【1】七つの丘の街/美神の微笑(2)
ルオマの夜は長い。
下町、ことに居酒屋の喧噪は遅くまで絶えることがない。緩やかな琴の調べに乗って流れる、南国の恋歌、水夫、人夫たちの罵声、怒号。酌婦の嬌声。竈と石造りの
「おやじ、酒だ!」
「料理がまだだぞ」
荒くれどもの声が響き、女奴隷は休む間もなく動き続ける。雄鳥の形の水差しを持った彼女は、慌てて客のもとに走り、申し訳程度の詫びを入れながら給仕をした。その彼女の手が、ふと止まる。トラキア娘の黒い瞳が、一瞬、甘く揺れた。目の前に座って杯を傾ける青年に目を奪われたのである。
その青年、ゆるく波打った長髪を金具で一つにまとめ、ゆったりとした短衣を纏った彼は、何か気に障ることでもあったのかこれ以上ないくらい不機嫌な顔で酒をあおっていた。見たところ連れはいない。店がこれほど忙しくなければ、隣に座って酌をしたいのに、と不満に思いながらも、彼女は青年に声を掛けた。
水差しを見せ、葡萄酒は濃くないか、湯を差したらどうか、となるべく上品な言葉遣いで尋ねる。それを聞いた常連客が二言三言、からかいを入れたが。彼女はあっさり無視した。
「悪いが」
いらない、と青年は手を振った。女奴隷は残念そうにその場を去っていく。
彼女が離れたのを気配で感じると、青年は一息に杯の酒を飲み干した。胡椒が利きすぎているのか、鼻と喉がひどく痛む。彼は軽く咳払いをし、つまみの胡桃を口に放り込んだ。コリッと小気味よい音が耳に響く。
「だいぶ荒れていますね」
やわらかな言葉とともに、傍らに女性が腰を下ろした。甘い香水の香りが鼻を突く。決して安物ではない。南方の、おそらくシティリャあたりから取り寄せたモノだろう。貴族の女性が好んで使う香りである。青年はチラリとそちらに目を向けた。上等の絹のうすものに身を包んだ中年の女性が、気取った仕種で杯を掲げる。彼女は翡翠の瞳に蝋燭の火をころがして、にこりと笑った。
「セルウィウス様でしょう? じかにお話しするのは、初めてですわね」
女性の言葉に、セルウィウスは肩をすくめる。話したことはないが、彼女のことは知っていた。前シティリャ総督の未亡人で、確か名をズミュルナといったか。悪名高き淫婦で、浮き名を流した男は数知れず。これといって目立つ容貌ではないのだが、男を手玉にとるすべにおいては一流らしい。役者買いもすると聞いていたが、供も連れずにこのようなところまでやってくるのか。どうやら夜の街で売春婦のまねごとをしている、という噂もあながち嘘ではないようだ。
彼女は、つ、とセルウィウスに身体を寄せ、細い指を彼のそれに絡めた。
「ご一緒して宜しいかしら」
隣に座って置いて、今更それはないだろう。セルウィウスは、どうぞ、と素っ気なく答える。『シティリャの娼婦』は思ったよりもいい女だったが、あいにく彼の好みではない。どちらかと言えば、声を掛ければすり寄ってくるような女よりも、身持ちの固い女性の方に惹かれるものがある。彼の美貌を騒ぎ立てる宮廷の婦人どもは、悪い気はしないが鬱陶しい。
(こういう女もな)
恥じらいも奥ゆかしさもない、本能のままに生きる女。軽蔑の眼差しも、好意の視線も区別がつかぬ獣だ。ズミュルナはいっそう不機嫌になった彼の心情をおもんばかることもなく、わざと胸を押しつける格好で、酌をしてきた。左手中指の金の指輪が、鈍く明かりを反射する。彫り込まれているのは、薔薇。ロドンと、月桂樹だ。
(変わった模様だな)
しかも、二つの指輪を半分に切ったものなのか。模様は途中で不自然に切れている。こんな図柄をどこかで見たような気がしたが、思い出せなかった。いや、そんなことはどうでもいい、とセルウィウスはかぶりを振った。
どれほど飲んでも、全く酔えない。胸につかえた不快感も消えない。脳裏にちらつく面影が、心の内側を爪でひっかいている。
ブリタニクス。一つ年下の従弟。
自分に比べて、恵まれすぎている男。王女と将軍の子供というだけで、何の苦労もなく育ってきた。国王の子といえど、解放奴隷を母に持つ自分とは、違いすぎる。子は、その母の身分によって父からの待遇が変わるのだ。父が高貴な生まれであったとしても、母の身分が低ければ、母の階級に落とされる。セルウィウスは国王から認知はされているものの、解放奴隷の子であるが故に公式の場には王子として出席することは出来ない。確固たる地位につき、将来も約束されている従弟に比べ、何と惨めなのだろう。ブリタニクスへの賛辞を耳にするたび、はらわたが煮えくり返る思いがする。
そして。国王も、実の息子よりも甥のほうが可愛いとみえる。国王夫妻は、彼に負い目がある如く、腫れ物に触るように扱っている。
――王后陛下が、ミルティアだからよ。
義姉の言葉が耳に甦った。父は、国王は、他人の妻を奪い取ったのだ。
そのことは、周知の事実ながら誰もあえて口にしない。宮廷の禁忌なのだろう。
くわえて数ヶ月前から、新たに不愉快な存在がもう一つ。ユリウス、という少年。ドーリアの血を引いている、青い瞳の小生意気な男だった。ブリタニクスの副官だと言っていたが。誰の手ほどきを受けたのか、滅茶苦茶な剣を使う少年だった。あのような下賤な少年に試合で負けたなど、セルウィウスの誇りが許さない。
「……」
あの二人のことを思い出すと、酒もまずくなる。酒がまずいから、表情も険しくなる。悪循環だった。
「あらあら。ずっと上の空ですね。私がお相手じゃ、おいやなのかしら?」
声を掛けられてはじめて、そこにズミュルナがいたことを思い出した。セルウィウスは適当に答えを返す。彼女は微かに口元に笑いを浮かべ、更に彼にすり寄った。息がかかるほど顔を近づけ、
「当てて差し上げましょうか、あなたのご機嫌斜めの理由」
「?」
ふふ、と彼女は鼻で笑う。
「ルオマが、欲しいのではなくて? 正式な王太子殿下。従弟殿に王冠を取られたくないのでしょう?」
「なにが言いたい?」
「分かっていらっしゃるくせに。お嫌いなのでしょう? あの、華やかな従弟殿が」
「……」
セルウィウスが鋭く視線を投げたせつな。
「あ……っ?」
彼女の表情が凍り付いた。ひくっ、と細い喉が鳴る。彼女は両手で喉をかきむしるようにして、仰向けに倒れた。喧噪の中に、ひときわ大きな音が響く。これにはさすがに、皆が注目した。
「なんだ?」
「どうしたんだ?」
「女が倒れたぞ」
人々がこちらに集まってくる。セルウィウスは女を抱き起こした。彼女はどうしたことか、震えている。震えながら、涙に潤んだ目ですがるようにこちらを見ていた。助けて、と唇が動いているようにも見える。
「発作か?」
セルウィウスの問いに、彼女はかぶりを振ろうとした。が、首を動かすことすら出来ない。真っ青になって痙攣したまま、セルウィウスの腕を掴んだ。ぎりっ、と肌の上に爪を立てる。セルウィウスは思わず顔をしかめた。これは、発作ではない。これは、おそらく。
「大丈夫ですか?」
人垣をかき分けて、体格の良い男性が近づいてきた。彼は二人のうえにかがみ込み、ズミュルナの脈を取る。
「医者か?」
「ええ。とりあえず、応急処置を」
言って、彼は懐から丸薬を取り出した。それを女の唇に強引に押し込む。更に、手近な水差しから水を含み、口移しに彼女に飲ませた。こくっ、と音をたてて彼女は薬と水を飲み込む。すると不思議なことに、間もなく彼女の呼吸は正常に戻った。
「ありがとうございます」
まだ、顔色は悪く、唇も震えてはいたが、彼女は一人で立ち上がる。
「お目汚しをしてしまいましたね。失礼いたしました」
謝罪をする女性に、セルウィウスは微笑で応えた。
「このお詫びはいずれ」
言って彼女は、おぼつかない足取りで店を出ていく。彼女の姿が完全に消えると、店にはまた、喧噪が戻った。セルウィウスは、また席に着こうとしたのだが。ふと思い直して、そこに金を置いた。
「釣りはいらない」
女給の答えを聞く前に、彼は足早に店を出た。酔客で溢れる通りをザッと見渡すが。ズミュルナの姿は不思議なことにどこにもない。あの様子ではそんなに早く動けはしないだろうに。訝りながら彼は、人混みの中に己を埋めた。肩がぶつかり、怒鳴り声をあげる下級士官がいる。わざと足をかけ、金をせびる水夫がいる。それらをかき分け、セルウィウスは進んだ。
あの女性。何かがおかしい。何かが引っかかる。それは単なる勘であったのかもしれない。
それは、当たっていた。翌日、ズミュルナの遺体が川に浮かんでいたとき、セルウィウスの直感は紛れもない事実となったのである。
●
暗がりに、甘い囁きが響く。
宮殿内の奥深く。王家の私室。中でも、国王・ヤウェリヌスの部屋は最奥部にあった。執務室とは違い、完全な私用の部屋である。扉を開ければ、奴隷、親衛隊の控え室が両脇にあり、その向こうに間仕切りが置かれている。孔雀の羽を織り込んだ、高価な布が上に掛けられ、部屋の中央に置かれた巨大な寝台を申し訳程度に隠している。
媚薬を炊いた香炉が、カタリと小さな音を立てる。エッピアがその指先で蓋を押したのだ。彼女は聖緑石の瞳を天蓋に向け、ぼんやりと暗がりに潜む何かを見つめていた。
傍らで、国王は彼女の黒髪を愛撫している。女神像を思わせる、均整のとれた肢体。容貌、豊かな髪。しかし彫刻にはない、温かい血が彼女には流れている。先程まで触れていた肌は、絹の手触りと張りを持った、最高の素材であった。今まで側に置いた女性の誰よりも、彼を満足させてくれる。
これだけの女性はいなかった。唯一人、若き日のコルネリア。現王妃を除いては。
「何を考えていらっしゃいますの?」
エッピアの言葉に、彼は我に返った。目の前の美神は、闇を通してこちらを見つめている。ひた、と貼り付く視線。彼は時折これが怖くなる。心の奥底まで見透かされているような気がするのだ。
「王妃様のこと。――当たり、でしょう?」
くす、と彼女が笑ったような気がした。ヤウェリヌスは密かに苦笑し、愛しい美神を抱き寄せる。
「そのようなこと。私の心はおまえのものだ。他の女のことなど考える暇はない」
「そういうことにしておきましょう」
エッピアはやんわりと彼の手を外した。掛布で体を隠しつつ身を起こす。もう、帰るのか、との問いかけに彼女はかぶりを振った。
「もう少し。陛下のおそばに」
エッピアは傍らの水差しを手に取り、杯に中の液体を注いだ。立ち上るのは、甘すぎる香り。媚薬である。彼女はそれを飲み干すと、また寝台に横たわる。国王は待ちかねたように腕を伸ばし、彼女の体を捉えた。むさぼるように唇を吸い、無抵抗の肢体を組み敷く。国王の下で、彼女は媚びるような声を上げた。それが彼の劣情を煽る。媚薬のせいか、彼女の肌は火照っていた。そこに指を這わせ、彼女の反応を楽しみながら
「おまえこそ、いつも何を考えている? おまえの目は遠くばかり見ている。一度として、私を見たことはない」
逆に彼女をなじった。エッピアは声をかみ殺しながら、かぶりを振る。
「いやなのではないか、本当は。このような老いぼれの相手をするなど」
「陛下。そんな」
「若い男がいいのではないか? そう、ルクレティウスやセルウィウスなど。宮廷のおんなどもが皆騒いでいる」
「セルウィウスは弟です」
「おまえの夫のな。血は繋がっていない」
我ながら子供じみたことをいう。国王は自嘲した。娘ほども歳の違う女を相手に、何を言っているのだろう。男の嫉妬など、醜すぎる。
「でも」
エッピアの動きが止まった。彼の背に廻されていた手が、ふっと離れる。不安に駆られた国王が強く抱きしめても、彼女は無反応だった。
「でも。ルクレティウス閣下でしたら。あの方が愛を囁いたら、わかりませんわ」
「エッピア」
「閣下は冷めているようですけど、本来はとても情熱的な方。あの方に誘われたら、どうなるか分かりません」
寵姫の応えに、国王は声を失った。ブリタニクス・ルクレティウス。甥の姿が脳裏を掠める。武将として、教養人として。容姿にも才能にも恵まれた青年。我が甥ながら、時折その存在が妬ましく思えるときがあるくらいに、魂の輝きを持った男である。そして、彼が命ある限り負い目を持ち続けなければならない人物の一人。
ヤウェリヌスは、ふっと力を抜いた。エッピアから離れ、彼女に背を向ける。
「陛下?」
「誘われたのか? あれに。ルクレティウスが、おまえをほしいと?」
答えはなかった。ヤウェリヌスは唾を飲み込む。
「もし、そうだったら。おまえはルクレティウスのもとに行くがよい。私は止めない。あれがそう望んでいるのであれば」
半ば本心からの言葉だった。ブリタニクスが望むのであれば、寵姫でも彼に差し出すだろう。いや、差し出さなければならない。それが不本意であっても。それだけのことを、彼はブリタニクス親子にしてしまったのだから。
(後悔か。私も老いたな)
以前はこのようなことなど考えなかった。ほしいと思うものは奪ってでもてに入れる。父から受け継いだこの性格は、今でも彼を、周囲のものを悩ませる。
「噂は、本当でしたのね?」
肩にエッピアの指が掛かる。
「ルクレティウス閣下の父上。やはり、それは」
「言うな、エッピア」
一喝したものの、声に迫力がない。当然の如く、エッピアが続けた。
「もう、皆も知っていますわ。口にしないだけ。密やかにうわさは広まっています。ルクレティウス様は、大ルクレティウスの子ではない、と」
「噂だ。その可能性があると、それだけのことだ。私はファウスティナからじかに聞いた」
あの身持ちの固い妹が、貞女の鏡とも言える妹が、婚礼前に体を許すことなどあり得ない。たとえ相手が婚約者であったとしても。彼女がその身をはじめてゆだねた男は、ルクレティウス・リシウス。ブリタニクスの父に他ならない。
「子供の父を知るのは、その母のみですからね。もしも、ファウスティナ様が、その事実を隠していらしたら? あなたは、酷いことをなさったのですね。それこそ、どれほど償っても償いきれない。閣下とファウスティナ様に対しては」
「……」
あれは、一種の気まぐれだった。今ではそう思う。なぜ、ひとの妻を美しいと思ったのか。欲しいと思ったのか。自分の手に入らぬものはないのだ、という確証がほしかったのか。だから、父と同じ過ちを犯したのか。
人の妻を奪い取るなど。継母の嘆きを見て育ってきた自分が、何故に同じような女性を作ってしまったのか。しかも、妹まで犠牲にして。
二十数年前。まだ、七将ではなく近衛の将校であった大ルクレティウスの家に招かれたヤウェリヌスは、そこで一人の美女と出会った。彼女の名はコルネリア。ルクレティウスの妻だった。
ヤウェリヌスは、彼女に恋をした。当時寵愛していた解放奴隷すら遠ざけるほど、頭の中はコルネリアのことで満たされてしまった。彼は、ついにコルネリアをルクレティウスから取り上げた。代わりに、彼には妹を与えたのだ。その時既に、婚約者のあった妹を。
(ファウスティナの婚約を破棄し、ルクレティウスに嫁がせた。だが、その代償に、別の美しい女性を与えると約束したのだ)
当時宮廷一の美女と言われたファウスティナの代わりとなる女性など、そう居るものではない。しかし、国王は国中を探した。彼女の元婚約者にふさわしい女性を。トラキアから、シティリャ、イベリヤまで手を伸ばした。しかし。
『私は、ファウスティナ以外の女性を妻に迎える気はない』
そう断言して、彼は宮廷を去った。七将として、執政官として有望視されていたファウスティナの元婚約者は、自ら未来を捨てた。戦地を求めて、国をでた。そんな彼に、国王は餞別を送る。シティリャ攻略の総指揮官の地位。執政官としての権利存続。
その数年後、彼は遠征先で死亡した。
「惜しい男だった。私の教育係も務めた男だった。ファウスティナも、あれのことは兄のように慕っていて」
「残酷ですわね」
容赦ない言葉だった。やはり女性はそう思うのだろうか。
「ルクレティウス閣下は月足らずでお生まれになられた。疑われても仕方ありませんわね。それが、身に覚えのないことでしたら、女にとってこれほどの侮辱はありませんわ」
エッピアの言うとおりであった。非は全面的にヤウェリヌスにある。彼は多くの人物を不幸にした。ルクレティウス、ファウスティナ、ブリタニクス、コルネリア。コルネリアに疎まれたために宮殿を追われたセルウィウス親子。そして。
アエミリアス・セイヤヌス――シティリャに散った誇り高き将校。
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