【1】七つの丘の街/過去からの使者(2)

「ちょっと出かけてくる。すぐ戻るから」

 言い置いて、アンフィッサはブリタニクスの屋敷を出た。あわてふためく彼女の様子に、ファウスティナは面食らったようだったが。すぐに微笑を取り戻し、穏やかに彼女を送り出した。

 アンフィッサがどこへ行くのか。その行き先も問わないで。

 問われても構わないと思った。やましい場所ではない。アンフィッサの行き先、それは、ロスキウス家だったのだから。

「ユリウス? なんだ、何かあったのか?」

 案内も乞わず、血相を変えて飛び込んできた義理の従弟を、リウィアヌスはぎょっとしたように見つめた。彼は、これから出仕するところだったのだろうか。正絹の短衣に、青の長衣を纏い、七官の正装をしていた。だから、いきなり玄関から飛び込んだアンフィッサと鉢合わせする格好になっていたのだが。

「リウィアヌス、出かけんの?」

 落胆の色を隠さぬアンフィッサに、彼は「すまんな」と苦笑を向けた。

「今日はちょっと野暮用でな。おまえと遊んでやる暇はないんだよ。帰ってきて時間があったら、軽く飲もう……」

「すぐ終わる!」

 彼の台詞を、みなまで言わせなかった。アンフィッサは彼の長衣を掴み、背伸びをするようにしてその翡翠の瞳を覗き込む。これにはさすがのリウィアヌスも気圧されたようだ。僅かに身を反らせるようにして、彼女の視線を受け止める。アンフィッサは息を整え、一瞬辺りを見回した。そして誰もいないことを確かめてから。

「教えてくれ。アエミリアス・セイヤヌスって、誰なんだ?」

 瞬間、リウィアヌスの体が強張ったような気がした。彼は目を細め、アンフィッサの青瞳を見返す。その名をどこで聞いた、と逆に尋ねられた。同時に強く肩を掴まれる。咎めだてるように、その手には徐々に力が込められていった。

「ブリタニクスと、墓地」

 アンフィッサは痛みに顔を歪める。

「誰なんだよ。生きてちゃ都合の悪いヤツなのか? 墓まで作ってあって」

「……」

 リウィアヌスは押し黙った。何事かを考える風に、目を細める。そのまま、表の方に顎をしゃくった。一緒に来い、と目で指示をする。アンフィッサはそれに従った。





「別に、隠すほどのことじゃないんだけどな」

 馬を並べて、二人は公道を進んだ。ロスキウス家から宮廷までは、馬を飛ばせばさほどかかりはしないが。こうしてゆるゆると歩んでいけば、ゆうに半時はかかってしまう。それを承知で、リウィアヌスはわざと歩度をゆるめている。

「アエミリアスは、ルオマ七将の一人だった。シティリャの総督も兼ねていたな」

 今から二十数年前。ルオマがシティリャに足がかりを得た頃だ。ドーリア人の植民地・シラクサ、アイオリアの植民地・アクラガス。その二つを攻める砦の主として、アエミリアス・セイヤヌスはシティリャに派遣された。全権を任されたとはいえ、まだ完全にシティリャに勢力を伸ばしていない頃である。見ようによれば、ていのいい左遷だった。

「でも、それは彼が望んだことだった。死に場所を、探していたようだからな」

「死に場所?」

 剣呑な話である。将軍が、勝利ではなく死に場所を求めていたというのか。端から負け戦を仕掛けるつもりだったのか。そういえば、ちょうどそのころ。ルオマとシラクサの小競り合いがあった。勇猛なドーリアの抵抗に、ルオマはあえなく敗退し、暫くはなりを潜めていたと言うが。それは、指揮官を失ったからなのか。

 幼い頃、父から聞いた話を思い出す。シラクサは、一度はルオマを退けたのだ。

「二十二、三年前のことだ。アエミリアスはその時に戦死したと言われている。言われている、ってのは、まあ、死体が見つからなかったってこともあるけどな。あの状態じゃ、生きている方が不思議だっていうくらい、本陣はやられていたんだと」

 指揮官と、その側近。全てが炎に包まれ、他の部隊が駆けつけたときにはもう跡形もなく焼け落ちていたという。ルオマ本国には、将軍死亡の報が届けられた。それを受けて一時休戦が言い渡されたのである。

「で、その人っていったいブリタニクスのなんなのよ? こないだブリタニクスの親父さんの墓参りに行ったとき、やけにおばさんが深刻そうな顔して――その人の墓の前で祈ってたけど」

 その時のファウスティナは、慈母神ではなかった。一人のか弱き乙女のような、儚さと脆さを併せ持った、生身の女性だった。あの、ファウスティナの姿を思い出すたびに、アンフィッサは胸が締め付けられるような気がする。

「アエミリアス・セイヤヌスか。彼は、叔母上の婚約者だった」

「婚約者?」

 どういうことなのだ。婚約者がいるのに、ファウスティナは、ブリタニクスの父・ルクレティウスに輿入れしたというのか。目を剥く彼女に、リウィアヌスは疲れたような笑みを向ける。

 いろいろあってな、と。

「でも、いきなりどうしたんだ。なんで、そんなに彼のことが気になるんだ?」

 今度は逆にリウィアヌスが質問をする番だった。アンフィッサは、答えにつまったが。じっと見つめられると決まりが悪い。目を逸らそうとすると、肩を掴まれた。そのまま馬ごと体を引き寄せられる。

「ユリウス?」

 リウィアヌスには、隠しておけないだろう。アンフィッサは渋々口を開いた。

「あのさ」



 ブリタニクスに続いて、アンフィッサの様子もおかしい。これにはさすがに、ファウスティナも疑念を覚えた。あの二人は、何かを隠している。特に根拠はない。直感的にそう思った。

 年頃の青年と少女である。それなりに、親に対する隠し事もあっておかしくない時期だ。それは十分理解しているつもりであった。特に、アンフィッサは、血の繋がりは皆無である。ブリタニクスと性格的に共通するものがあるとはいえ、ファウスティナとは赤の他人だ。実の息子であるブリタニクスのように、以心伝心というものは正直言って、ない。

(ユリウスも思春期だから)

 そろそろ、体の方も少女から娘へと変化を遂げる時期である。いくら女性らしくないとはいえ、いつまでもブリタニクスと同じ部屋においておくわけにはいかない。そのこともファウスティナの心配の種だった。

 あの二人に限って、過ちは犯すまい。

 ブリタニクスも男だが、そこまで節操無しではないだろう。彼とて、親の決めたこととはいえ、婚約者のいる身。婚姻の前に別の娘に手を出すような、分別のない若者だとは思いたくもない。

 アンフィッサはアンフィッサで、あのような性格と容姿である。彼女からブリタニクスを誘うことはないだろう。と、そうは思ってみるものの。十六歳の娘に、剣と武術、詩の暗唱やルオマ史の学習は酷ではないのかと時折考えることもある。たまには少女らしく裾の長い服を着て、着飾って街を歩いて。買い物や芝居を楽しんでもいいのかもしれない。

(そうね)

 彼女が戻ってきたら。芝居にでも連れていこう。こっそりと、少女の姿をさせて。

 アンフィッサも美少女というわけではないが、器量は悪い方ではない。むしろ、中性的な魅力を持った顔立ちをしている。化粧次第では、かなり見栄えもするだろう。

 ファウスティナは、いつになくうきうきと化粧道具をいじり始めた。

「奥方様。それはわたくしが」

 奴隷が慌てて駆け寄るのを制して、ファウスティナはにこりと笑う。

「たまには自分で色々やってみたいのです。あなたも今日は、ゆっくりとお休みなさい」

 でも、とまだ何かを言い募ろうとする彼女を部屋から追い出しておいて、ファウスティナはアンフィッサに合わせるための衣装を整え始めた。衣装箱から彼女の青い瞳に似合いそうな、青い下衣を取りだし、装飾品もそれに合わせて揃え始める。まるで、恋する人と会うときのように、彼女は幸福そうな面持ちで支度を続けた。

 と。

「あら」

 化粧棚のなかに、箱が一つ。封じられたように置いてある。彼女はそこに目を留め、一瞬息を止めた。知らず、周囲を確認してそれに手を伸ばす。蓋を開けるとなかから金色の腕輪と指輪が現れた。表面には、少し変わった模様が施してある。

 彼女は腕輪を手に取った。これは先日、こちらに保管したものである。

「……」

 彼女はそれを一瞥すると、箱に戻した。

(なぜ、あのとき)

 置いてきてしまわなかったのだろう。全ての思い出とともに。

 呟きは、声になることはなく。唇の上で砕けて散った。


 まだ、自分は彼を想っているのだろうか。

 まだ、自分は兄を恨んでいるのだろうか。


 そんな気持ちが残っているから。これらの品を手放せないのだろう。いまだに、思い出を引きずっているから。

 ファウスティナは苦笑して、箱を衣装の奥に押し込めた。その背後で、カタリ、と小さな音がする。奴隷が戻ってきたのだろうか。ファウスティナは何気なくそちらを振り返り、息を呑んだ。

「……?」

 声が出なかった。

 彼女の手から、布が力無く床にこぼれ落ちる。ファウスティナは驚愕に目を見開き、その人物を見つめた。

「久しいな」

 彼は窓に手を掛け、じっとこちらを見ていた。口元には笑みさえ浮かべている。

「もう、忘れたわけではあるまい?」

 ファウスティナは、かぶりを振った。

 自分は、夢を見ているのだろうか。いるはずがない。この場に、かつての婚約者が存在するわけがない。なぜなら彼は、遠きシティリャの地で無惨に果てたのだから。夫・ルクレティウス・リシウスのように。

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