【1】七つの丘の街/美神の微笑(3)

 結局、その晩ブリタニクスは戻ってこなかった。


「あいつ、どこにいってんだろ。おばさん残してさ」

 昼間は良かった。ブリタニクスが不在なのをいいことに、詩の暗唱を怠け、剣技だけを行い、ラトニア語の単語の習得すら無視してしまった。代わりにしたことと言えば。夫人が手ずから作る焼き菓子を食べ、彼女とともに宮殿近くの露店をまわり――あとは、公園の散策くらいか。

 問題は夜になってからだった。普段は夕食の後は、ブリタニクスとともにルオマ史を初めとする中つ海周辺国家の歴史を学び、軽く寝酒をして休むことになっている。今夜はそれが出来ない。

 一人過ごす部屋は、あまりにも広すぎた。

 家具が全くないわけではない。寝台と卓子、それに椅子が二脚。燭台が、四隅に一台ずつ。無骨ではあるが素材はいいものを使用している。寝台と、入口をしきる帳は、カルタギアの織物だった。紫色、帝王の色と呼ばれる高価な染料が使われているところを見ると、これは国王から下賜されたものに違いない。

 間取り的には、一方の壁はそのまま棚になっており、平板と羊皮紙を収納している。その他日常的に使用するものも、書棚の辺りに置かれていた。殺風景と言ってしまえばそれまでだったが。アンフィッサはこの部屋を気に入っていた。なにより、心が落ち着く。ほしいものが、あってほしいところに置いてある。不必要なものは、一切存在しない。

彼女は、普段は二人で寝ている寝台に大の字に横たわった。成年男子が二人は寝られるか、という広さである。彼女がいくら派手に転がっても、何ら問題はない。

(俺が来るまで、あいつはここに一人でこうしていたんだ)

 人で詩の暗唱をして、一人でラトニア史を学んで、一人で剣技を磨いて、一人で母を守って。

華やかに見えるが、その実内面は孤独だったのだろう。いつだったか、ブリタニクスがふと漏らしたことがある。

『闇の中で目を開くとき、一番孤独を感じる』

なんだったのだろう。いつになく気弱な言葉だったので、印象に残っていたのだったが。

そうか)

彼女が夜中に目を覚ましたとき。傍らで彼もまた、目を開いていた。窓から差し込む月明かりの向こうで、翡翠の瞳はどこを見ていたのだろう。あいつの目はいつも遠くを見ている、とリウィアヌスが言うのも分かる気がした。彼の視線は、常に遙か先を見据えている。そこにあるものがなんなのか。尋ねたが彼は笑うだけだった。おまえにもいつか分かる、と言って。

 本当に、分かるときが来るのだろうか。

生まれも育ちも性別も年齢も、何もかも違う彼のことを。

(わかるわけねーじゃん)

今も彼がどこにいるのかすら、想像も付かないのだ。もしかしたら、話に聞く彼の婚約者のもとかもしれない。そうでなければ、娼婦館か。

(俺って、発想貧困なのかも)

溜息をついて、アンフィッサは起きあがる。ここにいても暇なだけだった。目がさえて眠ることもできない。だとしたら、することは一つ。

彼女は短衣を纏い、寝台からすべりおりた。


 向かった先は、ファウスティナの寝室だった。


「母を頼む」

 そういっていた彼の言葉を思い出したのである。ブリタニクスが不在の間に、夫人にもしものことがあってはならない。それに、なぜか夫人のあの笑顔にあいたかった。彼女の穏やかな声を聞きたかったのである。しかし。

「いくら元服前とはいえ、殿方をお部屋に入れるわけには参りません」

 侍女の激しい抵抗にあい、彼女は部屋にはいる前に追い返された。

(って。俺、一応女なんだけど)

 男装をしてしても、それを少しは疑ってほしい。そんな気がするときもある。いくらなんでも、年頃の娘の体と、少年とを見分けられないことはないだろう、と思っていたが、それは甘いようだった。人々は、彼女が男であると信じて疑わない。確かに、体型的にも少女というより少年と言った感じはするが、これでも少しは胸も膨らんできたつもりである。

 少女であることがばれたらばれたで、また問題ではあるのだが。その時は、開き直るしかないだろう。女であると分かっても、『シラクサのアンフィッサ』であることさえばれなければよいのだ。

(でもよぉ)

 時々、ブリタニクスですら彼女が少女であることを忘れるようだ。着替えの際、目のやり場に困るアンフィッサのことなどお構いなしに、平気で全裸になっている。もともと、眠るときには腰布まで外すような国柄だ。そのようなことなど気にしていないのかもしれない。厳格なドーリアの教育とは、少し違うようである。そう思っておくことにしよう、と彼女は無理矢理自分を納得させた。



 アンフィッサは、物思いに耽ると眠くなるたちらしい。気がつけば、夫人の部屋の前で一夜を明かしていた。剣を抱えたまま、壁により掛かるようにして眠っていたのである。

 朝の光に瞼を刺激され、あくびをかみ殺しながら目を開いた。その目に最初に映ったのは、

「お早いお目覚めで」

 ブリタニクスの笑顔だった。アンフィッサの目の前にたたずむ彼は、腰をかがめるようにして、こちらをのぞき込んでいる。間近に感じた翡翠の瞳が、なぜかとても眩しい。アンフィッサは開いた目を再び閉じた。一瞬間をおいてから、改めて義兄を見やる。

「一晩中、ここにいたのか?」

 アンフィッサが何も言わないうちに、彼が尋ねてきた。反射的に頷くと、ブリタニクスは彼女の頭を掌でぽんと叩いた。礼のつもりなのだろう。やや毒のある笑みを浮かべて、彼は母の部屋に視線を送る。

「不埒ものは、現れなかったようだな」

 アンフィッサほどの戦士であれば、どれだけ深く眠っていても気配には敏感だ。刺客が襲ってくれば、無意識のうちにからだが反応する。それを知った上での言葉なのだ。彼女は肩をすくめ、立ち上がろうとした。その前に、ブリタニクスが手を差し出す。アンフィッサは、戸惑ったが、それを掴んだ。瞬間、強い力が彼女を引き起こす。勢い余って、アンフィッサは彼の胸に顔をぶつけてしまった。

「……ってぇ」

 鼻を押さえながら顔を上げれば。いきなり頭を抱え込まれた。

「なんだよ、ふざけんなよぉ」

「愛情表現」

 プッと吹き出すブリタニクス。アンフィッサは露骨に手を振り払った。

「っていうんなら、もっと優しくやってもらいたいね。なんだよ、これ」

「だから、感謝の気持ちと愛情表現。俺はいい弟を持って幸せだよ、ユリウス」

 一瞬、彼の唇がアンフィッサの頬に触れる。感謝の気持ち。ルオマ式の表現だ。アンフィッサはかあっと赤面して、後ろに飛び退いた。未だにこれには慣れることが出来ない。

「なっ、なにすんだよ」

「優しく、っていっただろ、自分で。それとも、ほっぺたじゃ、ご不満? 唇のほうが良かったか?」

「遠慮しとく」

 ムッと膨れて立ち去るアンフィッサ。その背に、ブリタニクスの笑い声が投げられた。

「もう暫くしたら、宮殿へ行く。用意しとけよ」

 帰ったばかりだというのに、元気な男だ。アンフィッサは、内心舌を出し、廊下を走った。



「で? 夕べはどこいってたんだよ?」

 宮殿への道すがら、アンフィッサはブリタニクスに尋ねた。彼は片手で手綱を器用に操りながら、答える代わりに懐から何かを取り出す。キラリと陽光を反射するそれは、弧を描いてアンフィッサのもとに投げられた。

「っと」

 アンフィッサはこれまた片手を離して、それを受け取る。彼女の手の中に収まったものは、指輪だった。なかなかに凝った造りである。金地に複雑な紋様。ロドンとそれに絡む月桂樹。奇妙な取り合わせであった。彼女はそれをしげしげと眺めてから、ブリタニクスに投げかえす。

「これがどうしたって?」

「今朝、ティウェレで上がった死体の口に入っていたものだ」

 しれっと答えるブリタニクスに、アンフィッサは目を剥いた。

「死体? うええええっ」

 さわっちまったよー、とぼやきながら、馬の首に手をこすりつける。馬は迷惑そうに耳をふったが、それは無視した。

「なんだよ、趣味わりいな。死体から追い剥ぎか? 貴族の坊ちゃんが」

「ばか。仕事だ。仕事」

「追い剥ぎが、か?」

「だったらどうする?」

 ぞくりとくる流し目でこちらを見られた。アンフィッサは肩をすくめる。

「夕べ、帰ろうと思ったら面白いものに遭遇してね。覗いていたら、朝になった。その産物が、これ」

 彼の言うところによると、昨夜、ルオマの下町でちょっとした事件があったらしい。身分を隠して街頭に立つ貴婦人が、何者かに殺害されたのだ。現場は、歓楽街の一つ。物陰で彼女は冷たくなっていた。痴話喧嘩のもつれか、事件に巻き込まれてのことか。遺体はひどく損傷していた。発見した近くの露天商は、警備部の役人を呼びに走ったが、彼らが戻ってきたときにそこに遺体はなかった。あったのは、大量の血痕。赤黒く染まった石畳だけだった。

 ルオマではこのようなことは日常茶飯事である。役人も露天商も、あっさりその場を離れ、各々の持ち場に戻った。それで、この事件は終わりのはずだった。

「でもな。その死体が、川から上がったんだよ」

 明け方、荷運びの水夫が川に船を出したとき、船の舳先にそれは当たった。

 中年女性の死体。こんどは、無事役人の手に渡った。その彼女の口の中から、この指輪が発見されたのである。

「指輪って、食うもんじゃないだろ?」

アンフィッサの問いに、ブリタニクスは片頬をあげる。

「そう。誰かから隠すつもりだったらしい」

「けど、誰から? そんなに値打ちのあるもんなのか? それ?」

 指輪や細工物の価値は分からない。シラクサでは、装飾品の類は好まれなかった。婦女子ですら身につけていると、渋い顔をされたものである。今でこそ、ハミルカルの形見であるイリオン石の腕輪をしているが、アンフィッサも当時は一度としてその類を身につけたことがなかった。

「そこそこ値が張るものだけどな。命と引き替えに守るほどの価値はない。――ただの指輪としたら、の話だが」

 言い方が、また引っかかる。アンフィッサは彼の手元を見つめた。指輪として価値がないのであったら。他に何の価値がある? 身元証明か、それとも親兄弟など身内の形見か。あるいは、もっと大切な何か。

(薔薇と月桂樹か。それってなんか意味あんのかな)

 そう考えると、奇妙なことに気づく。その模様は、途中で切れているのだ。指輪の中に収まるように彫られているのではなく、一つの巨大な筒を輪切りにしたような、不思議な違和感がある。これと同じ模様の指輪があったら、何となく並べてみたくなりそうだ。この模様の続きが知りたい。

「おまえもそう思うだろ? ユリウス」

 彼女の思考を読みとったかのように、ブリタニクスが声を掛けてきた。アンフィッサは、びくりと身を震わせる。

「俺も、見てみたかったんだよ」

 彼は懐からもう一つ、指輪を取り出した。それは先程のものと全く同じではあったが、強いて言えば、若干模様の位置がずれていた。彼は、アンフィッサの目の前でその二つを繋げて見せる。

「ぴったりだ」

 驚く彼女に、小さく頷く。

「これって」

「おそらく何かの割り符だろう。女を殺した犯人は、これを見られたらまずいんだろうな。必死になって探したらしい」

「じゃ、今あんたが持っていた指輪。そっちはどうしたんだよ?」

「これは、人から預かったものだ。そいつも、死んでるけどな」

 自嘲めいた微笑が、彼の口元に浮かぶ。

「ブリタニクス?」

 アンフィッサは彼の顔をのぞき込んだ。翡翠の瞳に暗い影がよぎったと思ったのは、気のせいだったのか。ブリタニクスはすぐ、平素の毒のある眼差しを彼女に向けた。そうして。

「そこでお仕事。これを、月番の七将に渡してきてくれないか?」

「月番? 警備の長官じゃなくて、七将?」

 彼女は目を細めた。七将は、それぞれ月交代で、市中の警備と宮殿の警備を担当している。ブリタニクスは、先月宮廷の警備の総指揮を任されていた。今月は非番で、来月から市中警備の指揮にあたる。

「いいけど。で、今月の月番て?」

 聞くだけ野暮だった。ブリタニクスの目つきから、彼女はおのれの愚を悟った。


 今月の市中警備担当――それは、タウリルトだったのである。

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