【1】七つの丘の街/婚約者(1)

 タウリルトの執務室は、ブリタニクスの部屋とは中庭を隔てた斜向かいあった。

 この庭園は、七代国王が母后・シルウィアに捧げた美しい東方風の庭園である。主にファルシアの樹木、色鮮やかな花々が植えられた庭を臨むタウリルトの部屋は、日当たりがよく、風通しの良いところであった。室内からほのかに漂う翠涼香の香りが、アンフィッサの嗅覚を心地よくくすぐる。彼女はしばしの間その眺めと香の匂いに魅了され、タウリルトの部屋の前にたたずんでいた。

 と、いきなり入口の帳が大きく揺れ、中から慌てた様子で人が飛び出してきた。眺めに気を取られていたアンフィッサは、不覚にもそれを避け損ない、正面からぶつかってしまう。

「うわ?」

 彼女はかろうじて体勢を保ったが、相手はそうも行かなかった。派手によろけ、廊下に尻餅を付く。金色の髪が、甘い香りを漂わせながら、宙を舞った。きゃっ、という声の高さからすれば、おそらく少女であろう。アンフィッサは、大丈夫か? と片手を差し出す。

「申し訳ありません、ご無礼いたしました」

 か細い声が聞こえる。アンフィッサの手を借りて立ち上がった少女は、おずおずと頭を下げた。

「いいよ、別に。俺もぼーっとしてたし。って、ああ? あんた?!」

 何気なく彼女の顔を見たせつな、アンフィッサは頓狂な声を上げた。ブリタニクスだ。ブリタニクスが目の前にいる。彼が不思議そうに首を傾け、アンフィッサを見つめているのだ。

「あの、私の顔に、なにか?」

 人の顔色を窺うような、心許ない声が朱唇から漏れる。その声は紛れもなく若い娘のもので、アンフィッサは更に目を見開いた。が、よく考えてみればなんと言うことはない。一時的な混乱が過ぎ去ったあと、アンフィッサは冷静に考えた。要するに他人のそら似なのだ。この娘はブリタニクスではない。似ているだけである。その証拠に彼女の髪は眼にも鮮やかな金色で、瞳は深い聖緑石エメラルドだった。ヘラスの、アイオリアの出身だろう。タウリルトのもとに仕えている奴隷だろうか。

「あの、私……」

 少女が口ごもったとき、中から魅惑的とも言える男声が響いた。ほぼ同時に、さっと帳がめくられる。

「カリナ。まだいたのか。早く……おや?」

 室内から顔を覗かせた男。七将タウリルトは、アンフィッサの存在に気づくと眼を細めた。彼はアンフィッサを見、その手にある平板を見、次にカリナに眼を向けた。そして、彼女に向けて顎をしゃくり、いけ、と命ずる。カリナはびくりと震え、一礼すると逃げるようにその場を去っていった。その行方を見送ってから、彼はアンフィッサに向き直る。

「弟御自ら使者とはな。入り給え。歓迎しよう」

 彼はくるりと踵を返し、中にはいる。アンフィッサは、どうしようかと迷いはしたものの、覚悟を決めて後に続いた。

 部屋の中は案外明るく、きちんと整理がされている。棚にも机にも、埃一つない。タウリルトは病的なまでに神経質な性格なのだろう。

(ずぼらなブリタニクスとは大違いだな)

 これで、彼の求婚者とは。人は己と違う人間を求めるのだろうか。

「座らんのか、御身は。俺は、立ち話は好かないのだが」

 既に席に着いていたタウリルトは、彼女にも椅子を勧めた。アンフィッサは素直に、彼の向かいに腰を下ろす。と、彼はにこやかに尋ねた。

「今、熱い葡萄酒を運ばせよう。それとも、冷たい果実酒のほうが好みか?」

「別に。どっちでもかまわねえよ」

 彼女はつっけんどんに答える。本当にどうでも良かった。

 そうか、とこれも素っ気なく答えたタウリルトは、手元の鈴を二、三度振った。程なく、トラキア人らしき黒髪の小姓が二つの杯を盆に乗せて運んでくる。小姓は二人の前に杯を置くと丁寧に一礼した。

「シティリャの名酒だ。なかなかいい香りをしている」

 タウリルトは、一息におのれの杯を干した。何もやましいことはしていない、という証拠を見せたつもりなのだろう。アンフィッサもそれに倣い、同じく一息に酒を干そうとした。が。酒を口に含んだ途端、小姓と眼があった。彼女は待たしても目を見張り、口の中身を勢いよく吐き出した。

「ぶっ!」

 酒は見事にタウリルトの顔面を直撃した。小姓は飛び上がらんばかりに驚き、急いで主人の顔を袖で拭う。アンフィッサは、激しくむせながら、杯を卓上に叩きつけた。

 この小姓。黒髪、黒瞳のファルシアかトラキアの少年も、ブリタニクスによく似た面差しを持っていたのである。彼女はあまりのおぞましさに、椅子から腰を浮かしていた。

「あんた、ぜってえ変だよ」

 彼女の罵声に、タウリルトは一向に動じない。むしろ平然とこちらを見ている。

「愛するものの面影を追って、どこが悪い?」

「って、おっさん」

 アンフィッサは苦いものでも含んだように顔を歪めた。確かに、世間には気に入りの剣奴や役者の似顔絵を部屋に飾るものもいるという。タウリルトの行いもそれに近いものがあると言えばあるのだが。彼の場合は、根本的に違っているような気がするのだ。いくら思いを寄せているからとはいえ、その相手に似た面差しを持つ奴隷を買いあさるなど、いい趣味とは言い難い。

「そういえば、御身もどことなく兄者に似ているな。その、きつい目。それと、その歯だ。御身も、左側だけ八重歯なのだな」

 ひょい、とタウリルトが身を乗り出す。アンフィッサは慌てて身を引いた。ついでに手の甲で口元を隠す。これは本能的な行動だった。

タウリルトは、ふむ、と頷き、卓上で手を組んだ。その上に顎を乗せ、彼は奥底に妖しい光を揺らめかせた双眸を彼女に向ける。その目を見返し、アンフィッサは僅かに目を見張った。こうしてまじまじと見ると、タウリルトもなかなかの美男子であった。無論、セルウィウスのごとき繊細な美しさではない。なまめかしさを持つ、成熟した美だ。いな、どちらかと言えば、それは『美』ではない。あか抜けた今風の容貌、といったほうがより正しいのだろうか。この顔立ち、軍人らしい見事な体格ならば、大抵の娘は彼の言いなりになるだろう。娘だけではない。そう、少年、青年すらも。

 アンフィッサはそれを素直に彼に告げた。タウリルトは、驚いたように彼女を見つめ、それから肩を揺すって笑い出した。

「妙な子供だな。恋敵にそういわれると、自信が湧いてくるが」

 笑いをかみ殺して、ふと真顔に戻る。

「生憎、俺は本気で御身の兄者に惚れているのだ。今更、他のものに心を移そうなど思わぬな」

「そりゃ、ご立派だけどさ。ブリタニクスは男色の気はないっていってたし。見込みなさそうじゃん? だったらこの兄ちゃんとか、さっきのカリナ、さんだっけ? あっちに乗り換えればいいのに」

「ありがたい言葉だが。俺はルクレティウスの顔に惚れたわけではない。あやつの魂に惚れたのよ。俺は、それがほしい。あの情熱的な、炎のような魂が。外見は二の次だ。こやつらはただの気休めにすぎん」

「あ、そう」

「ただ、我慢できぬのは、あやつが毎晩、他の少年を慈しんでいるということだ」

「ふうん。……って、それ」

 アンフィッサはごくりと唾を飲んだ。タウリルトの瞳に、激しい嫉妬の炎が燃え上がった。それは、まっすぐに彼女に向けられているのだ。

「ルクレティウスは、なんと言って御身を抱くのだ?」

「おい」

「どんな目で御身を見る?」

「待て!」

「どんな風に、接吻をするのだ?」

「ちょっと!」

「答えよ。御身は、あやつの稚児なのだろうが」

 不機嫌な様子を隠そうともせず、彼は問いかける。アンフィッサはその勢いに押されて、暫くは口も利けない有様だった。タウリルトは、彼女をブリタニクスの色子と信じて疑っていないのだ。彼女は目眩を感じ、額を押さえた。そんな彼女に、タウリルトは更に鋭い視線を注ぐ。

「そうあからさまに顔を赤らめるな。気分が悪い」

「おっさん、それって誤解だよ。俺は別に、あいつとはなんにもしてねえって」

「口ではなんとでも言えるからな」

 信じる気は毛頭ないらしい。アンフィッサは諦めて肩を落とした。嫉妬に狂う女も恐ろしいと思うが、男のほうが、より性質たちが悪いと思う。

「まあ、いい。時間はたっぷりとある。そのうちに、あやつを口説き落としてみせるさ」

 その割には、自信家のようだ。勝手にやってくれ、と言いたくなった。

「――いいけどさ。俺、こんな話するんで来たんじゃねえや」

 彼女は、膝の上に載せていた平板を彼に差しだした。タウリルトは「恋文だと嬉しいのだが」と、本気とも冗談とも付かぬことを言う。

 平板を受け取り、その内容を一読した彼は、一瞬息を止めた。そこに何が書いてあるのか。公式文書はヘラス語である。読んで読めぬことはなかったが、アンフィッサはあえてのぞき込むようなことはしなかった。

「厄介なことに、なりそうだな」

 渋面を作るタウリルト。彼は、アンフィッサに件の指輪を要求した。彼女は懐から二つの指輪を取りだし、卓上に置いた。薔薇ロドンと月桂樹。二つの植物が、奇妙な形で絡み合っている。普通ならば目にすることもないような、変わった紋様だ。おそらくこれは、何かを象徴しているのだろう、とブリタニクスは言っていた。何を? と問うても、まだ確信は得ていないのだろう。答えを濁していた。

「あんたは、なんだか分かるのか? この意味?」

 割り符のように作られた指輪。恋人同士の契りのような、そんな生やさしいものではない。一人の女性が、命を失ってまで隠そうとしたものだ。裏に大きな何かを感じる。

「いや。御身の兄者が分からないのであれば」

 タウリルトは、かぶりを振った。

「しかし、今月の月番とはいえ、これを俺に渡すとはな。信用はあるようだ」

 乾いた笑い声を立てる。アンフィッサは、わざとらしく肩をすくめて、

「俺、もう帰る。それ、確かに渡したぜ」

 とってつけたような笑みを浮かべると、軽く彼に会釈した。



「まったく、なんなんだよ、あの部屋はよぉ!」

 執務室に戻るなり、開口一番アンフィッサは叫んだ。書き物をしていたブリタニクスは、涼しげに此方を一瞥する。おつかれ、と唇が動いた。

「んっとーに疲れたよ。あいつの部屋、あれ、ぜってーおかしいって」

「だろ?」

「あんたが行きたがらない理由、分かったよ。あれじゃ、気ぃ狂っちまうもんな」

 ブリタニクスによく似た奴隷達を思い出し、アンフィッサは身震いした。タウリルトは、夜な夜な彼らを愛でているのだろう。そう考えると、冗談ではなく寒気がしてくる。

「あんた、いつまでも独りでいるからいけねえんだよ。早く所帯もっちまえよ。そうすりゃ、男色お断りって証明できるし、タウリルトも納得するだろうからさ」

「婚礼、ねえ?」

 ブリタニクスは頬杖をついて、彼女を見上げた。

「いるんだろ、相手が。会ったことないけどさ。あの、リウィアヌスの妹なんだろ?」

「親同士が取り交わした約束では、婚礼はドルシラが十八になってから、ってことだったな」

「今、その子幾つよ」

「十七。あと、二月で八になる」

「じゃ、さっさと……」

「俺にも都合があるんだよ。いろいろと」

 言い置いて、彼は再び書き物に戻った。アンフィッサは両手を腰に当て、義兄を見下ろす。この様子では、本気で婚礼は考えていないようだ。他人の人生だからそれでも構わないのだが、そのせいでこちらにとばっちりが来るのは御免だった。彼女は乱暴に椅子に腰を下ろすと、足を組んだ。上目遣いに義兄を睨め付け、口を尖らせる。

「疑われる俺の身にもなってくれよ。このままじゃ、タウリルトに絞め殺されちまう」

 ぷっ、とブリタニクスが吹き出した。

「あのオヤジは、しつこいからな」

「だろ? あの調子じゃ、あんたが嫁さんもらっても、偽装だとかいって追っかけてきそう」

 言ってから、しまったと思った。そうだ。それもあるのだ。妻を迎えたからと言って、安心できるわけではない。アンフィッサはそっとブリタニクスを見た。彼はアンフィッサの心を読んだかのように小さく頷く。

「何やっても無駄ってことか」

「そういうこと」

 それならば、身軽な方がいい。妻をめとってしまえば、少なからず束縛される。

「あんた、婚約者のとこに顔出してたりするわけ?」

「何で、そんなことを聞く?」

「だって」

 言いかけて口ごもる。ブリタニクスが外泊することなど、無いに等しい。これでは、婚約者に会うどころか、他の女性と会うことも無いだろう。そう考えると、タウリルトの読みは正しいのかもしれない。表に現れていなくても、彼には、男色の気があるのではないか。そんな疑いも持ちたくなる。

「そういえば、最近逢ってないな」

 ふっと彼が手を止めた。チラリとこちらに目を向ける。

「久しぶりに、逢ってみるか」

「いいことじゃん?」

 ならば二日連続で、ファウスティナの警護だ。今晩こそは、眠らないようにしようと彼女は心に誓う。あれでは、なんのための警護か分からない。それに今夜は上手く侍女の目を逃れて、窓からでも侵入すれば、より近くから彼女を守れる。そう考えてから、彼女はふっと赤面した。

(って、夜這いじゃねーか、そりゃ)

 疲れているのだろう。行きすぎた行為になりそうだ。いくらなんでも寝台に潜り込むことはないが。

 ファウスティナと二人きり、部屋に籠もることを考えると、なぜか鼓動が早まった。

(俺、ホントは男なのかも)

 一人で悶えるアンフィッサを冷めた目で見やり、ブリタニクスは彼女の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。彼の従兄がするように。

「なっ、なにすんだよ」

「おまえも、逢ってみる? 未来の義姉上に」

 ブリタニクスの問いに、アンフィッサは息を呑んだ。未来の義姉。そうなる相手なのだ。ブリタニクスの婚約者と言えば。

「あ……ああ……」

 なんだか、複雑な気分だった。

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