【1】七つの丘の街/婚約者(3)

 婚約者の面影は、常に胸の中にあった。

 幼い頃から決められていたこと。自分の意志はどこにも入っていないはずだった。それでも。

 いつからだろう、彼に惹かれはじめたのは。

 いつからだろう。彼の瞳が、笑顔が、自分を呼ぶ声が、頭から離れなくなったのは。

 目は、いつも彼を探していた。心はいつも彼を求めていた。人知れず押し殺している情熱は、静かに彼に向けられる。

 群衆の中で彼を見かけるとき、彼女は声を大にして言いたかった。


「私が、彼の花嫁になるのよ」


 慕情は、いつしか募っていった。押さえ切れぬくらいに。それでも彼女は、生来の慎ましさでもって、その心を悟られぬように尽くした。彼の笑顔が、自分だけに向けられている。そう、信じていたから。あのときまでは。


 彼女は寝台に腰を下ろし、枕の下に手を入れた。取り出したのは、幅の狭い腕輪である。婚約の証として、彼が彼女に贈ったものだった。腕輪の内側には、婚姻の女神への祈りと、彼女の名前が彫られていた。これは、彼が手ずから彫ったものだろう。彼は決して不器用ではなかったが、やはり職人に比べるとアラが目立つ。その文字を指で辿り、彼女は微笑んだ。


 思い人の名を、密やかに呟いて。





 ロスキウス家のもてなしは、伯父が甥に対するものではなく、まるで賓客を迎えるようだった。

 いつぞやの宮廷の料理には劣るが、それでも最高の食材が目の前に積み上げられているのを見ると、それだけで腹が満たされていくような気がする。アンフィッサは、ガチョウ肉の蒸しものを軽くつついて、葡萄酒を飲んだ。杯が空くと、すかさず奴隷が継ぎ足しにやってくる。彼女が断らないと思っているのだろう。アイオリア人の女奴隷は、澄んだ瞳に、愛想だけではない甘えた光を宿してアンフィッサを見上げる。

「気に入ったら、部屋を用意してやるぜ?」

 リウィアヌスが耳元で囁いた。冗談、とアンフィッサはかぶりを振る。すると、彼は豪快に笑いながら、いつもの如く彼女の髪をかき回した。

「おまえ、結構奥手なんだな。今度花街に連れていってやる。そろそろ遊びを覚えたほうがいいからな」

 さすがに、母や妹を気にしてのことだろう。後半の台詞は小声になっていた。アンフィッサは適当に流すわけにも行かず、助け船を求めてブリタニクスを見た。

 彼女とちょうど斜向かいの位置で、ブリタニクスは婚約者の給仕を受けていた。ドルシラは細い指を器用に使って小刀ナイフを操り、綺麗に料理を取り分けている。花嫁修業の一環なのだろうが、その姿はやけに堂に入っていた。

 こうしてみると、なかなか似合いの二人である。血の近さも手伝っているのだろう。しっくりと一つの絵として治まりそうだった。まるで軍神と美神の彫像である。それでも難を言えば、美神のほうはアンフィッサの知る美女よりも数段は落ちてしまうのだが。

 ブリタニクスの傍らには、ファウスティナの姿がよく似合った。親子だから、それは当たり前なのだろう。だが、それだけではない何かが、彼女とともにあるときのブリタニクスからは感じられる。

「どうした、ユリウス? 妬いてるのか?」

からかうように尋ねるリウィアヌス。

「まさか」

アンフィッサは苦笑を漏らした。そりゃそうだな、とリウィアヌスはまた彼女の髪をかき回す。いい加減にしてくれ、と彼女は乱暴にその手を払った。妬くわけがない。妬く必要などまったくない。彼女は頬を膨らませると、杯を一気に干した。



 部屋を用意する、泊まって行け、というロスキウス家の申し出をブリタニクスは丁重に断った。残念がる夫妻とリウィアヌス。そして、幾分不満げなドルシラに背を向けて、ブリタニクスは伯父の家をあとにする。奴隷が引いてきた愛馬に跨り、彼は一度も振り返ることなく夜道に踏み出した。その後を追って馬を歩ませたアンフィッサは背後に視線を感じ、振り返ろうか一瞬躊躇した。

 見なくとも分かっている。この視線。これは、ドルシラだ。彼女は、未来の夫を見送りに来たのだ。

(かわいいとこ、あるじゃん)

 ややすると、気丈そうに見えてしまう彼女の端麗な顔立ちを思い出し、アンフィッサは微笑する。ドルシラはブリタニクスに好意を持っている。それは端から見てもはっきりと分かった。決して、べたついた愛情ではない。乙女特有の淡い恋心、とでもいうのだろうか。アンフィッサにはその辺りの微妙な感覚は理解しかねるが。しかし、ブリタニクスはどうなのだろう。彼は、婚約者をどう思っているのだろうか。ブリタニクスの態度からは、全く推し量ることが出来ない。

「ユリウス」

 ブリタニクスがこちらを向かずに声をかけてきた。アンフィッサは「なに?」と返事をする。

「飲み直そうか」

「へ?」

「酒が足りない。飲み直しだ」

 アンフィッサが呆気にとられているうちに、ブリタニクスは馬首を巡らせた。そのまま、丘の下の市街地に向かって駆け下りていく。アンフィッサは、慌ててあとを追った。

(足りないって。あんだけ飲んだのに、まだ飲むってか?)

 彼女のぼやきなど聞こえるはずもなく。

 二人はやがて夜を知らぬ街、ルオマの歓楽街へと足を踏み入れることになる。





 その店は、どちらかというと裏通りにあった。長屋のように並んだ、柄の悪い店の一つ。『金の林檎』と書かれた帳を、ブリタニクスは無造作に持ち上げた。薄暗い部屋には、長台があるだけだった。ルオマの居酒屋には椅子がない。料理を出す店には、卓子と椅子が用意されているのだが、こういった小さな居酒屋は大抵長台だけが店の奥に横たわっている。それはそれで、珍しくもなんともない光景なのだが。こんな時刻なのに、なぜか客は一人もいない。流行っていないというのか。夜ともなれば、街の居酒屋という居酒屋は、人で溢れるというのに。だが、ブリタニクスは躊躇いもせずに中に入ると、カウンターに寄りかかった。彼は戸口で呆然と佇むアンフィッサを振り返り、こっちに来いと手招きした。

 彼女がおそるおそる店内に足を踏み入れたせつな。今までどこにいたのか、いきなり目の前に女が現れた。

「いらっしゃい」

「えっ?」

 頓狂な声を上げて、アンフィッサは壁に背を押しつけた。反射的に剣に手をかけてしまう。と、目の前にいた女性は、腰に手を当ててクスクスと笑い出した。

「こんな狭いことで、剣なんざ振り回せないよ」

 それもそうだ。アンフィッサは束から手を離したが、まだ、警戒を解いてはいない。油断無く女を見つめる。彼女はアンフィッサの瞳を覗き込み、「中つ海と同じ色だねえ」と呟いた。

「ドーリアの青か。いいねえ。あたしは好きだよ」

「……」

 ルオマ人にしては色の薄い髪と、翡翠というよりは聖緑石エメラルドに近い色の瞳をしたその女性は、やけに艶っぽい笑みを浮かべる。

「あんたが、坊ちゃんの義弟かい。思った通りだよ」

「俺のこと、しってんの?」

「坊ちゃんから聞いてるさ。――シラクサの、アンフィッサ」

「……っ?」

 どく、と心臓が跳ねた。もう、呼ばれることもないと思っていたのに。アンフィッサは、女性の体越しにブリタニクスを睨み付けた。彼が話したというのか。この女性に。彼女は一体彼の何なのだ。

 愛人、という言葉が頭に閃いた。どう見ても、ブリタニクスより十歳は年上に見えるこの女性。客商売独特の匂い立つような色気を供えた彼女は、彼の情婦なのだろうか。だから、ブリタニクスはアンフィッサのことを話した?

「ブリタニクス」

 咎めるようにアンフィッサは彼を呼んだ。が。

 当のブリタニクスは至極冷静で。壁に書かれた品書きを目で追っている。二人のやりとりを聞いていなかったのか、初めから無視していたのか。

「カミラ。シティリャの葡萄酒と、なにか適当につまみ見繕ってくれ」

 アンフィッサの呼びかけには応えず、女主人に注文を出した。

「あいよ」

 カミラという名のその女性は、アンフィッサを残し調理場に消える。

「ブリタニクス!」

 アンフィッサはもう一度彼を呼んだ。そうして、その傍らに駆け寄る。彼の短衣の端を掴み、強引に顔を覗き込んだ。と、悪戯盛りの少年のような生き生きとした光を宿した瞳が、こちらに向けられる。その輝きと視線の近さにどきりとして、アンフィッサは思わず彼から手を離した。

「そう怒るな。カミラは信用できる。何たって、この」

 ブリタニクスは言いかけて、彼女の髪を摘んだ。黒く染められた、アンフィッサの髪。それを指先で弄びながら

「この染め粉を作ったのは、カミラだからな」

 悪戯っぽく、くすりと笑う。カミラは台に頬杖をつき、上目遣いにアンフィッサを見ていた。

「なかなかだよねえ。あたしの腕も、まだまだ捨てたもんじゃないよ」

「この髪」

 アンフィッサも、すっかり短くなった己の髪に触れた。ルオマ人と同じ色に染められた髪。染め粉がなければ、彼女の容姿は完全にドーリア人のままだった。金髪に青い瞳。イリオンの末裔を自称する、ルオマ人が最も嫌う容姿である。くわえて、剣奴『シラクサのアンフィッサ』はあまりにも有名だった。無敵のドーリア人少女剣士として、ルオマの中では知らぬものはいないほどである。ただでさえ、ドーリアの容姿は目立つというのに。

「髪でも染めない限り、おまえが生き残る方法はなかったからな」

 髪を染めて、性別を偽って。黒い髪の、ドーリア人。少年・ユリウスとして彼女はこの数ヶ月を生きてきた。

「出来れば眼の色も変えたかったんだけどねえ。あたしの腕じゃ、そんなものは作れないしねえ。ま、でも、あれさ。いいんじゃないの? その眼、凄い綺麗な色だからさ。坊ちゃんも気に入ってるようだしね」

 言って、カミラは片目を閉じる。

「そうそう、そんなこと言いに来たんじゃないよねえ、坊ちゃん。今夜は何の御用?」

「別に。酒が足りないから、飲みに来ただけだ」

「おやおや。そういうことにしておこうかねえ? で、アンフィッサ。あんたは何にする?」

「えっ? あ、俺?」

 本名のはずなのに、アンフィッサと呼ばれると知らず妙な反応をしてしまう。もう、自分は『ユリウス』であると、自己暗示にかかっているのだろうか。アンフィッサはブリタニクスの隣に肘をつき、品書きを見た。当然の如くラトニア語である。しかも、彼女が普段見ることのない俗語だった。読めるわけがない。「えーと」と文字を指で辿りながら、とりあえず読めそうな単語を探した。と、ブリタニクスが中の一つを指さし

「海ザリガニの酒蒸し。料理屋じゃないから、ほんとに簡単なものだぞ」

 彼女の好物料理を告げた。アンフィッサはそれ一つ、とすかさず注文を入れる。酒は、との問いにシティリャの葡萄酒を追加した。

「好みまで似てるんだねえ? 兄妹なんじゃないの? お二人さん」

 カミラの言葉に、ブリタニクスは肩をすくめる。アンフィッサはまただ、と眉をひそめた。

 みな、一様に同じことを言う。ブリタニクスと彼女が似ている、と。それは容姿のことではない。おそらく、雰囲気。二人取り巻く雰囲気が、似通っているのだと思う。しかし、と彼女は思い直す。一体どこが似ているというのだろうか。

「見る人が見たら、疑うだろうね。もしかして、あの人が生きているんじゃないのか、って。生きてドーリア娘との間に、子供を儲けたんじゃないのか、ってさ」

(あのひと?)

 シティリャで死んだというブリタニクスの父だろうか。ルオマ七将の一人であり、シラクサを壊滅させた張本人。

「どうだろうな」

 ブリタニクスは、注がれた葡萄酒に口を付けた。湯で割らない原液の酒を、喉に流し込む。

「で? その結果はどうなったんだ? 彼は生きているんだろう?」

 杯を両手で包み込み、ブリタニクスはカミラを見据えた。

「よくわかるね。もしかして、ご対面したんだ? そのひとと」

 ブリタニクスは答えなかった。代わりに、そっと目を伏せる。それは、肯定を意味しているのだろう。カミラは、薄く微笑んだ。

「生きているよ。アエミリアス・セイヤヌスは」

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