【1】七つの丘の街/美神の微笑(1)
その場所は、聖域であった。
ルオマの北、異郷との境の辺り一帯に、荒涼たる大地が広がっている。ルオマに生まれたものは、生まれの貴賤を問わず自由民でありさえすれば、この場所に葬られた。共同墓所、と呼ばれるそこには神殿が建てられ、周りを囲むようにして墓標が並んでいる。
「ここで、ルオマを見守ってくれているのですよ」
とある墓標の前にたたずんで、ファウスティナは呟いた。
ルクレティウス・リシウス。彼女の夫の名が、固い墓標に刻み込まれている。没年を見ると、六年前。シティリャ戦役の年だった。彼は七将としてシティリャにも遠征したというから、その折に没したのだろうか。その問いかけも出来ず、アンフィッサは無言で夫人の傍らにたたずんでいた。
思えば奇妙な光景である。シラクサ生まれのドーリア人である自分が、ルオマ七将の夫人と、将軍の墓参に来ているとは。数ヶ月前には、夢にも思わぬことだった。
自分は何をしているのだろう、との不可解な思いを胸に、彼女も夫人に倣いルオマ式の祈りを捧げる。ややして、夫人が顔を上げた。彼女はアンフィッサに向き直り、いつになくやわらかな笑みを向ける。
「理不尽な、と思ったでしょう。ユリウス」
穏やかな謝罪の言葉に、アンフィッサはかぶりを振った。確かに、アンフィッサは半ば強引にここに連れてこられたが。それは夫人のせいではない。ブリタニクスだ。ブリタニクスがそうしてしまったのだ。
『ユリウス。俺の代わりに、母上の供をしてくれ』
また、いつ何時狙われるかわからぬ母を気遣ってのことだろう。ファウスティナが亡き夫の墓参に行くと言い出したとき、彼は即座に依頼してきた。
『なんだよ。あんたはどうすんのさ?』
アンフィッサの問いに
『俺? 俺は今日、用事がある』
言い置いて、彼は彼女達よりも早くに家を出ていった。七将の正装をしていなかったところを見ると、行き先は宮廷ではないらしい。そういえば、彼は最近いつもにも増して調べものをしている。たまにアンフィッサも手伝って、平板の整理などをするのだが。それはどれも、近年のシティリャに関するもの、及びここ数ヶ月市内で起きた殺人事件であった。
本来、ルオマ市中で発生した事件は全て警備部の管轄にある。七将と言えど迂闊に口を挟むことは出来ない。それは彼も十分承知の上だろう。それでも、なぜこんなことをしているのか。殺害された士官の中に、知り合いでもいるというのなら話も分かるのだが。どうもそうではないらしい。
(あいつのやることは、わかんねーよな)
ともに暮らして、五ヶ月あまり。未だブリタニクスという男は、不可解だった。
「
ファウスティナの声に、アンフィッサはふと我に返る。
「そう、シラクサの攻防のときだと。人から聞きました。軍人として立派な最後であったとも」
ファウスティナはそっとかがみ込む。墓標の前に置いた花を丁寧に整えながら、一つ小さな息をついた。
「それが何になるのでしょう。国を守って戦うのなら、誇れることです。でも、よその国を滅ぼして、その犠牲の上で英雄となって。それを誇ることが出来るのでしょうか。軍人の妻がこのようなことを言うのはおかしいのですけど。時々、そう思うのですよ。ルオマは、何のために戦っているのだろう。夫は、何のために命を落としたのだろうと」
「おばさん」
「仕方がない、と割り切ってしまえばそれまでですけれど」
夫人の眼差しが、風の中で揺れる。アンフィッサは言葉を失った。どう答えたらよいのだろう。被害者である自分は。ルオマの犠牲となった自分は。しかし、一歩間違えば。歴史が別の方向に歯車を廻していたら。夫人とは立場が逆になっていたのだ。
勝者と敗者は表裏一体。今日の勝者は明日の敗者に。そして敗者は復讐の牙を研ぎ、いつしか勝者として返り咲く。イリオンの黄昏を暗唱していると、それを痛烈に感じてしまう。
「そろそろ、戻りましょうか」
夫人に促され、アンフィッサはその場を離れた。なだらかに続く道を、出口に向かってゆるゆると歩む。が。当然あるべき夫人の気配が側になかった。アンフィッサは、慌ててファウスティナを振り返る。
「おばさん?」
夫人は彫像のようにそこにたたずんでいた。後ろを振り返り、彼方に視線を向けている。翡翠の双眸が、懐かしいものを見るように細められ、彼女はくるりと踵を返した。
「少し、用を思い出しました」
そんな声が聞こえたような気がする。アンフィッサは無意識のうちに夫人を追った。ファウスティナは、従容とした足取りで舗装された道を進んでいく。その背後をつかず離れず追うアンフィッサを、夫人は気づいていたに違いない。とある墓標の前につくと、こちらを振り返らずに
「古いお友達のお墓です」
跪いて祈りを捧げた。アンフィッサは、夫人の肩越しに墓標をのぞき込む。
刻まれているラトニア語は、哀しいかなよく読めなかった。何と書いてあるのだろう。尋ねると、ファウスティナは微笑を浮かべた。
「さあ?」
秘密を持った少女のような笑顔だった。夫人はもう一度、丁寧に祈りを捧げると、何かを吹っ切るように立ち上がる。
「もう、いいのか?」
問いに夫人が頷いた。ファウスティナはここに来たとき同様、静かにそこを立ち去った。
もし。アンフィッサが今少しラトニア語に明るかったとしたら。
そこにこの名を認めただろう。
ルオマ七将 アエミリアス・セイヤヌス
●
下町。そう呼ばれる闘技場界隈は今日も賑わいを見せていた。立ち並ぶ共同住宅、その間をぬって走る小道。両脇に並ぶ居酒屋、雑貨屋、見せ物小屋などなど。喧噪で溢れ返る街には、常に人の息吹が、若い都市の活気が満ちている。
その辺りでも比較的広いとおりに、その店はあった。表に『金銀細工』の看板が立ててある。間口も広く、店構えも立派であることから、かなり流行っているのだと察しがつく。
そこを彼が訪れたのは、昼を少しまわったころであった。
「細工を一つ頼みたい」
涼やかな目元のその青年は、店の主人とおぼしき男に用件を告げる。主人は、来訪者の価値を値踏みするかのように、抜け目無く彼に視線を走らせた。まだ若い男である。二十歳を少しばかり過ぎたくらいだろうか。上背があり体格もがっしりしている。軍衣こそ纏ってはいないが、腰の剣を見れば、彼が軍人であることは一目でわかる。軍人、それも士官だろう。そう判断した主人は、相好を崩した。
「指輪を一つ。婚約者に送りたい」
青年の依頼に、主人は職人らしからぬ愛想笑いを浮かべる。
「ご婚礼ですか。おめでとうございます。それで、柄はどのようなものを? ご婚礼用でしたら、ご実家の紋章をお入れしますが」
いや、と青年はかぶりを振った。
「誕生日の祝いに。模様は、そう」
言いかけて、店内を見回す。参考になるものを探しているのか。主人は、傍らにおいてある平板を数枚、彼の前に差し出した。そのどれもに、若い娘の喜びそうな洒落た柄が描かれている。
「この、ロドンなどは人気がございますね。あとは、こちらの」
言いかける主人の言葉を遮り、青年は主人の足元に落ちている平板を指した。
「それは? その、月桂樹の模様」
「は?」
主人は、今気づいたという風に足元に目を落とす。そして、慌ててそれを手にとって
「こちらは、殿方向きかと存じますが」
とってつけたような苦笑を浮かべる。彼の額には、脂汗が浮いていた。青年は見て見ぬ振りをし、ロドンと月桂樹の双方の平板を見比べる。ややして、
「この両方。ロドンと月桂樹だな。これを絡めて図案化したものを彫ってもらいたい」
「ロドンと、月桂樹、ですか?」
「そう。ああ、それを二つの指輪に彫って、合わせると一つの模様になるようにしてもらいたいんだけどね」
そこで青年は照れたような笑いを浮かべる。
「俺は嫌なんだけど。どうしても、って言うからさ」
「左様でございますか」
主人は口元を小刻みに震わせる。何か言いたそうに、青年を見上げた。青年の翡翠の瞳の奥から、何かを読みとろうとしたのだろうか。だが、それは叶わなかった。青年は、普通の、ごく普通の恋する男に見えた。他意はないのだろう。ただ、純粋に婚約者に贈り物をしたい、それだけなのだ、と。主人は己を納得させた。
平板を卓上に置き、真新しい板に、注文の品を書き留める。
「仕上がりは、来週になりますが、宜しいでしょうか?」
声が震えていないだろうか、そのことばかりを気にしながら、主人は青年を仰ぐ。
「こちらでは注文を受けるだけでして。職人は他におりますので、少々お時間を戴くことになります」
「構わない。来月までに出来ればね。ああ、ここは職人を置いていないのか」
青年は店内を見回した。この主人も、職人ではない、商人なのだ。だから、やけに愛想がいい。そう思ったのか、それとも何か違うことを考えているのか。奥に続く通路に掛けられた帳を見やり、青年は
「向こうに仕事場があるのかと思った」
「あちらは、手前どもの自宅でして」
主人はさりげなく体を移動する。青年と、帳の間を塞ぐようにしてたたずんだ。
「せっかくだから、職人の仕事風景というのも見せてもらおうと思っていたんだけどな」
青年の言葉に、主人は飛び上がらんばかりに驚いた。滅相もない、と手を振って、
「お召し物が汚れます。それに色々、秘術もございますので。それよりも、お客様。恐れ入りますがお名前を伺わせて戴けますでしょうか」
主人は更に腰を低くし尋ねる。が、青年の答えた名に、一瞬顔を引きつらせた。今、何と仰いました、と聞き返そうとして、思いとどまったようだ。冷静を装って、平板にその名を刻みつける。青年は、前金と称してセステルティウス金貨を数枚、卓上に置いて去っていった。
彼が確実に帰ったのを見届けると、主人はほっと息をつく。しかし、平板に残る名前を見て、血の気が引くのを感じずにはいられなかった。
青年が名乗った名は、先日事故死した近衛士官のものだったのである。
「まさか、そんな」
同じ名は、ルオマにはごまんと居る。ただの偶然かもしれない。けれども偶然が二度も続くだろうか。
「月桂樹とロドンを絡み合わせて」
主人は首筋を伝う汗を拭った。と、彼の背後で帳が微かに揺れる。
「流石だ。もうここを嗅ぎつけたか」
苦笑混じりの声に、主人ははっとそちらを振り返る。帳ごしに声の主に問いかけた。
「今の方を、ご存じで?」
「ああ。よく知っているよ」
苦笑は、自嘲に変わった。
「あれは、七将だ。七将の一人。ブリタニクス・ルクレティウス」
七将、の単語に主人は掠れた悲鳴を上げた。
●
ルオマの裏路地。そこは悪名高き難路である。知らぬものがはいれば、たちまちのうちに方向を見失い、行くべき場所も今己がいる場所も分からなくなってしまう。
同じような建物が連なり、同じような道が続いているのだ。無理もない。数代前の国王が区画整理を求めたが、それは叶わなかった。住民達の根強い反発にあったのである。それから今まで、この路地は放って置かれ、ルオマは迷宮都市のままであった。
そんな場所に、紛れ込んだ余所者がひとり。しかしその足取りは確かであった。迷う風もなく、つぎつぎに曲がりくねった路地を抜けていく。ブリタニクスには、周りの景色を楽しむゆとりすらあった。
飛び出してきた子供を避け、二言三言話しては、旧友のような笑顔で手を振ったり、露店で果物を売る女性に声を掛け、南方の珍しい果実を余計にわけてもらったり。
彼が芸人の摩訶不思議な芸を見て拍手を送り、なにがしかの金を投げたころ。漸く待っていたものが現れた。
「……」
気配を察して、彼はさりげなくその場を離れる。手にしていた果物は、傍らの子供にあげた。
「いいの?」
子供は嬉しそうに目を輝かせ、その母は深々と礼をする。ブリタニクスは小さく手を振って、人気のない、寂れた路地に体を滑り込ませた。そこは、奇しくも数ヶ月前、アンフィッサが入り込んだところと同じ場所であった。だが、ブリタニクスがそれを知るべくも無い。彼は傍らの壁にもたれ、来るべきものを待ちかまえていた。
喧噪が、遠い世界のように耳に響いてくる。
と。
風を切る音とともに、数本の小刀がこちらめがけて放たれた。同時に、いくつもの刃が襲ってくる。ブリタニクスは剣を抜きはなった。鞘で小刀を払い、抜き身で二つの刃を受け止める。陰から現れた三つ目の刃は体を捻って交わし、勢い余って倒れ込んだ曲者に踵を落とした。
「あいにく俺は乱暴なんでね」
くすり、と悪戯っぽく笑う。
「そこらの坊ちゃんと一緒にしてもらったら困るよ」
襲撃者たちは、舌を打った。『ごろつき』のなりはしているものの、彼らは正規の訓練を受けた剣士のようだった。剣士であれば当然、形式にとらわれる。反撃の仕方も、決まったものだと信じていたようだ。剣で向かってきたものに踵を落とすなど。決して上品な作法とは言い難い。
ブリタニクスは躊躇している刺客に、拳を見舞った。鳩尾を突かれた男は胃液を吐き、その場に頽れる。残った男も剣の柄で首筋を打った。その間ほんの数瞬。ブリタニクスは息一つ乱さず、剣を鞘に収めた。そのまま彼は、路地を後にしようとする。が、しかし。
「!」
強烈な殺気を感じて振り向いた。瞬間、血臭が鼻を突く。見れば、今し方彼を襲った男達全てが、無惨に斬り殺されていた。じんわりと赤黒い染みが、石畳を伝って彼の足元に流れてくる。
「大した腕だ」
血刀を下げた人物は、乾いた笑みを浮かべた。見たところ、かなりの年輩のようである。国王と同い年か、または、その上か。精悍な顔には、年相応の落ち着きが漂っている。黒い髪、翡翠の瞳。ルオマ人であることは間違いない。ブリタニクスよりも頭一つほど背の高いその男性は、遺体の服で血のりを拭うと、彼の意に反して、こちらに背を向けた。
「あなたは?」
ブリタニクスの問いかけに、男は一度足を止める。肩越しにチラリと振り返り
「名乗ったところで、仕方あるまいよ」
その言葉を残して、足早に去っていく。
後ろ姿に、ふと懐かしさを覚えたのは気のせいだったのだろうか。ブリタニクスは遠い記憶を引き寄せようと、目を細めた。あの声、あの姿。どこかで見たことがある。
(あれは)
色あせた思い出の中に、その男はいた。ブリタニクスは、無意識のうちに拳を固める。知らず、唇がある女性の名を紡ぎだしていた。
「――」
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