【1】七つの丘の街/婚約者(2)

 当時のルオマ貴族の殆どは、大抵がブリタニクスのように郊外に居を構えていた。彼の伯父、ロスキウスも例外ではない。アウェンティヌスからほど近い緑豊かな住宅街に、小ぢんまりとしたヘラス風の館を所有している。

 門の前に立つと、まず圧倒されるのが彫刻の群であった。ロスキウスの祖先を模したものであろう。半裸の、英雄を思わせるりりしい青年像が、玄関へと誘う小道の両脇にたたずんでいる。これはその家の由緒の正しさを表すものだ、とブリタニクスは言っていた。そういえば、彼の家も似たような造りになっている。ただ、ブリタニクスの屋敷の場合は、先祖の像ではなく、ヘラスの神々の彫像が置かれているのだが。これは、彼と彼の亡くなった父・大ルクレティウスの趣味だという。大ルクレティウスは、シティリャへの遠征後、すっかりアクラガスに魅了され、アイオリア式の文化を積極的に取り入れるようになった。それは当時の貴族の間では決して珍しいことではなかったが、彼の場合はやや度を超していた。

「話したこと無かったか?」

 彼はブリタニクスにもアイオリアの言葉を学ばせ、アクラガスにも留学させたという。

「俺は昔、からだが弱かったから。静養にもなるって言われてさ」

 苦笑する割には、嬉しそうだった。意外な話に、アンフィッサは目を丸くする。

「シティリャに、来たことあるんだ」

「ああ。一度くらい逢っているかもな、おまえとも」

 ブリタニクスは、そう言って笑ったが。

「でも、俺アクラガスには一回しか行ったことないし」

 アンフィッサは、かぶりを振る。

 あの街にはいい思い出はない。あるのは苦い記憶と、心細さと、それから。

(おばさんに似た女の子)

 その面影が、ふと甦る。

 考えてみれば、よくある顔立ちなのかもしれない。美人は皆似通っている、と言うべきか。そういえば今日、タウリルトの部屋で見かけた少女も、ブリタニクスに似ていた。意外によく見かける顔なのだろう。そうやって自分を無理に納得させようと思ってみたのだが、感情はそれを許さなかった。

 年を経るに連れ、面影は希薄になっていく。緑の瞳の少女。遠い、思い出。

 ブリタニクスも、彼女に会ったことがあるのだろうか。アクラガスに住むルオマ人の数など、そう大したものではないはずだ。彼ならば、その存在を知っていてもおかしくはない。

「あのさ」

 彼女が口を開こうとしたとき。不意にブリタニクスが立ち止まった。

「伯父貴も結構なヘラス趣味だからな。おまえと話が合うかもしれない。見てみろよ、この壁。うちに負けず劣らず凄いだろう」

 彼は親指で壁を差した。その廊下には、ルオマ貴族が好む『聖イリオンの黄昏』の壁画が描かれていた。名のある画家の筆なのだろう。描かれた人物は、すべて生命力にあふれている。

 スファルティアの王妃・ミルティアの略奪から、ヘラス軍のイリオン侵略、皇族の殺害。炎上、陥落する聖なる都。それらを一つ一つ見ながら、アンフィッサは以前宮廷で聞いたブリタニクスの歌声を思い出した。

「ここまでやると、趣味もきわまれりだな。ああ、今おまえ、何か言いかけなかったっけ?」

 ブリタニクスが、こちらに向き直る。翡翠の瞳が、彼女の言葉を促すように小さく揺れた。アンフィッサは、こくりと頷く。

「どうでもいいことなんだけどさ。あんた」

 言いかけると同時に、今度は背後から声をかけられた。

「おや、珍しい。従弟殿のご来訪か?」

 この声。そして、いきなり髪をかき回す大きな手。リウィアヌスだ。アンフィッサは彼の手を振り払い、その巨体を掬い上げるように見上げた。

「なんだよ、あんた、今日仕事は?」

「非番。そういうおまえらは?」

 リウィアヌスは、従弟とその義弟を交互に見比べた。ブリタニクスは、意味ありげな微笑を浮かべ

「婚約者殿のご機嫌伺いにね」

「ほお? 最近おまえも冗談が上手くなったな」

 リウィアヌスは苦笑し、またアンフィッサの髪をかき回しはじめた。だからやめろっていってるだろ、と騒ぐ彼女を無視して、彼は従弟に歩み寄る。従弟と、その背後に描かれたイリオン陥落の場面を交互に見やり、

「エリッサ女王に会いに来たんじゃなかったのか」

 ぽつりとつぶやく。

 エリッサ? とアンフィッサは目を上げる。


 イリオン陥落の後日談。一人、国を逃れた第二皇子はやがて南の大陸に辿り着く。そこには、やはり同じく国を追われた女性が、新たな街を築いていた。その名は、カルト・ハダシュト。新しい街。通称、カルタギアである。カルタギアの女王・エリッサとイリオンの皇子は一目で恋に落ちた。エリッサは、皇子に夫となってこの地をともに治めてくれることを願うのだが。





 新たなイリオンを築け

 イズミルの言葉が、漣の如く心に広がる


 姉よ、偉大なる予言者よ、それが私の運命ならば、

 私は恋を捨てるしかないのか


 皇子の嘆きは、エリッサの嘆き

 街を後にする恋人を見送り、

 若き女王は自らを炎の中に投じた


 愛しき人よ

 私を置き去りにした人よ

 あなたの子孫もまた、

 私を残して去っていくのだろう


 エリッサの嘆きに心を乱したまま、

 皇子はラトニアに流れ着いた

 愛しき人を焼き尽くす柱が見えるこの地に、

 新たなるイリオンを築こうと





 カルタギアの初代女王は、ルオマ建国者の恋人だった。身も心も焼き尽くした彼女は、その後女神の一人となって、今もカルタギアを守っているという。その彼女を祀る女性祭祀が、今のカルタギアの最高実力者と言われている。


 ブリタニクスは、『嘆きのエリッサ』に目をやっていた。エリッサは岬に立ち、恋人を乗せた船が去っていくのを哀しげに見送っている。力無く大地に頽れている、黒い瞳の女性。

「おまえがうちに来るのは、この絵を見るためだろう。今度は、義弟にまで好みを押しつけるか?」

 からかい口調の従兄に、ブリタニクスは肩をすくめてみせた。

「ユリウスを、ドルシラに逢わせておいた方がいいかと思ってね」

「ま、そういうことにしておくか」

 リウィアヌスの皮肉を、ブリタニクスは軽く流したようだった。

「ドルシラにはどのみち逢うことになるからな。遅かれ早かれ、一緒に住むことにもなるし」

 いわれてアンフィッサは、ハッとした。今まで、全く気づいていなかったが。

 そうなった場合、アンフィッサはブリタニクスの部屋から追い出されることになる。いくらなんでも新婚の若夫婦の部屋に、部外者が入り込んでいるのは良くないだろう。

(じゃ、俺って邪魔者?)

 なんだか寂しい気がする。常に側にいたブリタニクスが遠くへ行ってしまうような、そんな気がした。

「ドルシラもおまえが来てくれたら喜ぶだろうけど。あいにく、風呂に出かけてて留守なんだよ」

 リウィアヌスの声に、アンフィッサは我に返った。ドルシラが風呂に出かけている。この家に浴室はないのだろうか。それを尋ねると、リウィアヌスは驚いたように目を丸くした。おまえ、公衆浴場に行ったこと無いのか、とまた彼女の髪をグリグリとかき回す。

「裸のつきあいってやつでさ。パラティヌスの、公衆浴場に月に何回か出かけている。おまえも行ってみるか? 今度俺が行くとき誘ってやる」

 それは困る。アンフィッサは慌ててかぶりを振った。ブリタニクスは呆れたように額を押さえてそっぽを向いている。助けてくれる気はないらしい。墓穴を掘ったことに気づいたアンフィッサは、焦ってリウィアヌスから身をもぎはなした。

「遠慮しとくよ。野郎と入ってもつまんないし。あ、俺ちょっと、ここの庭見てみたいんだけど、いいかな? うろついても誰も怒らない?」

 苦しい言い訳だと思う。だが、この場を離れるためには仕方がない。リウィアヌスも怪訝そうに眉をひそめたが、従弟を振り返り、小さく頷いた。

 じゃあ、と彼は庭園を指さす。

「そっちの方には噴水があるから。水遊びでもしているといい。俺達は先に少しやってるか?」

「そうだな。久しぶりだな。おまえと飲むのも」

 ブリタニクスは、リウィアヌスに促されるままに奥へと消えていった。



 ひとり、庭園を歩いていると、ふっとアクラガスのことを思い出す。

 整備された土地。空間。計算された街並み。作り物の美しさ。十年前のアクラガス。それが今、目の前にある。ともすれば、あのころに戻ってしまったのかと錯覚しそうだった。

 ヘラス風の彫像が立ち並ぶ小道をすり抜け、リウィアヌスに言われた噴水まで辿り着く。白鳥と戯れる乙女像の指先から、透明な水が飛沫をあげてあふれ出していた。アンフィッサはそれに手を伸ばす。『白い山』と呼ばれる、奥ラトニアの山地から引いてきた水だ。冷たくて、口当たりも良い。ルオマの水はシティリャのそれよりも、ずっと質が高く清潔だった。剣奴の収容所にすら真水の溢れる噴水を設けるくらいである。ルオマが水と石を支配した、という比喩もあながち嘘ではないようだ。

 アンフィッサは掌からこぼれる水を見つめる。

「なにを、しているの?」

 不意に声をかけられ、彼女は慌てて振り返った。拍子に、不覚にも足を滑らせ転倒する。したたかに腰を打ち付けて、アンフィッサは顔をしかめながら立ち上がった。

「大丈夫?」

 いつの間にあらわれたのか。目の前に少女が立っていた。

 長く伸ばした黒髪を、結わずに背に垂らしている。翡翠の瞳をしているからには、ルオマの少女なのだろう。薄ものの短衣をまとい、手に外出用の長衣を持っている。どこかからの帰りか。

 少女はアンフィッサをまじまじと見つめていた。何が気になるのか、しきりに目を細める。その仕種が誰かを思い出させ、アンフィッサは奇妙な既視感にとらわれた。

「驚いた」

 少女は、花がほころぶように笑った。硬質の美貌が、慈母神のそれに変わる。アンフィッサは、彼女のつり上がり気味の目が優しく和むのを見、ハッと息を呑んだ。少女の面差しに、ファウスティナの影が重なる。先程覚えた既視感は、それだったのか。アンフィッサは、ごくりと唾を飲み込んだ。

 記憶が、十年前へとさかのぼっていく。

「ブリタニクスかと思った。似ているのね、噂通り」

 少女の言葉に、アンフィッサは二度驚いた。ブリタニクスに似ている。この台詞も、どこかで聞いたことがある。そう、あれはリウィアヌスにはじめてあったときのことだった。

「あなたが、ユリウス?」

 問いに、アンフィッサは頷く。そして確信した。自分が今向き合っている少女。彼女こそ、ブリタニクスの婚約者。リウィアヌスの妹、ドルシラなのだ。



 ブリタニクス、と名を呼ばれ、彼は杯から視線をあげた。紫色の液体の中で揺れていた翡翠の瞳が、感情を殺して従兄に向けられる。リウィアヌスは、彼の微妙な気配の変化を感じ取っていたようだったが。敢えてなにもいわなかった。

 そういう男なのだ。リウィアヌスは。精悍で男性的な外見とは異なる、細やかな精神こころを持ち合わせている。それがときとして、覗かれたくない部分までも見通しているのではないかと不安に駆られることもあるのは、否めない。

 案の定、リウィアヌスが何気ない風を装って問いかけてきたことは。核心部分を突いていた。

「――なのか?」

「――どうなのかな」

 曖昧に答えを返し、ブリタニクスは長椅子の上で寝返りを打った。そうして、従兄から視線を逸らす。幼い頃より兄弟同然に育ってきた仲である。リウィアヌスは、兄に等しい存在だった。兄は弟の感情を探ることができるらしい。ブリタニクスが、『ユリウス』の心の動きを察知できるように。

「貴族の家に生まれたからには、恋をするのもままならない、か」

 リウィアヌスの笑い声が聞こえる。どこかしら寂しげな、自嘲めいた声だった。それは自分のことをいっているのか、と問いかけようとしてやめた。ブリタニクスは杯を卓上に戻し、身を起こす。

「遅いな。ユリウスは」

 話を逸らすつもりはなかったが、無鉄砲な義弟の名を口にした。リウィアヌスも、そうだな、と気のない返事を返す。

「迷うほど、でかい家じゃないしな。そのうちひょっこり来るだろう」

 彼は空になった杯を掌で弄びながら呟く。

「ときに、おまえはいつまであいつを手元においておくつもりだ?」

「ユリウスをか?」

「いまはこれでもいい。でも、いずれ手放すときが来る。おまえがどういうつもりで、あいつを飼っているにしろ」

 リウィアヌスも半身を起こした。視線を従弟に合わせて、言う。

「このままって言うのは、無理なんじゃないのか?」

「分かっている」

 今更人に言われるまでもない。アンフィッサを側に置いておけるのも、あと僅かな期間だ。数ヶ月、長くても一年はない。その間に、全てをこなしてしまわなければ。

(少女はいつか、娘になる)

 いくらアンフィッサが、少年めいた容姿をしているとはいえ、限界は必ず来る。体の成長を止めることはできない。そして、心も。彼女もいずれ、成熟した大人の女性になっていくのだ。

 リウィアヌスがそのことに気づいているのかは、わからない。多分彼が言いたいのは、そういうことではないだろう。気まぐれにせよ、一人の少年を亡父の養子とし、あまつさえおのれの副官としてしまったのだ。この先、『ユリウス』に与えられる地位と言えば、七将しかない。だが、七将となるには、それなりの功績を挙げねばならないのだ。ユリウスにそれができるのか。少年には重荷にならないのか。

 そのことを問いたかったのだろう。

「あと三年で、元服だしな。それ相応の花嫁も用意しなければならないだろう」

 リウィアヌスの独白に、ブリタニクスは目で相づちを打つ。

「惚れた女ができる前に、将来を決めてやらないとな。ああいうヤツは意外と内面が脆いから」

「その前に、おまえの花嫁だな」

 従弟の皮肉が効いたのか、リウィアヌスは苦笑を浮かべる。

「そいつは勘弁してほしい。俺は将来、坊主になるんだ。妻帯はしないさ」

「そういって、何回縁談を退けたのか。俺もその手を使えば良かった」

「馬鹿言え。おまえは」

 言いかけて、リウィアヌスは従弟から視線を逸らした。二人の間に、沈黙が訪れる。

 ブリタニクスは、彼の横顔に暗い影を見たような気がした。

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