夜空に願いを

 子供の頃から思い描いていた夢がある。

 私を育ててくれたお父さんとお母さんのように、私もいつかは子供を大切に育ててあげたい。

 お父さんとお母さんがいなかったら、学校にも通えず、きっと友達もできていなかった。

 だから、もし私にも子供ができたら、大切にしてあげたい。

 それが私のささやかな夢だった。



 例年より早い初雪は、晴天の陽射しにすっかり溶け始めている。それでも残っている雪の跡は住民の気分を高揚させ、街はどことなくふわふわした雰囲気に包まれている。

 休日ということもあり、駅前の大通りには若者の姿が多く見られて独特の活気が溢れている。バスロータリーにも人が集中していて、人を探すのには苦労する量の人でごった返していた。

 その中に、厳島いつくしまそのはいた。少し茶色がかったがまっすぐな黒髪は肩ほどまである。落ち着いた色のワンピースにコートを着て、片手にはハンドバッグを持っていた。

 苑は人の波を避けつつ広場へと抜け出した。腕時計をちらりと見ると、時間はまだお昼前。待ち合わせの時間にはまだだいぶ早かった。

「早く着いちゃった」

 自分から誘った手前、遅れるわけにはいかないと、いつにも増して準備を万端にした。その結果、一時間以上前に到着をしてしまった。

 晴れているとはいえ、外でただ待っているのも時間がもったい無い。寒さをしのぐためにも、落ち着ける場所を探そう。

 苑は大通りまで足を伸ばして、空いている店を探した。幸いにもすぐに見つかり、座席スペースが広い喫茶店へ入った。

 窓際の一人掛けのソファへ座り、ウェイターに注文をする。しばらくして頼んだホットココアが運ばれてきた。ウェイターにお礼を言うと、カップを両手で持ち静かに口元に運んだ。

 程よい甘さと体が暖まるのを感じて、表情がほころぶ。

「おいしい」

 一息ついて、ハンドバッグからスケジュール帳を取り出す。念の為、待ち合わせの時間が間違っていないか確認をする。苑にとって大事な約束なので、間違いがないことを確認すると安堵する。

 その先の予定に目を通していると、ふいに息が止まる。

 そこは数ヶ月先になる春からの日付で、その先は空白だった。

 予定がなにもない。というより、予定がわからないからだ。

 しかしそれも当然のこと。苑は春から大学生になるため、今までの高校生活と違いどんな生活になるかは未知なのだ。

 それでも、苑は予定がわからない、先が見えないということにとても不安を覚えていた。

「どうすればいいのかしら」

 幸運なことに、高校では良い友達に恵まれた。そのおかげで楽しかったし、相談をして不安を払うこともできた。

 だけど大学生になったらそうはいかない。違う道を進むのだから、気軽に会えないし、悩みを聞いてもらうのだって簡単にはいかなくなってしまう。

 私は、ひとりでやっていかなくちゃいけない。

 大学で友達ができるかもしれないけど、自信がない。私はいまだに世間知らずだから、周りに合わせたりするのが苦手。場の雰囲気が淀むあの瞬間は言葉にできない苦しさがある。昔は気にはならなかった、というより気付いていなかったというべきかしら。でもいまは分かるようになってしまった。

「生きていけるか、心配になるなんて初めて」

 苑の表情が曇り、スケジュール帳を持つ手からちからが抜ける。

 あぁ、また夜がやってきたわ。気持ちが沈んでしまうと、自分でも気づかないうちに夜を呼んでしまっている。でも、大丈夫、こんな時は眠ってしまえばいいの。そうすれば本当の夜と同じで、いつのまにか明るくなっているはずだから。苑はソファの背に体を預けると、そのまま意識が遠のいていった。



 体を揺すられる感覚に、苑は目を覚ます。そして声を聞いた。

「あっ、起こしちゃってごめんなさいね。これ、あなたのでしょ?」

 声の主は妙齢の女性だった。親しみのある笑顔は、どことなく見覚えがあるような気がした。女性は手に持ったスケジュール帳を苑へと差し出している。

 苑はぼんやりとしたまま受け取った。

「私のです。ありがとうございます」

 体を起こしてお礼を言ったところで、ある一点についてだけ意識が覚醒した。

「すみません、いま何時でしょうか?」

「まだお昼になったばかりよ」

 それを聞いて安堵のため息を吐く。

「待ち合わせでもあるの?」

「はい。でもまだ大丈夫です」

「よかった。実はわたしも待ち合わせまで時間があって暇なのよね。ここあいてる? ご一緒してもいいかしら?」

 女性は屈託なく笑う。服装から想像する年齢とはかなりギャップがあった。

 苑はお礼も兼ねてせっかくだからと同席を承諾した。

「それにしても、待ち合わせがあるのに眠っちゃうなんて、夜更かしでもしたの? それとも楽しみすぎて眠れなかったとか?」

「いえ、そんな。ただ……」

 なんて説明をすればいいのかしら。正直に言うのも気が引けるし。

「なにか理由があるんじゃないの?」

 女性の瞳に曇りはなく、おそらく単純な好奇心からくるものだと思う。悪気があるわけじゃないのかな。

 どうせなら知らない人に聞いてもらうほうがいいかもしれない。知らない人……?

「あの、どこかでお会いしたことはありますか?」

「わたしと? どうしてそう思うの」

 どうしてだろう。ただ、そんな気がしただけなのだけど。

「すみません、気のせいだと思います。気にしないでください」

「そう? まぁいいけど、それじゃあ理由のほうは教えてよ」

 食い下がる女性に、苑はおずおずと喋り出す。

「ええと、あまり気持ちのいいお話ではないのですが」

「わたしが聞きたいんだからいいよ。ほら、話して」

 そこまでして聞きたいのかしら。やっぱり会ったことがあるんじゃないのかしら。

「私、春から大学生になるんです」

「それはよかったじゃない! おめでとう!」

「ありがとうございます。ただ、大学生として生きていく自信がなくて」

「生きていくだなんて、おおげさね」

「それでなんと言えばいいのでしょう。ええと、時々なのですが、そんな風に自分に良くないイメージがついてくると、その、夜が来るんです」

 女性は目を丸くして、不思議そうに問いかける。

「夜って、あの夜?」

「少し違うのですが、そうですね、その夜です。暗闇と言うべきでしょうか。それがやって来ると前が見えなくなってしまうのです。それで、私はそこから逃げるために眠るんです。眠っているうちに夜が過ぎ去っていくので」

「そうなんだ。それでさっきも眠っていたのね」

「はい。すみません、変なお話をしてしまいました」

 女性は呆れるでもなく真摯しんしに苑の話を聞いていた。そして考えるそぶりを見せると、

「大学生として生きていく自信がないって言うけど、それだけなの?」

 その質問に苑は首をかしげる。

「どういう意味でしょうか」

「わたしも昔は夜が怖かったから、気持ちは分かるわ」

 懐かしむような言葉。苑はその言葉の先を聞くべきかどうか迷った。

 聞けばきっとお姉さんは答えのようなものを示してくれるかもしれない。でもそれは与えられた答えでしかない。なんとなくだけど、それは良くないことだと思う。それでも……。

「聞いてもよろしいでしょうか」

 女性は優しく頷く。

「あなたは夜が怖いんじゃなくて、ひとりが怖いのよ。真っ暗な中にたったひとり残されてしまうのが怖いのよ」

 苑は自分の中に広がる暗闇を思い返す。周りになにもない。

 以前にもこういった光景を夢に見たことがある。でもあの時は晴れ渡る空の中だった。ひとりでも、光が見えた。でもあの夜には、星明かりさえない。

「そうかもしれません。私はひとりで生きていく自信がないのです。いままで色々な人に助けてもらってきましたから。でもこれからはひとりで生きていかなくてはいけません」

「どうしてひとりだと思うの。あなたにも素敵な友達がいるでしょう?」

 ふと、友達の顔が浮かんだ。彼女たちなら、私が困っている時に手を差し伸べてくれる。私も彼女たちが困っているなら、ちからになってあげたい。それでも、

「いつもそばにいるわけではありません。大事なときほど、私がひとりでやらなければいけないのです」

 力強くいった言葉でありながら、それが虚勢だとわかるほどに、苑は自分の手が震えているのを感じた。

 女性もまたそれを感じ取ったように、声のトーンを落として優しく語りかける。

「そう思っているなら、あなたは忘れていることがあるわ」

「忘れていること……?」

「でもそれが何かは教えられないから、自分で気付くべきよ」

「むぅ。そこまで言ったのなら責任を持って教えてほしいです」

 苑は不満そうに口を尖らせる。

「そうねぇ、じゃあヒントだけよ」

 女性はそう言って、ハンドバッグから何かを取り出した。それを手のひらにのせて苑へと見せる。

かんざしですか?」

 桜の花をモチーフにした簪だった。

「そうよ。大切な人からのプレゼントなの。子供ができてからは髪を伸ばさなくなったから、いまは付けてないんだけど」

「それでも持ち歩いているんですから、よほど大切なものなのですね。でもそれがヒントだなんて、どういう」

「残念、時間切れよ。もう行かなくちゃ」

 女性は名残惜しそうに席を立つ。

「あっ、待ってください!」

「待ちません。それじゃあバイバイ、苑」

 私の名前。あの人、やっぱり知ってたんだ。

 苑は女性を追いかけようとするが、体にちからが入らない。そしてそのまま意識が遠のいていった。



 声が聞こえる。男の人の声だ。それも聞き覚えのある声だ。

「厳島さん? 大丈夫ですか?」

 苑は目を覚ました。ぼんやりとしたまま、自分を心配そうに見つめる人物に意識を向ける。短めの黒髪で利発そうな顔立ち、眼鏡をかけていて凛々しさが際立つ。自分と同い年の男の子。

晴臣はるおみくん」

 名前を呼ばれた晴臣は、一歩引いて安堵する。

 いまだ夢を見ているような気分であったが、晴臣がここにいるという現実をだんだんと認識していく。

「ええと、晴臣くんどうしてこちらに。はれ……? 待ってください、いま何時ですか?」

「落ち着いてください。まだ約束の時間の前ですよ」

「ああ、良かったです。……晴臣くん、今日は私服なんですね」

「厳島さんからの外出のお誘いですからね」

「ありがとう、なのかしら? いえ、それよりも、どうしてこちらが」

 晴臣は前の席に腰を下ろして、いつもの朗読をするようなゆっくりした口調で話し出す。

「少し早めに到着したので、歩いて時間を潰そうと思いまして。それでこのお店の前を通ったら厳島さんの姿が見えたんです。おやすみされていたようですが、なんとなく様子が変だったので、心配になって声をかけました」

「そうだったのですか。あの、様子が変だったとは、どんな感じだったのでしょう。いえ、みっともない姿をお見せしてしまい恥ずかしい限りなのですが」

 よくよく考えたら、晴臣くんに寝顔を見られてしまった。苑は顔が熱くなるのを感じて、思わず俯く。

「辛そうな表情をされていました。厳島さんは、普段から明るく振る舞っていらっしゃるので、内心を表に出すことはないでしょう? なので心配になりました」

「あのぅ、私はそんな風に見られていたのでしょうか」

 まるで人の目ばかりを気にしているような言い方だ。そんなつもりではないのですが。

「そんな風に? ああ、誤解ですよ。厳島さんは感受性が強いですから、相手の気持ちを感じ取り過ぎてしまうでしょう。そのせいで相手を慮るあまり、自然と人当たりが良くなっているということです」

「そ、そういうことでしたか。でも、そういう晴臣くんも、いつも笑顔ですよね」

「仕事がらですよ。笑顔は相手の緊張をほぐすのに効果的です」

 そう言われた苑は少し表情を曇らせた。それは私と会うことも、仕事になっているということなのだろうか。今日はプライベートだけれど、晴臣くんと出会ったのは彼のお仕事に関わることだったし。その延長だと思われているのかしら。

 気落ちする苑の微妙な変化に気付いたのか、晴臣は優しげに微笑む。そして提げていたトートバッグをおもむろに探った。取り出したのは手のひらサイズの箱だった。綺麗に包装がされているそれを、苑の前に丁寧に置いた。

 きょとんとする苑は不思議そうにそれを見つめた。

「本当はもう少し良いタイミングでお渡しするつもりだったのですが、先にお渡ししておきます」

「あの……?」

「合格祝いのプレゼントです」

 プレゼント? 晴臣くんが?

「私に、ですか?」

「勿論です。気になるようなら、開けてください」

 気になる。開けてみたいけど、なぜかしら、恥ずかしい。

 苑は頬を赤らめながら、思い切って箱に手を伸ばす。包装を少しづつ丁寧に剥がしていく。

 その様子を晴臣は静かに見守っている。

 苑は包装を剥がし終わり箱の蓋に手をかけたところで、ためらいがちに聞く。

「開けていいですか?」

 晴臣が頷いたのを見て、苑は慎重に蓋を開けた。

 箱に収まっていたものを見て、はっと息を呑んだ。そしてそれを手に取ると黙り込んでしまった。

 想像していた反応ではなく、晴臣は思わず声をかける。

「もしかして、お気に召しませんでしたか?」

 不安そうな声を聞いて、苑は思い切り首を横に振った。

「ううん、違うの。そうじゃなくて」

 言葉が出ない。

 気づけば涙を流していた。

 手に持ったかんざしに雫が落ちていく。



「ごめんなさい。私もどうして涙がでたのかわからなくて」

 しばらく俯いていた苑に、晴臣は内心驚きながらも、彼女が落ち着くまで見守っていた。

「謝らないでください。厳島さん、お気に召さないようでしたら、そう言ってくださいね」

「本当に違うの。嬉しいわ。男の方からプレゼントを貰うのは初めてだから、驚いてしまっただけです」

「それなら良かったです。厳島さんの綺麗な黒髪に似合うものを選んだつもりなので、よろしければ着けてみてください。ああ、今でなくていいですよ。コーディネートとの兼ね合いもあると思いますから」

 当然のように言う晴臣に、苑は目を赤くしながらも微笑む。

「あはは。晴臣くんの気の使い過ぎも私以上ですね。せっかくいただいたのですから着けてみます」

髪に両手を添えて慣れた手つきでまとめ、かんざしを使って髪を留めた。

「ど、どうでしょうか」

 苑は横を向いて晴臣へと見せる。薄く輝く桜のモチーフが黒い髪に映えていた。

「思った通り、よく似合っています」

「ありがとう。本当に嬉しいわ」

 見間違いじゃない。この簪は、あの女性が見せてくれたものと同じ。

 あの女性が言っていた、私が忘れていること、それはきっと。

「晴臣くん。私ね、幼い頃に思い描いていた夢があるんです」

「夢ですか?」

「自分で言うのも恥ずかしいのですが、私はお父さんとお母さんにとっても大事にされてきました。学校に通えるのも、友達ができたのも、今の私があるのはふたりのおかげなんです。だから私は、自分に子供ができたら同じように大切にしてあげたいと、ずっと思っていました。でも大事なことを忘れていたんです」

 苑は言葉を区切り、少しだけ深呼吸をする。

「私だけじゃ、その夢は叶わないということを、忘れていたんです」

 晴臣の視線に胸が高鳴り、思わず顔を逸らしたくなる。

 それでも、伝えたいことがある。

「晴臣くん。聞いてほしいことがあります」

 自信が持てなかったとき、背中を押してくれた人。

 私の心に気付いてくれた人。

 私に光をくれた人。

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