」

 自嘲めいたことばとともに、ひらりと身を翻す。彼は一度だけこちらを振り返り、不敵な眼差しを彼女に向けた。ファウスティナは、気丈にそれをにらみ返す。瞬間、二人の間に剣呑な空気が流れる。

 だが、アエミリアスは何も言わず。その場を去った。後に残ったファウスティナは、暫く呆然と佇んでいたが。やがて、がっくりと膝をつく。

(アエミリアス)

 かつての愛しき人の名を呼んで、彼女は唇を噛みしめた。ふと、視線を上げ。傍らの衣装箱に目を向ける。その中に手を入れ、件の腕輪を取りだした。アエミリアスが婚約の印として彼女に送った腕輪。婚姻の女神の名と、彼女の名が彫られた腕輪。それを暫し眺めたのち。ファウスティナはゆっくりと立ち上がった。


 そう。

 婚約者の面影は、常に胸の中にあった。



 夕食の席には、重苦しい沈黙があった。

 常は和やかに談笑をしながら食事をするのだが。今夜に限っては、誰も口をきこうとはしない。ひどく気まずい空気が流れている。アンフィッサも彼女らしくなく、黙々と食事を口に運んでいた。普段はやかましいくらいに話をする彼女が、おとなしくしているなど。何かあったのではないか、と気遣うはずのファウスティナも心ここにあらずといった風である。そして、ブリタニクスは。何事かを考えているのか。終始昏い眼差しを母に向けたまま、食事に手をつけようともしない。

 そんな三人を、奴隷娘が不審そうに見つめている。

「ああ、そうでした。シティリャのいい葡萄酒が手に入ったのだわ」

 思い出したようにファウスティナが呟く。奴隷娘が慌てて、彼ら親子の前に熱くした葡萄酒を運んできた。ブリタニクスはそれにチラリと視線を走らせただけで、何も言わない。アンフィッサは、鼻孔をくすぐる酒の匂いに目を細めて。

「ほんと、うまそう。この匂い」

 ようやっと、口を開いた。

「熱いうちにお飲みなさい。体が温まりますよ」

 言って、ファウスティナが微笑んだ。アンフィッサは、その微笑が強張っていることに、そのときになって初めて気づいた。どうしたのだろう、と首を傾げると。ファウスティナはその視線を避けるように目をそらした。





「おばさん、何かへんだったよな」

 食後。部屋に戻ってくつろいでいるブリタニクスに、アンフィッサは声をかけた。ブリタニクスはそうだな、と小さく頷き。今朝アンフィッサに押しつけた平板に目を通す。そこに新たになにやら文字を書き加えながら。

「で、おまえは? ちゃんとこれを読んだのか?」

「あ」

 アンフィッサは、顔をしかめた。リウィアヌスの家に行き、ことの次第を聞いてから帰宅したのち。平板を読むことは読んだ。だが、半ばまで目を通したときに、またもや意味の分からない単語に遭遇したのである。辞書で調べても、その言葉はのっていなかった。仕方なくそれをとばして読み進めようとしたのだが。

 意味が分からなくなった。一つの単語を抜かしただけで、それ以降の意味が通らなくなったのだ。

(で、途中でやめちまったんだよなあ)

 剣を背負って中庭に出てしまったのだ。

「怠けたな」

 軽く睨み付けるブリタニクスに、アンフィッサは苦笑を向けた。その辺りはご愛敬、と思ってくれればありがたいのだが。

(ダメなわけね)

 いつになく厳しいブリタニクスの面持ちに、アンフィッサは深く息をついた。

「大体事件のあらましが解っていれば、文句は言わないけどな。で、どこまで読んだ?」

「その、変な字のとこまで。えーと、ここんとこ軍人の、特に近衛士官の失踪が続いて、ついでに下町で殺しが何件かあって。何かの割り符のような指輪が出回っている、ってとこかなあ?」

「ふうん」

 平板の三分の二は、読んでいることになる。ブリタニクスはそれで一応納得したらしい。そこまで解れば充分か、と微かに口元を歪めた。

「そろそろ、手伝ってもらうことになるな」

「手伝うって? なにを?」

「捜査」

「え?」

「今、俺が調査していること。今回の件は、どこに間諜がいるかわからないからな。あまり人の手は借りたくないんだ」

「って。俺だって他人だぜ?」

「他のヤツらよりは、信用できる」

 信用。アンフィッサは、まじまじと彼を見上げた。ルオマ七将たる彼が、敵国の小娘を信用するというのか。しかも、彼女の故郷を滅ぼしたのは、ブリタニクスの父である。自分を敵と狙ってもおかしくない相手を信用する、など。軍人にあるまじき行為ではないのだろうか。

「俺が裏切らないと思ってるわけ?」

「おまえは裏切らないよ。ユリウス」

 ぱん、と肩を叩かれる。

「そんなこと言ってると、痛い目見るかもよ?」

「さあ?」

 机に頬杖をついたまま、ブリタニクスはこちらに目を向ける。翡翠の瞳の中で、蝋燭の炎が瞬いた。

「明日から、暫く歩き回ってもらうことになる。覚悟しておけよ、ユリウス」



 ルオマがほしくはないか、と。あの医師は言った。

 セルウィウスはその言葉を反芻する。ほしくないと言えば嘘になる。常に自分がルオマの正当なる後継者だと思っているのだ。それを証明するためには、ルオマの王冠を手にする必要がある。父の子だと、証明する必要がある。

 そして。

(ブリタニクスよりも上だと言うことを)

 人々に解らせる必要があるのだ。

 しかし、それほど王座に執着していない自分もまた存在する。王座についたからと言って、何が変わるわけでもない。ひとに認められるかと言えば、そうでもないだろう。人望の点から行けば、自分は明らかにブリタニクスを、従弟を下回っている。政治家としての評価も、剣士としての評価も、ブリタニクスの方が上であった。それを覆すためには、ただ王座を手に入れるだけではいけない。

 自分の力で、のし上がる必要なある。


 ――ご立派なかただ。


 申し出を断られた医師は、乾いた笑みを浮かべたが。別段不愉快そうな顔はしなかった。むしろ、それを当然と思ったようである。


 ――そこだけは、父上に似ずに正解でしたな。いや、お顔の方も母上に似ていらして。よかったですな。


 自分の母を知っているのだろうか。そんな男の口振りに、セルウィウスは不快感を覚えた。近衛の将校の妻に迎えられたとはいえ、元の身分は解放奴隷。その身を恥じて、公の場所には一切顔を見せようとはしない母。父に認知されていないセルウィウスにとって、唯一の身内である彼女は、極端な人嫌いであった。その彼女を知っているということは。

『下町の医者、というわけではないな?』

 用心深く尋ねるセルウィウスに、医師は肩をすくめて。

『知ったところで、何の得にもならないことです。失われた王太子殿下』

 からかいともあざけりともつかぬ台詞を投げかけた。


 酒場の喧噪の中で、そんなやりとりを思い出していると。

 傍らに、ふわりと誰かが腰を下ろした。甘い南国の香りが鼻をくすぐる。また、ズミュルナのような尻軽女だろうか。それとも、客を求める娼婦だろうか。不快な気分を隠そうともせず、すくい上げるように相手を睨み付けると。そこには、艶やかに笑う女がいた。薄い、茶に近い黒髪。淡い翡翠の瞳。美形と言われれば、頷いてしまうだろう。あか抜けた容姿の女性である。

「おまえは?」

 問いに答えはなかった。ただ、彼女は首を傾けて杯を上げる。

「あんた、思ったよりも骨があるんだね。顔ばっかりの優男かと思ってたけど。見直したよ」

 杯の端を、セルウィウスのそれに押しつける。

「断るついでに、そろそろ縁を切った方がいいんじゃないかい? 義理の姉さんとはさ」

「どういうことだ?」

「そういうことだよ。このままじゃあんた、あの姐さんに踊らされることになるよ」

 分からないことを言う。セルウィウスはムッとして席を立った。こういう手合いには関わらない方がよい。くるりときびすを返すその背に、彼女の声が投げつけられた。

「あたしは、カミラ。覚えときな、王太子さん」


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