【1】七つの丘の街/過去からの使者(1)
あの日からだった。ブリタニクスの様子がどことなくおかしくなったのは。
彼はあまり感情を表に出す方ではないと思っていた。事実、そうであり今もそれは変わらない。一見して表情豊かに見えるのだが、それは作られた顔だった。本当の彼の感情。それは、彼の心奥深くに沈められていて――誰も、分からないのかもしれない。
母であるファウスティナすらも、息子の心中をはかりかねていた。異変には気づくものの、その理由と対処法が解らなくてはどうすることもできない。だが、彼女は平素と同じ。慈母神の包容力で息子を包んでいる。
「ブリタニクスも、そういった年頃なのでしょう」
ブリタニクスのふさぎ込んでいるわけ。それを知らぬ夫人は、そういって穏やかに笑った。
こんな笑顔が、心を和ませるのかもしれない。
アエミリアス・セイヤヌスのことはファウスティナには言うな、とブリタニクスから固く口止めされている。元々言う気はなかったが。もし、その名を口にしてしまったら。ブリタニクスとこの慈母神の絆は崩れ去ってしまう。そんな気がした。
「最近仕事も忙しいからね。ほら、なんだかよく解らない殺人事件とか起こっているし」
アンフィッサが言うと、どうしてもわざとらしくなってしまう。こういうとき、正直になんでも顔に出してしまう自分が恨めしくなる。だが、却ってその辺りが幸いするのだ。アンフィッサに気を遣わせまいとして、ファウスティナも極力息子の変化には触れないようにしている。
そうして、表面上はうまくいっているはずだった。
表面上は。
「ユリウス」
朝食のあと。普段ならこれから詩の暗唱の時間だというのに、ブリタニクスは手早く外出の用意をしていた。平服のままということは、公式の場への訪問ではないのだろう。ごく私的な用件。アンフィッサは直感的にそう思った。
「出かけてくる。戻るのは、夜になりそうだから」
母を頼む、その言葉が裏に隠されているのは、いつものことだ。
「俺はまた、留守番なわけ」
半ばふてくされるアンフィッサに、ブリタニクスは苦笑を漏らす。しょうがない子だ、と言わんばかりに溜息をついてから。
「そのうちに、いやってほど手伝ってもらうことになるさ。それまで、ゆっくり休んでいろ」
「そのうち? そのうちって、いつよ?」
「近いうちだ。それまでに、ああ、ラトニア語を読めるようになっていた方がいいな」
彼は言って、平板を幾枚か取りだした。どこで仕入れてきたのだろう。ルオマ文字が二十六、並べられていて、そこに更に色々な絵が描いてある。これを見て、ルオマの子供は文字を習うのだ。
ルオマ文字はヘラス文字に比べて単純で読みやすい。単語の変化もそれほど複雑でなく、何とか覚えようとすれば覚えられる文字だ。これも、征服を繰り返してきた民族独特のもので、より異文化に受け入れられやすいように、単純な構造にしたのだとブリタニクスはいう。
もっとも、ルオマの上流社会では、征服されたはずのヘラスの言葉が当たり前のように使われているのだが。だから、アンフィッサはそれほど宮廷での会話には困らなかった。幼い頃に嗜みとして『正しいヘラス語』を習っていたのである。幾分あやしいところもあるものの、間違った言葉はそうそう使っていないはずだった。
「解らない言葉があったら、辞書を引いてみろ。大体読めるようになったら、今回の事件のこと。目を通しておけよ」
最後にブリタニクスが渡した平板。それは、ティウェレに近衛士官の死体が上がったあの事件から、先日の指輪の事件まで、彼が簡潔にまとめた資料だった。おそらく、アンフィッサにも解るように簡単な単語を使い、平易な言い回しに書き直したのだろう。
(親切なとこ、あるじゃん)
彼女はそれを受け取り、卓上に置いた。そのとき。
その事件の報告書。ふと、そこに見覚えのある単語を見つけ、アンフィッサは動きを止めた。
「あれ?」
「どうした、ユリウス?」
部屋を出ていこうとしていたブリタニクスが、怪訝そうにこちらを振り返る。アンフィッサは、とある一文を指さして、ブリタニクスを見上げた。
「これ。この字、なんて読むんだ?」
覗き込んだブリタニクスが、息を呑んだ。いや、それはアンフィッサの気のせいだったのかもしれない。彼は何かいやなものでも見たようにそこから目をそらした。
「それが、どうしたんだ?」
いつになく不機嫌な声である。
「別に。気になったから」
そんだけ、と言うアンフィッサに、ブリタニクスは鋭い目を向ける。
「気になるんなら、自分で調べてみろ。辞書は、持っているだろ?」
言い残して、彼は部屋をあとにした。残されたアンフィッサは、釈然としない。教えてくれたっていいのに、と頬を膨らませながら辞書を引きだしてきた。辞書、とはいえ平板にぎっしりと書き込まれた文字の羅列である。項目ごとにわけられてはいるものの、必要な文字を探し出すのは大変だった。なにしろ、平板は木の板である。半端ではなく重いのだ。それを一枚一枚繰って探すとなると、これはもう一苦労だった。
(気になる字探すのに、これなんだからなあ。効率悪いっての)
ぼやきつつ、何とかその周辺の文字を解読する。
「確認。……生存? ……の生存を確認」
肝心の部分が、解らない。その一文は、削り痕がまだ新しい。最近付け加えられたものだろう。そいうことは。
「アエミリアス・セイヤヌス?」
彼しか考えられない。
と言うことは、この文字をアエミリアス・セイヤヌスと読むのだろうか。
(……って、まさか)
この文字を見た場所。その光景が思い出される。ルオマ郊外の共同墓地。墓石に刻まれた名前。ファウスティナが、憂いを湛えた目で見下ろし、祈りを捧げた場所。そこに刻まれていた、名前。
「おばさんが? なんで?」
ファウスティナも、今回の事件に関わっているのだろうか。アンフィッサは、平板を抱きしめた。
ブリタニクスの様子がおかしいのは、このことが関係しているのか。
不安が押し寄せてくる。
(どうなってんだよ。何が起こってるんだよ、ブリタニクス)
心の中で叫んでも。答えは返っては来ない。
●
ルオマの下町。その裏通り。飾り職人の家を、一人の青年が訪れた。ブリタニクスである。先日発注した指輪を受け取る、その名目での訪問だったのだが。
「いや、ひどいことになったねえ」
「全く。よりによって、ここまでするとはねえ」
「人間のすることじゃないよねえ」
その店の前に出来ていた人だかり。それを目にしたせつな。彼の背に戦慄が走った。ブリタニクスは慎重に人混みの中に身を滑り込ませる。刺客の気配をさぐりつつ、店の前へと躍り出た。
と、そこには。
「う……?」
さすがの彼も口元を押さえた。
店の前。看板の上辺りにぶらんと一つ。肉塊がぶら下がっている。それがもとは人間であったと示すものは、僅かにこびりついた髪の毛と、肉に付着する衣服の切れ端からだった。切り刻まれて、焼かれたのだ。人相すら解らなくなるように。こみあげる吐き気を堪えて、彼が視線を転じると。路上には似たような物体が五つほど並べられていた。
「殺した上に火をかけるなんてね」
「残酷だよ」
ざわざわと野次馬達が騒ぎはじめる。ブリタニクスは、身をかがめて店の中を覗き込んだ。そこは、火事のあとも生々しく、黒くすすけている。これでは中にあったものは全て灰になっているだろう。指輪も、下絵も。その他の重要な資料も。そう、証人ですら。
(遅かったか)
彼は舌を打った。あの日、あの男に出会ったときに、即対処していたら。この事態は避けることが出来たかもしれない。そうすれば、無駄に人の命を失うこともなかったはずだ。だが、あの時は確証がなかった。あれが、その男本人であるかさえ判断しかねたのだ。
ブリタニクスに差し向けられた刺客を、いとも簡単に始末してしまった男。それが誰なのか。予想はしていたものの。
アエミリアス・セイヤヌス。彼は、十年以上前に死亡したことになっていたのだから。
(だが)
セイヤヌスは生きていた。カミラの情報は確かである。間違っていたことは一度もない。そして、今回の事件にセイヤヌスが絡んでいるとしたら、彼の目的はただ一つ。
ブリタニクスは拳を固めた。それだけは、させない。許さない。どんなことがあっても。今更、過去の亡霊が日の当たる場所に出てきてなんになる。生きているものを苦しめるだけだというのに、それが解らないのか。
ブリタニクスは、その店をあとにした。つついた薮からは、蛇が出てきた。それも、予想を超える大物だった。それを押さえることができるのか。自信はなかった。だが、押さえなければならない。
セイヤヌスの生存の噂が、ルオマ中に広まる前に。
●
その小屋は、複雑に入り組んだ路地の一番奥にあった。
「診療所はどこだ?」
そう聞くと、胡散臭そうに顔を歪めながら、それでも人々はその場所を教えてくれた。医者と言っても、あやしげなまじないで病気を治すものとは違う。もう少し建設的な方法を使って、傷病の手当てにあたる人物だと、露天商は言っていた。それがどこまで信用できるものなのか。いな、セルウィウスは、端からそんなことには関心はなかった。
「入るぞ」
半分破れかけた
「お待ちしておりました」
慇懃な答えが返ってくる。セルウィウスは一瞬ぎょっとして足を止めた。待っていた、とは。一体どういう意味なのだろう。
「随分と遅いお越しですね。もう少し早くいらっしゃるのかと思っていました」
薬の調剤をしているのだろう。男はこちらに背を向けたまま、苦笑らしき声を漏らした。セルウィウスは目をつり上げ、中に足を踏み入れる。同時に男がこちらに振り返った。
「お久しぶりですね。セルウィウス殿」
「……」
名を知られている。セルウィウスは警戒を怠らず、壁を背にしてそこに佇んだ。目の前にいる男、医者を自称してはいるが、本業は何であるのか。わかったものではない。どう見ても胡散臭さが拭いきれない。セルウィウスは、剣に手を掛け、いつでも抜けるように身構える。男はそんな彼の様子を見、おかしそうに笑った。
「そう、固くなることもないでしょう。セルウィウス殿。失われた、王太子殿下」
「なに?」
「存じておりますよ、あなたのことは、誰もが。国王の唯一の御子でありながら、ご母堂の身分が低かったために宮廷を追われ、一士官の子として、歩まれている。その姿を不憫と思わぬものがおりますでしょうか」
「不憫だと?」
その一言が勘に障った。彼はスラリと剣を抜く。その切っ先を、医師に向けた。
「おまえごときに、そんなことを言われる筋合いは……」
「物騒なものは、しまってください」
医師は造作もなく指で剣をどかした。セルウィウスが押し戻そうとしても、適わない。力を入れている風でもないのに、びくともしないのだ。
「くっ?」
顔を歪める彼に、医師は笑いかけた。力押しだけでは駄目ですよ、そういって、ふっと指を離す。途端に剣が軽くなった。セルウィウスは奇妙なものでも見るように、医師を見やる。この男は一体何者なのだ。奇術師か。それとも、東方のあやしげな手妻を使うという魔術師なのか。どちらにせよ、普通の人間ではない。セルウィウスは知らず、身を引いていた。
それを気配で感じ取ったのか、医師はまた、小さく笑った。
「私は普通の人間ですよ。少し変わっていますけどね」
自己への嘲りを含んだような、そんな口調だった。
「おまえは一体」
問いかけに、医師は半眼を閉じる。
「タナトゥス、とでも覚えていて戴きましょうか。以後、お見知り置きを」
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